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早朝の冷たい空気が、暖気の残る移動式住居から出てきた人々の肺に深くまで流れ込み、その中身を一新する。羊毛フェルトで覆われた快適な環境を惜しむも、すぐ作業に入らなければ、彼らが誇る伝統的な遊牧生活は、唯物論じみた思想で魂の役割と権利を否定する、冷酷にして無味乾燥な工業社会に敗北を喫するだろう。足元に息づくイネ科植物の長く鋭利な葉には、薄く霜がかかっている。太陽の気配を阻む無粋な高層建築物は、北の方向に聳えるたった一つしか存在しない。空が白み始めた。日の出はまだ先だ。
雄大な自然に不整合な、不遜と言っていい異様な塔に対して、モンゴルの遊牧民たちは、まったく不信感を抱いていなかった。はるか昔から側にいた家畜に対してするように、彼らはあるがままを受け入れていた。しかし、天に鋒を突きつけるその長大な塔は、ほんの一年前には影も形もなかったのだ。
細長い円柱の側面に刻まれた縦横の線には、舞台のスポットライトらしき照明器具がびっしりと並ぶ。いくつかが光り、消える。また別のいくつかが光り、消える。意味ありげな点滅は、正常に動作するかのテスト運用と考えるのが普通だろう。家畜のうち、一際毛並みの良い羊が、塔を眺めて「メェ」と啼く。機嫌でも悪いのかと、後ろにいた青年が首を傾げた。
風を裂く度に、巨塔は轟音に軋む。しかし、モンゴルの永久凍土に根差したその建造物は、微塵も揺らぎはしなかった。最上階に住まう女性の視線が、縦長の窓を通じて、大草原の向こうに広がる山々の稜線を追う。アルタイ山脈にはユキヒョウがいると聞く。高山地域の動物らしく、冬毛は長く分厚い。撫でてみたいと願うが、警戒心の強い動物だから、ただ近づくだけでも彼らに悪いだろう。犯してはいけない領域は存在する。この地を訪れる際に調達した、密かに気に入っているウールカーペットを歩き、ベッドの上に腰掛けた。座った姿勢のまま、ベッド横の引き出しからチーズを一ピース取り出し、食べる。頭の中に同居するもう一つの意志に「酒がない」と愚痴られるが、素気無く無視した。
彼女の名は荒屋円。仲間からはアルファと呼ばれる。「ルナ・チルドレン」の最年長であり、「月嫡再臨」プロジェクトの、現在のリーダーだった。
「少し寒いな」
意識を集中させて、室内の空気を統制する。粒子の振動を活発化させ、部屋の温度を上げた。如何なる外部からの加熱や仕事もなく、平然と実行されたその現象は、魔法としか表現しようがなかった。地球土着の物理法則は、無から有を作り出す、第一種永久機関の存在を否定する。誰もが度肝を抜かれる所業であったものの、彼女たち「ルナ・チルドレン」にとって、それは日常茶飯事だった。この程度では満足出来ない。曲芸には十分でも、世界を引っ繰り返すには不足する能力だと認識していた。事実として、今の彼女は、トマホークミサイルを一発ぶち込まれるだけで即死する。
アルファの脳裏に、一人の少女の顔が浮かんだ。ベータ。あの女なら、「月の寵愛」が極めて希少な現在であっても、トマホーク程度であればどうにかするんじゃなかろうか。顎の上下を離すことで歯軋りを抑えた。故人に嫉妬しても仕方がない。月の瘡蓋を剥がせば、ベータを遥かに超える力が、嫌でも手に入る。
「大義を見失うな」
老人のしわがれた叱責が、耳の内側を直接叩く。「あんたの大義でしょ」と、アルファは曽祖父に言い返した。
「生意気な曾孫娘だ」「あんたに似たのね」
時計を眺める。午前五時前。日本より一時間遅れている。該当地域の近くに送り込んだ六人の弟妹たちと定期連絡を交わす時間だ。記念すべき第一回。北京に潜伏させたガンマを介して、日本の六人と表層意識を繋ぐ。
「こちらアルファ。みんな起きてる?」
眠そうな声が五人分届く。最年少のイオタからは、代わりにδ波が流れ込んできた。深い睡眠時に現れる脳波である。釣られて他の八人も眠りそうになったものの、仲介役のガンマが共有意識のリンクレベルを下げて、事なきを得た。
こめかみを押さえるアルファ。
「イオタ……」
