婚約破棄の物語ですが、作者が自分で書いた設定をすぐ忘れる
「ベティ・ジェミネ! お前との婚約を破棄する!」
夜会の最中、伯爵家の令息ドリック・レイルはこう宣言した。
金髪で碧眼、気品漂う白い肌を持ち、愛用の黒いスーツが映えるその顔には婚約相手に対する嘲りの色が浮かんでいる。
言い渡されたベティはショックでよろめく。
ベティは栗色のショートヘアとブラウンの瞳を持つ、可愛らしい令嬢である。今日も水色のドレスで着飾っている。
しかし、そんな彼女に待ち受けていたのは、まさかの“婚約破棄”であった。
周囲にいる令息令嬢もざわめいている。
「そういうわけだ。俺とお前の縁は今日限りにしたい」
ドリックは右手に持っていたグラスから、赤いワインを一口飲む。これで話は済んだと言わんばかりに。
しかし、ベティとて黙って受け入れるわけにはいかない。
ここで「はい、そうですか」と返事をしては、まさにドリックの思う壺。自分には“相手に捨てられた”という事実だけが残ってしまう。
「そうはいきませんわ!」
「……なに?」
ドリックが眉をひそめる。
「婚約は単なる男女のおままごとではありません。家同士のれっきとした“契約”なのです。もし婚約破棄を強行なさるというのなら、ジェミネ家としては莫大な慰謝料を請求しなければなりませんわね」
「な、なんだと……!」
思わぬ反撃にドリックは狼狽する。
これは好機と、ベティはその赤い瞳を鋭く光らせた。
「こういう際、慰謝料の相場は……」
「ちょっと待った!」
「なんですか? まさか、婚約破棄を破棄するつもりですか?」
「いや、そうじゃない。お前の瞳はブラウンだったはずだよな? なんで赤くなってるの?」
「あ、そういえば……」
両者、沈黙する。
「ま、まあ茶色かった瞳が赤くなることもありますわよ」
「そ、そうだな。光の加減や見る角度とかで……よし、話を続けよう!」
喉を滑らかにするため、ドリックは右手に持っていたグラスに入ったウイスキーを一口飲んだ。琥珀色の液体に秘められたアルコールが、ドリックの興奮を助長させる。
「慰謝料だと!? そんなもの発生するわけが……」
「待って下さい!」
「なんだよ? 請求をやめるのか?」
「そうじゃありません。さっきまでドリック様はワインを飲んでませんでしたっけ?」
「ホントだ。なんでウイスキーに……?」
両者、またも沈黙する。
「まあいいや、ここは夜会なんだ。ワインもウイスキーも置いてあるんだろ」
「そうですわね、オホホ……」
二人は婚約破棄で生じる慰謝料について話し合った。
ベティとしては当然多額の請求をしたいし、ドリックとしてはびた一文払いたくない。少なくともなるべく少額に抑えたい。
譲らぬ口論はどんどん激しさを増していく。
「絶対に払って頂きます!」
「誰が払うか! このアマ!」
話は拗れていき、ドリックは怒りに任せて、ベティの長く美しい髪を鷲掴みにした。
「痛いっ! 何するの!」
「あ、あれ?」
「何が“あれ”よ! 髪は女の命なのに……」
「いや、おかしいんだよ」
「何がです!?」
「お前って、髪長かったっけ?」
「あら? そういえば……私はショートヘアだったはず……」
「だよな? おかしいよな?」
「私ったら、いきなり髪が伸びたのかしら……」
「そうとしか考えられないよな」
二人は黙り込んでしまう。
「ま、まあこういうこともあるさ」
「そうですわよね!」
「よし、口論を再開するぞ! 言っとくが、今は二人きりなんだ! つまり、お前をどうしようと、俺にはなんのお咎めもないってことだ!」
ドリックが人目につかぬ一室にベティを呼び出したのにはこういう理由があった。
この密室では、ベティがいくら叫んでも助けは期待できない。
「ど、どういうこと!?」
「ハハハ、助けを求めても無駄だ! さあ、どうしてくれようか!」
「ドリック様、お待ち下さい!」
「なんだよ?」
「さっきまで……私たち“夜会”にいましたよね? それがいつの間にか密室で二人きりになっている……」
「あ、ホントだ! 周囲には他の令息令嬢がいたはず……!」
やがて、二人は同じ結論に達した。
「もしかして作者、自分で書いた設定を忘れてないか?」
「きっとそうですわ! 私の目の色が変わったり、髪の長さが変わったり……」
「だよなぁ!」
そう言うと、ドリックは白いコートを脱ぎ捨てた。
「やっぱり! 俺、白いコートなんか着てなかったもん! 黒いスーツ着てたもん!」
「私もはっきり覚えています!」
「くっ、マジかよ……。ふざけんなよ、作者……!」
「こんなに設定がコロコロ変わっては、私たちはもちろん、読んでる人たちも混乱してしまいますね」
ベティはその鮮やかな銀髪を右手でかき上げた。
「ほら、また髪の色が変わった!」
