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ルナ・ベータ  作者: オッコー勝森
第二話 水面の月 照らす湖底

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 知り合いの死は、湯ノ原零時にとって初めての経験だった。

 身長179cm、体重78kg。半袖短パンのジャージの下で、肢体の関節を中心として光線のような筋肉を際立たせる、いかにもアスリート然とした少年。街灯の光を辛うじて拾う、ぼんやりとした闇の中で、(へそ)の周りを捻らせながら右膝が直角になるように引っ張り、その姿勢でピタリと止まる。ピクリとも動かない。残った左足を通じて大地に根を張っているのか、全身の骨に鋼を張り巡らせているのか。石像のような安定感だが、彼は人間だ。しばらくして、額に汗が滲み出る。右足を下ろし、体を拭くためのウェットティッシュを手に取った。一分間だけ休憩してから、彼は左足を上げた。

 ピタリと止まる。ピクリとも動かない。同じことを繰り返す。朝からずっと、無意識的に、彼は同じ訓練を繰り返していた。

 数時間前に開けた窓から、ひんやりとした風が入ってくる。風が運んできたモノは、あまりにも夜の空気だった。それでようやく、彼は長い時間の経過に気づいて、何をやってるんだ俺はと、自分の奇行を見つめ直した。途端、恐ろしい空腹に襲われる。冷蔵庫を開き、魚肉ソーセージを三十本ほど掻っ攫って、ムシャムシャと頬張った。

 彼はやり投げを志している。つまり、肉体の計画的躍動を信奉する変人の一人であり──ヤン・ゼレズニーの競技動画を視聴した後では軍隊の規則正しい行進すら遊びに見える──、とりわけその傾向が強かった。基礎練を積みながら、頭の中で何度もフォームを反芻し、思い立てばホログラムをも駆使して、助走・投擲仕草を満足するまで追究するストイックさがあった。しかし、その代償なのだろうか、生活においてはかなり文脈知らずなところがあり、自他顧みぬ盲目的修行、からの爆食いといった胡乱な行動は珍しくなかった。

 時刻は九時過ぎ。女子寮の一室ではちょうど、防人都がデルタの青春を取り戻そうと決意した頃合い。彼の両親は、まだ帰宅していない。彼の父は地方銀行、母は鉄道会社に勤めていて、二人とも、遅くまで帰ってこないのはよくあることだった。湯ノ原零時は一人の寂しさに慣れている。だから、胸に去来する虚無感が、誰かがいなくなっただけの空白に由来するそれを有意に超えているという結論は、簡単に導き出せた。透明で、見えない何かに満ちていて、わずか十五年半の人生を焚べて、辛うじて取り出せる程度の言葉など寄せ付けない。

 松柄という二年上の先輩とは、それほど親しいわけでもなかった。メイングラウンドの端には砂場があり、サブグラウンドか、自宅近くの大学が備える広い競技場を借りて槍を投げられる日以外、彼はその付近を練習場所としている。砂場から体育館裏に繋がる坂の方向に目をやると、グラウンドと雑木林を隔てる石垣よりも高いハルニレがあって、時たまその木の下にいたのが彼女だった。地平線から昇る太陽など、神々しいモノを見るかのような瞳で以って、彼女は、部活に励む少年少女たちを眺めていた。どちらが先に声をかけたかは覚えていないが、湯ノ原の休憩中、気が向けば話をする仲になった。会話は松柄が主導し、やり投げに関する質問や文芸部の大変な仕事に対する愚痴などを垂れ流して、内容に困る様子はなかった。変な人だったなと湯ノ原は思う。というより、酔狂な人間だった。娯楽飽和国日本において、プロとは程遠い子供の練習風景を観察するより有意義な時間の潰し方は、他にいくらでもあったはずだ。

 ハルニレから飛ぶ奇特だが真っ直ぐな気配が、どこまでも静かな夜の闇に比類する彼の集中に、一筋の光条を差し込ませることは、もう二度とない。


「どうしていなくなっちゃうんだよ」


 息が詰まりそうだった。壁に囲まれた閉塞的な家の中では、また泣いてしまいかねない。スニーカーを履いた。外を歩く。それなりに標高があるからか、四月初旬の夜はまだ寒い。足元はジャリジャリとする。遠くからはバイクの走行音が聞こえる。風で細い電線が揺れる。並ぶ家々の影と輪郭が、いつもより濃く感じられる。

 空を見上げると、今夜は満月のようだった。月。地球唯一の、恒久的に存在する自然衛星。肉眼で見られる星々の中では最小級の天体であるにもかかわらず、ただ近いというだけで大きく輝いて見える星。月のクレーターには、アリストテレスやニュートンといった偉人たちの名が付けられている。そういった大昔の巨星たちは、湯ノ原にとって、茫漠たる宇宙の中で頼りない光を放つ、遠くの点々に過ぎなかった。まず敬意を払い、誠意を示すべきは、彼を見守る身近な人。

 月がもたらした教訓によって、湯ノ原は己を恥じた。なぜ松柄の心に、もっと踏み込めなかったのか。大事にすべき存在を一人、自分は取りこぼしたのだ。この心の虚しさは、それが原因だった。


