FOR NO ONE
モーツァルト生誕二五〇年を記念して我が雑誌社もモーツァルトの特集を組むことになった。しかしそのままモーツァルトにスポットを当てて記事にするよりも、他社とは違う路線でいこうということになり、アントニオ・サリエリについての特集に変わった。
サリエリとはモーツァルトと同時期の宮廷音楽家で、映画『アマデウス』では、モーツァルトの才能に嫉妬し、果ては彼を死に追い込んでいく悪者、という設定で描かれている男だ。映画の内容は事実無根でフィクションであるとされているが、サリエリの勘違いされた悪名は知れ渡り、最近汚名返上ということで、彼の音楽がウィーンで再演された。音楽的評価は今も昔も大したことはないらしいが、彼の音楽を聞いたことの無い私には判断しかねる問題だった。そこで世界的にも有名なサリエリ研究者であり、作曲家、指揮者としても有名なK氏に話を伺うことになった。K氏は聴覚障害を患って耳が聞こえなくなってからは第一線を退き、軽井沢で一人隠居生活を送っているという。私は手紙とメールをK氏に送りアポイントメントを取った。芸術家に気難しい人が多いように、現役時代のK氏も大変な頑固者で、変わり者だったから断られるかとも思ったが、意外にもK氏から快諾の返事が来た。
指定された日に私は手話の出来る女の子を連れて、K氏の家に向かった。自然豊かな静かな森の中にK氏の邸宅が屹立していた。私は車を広い庭の隅に置き、玄関を目指した。庭内はよく手入れされた花や植木が目立っていた。
「すごい家ですね」
女の子は目をキョロキョロさせていた。社内の知り合いが親戚に手話の出来る福祉短大生がいる、と紹介してくれた。彼女は軽井沢に遊びに行けるついでに小遣い稼ぎが出来ると、喜んで連いてきたお調子者の娘だった。
私は玄関のベルを押したが、ベルを鳴らすことがK氏に意味のあることかと疑い、女の子と目を合わせた。
「耳が聞こえないのに、インターホンなんて必要なんですかね」
「どうなんだろう。家の中にベル代わりに点滅ランプでもあるんじゃないのかな?」
暫く様子を見て待ち惚けたが、家の中からは何の変化も聞こえないので私は困ってしまった。
「勝手に入っちゃいましょうよ」
女の子が待ちきれずにそう言って、取っ手に手を伸ばした。
「いや、まずいよ」
私の胸内にK氏の激怒する顔が浮かんだ。折角の取材もおじゃんになってしまうかもしれない。私が女の子を宥めていると後ろから声がした。
「ああ、お待ちしていましたよ」
私達が驚いて振り返ると、両手に青い葉の野菜と包丁を持った老人が微笑んで佇んでいた。
「あの、こんにちは」
はじめ、私は彼が庭師かお手伝いさんだと錯覚した。ズボンは泥が付着し、首にタオルを巻き、肌も焼け焦げていた。しかし、無言で笑ってこっちを見続ける老人の表情が、すぐにK氏であると分かり、私は焦りながら、恐縮して深くお辞儀をした。
「○×出版から来ました。本日はよろしくお願いします」
そう言ってすぐに女の子に目配せをした。女の子は察して手腕を動かそうとした。
「大丈夫、それくらいなら分かるよ」
K氏は笑顔のまま答えた。私達が唖然としていると、彼は続けた。
「読唇術を少し覚えてね。簡単な言葉なら理解できるんだよ」
取材は順調に進んだ。事前に訊ねたいことは手紙やメールで確認しておいたので、あとは内容を煮詰めるだけだった。時に手話や筆談、身振り手振りを交えて、サリエリやモーツァルト、その時代のクラシックなどを学術的に教わり、まとめていった。
「サリエリは陰険な野心家というイメージがあるが、実際はベートーベンやリスト、シューベルトなどに無料で作曲を教えていたんだ。映画とは違って、実際は音楽界に貢献しようとした温厚な人物だったんだよ」
「じゃあ何故、サリエリはこんな酷い男にされるようになったんですか?」
「一説によると、モーツアルトの公演が不評だった際に、モーツアルトの父親が、当時のクラシック界の権威であったサリエリに猜疑心を持って、あいつはうちの息子を陥れようとしている、と手紙に書いたのがきっかけだと言われているんだ」
仕事中もK氏は意外な程落ち着いていて、私が抱いていた印象とは大分違っていた。
「それではサリエリの音楽を聴かせてもらえないでしょうか?」
私はいよいよ話の本題に入った。かつて、K氏はサリエリの曲を自身で指揮し、それを録音した数少ないレコードを持っていた。K氏はレコードと古ぼけた木製のレコードプレーヤーを用意してくれていた。
「埃まみれで。こんなものしかないんだが、もう私は聴かなくなったからね」
K氏はレコードを置き、スイッチを押した。
「音はちゃんと流れてるかね?」
私はバイオリンの音が聞こえてくると、大きく頷き、はい、と口を開いた。ゆったりとしたその曲は、寂しいのに虚勢を張っているように私には聴こえた。
取材が終わると、K氏は私達を夕飯に誘った。今日のために庭園から野菜をたくさん取っておいたと言われたので、私達は承知した。ここでのK氏は殆ど自給自足の生活を送っているという。食事には蒸かしたジャガイモや野菜たっぷりのスープなど菜食中心のものが多く、栽培した小麦から作ったパンもあった。長らく外食に浸っていた私にとっては身体に滲みる優しい味の栄養素を堪能できた。
「楽しいものだよ。自然と暮らすというのは」
食事中にそう言って笑うK氏の顔は、本当にあの睨むような剣幕で指揮をしていたK氏かと疑いたくなる程かけ離れていた。
食事が終わると女の子は私からキーを借り、町までショッピングに出かけていった。
「折角の機会なんだからもっと話を聞けばいいのに」
私がそう言っても、
「若いんだから仕方ありませんよ」
とK氏は私を楽しげに嗜めるのだった。
居間のソファに二人で腰掛けながら、やはりK氏が栽培したというハーブティーを啜りながらくつろいだ。居間の壁際に小さなオルガンが置いてあったのが見えた。
「もう楽器は弾いていないんですか?」
K氏は深呼吸をしながら、ハーブティーを口に含み答えた。
「ピアノならたまに弾くよ。耳が聞こえなくても、喉の振動で自分の声が分かるように、頭をピアノにくつけて振動で音を確認するんだ。ベートーベンみたいに」
K氏は遠くを見るように目線を飛ばし、話を続けた。
「しかしね、私は耳が聞こえなくなって幸せだよ。重圧から逃れて、もう誰の為にも音楽を捧げる必要は無くなったんだからね」
「耳が聞こえなくなってもですか?音楽が好きなんでしょう?」
私はK氏を責め立てるように訊いてしまった。それでもK氏は笑っていた。
「耳なんてもう必要ないのさ。ここの中には一流のオーケストラやミュージシャンがいつだって待機しているんだから」
そう言ってK氏は人差し指を禿げかかった額に向けた。
(完)