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「湯ノ原じゃないですか」
「うわ。防人さんに魂風さん」
「『うわ』とはなんだ『うわ』とは。それが運良く遭遇した同級生の美少女二人に対する反応ですか。啓蒙の必要があるようです。小暮さん、こいつと同席でお願いします」
小暮とは、店長さんの苗字です。五十二歳の独身女性。コーヒーの淹れ方に並ならぬ執念があり、脱サラしてカフェを経営する夢を長年燻らせ続けていて、五年前、晴れてこの店をオープンしたそう。人の入りが良くなる十三時頃から二、三人のバイトに接客を任せて厨房に引っ込んでしまいますが、それまでは一人で店を切り盛りされます。現在は十一時半。
「どうぞご自由に。都ちゃんとお友達の子、注文は?」
「バジルスパゲッティのセットを。デザートは抹茶クリームのティラミス」
「私も、同じで」
菩薩のように微笑まれてから、小暮さんは奥に去って行きました。
湯ノ原正面の椅子をどかして、持ち前の素直な性分がはっきりと読み取れる、騙されやすそうな瞳を眺めます。
「ひぇっ」
「なぜ目が合っただけで怯えるのです。もっと嬉しそうにしなさい。フリフリ揺れる犬の尻尾を幻視させるくらいに歓迎の意を表明してください。次そうしなければ、鉄棒の記憶を忘れさせる勢いでぶん殴ります」
「ベータ、こいつに当たり強いよね。……やっぱり処す?」
「『やっぱり処す』って何!?」
「ごめんね、都ちゃんたち。男の子が先に注文してたから。はい、ペペロンチーノとベーコンのキッシュ、キャベツのスープ。デザートとコーヒーは食後に持ってくるからね」
「ペペロンチーノ! 小暮さんのそれは確かに絶品ですが、栄養が脂質に偏っているのも間違いありません。アスリートでしょう、もっと食事にストイックになるべきです。足に余計な肉を付けたら、ただじゃ済ませませんからね」
「生憎、ボディビルダーじゃないんだから、糖質絶対拒否ってほどは徹底してないんだよ。もちろん節制はしてるけども、たまにはいいだろ。なあ?」
顔色を窺われます。やれやれと肩を竦めました。ま、海のように広い心で許してやりますか。天下のボディビルダーにすら、チートデイなる、カロリー摂取の制限を取っ払う日があるそうですし。
しかし、彼が許可を求めた不寛容な相手とは、私ではなかったのです。
「美味しそう。レイジ、先に食べるつもり? お腹を空かせた女の子の前で美味しそうなパスタを見せびらかすように食べて、羨ましげ・悩ましげに眉根を曇らせる女の子を眺めて、愉悦に浸ろうとする心づもり? 浅ましい。レイジ、所詮お前も、度し難い変態だったのだ」
「なんで、相席する予定のなかった知り合いより先に食事をするだけで、そんな悍ましい汚名を被んなきゃいけないんだよ!? 待つよ。待てばいいんだろ! くそう、ここのペペロンチーノは、熱々なのが最高なのに」
鬼畜なデルタ、しょげる湯ノ原。
水滴の滲むコップを手に取り、乾いた喉を潤します。黄金色に光るフェデリーニ、柔らかそうなアスパラガス、櫛のようなタケノコの切り身。食欲をそそられないと言えば、嘘になってしまうでしょう。認めるのは癪ですが、私はかなりの食いしん坊です。普段の私であれば、理不尽とは思いつつも、すぐに食事を始められる湯ノ原に嫉妬して、デルタに同調していたかもしれません。けれども、今の私は、それどころではありませんでした。経験したことのない、正体不明な感情の濁流を抑えるために、現実世界に割り振っていた分の注意リソースまで、内面に持っていかなければならなかったからです。
聞き捨てなりませんでした。
レイジ?
人見知りのデルタが、湯ノ原を名前呼びしてる?
え?? 下の名前で呼び捨て?
