裸のスワン
裸のスワン
未だに微かな朱みを残すのは、ソファの影のような山と雲の際である。長々と連なったクッションの窪みのその一点に、居心地が良さそうに吸い込まれていくその白い綿は、丸い頭の上にある薄い満月に照らされていた。目の前には静かな月道が揺れていて、その道をふと辿ってみたかったがそれが出来なかった。ただただ居心地の悪い、羽を片方欠いたスワンがその弱った小さな目から丸い涙を膨らませて山の窪みを目指したかった。
つくねんと浮かんでいる涙のスワンは怯えて独り、枯れた布袋葵に柔らかい胸を当てて小さく震えるボートの影に隠れていた。
目の前にはお互いに触れ合う白鳥が八、九羽程いて、スワン達の全てがディオニュソスに取り憑かれたようだった。
遡ると一六九七年、白鳥達は驚きを持って他種と出会った。二匹の黒鳥、いわゆるブラックスワンは堂々その厚い胸を張りながらこの地へとやって来た。異なる種のスワンが、月に照らされた広場の真ん中で軽快なピアノの音に合わせて踊っていた。
孤零零なスワンは前世の障害のせいで僅かな勇気しか持つ事ができなかったが、何かを突然感じて布袋葵の茎を跳ね返らせボートの尻から細い顔を覗かせた。すると布袋葵の茎が思うより強く反抗したものだから池の水を弾かせてしまった。と同時にスワン達は軽快な踊りをやめ、光が当たらず風で動いてしまう、タンスの陰にいるスワンを見つめた。
スワンは慎重に小さな体を泳がし中央へと行った。モノクロのスワン達はその小さなスワンを見るなり再び驚いた。だが彼らはすぐに一匹のベージュのスワンをその輪の中へ入れた。
かつては光の反射だった恒例の白鳥舞踏会が終わり一匹の白鳥が葡萄酒を用意した。皆が嘴を大きく開けて楽しんでいた。未だ居心地の好かないベージュのスワンは二匹の黒鳥に囲まれた。黒鳥達は未だ白鳥といる事に慣れていないのだという。黒鳥曰く、ブラックスワンが白鳥達と話していると、白鳥達は自然とすぐに仲間内で話し始めたり、踊り始めたりしてしまうらしい。とは言っても、白鳥が意地の悪い存在だと認識するのには少し心が痛むのだという。
黒鳥達とそうした話をしている間、独りなスワンは僕たちだけでも話が出来ているからいいじゃないかと一人喜んだ。スワンはその後いい気分になって、二人の仲間達に前世の記憶を話した。重い石を投げられたこと、油で開かれ閉ざされた所から抜け出そうとしていたこと、あらゆる全てを話した。全てを話し終えると踊っていた白鳥達がこちらへ泳いで来た。白鳥の一人が共に踊らないかと誘っている。彼達は心底嬉しかった。踊り慣れないベージュのスワンも小さな嘴を揺らし、自らに歓喜した。
それからスワンは何度かモノクロの世界で楽しい日々を過ごしていたのだが実際それはほんの一瞬のことだった。
神が初めて休息をとった日が一つ戻って来るだけでベージュのスワンは孤独のスワンとして蘇った。彼が昼の短い臨死から目を覚ますと、上の歪んだ星や月がより一層輝いていた。孤零零なスワンは照らされた池の真ん中で誰かを待とうとした。ボートの影から顔を出すと、中央は僅かな波も立てずに静かにしていた。真ん中に映る月はぼやけているが揺れ動くことはなかった。彼が静かに真ん中まで泳ぐとさらに奥の山で何か音が聞こえたと思うのと同時に、彼以外のスワンが楽しく踊っているのが見えた。
僕はベージュの片方の羽をわざと大きく動かした。布袋葵の力よりも強く、確実に水飛沫の音が軽く上がるように羽を水面へ叩いたが、やはり遠くの山までは聞こえにくい。
すると一匹の黒鳥が後ろを振り返った。ベージュとブラックのスワンはお互いの黒い丸いものを確実に合わせた。偶然を装った水面のスワンは未だ穏やかに泳いでいたが、黒鳥は目をすぐに逸らした。そして黒鳥は何事もなかったかのように二本の足で仲間と踊り出した。もう既に彼らの丸い脇腹には一つの羽はなく、異様に長い手足に乾瓶を持って踊っていた。もう一人のイタリア人が彼に気づくが、その汚れた黒い口で乾瓶を傾け池に放り投げるだけだった。
スワンは静かに月に背を向けた。短い足で水を漕ぎ始めると、背後からやってくる小さな波が彼を後押ししたが、その波がかえって寂しかった。
背後の小さな波が不自然な方向に曲がっていくものだから、スワンは元の路から逸れないように必死で足や羽を動かした。すると何処からともなく大きな時計が現れて彼の左羽を押し出した。