「……うん?」


 公園のブランコが、小刻みに揺れている。

 訝しむ。娯楽飽和国にして、少子化の進む先進国でもある日本において、小さく質素な公園にわざわざ足を運ぶ者の数は減少の一途を辿る。事実として、伽藍堂の光景しか彼は知らない。だが人がいる。況してや夜中に。不審に思うのは当然のことだった。

 目を凝らす。彼の優れた視力はすぐに、利用者の正体を看破した。昨日転校してきたばかりの少女、魂風美澄。会ったばかりの人間に対する興味の薄い湯ノ原の脳でも、記憶野が反応を示した。防人都に凄まれて、転校生に席を譲る羽目になったせいである。ブルリと震えた。小学校で一番だった力持ちのプライドは、防人の鉄棒曲げによって粉々に打ち砕かれた。自然界とは比べるのも烏滸がましいが、それでも人間界だって厳しい。上には上がいる。

 おっかない友人についてはいい。彼は本気で不思議がっていた。魂風美澄の新しい住まいは、学校敷地内の女子寮と聞いた。「朧煙」と公園は、直線距離では千五百メートルも離れていない。しかし、高低差と迂回の必要性によって、彼の健脚が漕ぐ自転車であっても、学校行きは十五分強、戻りは十分弱かかる。寮には門限もあるだろうに、なぜこんな所へ?

 疑問と同時に、真っ当なる心配の情も湧く。他に誰もいない夜の公園、女の子一人で大丈夫なのか。


「あの」


 意を決して話しかける。


「同じクラスの湯ノ原なんだけど。寮への道が分からないなら、送る」


 玉兎の魂核を思わせる昏い瞳が、少年の、整っているが素朴な顔を映した。

 刹那、湯ノ原は左方に引いた。ほとんど反射的な行動だった。そうしなければいけないという直感が、脊髄を鷲掴みにした。握られた部分は熱く、泡立って沸騰してしまいそうだった。それ以上の言語化は出来そうもない。困惑する。側から見れば、目前の存在に恐怖して飛び退いたかのような挙動。しかし、どこからどう見ても、魂風美澄は暴力とは無縁そうな可憐な女子高生だ。失礼すぎると自らを叱咤する。


「躱した?」


 魂風の小さな驚愕は、湯ノ原の耳には入らない。

 精神のリカバリーに努め、ものの数秒でささくれを宥めた彼は、もう一度彼女に向き合う。明らかに警戒されている。仕方がない。口調や容貌、雰囲気はともかくとして、シルエットだけ見れば、彼は十分威圧的だった。それに、善意であろうと、男性が若い女性に話しかければ下心ありきと捉えられるのが昨今の風潮である。少しでも対応を誤れば、警察に通報されるだろうと彼は思った。

 潔癖を強調しておいてしすぎることはない。


「もちろん、学校前の坂道まで送るだけだ。あるいは、単に道を教えるだけ」

「いらない。私は、迷子ではない」

「そうなん? 初めての町を探検して、迷子になって途方に暮れる以外で公園のブランコに居座り続ける理由なんて、ブランコが死ぬほど好きか、悩み事があって一人になりたいくらいしか思いつかないぜ?」


 魂風の眉根が曇る。「悩み事」という言葉に反応して。しつこいかもしれないが、松柄の件で後悔したばかりの彼は、もう少しだけ食い下がろうとした。


「再会したばかりの旧友に、どう接すればいいのか分からない。とか?」

「……広い意味では、そう」

「余人じゃなく、相手は防人さんだろ。あんなに強い奴は滅多にいない。心も体もな。投げかけるモノが言葉だろうが槍だろうが、アレにとっちゃ誤差だろうよ。どんな接触も適当にいなして、ベラベラ舌を回しまくる。魂風さんは特別に気に入られているみたいだし、弱みを全開にして甘えても、防人さんなら受け止めるさ。尤も、今はそっとしといた方がいいかもだけど……。どうせすぐに復帰して、誰よりも前に立って進み始める」

「昼はもう元気そうだった」

「さすがだな。俺も見習わなくちゃ」


 昨日は自分と一緒に号泣していた友人が、自分よりも早く心を立て直している。その事実は、彼の重荷を一つ減らした。口角が上がる。去年の文化祭までは、防人の圧に負けて渋々手伝っていただけの文芸部の裏方業務も、今年からはもっと精力的にやらなければいけないと感じた。

 魂風が立ち上がる。左右にぎこちなく揺れる、ブランコの座面。


「そう。ベータはすごい。どんな逆境も乗り越えられる。お前、分かってる。男にしては見所がある。イプシロンゼータイータの阿呆どもよりも断然マシ」

「えーと。どうも?」

「お前、名前は?」

「湯ノ原零時だよ」

「レイジ。事が成れば、シータかイオタの騎士にしてやってもいい。お前ならば任せられる。あはははは!」


 楽しそうに高く笑って、魂風は公園を出た。声をかけたのは早計だったかと、湯ノ原は少し後悔した。


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