サンタと少年。それから煙草。
階下から響いてくる言い争いの声が聴こえないように、少年は布団を頭から被っていた。
離婚することはもう決まっているのだから、話し合う事なんてもうないはずなのに。
それなのに、あの二人は毎日毎日怒鳴り合いを続けている。
何も聞きたくない。何も見たくない。
ただ嫌な音が聞こえないように、両親の嫌な姿が見えないように。
だからその音に気付いたのは、かなり激しく窓が叩かれるようになってからだった。
「え……な、何……?」
ここは二階だ。その窓を叩く者などいるはずがない。ましてや日付も変わろうかというこの深夜に。
冬用の分厚いカーテンに阻まれて、窓の外にいる者の姿は全く分からない。
しかも、その音はもはや窓を破らんばかりに激しくなっている。
最早一階の両親の罵り合いさえ聞こえない程の激しさ。
どうしていいのかわからない。少年の10年程度の人生では、こんな時にどう対処していいのかなど、経験しているはずがない。
恐怖が頂点に達しようとしたその直前。
窓を叩く音が、不意に止んだ。
何があったのか。もう大丈夫なのか。
恐る恐る、少年は窓に近づいた。近づくのは怖いけれど、何がなんだか分からない方がずっと怖い。
伸ばした指がカーテンに触れるかという、その瞬間。
ガシャーン
「メリークリスマース!」
窓を破って誰かが飛び込んで来たのだと、少年はその人影が壁にぶち当たって動きを止めるまで理解できなかった。
「ぐわっ! いてぇ! 頭が割れるようにいてぇ!」
もう、何が何だかわからない。どうしていいのかわからずに、少年はただ呆然と突っ立っていた。
「あっつつ……ん? 何だ少年。居たんじゃねーか。返事がないからいらん怪我しちまったぞ」
そう言って立ち上がったその姿は……少年にとっては理解の範疇外だった。
今日はクリスマスイブだ。サンタの格好をしている人は別に珍しくない。
でもそれが自分の部屋で、しかも二階の窓を破って入ってきたという時点で普通ではなかった。
それに普通のサンタのイメージは白い髭のおじいさんなのに、このサンタは女性で、しかもまだお姉さんと言っていいくらいの年齢だ。
更にその服が袖なしのミニスカートときては、もうなにがなんだかわからない。
こんな肌を露出した格好で、窓を破って傷ひとつないなんて凄く運がいい人だ、などと少年は現実逃避気味に考えていた。
「よぉ少年。棚橋勝くんで間違いないな?」
「え……はい。そうです……けど……」
いきなり名前を呼ばれて、呆然としていた勝はまた警戒を強めた。
こんな時間に窓から入ってくる人が普通なわけがない。
「うちには、盗むようなものなんて何もないです」
「あー……なるほど。それが普通の反応だわなぁ」
サンタはそう言いながら、ポケットから煙草を取り出した。吸っていいかの確認もない。
「言っとくが泥棒じゃないぞ。あたしは見ての通りサンタだ。名前はクリス」
火をつけた煙草をすぅと吸って、クリスは煙を吐き出した。
勝がげほげほと咳き込んでもお構いなし。
「……泥棒はみんなそう言うんだ」
「はっはっは。可愛げがないな、しょーねん」
警戒した勝の様子を気にも留めずに、クリスはその頭をぐりぐりと乱暴に撫でた。
「……泥棒じゃない人は窓を壊したりしないと思います」
下手に抵抗したら酷い目に合うかもしれないと、勝はその手を拒まなかった。
それでも視線はクリスを睨みつけている。
「あ? あー、これか。確かに」
言われて今気付いたという風に、クリスは足元いっぱいに広がったガラス片を爪先でガチャガチャとかき回した。
よく見てみれば土足のまま。勝は更に警戒を深めた。
「んー、このまま床がジャリジャリしてんのもめんどくさいしな」
クリスは壊れた窓に向かって手を広げる。
そこからあふれた光で辺りは目を覆うばかりに眩く輝き……目を開けた時には、そこには割れる前と同じ窓があった。
「え……」
勝は慌てて窓へと駆け寄る。ばんばんと叩いてみても何も変わった様子はない。
「すごい……」
「はっはっはっ。どうだ。これぞ主の御技だ。尊敬しろ」
身を仰け反らせるほどにふんぞり返ってクリスは高笑いする。
主を語るにはありえない台詞と態度だけれど、勝は素直に感心していた。
「さて。サンタといえばクリスマス。クリスマスといえばプレゼントだ。プレゼントは何がいいよ? さっさと決めてくれ。まだまだ沢山子供達が待ってるからな。ケツカッチンなんだよ」