時計の湿ったその冷たさに耐えられなくなったのはその朝方であった。遠くには固まって寝ている十人ほどの人間が見えた。
ベージュのスワンはボートへと向かいながら考えてみた。人間になれば、羽を剥ぎ取ることが出来たなら、彼らの仲間になることができるのだろうか。もしそうであれば、僕も人生が歩めるのだろうか、彼らと。スワンにとっては、勿論何か裏切られたような悲しみが彼の湖に漂っていたが、あの仲間に入っていた時のあの喜びをどうしても忘れることが出来なかった。
だが空からディオニュソスやアポロンを探すがどうにも見つけることが出来なく、日に日に水気で腐っていく木製のボートの影で目下の毛を濡らすだけであった。
ある夜、スワンはあの日壊れ、取れかけていた羽が水へ落ちる音を背後に聞いた。そしてスワンの悲しみを止めぬそのもう片方の羽もどうせなら要らないと、衝動的に思い始めた。スワンはその夜中、二度目の衝動でついにその羽をちぎれるほどに羽ばたかせた。水飛沫と共に荒い波がスワンの周りで立ち始め、目の前には汚れた羽が漂い始めた。だが片方の羽は依然としてスワンの丸い体にしがみついている。上へ下へと狂ったように羽を振り続けていると、羽は急に上空へと舞い上がった。三日月のように落ちるその羽は小さな羽を飛ばしながら目の前へと落ちた。
彼はヒトになってしまった。
大きく揺れていたあの波はいつしか小さな波に変わり、胸までにしがみついてきたあの湖はベージュの彼の腰周りにまとわりついていた。突然大きな力が漲ったように感じ両手を広げて空を崇めてみた。体が自由になり、解放感を感じた、と同時に彼が人間になったことを自覚し始め、歓喜した。
ただ人間には思わぬ敵がいるらしかった。そしてそれは夜行性であった。早足で心臓にまとわりつく黒い蜘蛛は何処からともなくやってきては急に消える。
それもこれも全て奴らのせいである。彼の悲観は人間特有のものとなった。憎悪、妬み、執拗な、今までに感じたことのない感情が沸騰し始めた。
次の日の陽が落ちる頃、茂みに体を隠してみた。ベージュの体が目立ちそうだったから慎重に口元を歪めた。目は今まで以上に興奮し、口元が落ち着かなかった。
ゾワゾワと落ち着かずにいると、続々と彼らがやってきた。無駄に高そうなスーツに身を纏い、分かり易い偽の仮面をつけ、自身の話ばかりしていた。もはや彼らの元の綺麗な皮膚を纏った体は存在しないらしい。腰元は大型動物さながらであり、彼らの血によく似たものを傾けたりしながら難しい顔をしていた。彼らは自分の血が好きらしい。
その夜、ベージュの彼はある豪華な部屋を訪れてみた。装飾がなされたドアを聞こえるようにと少し強めに叩いた。失礼があるといけないからと一回では満足出来なかった。二回では誰かが文句を言いそうであったものだから何回ノックすれば良いかがわからなくなり、四七回ノックした。ドアを開けると怯えた二人の男女がベッドの白いシーツに隠れていた。ベッド横の小さな机には案の状血の入ったボトルが置かれていた。
彼らは何故か動けないらしい。魚のようにバタバタと体を跳ねさせて妙な汗をかいてる。いつの間にか女性の体はボトルの破片で作られた蜂の巣となっていた。男の方はまだ飲み足りないのか、女性の無数の穴一つ一つに空の新品のボトルを突き刺して、女性の体をひっくり返した。すると少し濁った新しいボトルがたくさん出来たのだ。せっかくレコードがかかっていているというのに、男の方は全く楽しんでいない。顔が青くなっているから少し部屋が寒いらしい。丁度良く女性は燃えていて、その横で男は三十六本のボトルを大きな口で咥えて引火していた。
僕は暑くなってその部屋から逃げた。
次の夜、ベージュの僕はまた茂みに隠れて友達を観察していた。続々と人間が集まっているが、数人足りないらしい。僕は少し心配した。彼らは胸の上で手を上へ下へと動かしている。少し静かな雰囲気が流れたと思うとすぐにいつも通りに戻った。どうやら心配していたのは僕だけらしい。
賑やかな雰囲気は止まらなかった。彼らは何処からか持ってきたレコードを大音量で流して踊っていた。二人ペアで踊っていたものだから、一人余ってしまった可哀想なヒトは気まずくないというようにトイレへと出かけた。最近の森は物騒だから一人でというのは心配になって背中を追った。