「我ながら恐ろしいですわ!」
ドリックの浅黒い肌に汗がしたたる。
「ドリック様の肌の色も……!」
「この作者、三歩歩くと、いや三文字書くと設定忘れちまうのか!?」
「どうしますか……?」
ドリックは考えた末に言った。
「やるしかない。作者がどんなに設定を忘れても、俺たちは話を続けるしかない! それが“小説”ってもんだ!」
「そうですね、やりましょう!」
気を取り直し、ドリックはベティに人差し指を突きつけた。
「俺に慰謝料を請求するとはいい度胸だ! だったらすぐに僕に逆らったことを後悔させてやるよ! 私の恐ろしさ、思い知るがいい!」
「ドリック様、一人称が安定していません!」
「今のは自分でもおかしいとすぐ分かった! だけど話を続けよう!」
「はいっ!」
「公爵家の長男である俺のパンチを喰らいやがれッ!」
ドリックは殴りかかったが、ベティの右腕にガードされた。
「なにい……!?」
「ジェミネ家がどうやって侯爵家まで上り詰めたか教えましょう。秘密はこの体です!」
ベティの両腕は緑色の鱗に覆われていた。
「な……!?」
「ジェミネ家のご先祖にはリザードマンがおりましてね。戦いになるとこうして鱗を生やすことができるのですよ」
「えええ……!?」
ドリックは困惑する。
「いきなりリザードマンって……設定忘れてるどころか、設定生えてきてないか? さりげなく爵位が変更されてることが些細に思えてくる!」
「私もビックリです。設定と鱗が生えてきてしまって……」
「まあいいや、続けるしかない! 実は我がレイル家もドワーフの血が入っていてね。武器の製作と扱いが上手いんだよ」
そう言うと、ドリックは背中に差していた二振りの刀を抜いた。
「レイル家に代々伝わる二刀流を見せてやるよォ!」
「ドリック様って二刀流の使い手だったんですね……」
「俺もビックリだよ。とにかく話を続けよう。俺はこの二刀流でレッドドラゴンを倒したこともある!」
「なんですって……!」
「赤竜をも真っ二つにした俺の奥義、お前にかわせるかな? お前も紅竜のように刺身にしてやるさ!」
「竜の名前がコロコロ変わりますね……」
「どれかに統一しろよ、作者ァ!」
日没間近の草原、美しい夕焼けが空と大地を照らす中、二人は睨み合う。
まずはドリックが走り出した。
「場所が屋外になってるし……まあいいや。喰らえッ、レイル流二刀奥義“双剣・十連斬”!!!」
ドリックが放った三連斬を、ベティはかろうじてかわした。
「“十連斬”って言ったのになんで三連斬なんだよ……。俺が大げさな技名つける奴みたいになっちゃってるじゃん……。数字間違いはダメだって……」
「今度はこっちから行きますよ! リザードキィーック!!!」
鱗を帯びたベティの拳が、ドリックの腹にめり込んだ。
「ぐぼぉっ! キックなのか拳なのかどっちなんだ……!」
「すみません、作者さんのミスです!」
ここで両者、間合いを開ける。
ドリックは指で鼻血を拭う。
「やるじゃねえか、ベティ……」
「あなたこそ。私のリザードキックを受けて倒れなかった人は初めてです」
ニヤリと笑い合う二人。
お互いに動かなくなった。相手の出方を窺うためだろうか。
「……あれ?」とドリック。
「おかしいですね」ベティもつぶやく。
「さっきまで脳内に確かに伝わってきた“作者からの指示”みたいなものが消えた……」
直後、ドリックの顔が青ざめる。
「ま、まさか……!」
「どうしました?」
「この作者、自分でも何書いてるのか分からなくなって、この小説を破棄しやがった!」
「ええっ!? 小説破棄!?」
「もっと分かりやすく言うと……破棄らせやがったんだ!」
「なんですってぇ!?」
「ベティがリザードマンの血を引いてるってあたりから雲行きが怪しくなってたが、話が迷走して収拾がつかなくなったから、逃げやがったんだ!」
「そんな……!」
作者に見捨てられ、絶望する二人――と地の文。
「……まぁ、いいじゃねえか」ドリックが笑う。
「そうですね」ベティも笑う。
「作者の野郎が俺らを捨てた? 違うな、こっちが奴を捨てたんだ! もう設定がコロコロ変わることもねえし、むしろ好都合! このまま二人で戦おうぜ!」
「そうですね! 私、血がうずいてきました! 鱗がビンビンです!」
ドリックは二刀を勇ましく構え、ベティもファイティングポーズを取る。
「さあ、やろうぜ! 作者の手を離れた俺らで真の戦いを!」
「はいっ! 心ゆくまで!」
この作品はエタってしまったので、ここから先が描かれることはない。
しかし、作者が設定を忘れようと、読者が君たちを忘れようと、この私だけは君たちの勇姿を忘れることはないぞ。
さあ、思う存分戦うがいい――偉大なる戦士・ドリックとベティよ!!!
完
お読み下さいましてありがとうございました。