そうだった。
今日はクリスマスイブ。
他の子供達はみんな家族でパーティをしたり、プレゼントを楽しみに眠りについたりしているのだろう。
今日はみんなが幸せになれる日。
下の階から両親の言い争う声が聞こえている。
これだけの騒ぎにも気付かないほどに、夢中になって言い争いをしているらしい。
……両親の声が聞こえないように布団に潜り込んでいる子供など、自分ひとりに違いない。
「んーどうしたその顔は? なんで自分だけこんな目に、とか思ってるか?」
その通りだったので黙り込む。情けない顔を見られたくなかったので、クリスから目を逸らした。
「他の子供達がうらやむよーな、すげープレゼントでもやろうか? それとも十個か二十個くらいほしーか? すごいぞ。他のヤツにはないサービスだからな。満足? それで満足?」
からかうような表情で顔を覗き込んでくるクリスから更に顔を逸らした。
「せっかくの聖なる夜だからな。不幸な子供にはそれ以上の幸せをプレゼントしてやらなくちゃだよなー」
そうだ。僕は不幸なのだから、もっと幸せになっていいはずだ。
この人はサンタなんだから、きっとお父さんとお母さんを仲直りだってさせてくれるはず。
昔通りの幸せな家族に戻してくれるはず……
「そうそう。自分は不幸だ。他の子供達だけ幸せなのは不公平だ。そーだよな?」
そう、僕だって幸せになっていいはずだ。幸せになれるはずだ。
そう思って、勝はクリスの顔を見上げた。
「フ・ザ・ケ・ル・ナ」
なのに。クリスの顔は笑っていなかった。
それは冷たく、価値のないものを「イラナイ」と言うときのような表情だった。
「お前は運が悪いから不幸せなのか?」
分からない。意味がわからなかった。
僕が不幸せなのは、両親のせいだ。あんな両親を持ってしまったからだ。
「赤ん坊はなんであんな頭でっかちの寸胴で生まれてくるか知ってるか?」
「え、えと……小さい方が生まれやすいけど、頭とか内臓とかの大事なところは小さく出来ないから」
確か以前に聞いた事があった。あれはテレビで見たのだろうか。
「おお。お前難しいこと知ってんな。でもこの場合は違う! 間違い! ロボコンれーてーん!」
両手で頭を掴まれてぐりぐりされた。
痛いのは確かに痛かったけれど、さっきの冷たい目をされるよりはずっといい。
「いいか? 赤ん坊があんなで生まれるのはな、大人たちに可愛い、守ってやりたいって思わせるためなんだよ。赤ん坊ってのは自分じゃ何も出来ない。だから大人たちに自分の世話をさせる。自分を守るための自己防衛なんだよ。赤ん坊だってな、自分を守るために大人たちに愛されようと一生懸命なんだよ。それがテメェはどうだ? こんな可愛げのねーガキに成長しやがって。子はカスガイってゆーだろうが。テメェが親から愛される子供だったら、ちっとの事は我慢して離婚なんてしようたぁ思わなかっただろうさ。離婚しようってのは親の都合だ。全責任は親にある。だがな、親に愛される子供になって離婚しようと思えないようにできなかったテメェに、被害者ヅラする権利はねーんだよ」
無茶苦茶だ。
無茶苦茶だけど、……でも、その言葉は勝の胸に突き刺さった。
今まで、自分は何も悪くないのだと思っていた。お父さんとお母さんが悪いのだと。
親の都合なのだから、自分に出来る事は何もないのだと。そう思っていた。
「僕だって……僕だって、いい子になろうとしたんだ! 言う事は全部聞いて、迷惑かけないように、一生懸命やったんだ!」
クリスはゆっくりと煙を吐き出してから窓を開け、その外に煙草の灰を落とした。
「それが間違ってんだよ。子供ってーのは親に甘えてわがまま言って、この子は自分がいなきゃ駄目なんだと思わせなきゃいけねーんだよ。自分がいなくても大丈夫だって思わせちまったから、こんなことになってんだろうが」
「そう……なのかな」
言うことを聞くのが愛される方法なのだと、そう思っていた。それ以外の方法を知らなかった。
クリスの言うとおり、その事自体が間違っていたのかもしれない。
「ああ。馬鹿な子ほど可愛いって言うだろ? それにお前、ちゃんと離婚すんなとか言ったか?」
「言ってない……だって僕はいい子でなくちゃいけなかったから……」
だんだん、声が小さくなる。