息を潜めていると、そういえば今日は夜ご飯を食べていないことに気づいた。彼女はイタリア人だから今日はイタリアンが良い。彼女の目の中にあるナイフで肉塊を微塵切りにするが玉葱がない。幸運なことに赤いのが出てきたからボロネーゼが出来て大いに喜んだ。
食事を終わらせ干してあった綺麗な布で口を拭いた。やはり夜は震えるほどに寒い。肌色の身体に直接夜風が当たるものだから肌が元の身体に戻りそうである。寒くなると人間はトイレが近くなるそうで個室のトイレを開けるとイタリア人の彼女はいなくなっていた。せっかく見失わずにいたのに失敗してしまった。
無性に何か壊したくなるものだから寝室に刺さった無数の瓶を抜いては割って、抜いては割ってを繰り返した。急に我に戻り気づいたのはその部屋のひどい匂いである。僕はその部屋の掃除を太陽が出るまで続けた。部屋が驚くほど綺麗になった時にはまたお腹が空いていた。幸い部屋を綺麗にした時に肉があったから塩で焼いてみたが、想像以上に食欲をそそわなかったものだからそのまま放っておいた。おそらくあの野蛮達が夜に食べるだろう。何でも食べるから。
昨日のボロネーゼのあまりを食べて臨死を終えると野蛮達のために用意しておいた食材が黒くなってしまっていた。これではあの子達ががっかりしてしまう。掃除したあの寝室の少し手前にある寝室はあまり豪華ではないから入りたくなかったが、玄関を開けると鍵が無造作に置かれていた。かけてもないその鍵が一体何の意味を持つのか分からないがしっかりと壁にかけて置いあげた。足元を見ると絨毯が内側に折れている、ワイングラスの中身は中途半端、ベッドのシーツはワインのシミで汚れている。そういう所がますます気に食わなくて咄嗟に家を出てしまった。
また夜になると六人が集まって困った顔で肉に群がっていた。
話に耳を傾けるとどんどん周りの人が減っているのだという。
そういえばそうだ、最初は何人か正確に解らない程の人間がいたはずなのに今はしっかりわかる。ただ一つ面白いのは彼らの計算が間違っているということだ。算数というものは特に難しいもので、僕でさえもよくわかっていない。だからこそ可笑しくなって笑ってしまう。
笑顔が溢れてはいるのだが、実際は僕自身も身の危険を十分に感じていた、だからこそ彼らを陰から見守っているのだ。すると一人が勇敢そうな声を上げた。どうやら彼は今夜の舞踏会中に週辺をパトロールするそうだ。
いやいや、それはいくら何でも危険すぎるのではないか、と僕は思ったが、彼の仲間の野蛮隊は彼をむしろ励まして一人で頑張れるようにと鼓舞した。
彼はその夜無駄に飾った細い短剣を空にかざし無駄なことを誓った。彼の周りの笑顔と安心の顔は何故だか仮面が取れかけていた。
夜空を気にしながらも勇敢に歩くその姿は何とも勇ましたかった。だが僕は彼を危険に晒したくはなかった。だが誰かに対する不安というものは自分のそれよりも驚くほどすぐに消え去るのが常らしく、僕の不安もすぐに消え去ってしまった。
彼は足首から下が無かったらしく、山の途中で怖さに震え泣きながら動けずにいた。あまりにも悲観的であったから彼の二足を探したが見つからなかった。これでは歩けないだろうから、代わりに似たものを切り取って付けてあげたがそう簡単にはいかないらしく無性に腹が立った。中途半端な形をしてるからだよ、そう思ってしまったものだから石ころのようにしてあげるとそのまま転がってしまった。僕は転がっている石があまりにも大きいものだから珍しがって木陰で眺めていた。転がり続ける石はそのまま故郷に沈んでしまった。石には若干の空気が含まれているらしく、故郷の水面には泡がプツプツとしていた。
あの日の水面のようにプツプツしている天井に触りたくて手を伸ばしてみたが手首が冷たくて楽しかった。重い首を軽くあげるとヒトが居て、険しい顔をして僕を眺めていた。
やはり人間というものは難しくて、スワンにはかなわない。既に同じで違う種の目の前の細長い白鳥達に困った顔をされている。
いつまでも鉄の棒で囲まれた狭いとこで暮らし、細長い白鳥達に囲まれている。それだけじゃなく彼らは僕を困った存在のように扱い、たまにメガネをかけた男達が紙やらペンやらを持ってじっと僕を見つめる。
僕は彼らに湖へ帰りたい伝えるが口元の形を変えるだけで何も答えてくれない。
ヒトになってしまったから。
令和四年六月