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ルナ・ベータ  作者: オッコー勝森
第三話 月占う 不覚の先

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 早朝の冷たい空気が、暖気の残る移動式住居(ゲル)から出てきた人々の肺に深くまで流れ込み、その中身を一新する。羊毛フェルトで覆われた快適な環境を惜しむも、すぐ作業に入らなければ、彼らが誇る伝統的な遊牧生活は、唯物論じみた思想で魂の役割と権利を否定する、冷酷にして無味乾燥な工業社会に敗北を喫するだろう。足元に息づくイネ科植物の長く鋭利な葉には、薄く霜がかかっている。太陽の気配を阻む無粋な高層建築物は、北の方向に聳えるたった一つしか(・・・・・・・)存在しない。空が白み始めた。日の出はまだ先だ。

 雄大な自然に不整合な、不遜と言っていい異様な塔に対して、モンゴルの遊牧民たちは、まったく不信感を抱いていなかった。はるか昔から側にいた家畜に対してするように、彼らはあるがままを受け入れていた。しかし、天に鋒を突きつけるその長大な塔は、ほんの一年前には影も形もなかったのだ。

 細長い円柱の側面に刻まれた縦横の線には、舞台のスポットライトらしき照明器具がびっしりと並ぶ。いくつかが光り、消える。また別のいくつかが光り、消える。意味ありげな点滅は、正常に動作するかのテスト運用と考えるのが普通だろう。家畜のうち、一際毛並みの良い羊が、塔を眺めて「メェ」と啼く。機嫌でも悪いのかと、後ろにいた青年が首を傾げた。

 風を裂く度に、巨塔は轟音に軋む。しかし、モンゴルの永久凍土に根差したその建造物は、微塵も揺らぎはしなかった。最上階に住まう女性の視線が、縦長の窓を通じて、大草原の向こうに広がる山々の稜線を追う。アルタイ山脈にはユキヒョウがいると聞く。高山地域の動物らしく、冬毛は長く分厚い。撫でてみたいと願うが、警戒心の強い動物だから、ただ近づくだけでも彼らに悪いだろう。犯してはいけない領域は存在する。この地を訪れる際に調達した、密かに気に入っているウールカーペットを歩き、ベッドの上に腰掛けた。座った姿勢のまま、ベッド横の引き出しからチーズを一ピース取り出し、食べる。頭の中に同居するもう一つの意志に「酒がない」と愚痴られるが、素気無く無視した。

 彼女の名は荒屋円。仲間からはアルファと呼ばれる。「ルナ・チルドレン」の最年長であり、「月嫡再臨」プロジェクトの、現在のリーダーだった。


「少し寒いな」


 意識を集中させて、室内の空気を統制する。粒子の振動を活発化させ、部屋の温度を上げた。如何なる外部からの加熱や仕事もなく、平然と実行されたその現象は、魔法としか表現しようがなかった。地球土着の物理法則は、無から有を作り出す、第一種永久機関の存在を否定する。誰もが度肝を抜かれる所業であったものの、彼女たち「ルナ・チルドレン」にとって、それは日常茶飯事だった。この程度では満足出来ない。曲芸には十分でも、世界を引っ繰り返すには不足する能力だと認識していた。事実として、今の彼女は、トマホークミサイルを一発ぶち込まれるだけで即死する。

 アルファの脳裏に、一人の少女の顔が浮かんだ。ベータ。あの女なら、「月の寵愛」が極めて希少な現在であっても、トマホーク程度であればどうにかするんじゃなかろうか。顎の上下を離すことで歯軋りを抑えた。故人に嫉妬しても仕方がない。月の瘡蓋を剥がせば、ベータを遥かに超える力が、嫌でも手に入る。


「大義を見失うな」


 老人のしわがれた叱責が、耳の内側を直接叩く。「あんたの大義でしょ」と、アルファは曽祖父に言い返した。


「生意気な曾孫娘だ」「あんたに似たのね」


 時計を眺める。午前五時前。日本より一時間遅れている。該当地域(・・・・)の近くに送り込んだ六人の弟妹たちと定期連絡を交わす時間だ。記念すべき第一回。北京に潜伏させたガンマを介して、日本の六人と表層意識を繋ぐ。


「こちらアルファ。みんな起きてる?」


 眠そうな声が五人分届く。最年少のイオタからは、代わりにδ波が流れ込んできた。深い睡眠時に現れる脳波である。釣られて他の八人も眠りそうになったものの、仲介役のガンマが共有意識のリンクレベルを下げて、事なきを得た。