「な、仲良くなったんですね。二人。いつの間に?」
「仲が良い? 俺は今、仲の良い友人に、横暴かつ身勝手な理由で土曜日の幸福を邪魔されたと言うのか? 冗談じゃねえよ」
「レイジ。友人には気を使うもの」
「その通りだよ。だから大人しく従っている」
「私も、友人として意見を述べさせていただくと、食べる本人が猫舌ならともかく、ペペロンチーノは、基本的に、熱いうちに食べた方が風味良く感じられるものです。アスパラガスやタケノコは、冷めると固くなってしまう。ガーリックのガツンとした刺激が熱に支えられていることは言うに及ばず。温度と水分を失った麺など、タイヤの味がするグミよりかはマシと言った程度! 美味しいうちに食べなければ、作ってくださった小暮さんに失礼ではありませんか。れ──湯ノ原は、デルタの無茶苦茶な要求を呑む必要はありません。お気遣いなく、冷めないうちに召し上がってください」
机上の小さなバスケットから銀色のフォークを取り出し、パスタの山に突き刺しました。わずかに逡巡してから、それを使って、彼はパスタを口に含みます。
「どうだレイジ。悔しさに歪む私の表情を眺めて食うパスタは。メシウマか?」
「パスタは普通に美味しいよ」
「もうデルタ。あまり湯ノ原をいじめてやらないでくださいな」
「……! 驚いた。防人さんからそんな言葉が出るとは」
「あぁん?」
反射的に睨みつけてしまいました。フォークを落としかける湯ノ原。過敏な反応です。怖がらせる意図はなかった。飄々と受け流してくれたら良いのに。ムカつきます。
しばらくして、後発二人組が注文したスパゲッティが運ばれてきました。爽やかな香りを裏に潜ませるバジルソースの濃厚な味わいによって、心の澱みが吹き飛びます。エビとブロッコリーに、塩気油気の効いた麺を絡ませれば、永遠に食べていられそうな味と食感のパラダイスが実現して、堪りません。1050円の価値はある。デザートとコーヒーとの抱き合わせでこのお値段であり、バジルスパゲッティを単品で頼むと850円になります。
「魂風さん、すごく綺麗になったよね。美容院に行ってきたの?」
お皿を空にした湯ノ原が、唐突にデルタを褒めました。フォークを持つ右手がピクリと止まります。モヤッと、またもや、得体の知れない情動のスパイクが発生したのです。デルタと湯ノ原の間に見えそうな何かを、必死になって否定しようとしている。喧嘩でも起きたりしないか、不安になっているのでしょうか。ええきっと、そうに違いありません。この男、難癖を付けてきたばかりの女を軽率に称賛して、警戒心がないのかしら。デルタが増長でもしたら、将来、冷や飯を掻っ食らうだけでは済まないトラブルが起きる可能性が高まりますよ。
ちらりと、隣の少女の方を見ます。
彼女が示したのは、まったく予想外の反応でした。
「照れる」
フォークから手を離し、顔を覆い隠します。
「や、見ないで。赤くなってるかも」
こちらが恥ずかしくなってしまうほど、初心で可愛い、汚れなき乙女そのものの仕草でした。誰もいない山奥に降り積もった雪の、純粋無垢な白。衝撃を受けました。私とて、綺麗だの可愛いだのとそれなりに言われてきておりますが、いつだって、承認欲求が満たされた仄暗い歓びを柔らかな微笑みに変換し、相手に返すのみでした。
慌てて謝る湯ノ原。
「ごめん。言われ慣れてると思って」
「異性から面と向かって、でも、特別でもないように言われたのは初めて。嬉しかった。ありがとう」
「美容院には行きましたよ。この子の髪、あまりにも荒れていたので」
湯ノ原の、当初の質問に答えます。あえて雰囲気を壊すように。そうしなければ、取り返しがつかなくなる。間髪入れず、ランチ後の予定にも言及します。
「休憩してからは、商店街の真ん中にある、文化祭でお世話になる模擬店レンタルストアへとご挨拶に伺ったのち、周りを散策しつつ、オススメのお店をデルタに案内しようと」
「へえいいじゃん。楽しんできなよ」
「レイジ。お前も来る? てか、来い」
「え? 今日オフだし、問題はないけど……」
狼狽した様子の彼と、再び目が合いました。私も困惑しております。七年の月日によるデルタの性格変化は理解したつもりですが、把握する限りの現状のパーソナリティと照らし合わせても、男性に強引な誘いをかける姿には違和感しかありません。私以外の寮生とは関わりたがろうとしない消極性。加えて、男性の話題になると処す処す繰り返しますから、てっきり男嫌いなのかと推測しておりましたのに。
とはいえ、湯ノ原の同行を断る特段の理由はなく、了承します。
デザートの抹茶クリームティラミスにはあんみつがかかっていて、甘味として完成されていました。コーヒーも安定の奥深さ。
お会計では、小暮さんから「都ちゃん頑張って」と謎に応援されました。とりあえず、サムズアップを返しておきました。
自覚なし。