「まだ十二歳。仕方ない。寝る子は育つ」
デルタが弁護した。直後、イプシロンから「デルタ姉もよく実験に遅刻してたよな」と茶化され、口を閉ざしてしまったが。今度はシータが、「まあ六時は早いよね。ふあぁ」とあくび混じりに発言する。ゼータやイータも同調した。最年長のアルファでも今年で十七歳だ。お子様集団なのは間違いない。上場企業の役員会議のような厳格さは期待出来そうもなかった。
「静粛に。毎日ってわけじゃないんだから我慢しなさいよ。まずは私、アルファから。塔の信号機能および意識干渉機能に異常はなし。基幹演算システムの完成度は到達目標からして大体30%、送信システムは75%、受信システムは20%、光線出力装置は70%。今の所は見積もり通り、工期の終了は八ヶ月後。問題があるとするなら、保存食にはうんざりってことぐらい」
「来週まで待って。北京土産を持ってくから」
「ありがとガンマ。デルタたちはどう? 学校に馴染めそう?」
アルファは優しく問いかけた。自分でも驚くくらい、柔らかな言葉遣いで。彼女は己の攻撃性を自覚していた。無意識に意見を押し付けようとしてしまって、しばしば語調が刺々しくなってしまう。にもかかわらず、世話を焼いてきた年下たちの新生活に思いを馳せた途端、跳ね馬のようだった精神が、腰を据えて落ち着いてしまった。不思議な感覚だった。
彼女が示した優しさを、世間は「母性」と分類する。アルファ以外の「ルナ・チルドレン」は、家族から捨てられたも同然の者たちであり、家族愛に窮乏していた。ぶら下がった人参に、就寝中のイオタの次に若いシータが食らいつく。
「私、友達が二人出来たよ! 日下部って苗字、かっこいいねって。一生懸命考えて良かった。分からないことも教えてくれる! あの子たちは殺したくないな。小間使いにしたい。ちゃんと面倒見るから」
「後で写真を共有してもらえる? なるべく殺さないようにするから。他の子たちも、『再臨』後の世界で特権を与えてもいいと思った人がいたら、勿体ぶらずに教えてね」
イータ、ゼータ、イプシロンと続く。
「僕は、なるべく静かにしてたよ。浮かないくらいには人と話したけど。どうせ蹂躙する奴らだし、あんまり興味も湧かなくて」
「こちらゼータ。俺の学校では他に転校生が一人いた。容姿のいい女の子で、そちらの方に注目が集まった。とりあえず、従者の候補として、学校の可愛い女の子ベストファイブを見繕っとく」
「カノジョ三人出来た! 写真送るからよろしく!」
「ゼータとイプシロンはモンゴルに来なさい。去勢する」
「なぜ」「ひでえ!」
「デルタはどう?」
アルファは残る一人に尋ねた。姉貴分は知っている。デルタのあがり症は昔よりも改善された。精神も多少は図太くなった。そうは言っても、大人たちの質問に上手く答えられなかった時、頬肉を痙攣させたのちに黙り込んでしまう、可哀想な彼女の姿が頭から離れない。口を挟む機会が見えず右往左往しているならば、自分がサポートしてやらなければいけない。
心配は杞憂に終わる。緊張の意思は伝わってこなかった。報告が長くなることを見越して、自らトリを選んだようだ。
「二つある。一つ目。私の来訪が予期されていた。天然物の半端な適性者に。苗字は松柄。『月の寵愛』を通じて、偶然にも、『月嫡再臨』に関する断片的な情報を得たらしい。転校前日、遺跡がある丘にいきなり呼び出されて、計画を止めるよう言われた。鬱陶しかったから殺した」
「うわ。愚か者じゃなかったら、『尖兵』に仕立てられたかもなのに」
もの惜しげに言うシータに、デルタは頷きを返しつつ、「邪魔になるのは明らかだった」と自身の判断を正当化する。
「二つ目。の前に。ガンマ、イータだけ通信外して」
「はあ? おい。なんで──」「切ったよ」
「ん。じゃ、言う。とても朗報。ベータが生きてた」
アルファの全神経が逆立つ。塔の機能に綻びが生じた。照明の点滅が激しくなり、周辺に暮らす遊牧民たちも、ほんの一瞬だけ塔の方を怪しんだ。慌てて制御を取り戻す。幸いにして、共有意識は弟妹たちの歓喜に埋め尽くされており、アルファの乱調は悟られずに済んだ。