クリスの言う、その通りだった。自分は何もしていない。ただ布団をかぶって、全部終わるのを待っているだけだった。
胸がずきずきするけれど、それでも今は真面目に、ちゃんと返事をしなくてはいけないと分かる程度には、勝は大人だった。
「何も言わないで全部わかって貰えるとか思ってるなら、一度豆腐の角に頭ぶつけろ」
ひどい言われようだった。
酷い言われようだったけれど、勝はそれを実感として知っている。
「……でも、もう遅いよ。もう離婚するって決まっちゃったんだから」
もしかしたら、自分に出来る事があったのかもしれない。
そう思ってしまったら、もう駄目だった。
堪えようとしてもぼろぼろと涙が零れる。今まで我慢していた分だけ涙が止まらない。
「何が遅い事があんだよ? まだ離婚するって決めただけで、実際に離婚した訳じゃねえんだろ? どうせならこんなところでぼろぼろ泣いてないで、離婚するとか言ってやがるバカヤロウどもの前で思いっきり泣いてやれ」
「……まだ、間に合うのかな」
「さぁな。駄目で元々じゃねーの?」
それはとても適当な答え。でもそれは勝にとって、一番勇気付けられる言葉だった。
「……うん、わかった。行ってくる」
勝の背中を見送った後、窓の外壁で煙草を消して、クリスは新しい煙草に火を灯した。
『もうやめてよっ! 二人とも僕のことなんて全然考えてないじゃないかっ!』
階下からは、勝の泣き声とおろおろと宥める夫婦の声が聞こえてくる。
「ま、頑張れや」
それまでよりもずっと美味そうに、クリスは煙を吐き出した。
勝が部屋に戻ってきたのは、クリスが5本目の煙草を吸い終わった時だった。
「よう、お帰り。どうなった?」
新しい煙草を取り出しながら、クリスは勝に手を上げてみせる。
「あ……うん。僕のことをどうするか決めるまで、離婚は保留にするって」
「確定から保留まで押し戻したんだ。大した前進じゃねーか」
火のついていない煙草を咥えて、クリスはへらへらと笑った。
「後はお前次第だ。猶予が出来たんだからその間に出来るだけの事をやってみな」
「うん、ありがとう。……でも、まだ居てくれたんだ」
クリスは最初に時間がないと言っていた。だから、戻ってくる頃には居なくなっているのが当然。
なのに待っていてくれたという事が、勝には言いようもないほどに嬉しかった。
「まだプレゼント渡してないからな」
そうだ、忘れていた。
サンタはプレゼントをくれるものだった。もう貰ったつもりになって忘れていた。
「ほらよ。交換日記だ。面と向かって言いにくいことでも字になら書きやすいだろうし、売り言葉に買い言葉になるようなことも、時間を置いて冷静になれば言い争いにもならないだろ。うまく使いな」
ポンとまるでごみでも捨てるように投げ渡された包みを、勝は慌てて受け取った。
思ったよりも分厚くてずっしりと重く、それはつまりそれだけ長く続けられるようにしろという、クリスなりの応援なのだろう。
「あとこっちはおまけだ。サンタとしてじゃなくて、個人的なプレゼントだぞ。開けてみな」
渡されたのは両手でなければ持てないほどにずっしりと重い包みだった。
開けてみると、中にあったのは黒光りする鉄のカタマリ。
「前の現場で拾ったヤツなんだけどな。コイツをこめかみに当てて、言う事聞いてくれなきゃ死んでやる、って言ってやんな。効果覿面間違いなしだ。それでも駄目ならもう無理だからあきらめろ」
どうしていいのか分からずに、勝はクリスになさけない顔を向けた。
「あ、そうだ。一発撃ってあるけど足がつかないようにしてあるから大丈夫だ」
何が大丈夫なのか良く分からない。でも応援してくれていることだけはよく分かる。
「さて、それじゃ次があるからあたしゃ行くぞ。まーせーぜーがんばってくれ」
クリスが窓から飛び降りたことよりも、そのミニスカートの中が見えそうになったことに驚いて、勝は慌てて窓に飛びついた。
その目の前をそりが飛んでいく。サンタの乗ったトナカイのそり。
あまりにクリスマスらしすぎるその光景に、勝は言葉を失った。
「あ……あり、がとー!」
なんとか搾り出したその叫びに、クリスは振り向かずに手だけを振って見せる。
まだ、何も解決したわけじゃない。
一歩前進したとは言っても、何も解決したわけじゃない。
それでも、なんとかなると思う。
だって、今日はクリスマスなのだから。