3話 追い詰められた男
数日が過ぎ、カフェにはいつもの朝が訪れていた。
窓から差し込む柔らかな光が棚に並ぶ薬草の瓶を透かし、緑や琥珀の影を床に落としている。
セイラは鼻歌を歌いながらカウンターを拭き、椅子をひょいと持ち上げて位置を整える。
「よーし、今日も完璧!」
そう呟いて満足げに笑う彼女は、今日は自分が頑張る日だと胸の内で決めていた。
そういって開店準備を着々と進めるセイラを横目にクラリスは店の奥で集中していた。
やはりなにやらおかしいものがまざっているようであの日以来分析作業を仕事の合間に続けている。
ああなるとクラリスはしばらくあのままだから、こういう時は自分が店長だ――と心の中で気を引き締めるセイラだった。
今も小瓶の灰を光にかざし、ときどき別の紙片に目を走らせては眉間にしわを寄せている。
「うん...やっぱり成分が粗雑ね。これでちゃんと効果が出てしまったのもすごいけど不運なことだわ」
独り言が途切れ途切れ漏れている。
もうちょっとかな...
クラリスの様子を見ながらまだお客の来ていない店内を見渡す。
難しい文章を見ると途端に眠りの国に行ってしまう自分には絶対できない作業だ。
セイラは気持ちを切り替え、やってきた常連さんたちを笑顔で迎え入れた。
渡すものも決まっていてクラリスがそこもぬかりなく準備してくれているから渡すだけでいいのだ。
そうして湯気の立つお茶を片手に、常連さんたちと井戸端会議に加わり、にこにこと相槌を打つ。
夕方、西日がガラスに反射して店内を金色に染め始めたころ――ぱたん。
クラリスがすっきりした表情でこちらを見ていた。
「終わった?」
「えぇ、つながったわ」
ーーーーーー
ある日の夕暮れ。
男は胸の奥に巣くう不安を押し殺しながらいつも通りの生活を繰り返していた。
「大丈夫だ、ばれるはずがない......」
自分にこう言い聞かせるのは何度目になるだろうか。
自分でも成功すると思っていなかったことをなしてしまった恐怖に今更震えるのがこの男の小心者さを表している。
日常を繰り返せば、あのことなどそのうち薄れてなかったことになるはずだーーそうしなければーーそう信じて。
だが、その日は違った。
街灯がともり始めた薄暗い路地に、二人分の人影が伸びていた。
一人は艶やかな黒髪が印象的で、怜悧な瞳でまっすぐ男を見据えている。
もう一人は黄金の髪を高く結い上げ、薔薇の頬に微笑みを浮かべたどこか無邪気な雰囲気をまとっている。
遠目でも目を引く美しい少女たち。だが、人通りもない寂れた道に怖がりもせず立っているという強烈な違和感に、男との背筋には冷たい汗が流れた。
「......ただの小娘二人だ」
その違和感に蓋をするように自分に言い聞かせ、歩みを進める。
そのまますれ違い、ようやく安堵の息を漏らしかけた瞬間ーーー
「ねーおじさん」
背後から声がかかった。
男の心臓が跳ねる。ばっと振り返ると金髪の少女が柔らかく笑いながらこちらを見ていた。
「あんなのどこで見つけたの?ああいうのには手を出しちゃだめだよ」
穏やかな口ぶりなのに、言葉は耳の奥を突き刺す。
ぞわりと鳥肌が立ち、男は思わず立ち止まった。
黒髪の少女が一歩前に出る。
「少し、お話いいでしょうか」
とっさに逃げることも考えた。だがーー「こんな小娘二人に何かできるはずがない」無理に自分を納得させ、男は吐き捨てるように言った。
この時点で相手に飲み込まれているとも気づかずに......
「なんだおまえら」
黒髪の少女のまっすぐな視線に射抜かれ居心地が悪い。
そこへ金髪の少女がなんてことない調子で口を開いた。
「おじさん、いやアダムさんさ――最近人を殺したでしょ」
「はぁ?......なんのことだ。妙なこと言うんじゃねぇ!」
とっさのことに声が震えた気がした。なんで俺の名前を知ってやがる。
「あぁいうの、深入りしない方がいいよ。しかも質の悪い模造品だったし」
さっきからこいつは何を言っているんだ。
頭が混乱する。買った男からは証拠も何も残らないから安全だと確かに聞いていたのに。
おかしい。こんなはずじゃ……。
破綻した思考で言い訳を並べるが、胸の奥の恐怖は膨らむばかりだった。
そこへ黒髪の女が口を開いた。
「あなたが購入した道具。あれは人を呪うためのものですね。本来あんなおもちゃみたいなもので殺人までできるのは珍しい。今までもいくつか試していたんじゃない?
それが複合的に重なって、年月をかけて、最後には成就してしまった」
あのペーパーウェイトだ。
どれも単体ではそこまで強い効果があるものではない。
運よく効果が出てしまっても体がだるくなるとか、一時的に体調を崩すとか、そんなおまじない程度のもの。
しかし、男の執拗さが今回の悲劇を引き起こしてしまった。
たまたま効果の出るものが、力を失う前に今回のものと重ねて使われてしまった。
おそらく被害者は悪夢の中で息を引き取ったのだろう。
それで苦悶に満ちた表情で死んでいったのだ。
男の顔から血の気が引いていく。
やり方を横で見ていたように一つ、また一つを言い当てられ、ぎりぎりで保っていた理性が崩れた。
次の瞬間には「こいつらをなんとかしなければ」という衝動だけが頭を支配していた。
「ふざけやがって!」
怒声を上げ、勢いに任せてとびかかる。
その瞬間、金髪の少女が前に飛び出してきた。
その姿はまるで野生動物のようにしなやかに跳ねた。
沈み込むように姿を消し、下から一気に蹴り上げる。
次の瞬間、男は地面に叩きつけられ、意識を失っていた。
「おやすみ~」
セイラはぱんぱんと手を払い満足げに立ち上がった。
「ぶいっ!」とクラリスの方を振り返る。
クラリスは目を細め、口角を上げる。
「さすがね、セイラさん」
セイラは唇を尖らせて、しょんぼりと肩を落とした。
「でも弱くて全然楽しめなかった」
「セイラさん、一般の方に戦い甲斐を求めるのはかわいそうよ」
クラリスは小さく笑い、つづけた
「それじゃあ、ユリウスさんを呼んできましょうか」と言った。
ーーーーーーー
後日。
男の部屋からは、被害者宅と同じようなごちゃごちゃとしたまじないの道具のようなものが多数見つかった。
いかにも”それらしい品”ではあったが、そこもクラリスが依頼を受けて鑑定したところどれもガラクタで処分された。
結局、男が被害者を手にかけた理由は、執拗な割に驚くほど小さなものだった。
長年借金を抱え、返済を迫られていたこと。
被害者が役所勤めを得たのに、自分は落とされ続けたこと。
そのたびに劣等感を刺激され、積もり積もった不満はやがて逆恨みへと形を変えた。
――だが、そんなことで命を奪われた被害者にしてみれば、たまったものではない。
ただし、世間的に「呪術で人を殺した」と公にするわけにはいかない。
団長はうまく方便をこしらえて、彼を収容したのだという。
しかしそれは罰というよりも、むしろ保護に近い処置だった。
長い時間、粗悪な道具にかかわり続け、あげくにそれが発動してしまった。
その代償がどのような形で訪れるのか、誰にも分からない。
呪術は、人の理屈では測れぬところで牙をむく。
いずれ遠からず、自らのなしたことが跳ね返り、青ざめる日が来るだろう。