 こめかみを押さえるアルファ。


「イオタ……」

「まだ十二歳。仕方ない。寝る子は育つ」


 デルタが弁護した。直後、イプシロンから「デルタ姉もよく実験に遅刻してたよな」と茶化され、口を閉ざしてしまったが。今度はシータが、「まあ六時は早いよね。ふあぁ」とあくび混じりに発言する。ゼータやイータも同調した。最年長のアルファでも今年で十七歳だ。お子様集団なのは間違いない。上場企業の役員会議のような厳格さは期待出来そうもなかった。


「静粛に。毎日ってわけじゃないんだから我慢しなさいよ。まずは私、アルファから。塔の信号機能および意識干渉機能に異常はなし。基幹演算システムの完成度は到達目標からして大体30%、送信システムは75%、受信システムは20%、光線出力装置は70%。今の所は見積もり通り、工期の終了は八ヶ月後。問題があるとするなら、保存食にはうんざりってことぐらい」

「来週まで待って。北京土産を持ってくから」

「ありがとガンマ。デルタたちはどう? 学校に馴染めそう?」


 アルファは優しく問いかけた。自分でも驚くくらい、柔らかな言葉遣いで。彼女は己の攻撃性を自覚していた。無意識に意見を押し付けようとしてしまって、しばしば語調が刺々しくなってしまう。にもかかわらず、世話を焼いてきた年下たちの新生活に思いを馳せた途端、跳ね馬のようだった精神が、腰を据えて落ち着いてしまった。不思議な感覚だった。

 彼女が示した優しさを、世間は「母性」と分類する。アルファ以外の「ルナ・チルドレン」は、家族から捨てられたも同然の者たちであり、家族愛に窮乏していた。ぶら下がった人参に、就寝中のイオタの次に若いシータが食らいつく。


「私、友達が二人出来たよ! 日下部って苗字、かっこいいねって。一生懸命考えて良かった。分からないことも教えてくれる! あの子たちは殺したくないな。小間使いにしたい。ちゃんと面倒見るから」

「後で写真を共有してもらえる? なるべく殺さないようにするから。他の子たちも、『再臨』後の世界で特権を与えてもいいと思った人がいたら、勿体ぶらずに教えてね」


 イータ、ゼータ、イプシロンと続く。


「僕は、なるべく静かにしてたよ。浮かないくらいには人と話したけど。どうせ蹂躙する奴らだし、あんまり興味も湧かなくて」

「こちらゼータ。俺の学校では他に転校生が一人いた。容姿のいい女の子で、そちらの方に注目が集まった。とりあえず、従者の候補として、学校の可愛い女の子ベストファイブを見繕っとく」

「カノジョ三人出来た! 写真送るからよろしく!」

「ゼータとイプシロンはモンゴルに来なさい。去勢する」

「なぜ」「ひでえ!」

「デルタはどう?」


 アルファは残る一人に尋ねた。姉貴分は知っている。デルタのあがり症は昔よりも改善された。精神も多少は図太くなった。そうは言っても、大人たちの質問に上手く答えられなかった時、頬肉を痙攣させたのちに黙り込んでしまう、可哀想な彼女の姿が頭から離れない。口を挟む機会が見えず右往左往しているならば、自分がサポートしてやらなければいけない。

 心配は杞憂に終わる。緊張の意思は伝わってこなかった。報告が長くなることを見越して、自らトリを選んだようだ。


「二つある。一つ目。私の来訪が予期されていた。天然物の半端な適性者に。苗字は松柄。『月の寵愛』を通じて、偶然にも、『月嫡再臨』に関する断片的な情報を得たらしい。転校前日、遺跡がある丘にいきなり呼び出されて、計画を止めるよう言われた。鬱陶しかったから殺した」

「うわ。愚か者じゃなかったら、『尖兵』に仕立てられたかもなのに」


 もの惜しげに言うシータに、デルタは頷きを返しつつ、「邪魔になるのは明らかだった」と自身の判断を正当化する。


「二つ目。の前に。ガンマ、イータだけ通信外して」

「はあ? おい。なんで──」「切ったよ」

「ん。じゃ、言う。とても朗報。ベータが生きてた」


 アルファの全神経が逆立つ。塔の機能に綻びが生じた。照明の点滅が激しくなり、周辺に暮らす遊牧民たちも、ほんの一瞬だけ塔の方を怪しんだ。慌てて制御を取り戻す。幸いにして、共有意識は弟妹たちの歓喜に埋め尽くされており、アルファの乱調は悟られずに済んだ。


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