1話
鐘が鳴るとともに、担任のグレイスが教室に入ってくる。
「みなさんおはようございます。今日も欠席は……いませんね。えー明日から夏休みですので、課題を一つ出したいと思います」
「えぇ~面倒くさいよぉ」
クリスティーネのことを見ながら、グレイスは満面の笑みを浮かべながら話し続ける。
「地域研究をやってもらいます。地元について研究して、発表論文を十枚書いてきてください」
「親にやってもらおうかなぁ」
「クリスティーネさん、それは規則違反ですよ?」
「ちぇ」
「誰かに課題をやってもらうこと、手伝ってもらうことは禁止します。それから、妨害することも。それらが発覚した場合は、提出されたものは無効とし、再度提出してもらいます。それでも止めない場合は、生徒指導となります」
「いつ提出ですか?」
「夏休み明け最初のホームルームです」
ニーナは不安だった。その日は台風が予想されていて、登校することは難しい。
――現在、天気予報は二ヶ月先まで分かるようになっている。それは気象予報士と人工知能の力で可能となった。より精密で先の天気を予想できるように研究が進められている。
「今日の一時間目はそのテーマを探す時間にします。その間に進路について二者面談しましょう。二時間目は校外に行ってテーマを探しても良い時間にします。そして三時間目に終業式と通知表を配布して解散です。今日も頑張りましょう!」
ホームルーム終了の鐘が鳴る。グレイスが教室を後にすると、再びニーナに対する攻撃が始まった。
「ニーナの地元は研究したくても国が水没しているせいで、できないんじゃない? かわいそう」
「その前に原稿用紙が水に濡れて、論文が書けないかもねぇ」
何を言われても、決して彼女は動じることはなかった。
一時間目の鐘が鳴ると同時にグレイスが教室に入ってくる。
「さて、テーマ探しのために図書館に行っても良いことにします。ただし、二者面談を行う関係で声を掛けてから行くこと。良いわね?」
『はーい』
たった一言の全員の声が、元気よく重なっていた。
「じゃあ、まずは……クリスティーネから」
グレイスがそう言うと、ニーナは立ち上がり、図書室に行くと報告した。彼女が嬉しそうに教室を出る。
図書館には約三万冊の本が存在するが、一目散に彼女は伝書コーナーに行く。何を研究するかを決めていたようで、一冊の本を手に取る。
『フィリカ=ヴァンの戦い』
ヴァンが浸水する前、フィリカという美しい女性が海から突如現れた。医者として働いていたが、決して知られてはならない秘密があった。
だがそんなことを知らない男どもが、彼女の美貌に惚れて次々と求婚した。もちろん彼女は全て断った。その内の一人、ハンス = エリングマルクは逆恨みでストーカー行為をしたり、デマを流したり……彼女を精神的に追い込んでいた。その一つに『彼女はマーメイドである』というものがあった。しかしこれは本当のことで、彼女の秘密だったのだ。
それを聞きつけた人が、『マーメイドの血を飲めば不老不死の力を持つ』と、彼女を殺そうとした。次第に彼女以外にも狙われてしまい、人間との戦争になった。
ヴァンはその中心地となり、多くの犠牲者が出た。幸いフィリカは生き延び、マーメイドの必要性を訴え、約一年後に終戦を迎えた。
彼女があるページを探していると、突然後ろから声を掛けられた。声を聞いてすぐにグレイスだと分かった。
「何を読んでいるの?」
「フィリカ=ヴァンの戦い——ヴァンの昔話です。ヴァンにはマーメイドが存在すると言われています。そんなヴァンを、海を、調べたいです」
「良いじゃないですか!」
「私が三歳のころはもっと綺麗で、静かな優しいあの海が脳裏に焼き付いています。私はあの海が好きです。変わり果てしまったのなら、それを取り戻したい。ヴァンの海はエリノアやコッキュミズからの海水浴客で溢れかえる、自慢の海でした」
『あの日』についてずっと不可解な点がある。まだ幼かったせいか、記憶が断片的にしか存在していない。その中でも大半を占めているのが、自然災害の記憶。残りは、全く知らない幻想世界。あたり一面が海色で囲まれていて、肌にあたる何かはほんのり冷たい。
その世界を知っているような気がしているようで、夢だったという一言で片づけられるわけではない。
「ヴァンが今の姿になってしまった日のことを、私ははっきりと憶えていません。ずっと、何があったのか知りたいと思っていました。でも、何も手がかりがありません。唯一の手がかりは、このハンカチなんです」
彼女がそう言って差し出したハンカチには、フィリカと刺繍されていた。
「私の周りにはフィリカという人物はいません。ですが、この方なら何か知っているかもしれないんです」
「もし、全てを知ったらどうするの?」
「みんなに伝えたいです。ヴァンで何が起きたのか、どうして今のような生活をしているのか……その上で、どうやったらまたヴァンに人が住めるのか、どうやったらまた綺麗な海を見られるのか、研究したいです。だから大変な思いをしてでも、私はエリノアの学校に通って、研究者になりたいです」
「今のヴァンの状態では、それをすることが危険なことなのはわかってる?」
「はい。でも、仕方がないんです。こうなってしまったら、誰も私を止められない。先生も分かっていらっしゃいますよね?」
彼女は笑顔だった。瞳の奥から、燃え上がる炎を感じ取れる。
「ええ。分かりました。くれぐれも安全第一でお願いね」
「分かっています」
彼女はそう言い、手にしていた本を読み進めた。
—— 人間との戦争は武器を保有しない我々にとっては想定外のことで、仕事どころではなかった。天災を阻止する者が居らず、日々それらが続いていたが、終戦したことによりやっと平和が訪れ、仕事が再開できた。
数日後、マーメイドの長であるマルネン種族のクォンタムが『人間との接触はもちろんのこと、人間に纏わるもの全てに触れ、話すことを固く禁じる』と勅令を下した。人間とマーメイドの世界を完全に分けたのだ。
数年後、クォンタムが人間世界の情報が何一つないことが、もしもの未来が恐ろしいと言った。人間世界の情報を仕入れるために、人間に容易に姿を変えることができるというエマニュエル種族から、科挙のようなものを乗り越えた五名が派遣された。
パックス暦、二千年。人間の科学技術の進歩が確認された。わいふぁいとやらが普及しており、これらがマーメイドを含むこの海界に健康被害をもたらすことが発覚。人間にも被害が及ぶ日はそう遠くないことも同時に発覚した。
また、地球温暖化とも呼ばれる現象が発生しており、その中に「海面上昇」と呼ばれるものがある。海面が上昇することで、仕事も増えるものと予測できる。その場合、世界にさまざまな影響をもたらすだろう。
この頁を読み終える頃、授業終了の鐘が鳴る。貸出手続きを済ませ、急いで教室に向かうとグレイス以外は既に校外へと向かっていた。