2018年12月の邂逅 渓谷・? 後編
前後編、後編です。
以下、全編と同じ注意書きになります。
今回は『病院』が舞台の『長く暗い話』だと思いますので、そういったお話が苦手な方は念のために読まれないことを強くお勧めします。
あくまで楽しんでもらえたらと思って載せているため、載せておいて言うのも申し訳ないのですが、私のように『あっ今不安定だなやめておいたほうがいいかもーー』、と思った方は読まれないことをお勧めします。
4人の談笑を割いたのは、突然ドアが開いたことでも、人が入ってきたことでもなく、その女性の存在そのものだと、少なくとも僕は感じた。いや、そう思ったのは僕だけか。僕と、阿夢だけ。
「秋ちゃん、その人は大学のお友達?」
楽しげな声だった。
秋が少し驚いて、笑って返事をする。
「え、ええ」
状況説明をした方がいいか考えているようだった。
「そうなの。友達。同じサークルの後輩よ」
僕は急速に自分が冷めていく感じがしていた。全てが冷静になり、血液の流れる速度が全身に伝わりよくわかる。
いやに冷静だ。素晴らしい。そう、大丈夫だ。
こんな時の行動指針なんて考えるまでもないいつもいつまでもずうっとやってきてやっていることだ。
ーー妹《阿夢》のために。
僕は笑った。歯を見せず、不快な顔もせず、ただニコニコと微笑んだ。
「そう、サークルが同じなのね!お名前は?」
「……」
浴衣ははじめその女にほぼ背を向けて僕と向かい合う形だったが、僕の微笑みを少し見つめてから、微笑み出して笑った。
「熱湯浴衣です。1年生ですが、先輩には楽しくさせてもらいました」
親しみを込めて、肩を竦ませながら、彼女とのエピソードを話し始める。
僕はニコニコとしている。
「えっと、先輩の……」
浴衣の問いかけに、そう言えば誰も説明していなかったと女が言った。
「ああ、阿夢と秋の母です」
僕はニコニコとしている。
愛想よくその女が言うと、浴衣は驚く。
「ええっ?!」
0.5秒の間。
浴衣が静かに行った。
「全く見えませんでした」
無音の爆発が起きたようだった。
息も飲めない。
3秒経つ。
「お若いので!」
ふふふ、と高い声で浴衣が笑い出す。
次第に、呆気にとられていた女も笑い出す。
みんな笑い出す。
僕はニコニコと笑っている。体が全く動かない。
女が言った。
「やだわ、もう〜〜」
浴衣が女を見つめた。微笑んだまま凍りつく。
ーーそれとも、全く母親に見られない理由でも思い当たるんですか。
浴衣がそう言ったように思えた。
女が手を差し出して言った。
「さて阿夢、行きますよ」
阿夢は僕の後ろにいた。僕の背中にしがみついていた。震えている。震えている。背中が、震えている。
ドッドッドッドッドッドツ
耳のすぐそばに心臓があるみたいだ。鼓動が、うるさいが心地いい。集中が高まる。
阿夢はまだ僕の隣にいる。
僕の背中を、小さく掴もうとしている。爪を立てるように、いや、自分の爪を突き刺して、引っ掛けて、離せないようにしているのだろうか。
「で、でも」
阿夢が、先ほどまでとはまるで違う、小さく細い震えた声で言った。
僕の後ろにいたのに、阿夢が俯いたのが、空気の震えと音でわかった。
「阿夢!!」
女が怒鳴った。
激しく阿夢が体を震わせる。ガクガクと震わせて、ひゅうひゅうと息が漏れている。涙は、鼻水は滴れているだろうか。もしそうなら、拭いてやらないと。
体が動かない。かっちりと固まったまま、動けない。
僕はニコニコと微笑んでいる。
「お母さん、病室よ?怒鳴らないで」
秋が言った。浴衣は凍って動かないでいる。
「あらごめんなさい。でも、それなら阿夢?怒鳴らせないでちょうだい」
女の言葉に阿夢が答えた。
「はっ、ふ、ぅん」
呼吸だけが漏れて、声になっていなかった。
秋が言った。
「でもお母さん、阿夢様子が変だし、落ち着くまでここにいさせない?私妹が不安なのよ!」
秋の言葉に、突然女は血相を変えてキッと90度首の向きを変えて言った。
「この部屋にいるから調子が悪くなるんでしょうッッ!!」
ビリビリと金切り声が響いた。
「だからお母さん、病室だから……」
「知ったことですか!娘がこんなに体調が悪そうにしているのに、一刻も早くこの部屋を出さないとッッ!!」
カツカツとハイヒールが激しくこちらへ迫りくる。
背中が震えている。阿夢が震えているんだ、きっと。
女が近づく。近づいてくる。香水の匂いがする。鼻の奥に入って、物質が結合して匂いとなり僕の体に染み込んでくる。
なにもかんがえられない。
女が目の前に立っていた。
僕の体が動かない。
震えている。阿夢が。
いや違う、震えているのは僕の方か?
女が言った。僕を越して阿夢を見た。
「こんなところにいてはいけない」
と、僕を睨みながら、言った。僕越しに、僕を見るまでもなく、ただ、悪意だけを僕に向けて、目も合わせない。目も、合わせない。
目も、合わせてくれない。
僕はニコニコと微笑んでいる。
女がなにもしなかったため、その他の誰も動こうとしなかったため、5秒も誰もなにも喋らずなにも起こらず時が過ぎた。
守らなきゃ。守らなきゃ。阿夢だけは、阿夢だけは守らなきゃ!!
僕の命に換えても、守らなきゃ!!
空気がやけに乾燥している。喉が乾いて声の出し方がよくわからない。
体が震えてきた。
僕が守らなきゃ。僕が阿夢を、守らなきゃ!!
長い長い沈黙。息も凍りそうな硬直の時間。
誰もなにも言えないと思った。
女はいとも簡単に沈黙を破った。
「嫌な目をすること」
女が言った。僕に言った。ほんの一瞬、僕の目を確かに見て、言った。
「父親にそっくりね」
軽蔑した、眼差しで。
「悪い人間の目よ」
ぶちり。
瞬間、着火線に火がつく。大気にはガスが満ちているはずだ。もうすでに、連鎖爆破の準備は済んでいる。
女は僕を無視して、一切の躊躇もなくそのまま阿夢を連れて行こうと手を伸ばす。
ぶちり、と。
ぶちぶちぶちぶちっ。
黙る事ができなくなる。
「ふーっ!!!、ふーっ!!!」
自分の目が血走り、興奮しているのがわかった。
おい黙れよクソ野郎。俺は言ったよな、俺は言ったよな?!
声を必死に抑えて、高鳴る心の声を叫ぶギリギリで押し押し止まる。
「大丈夫、大丈夫だから。落ち着いて。ね?あなたの言いたいことは全部私が言ってきてあげるから。私のこと信用してるわね?」
「はあっ、はあっはあっはあっ」
僕は息も絶え絶えになりながら、だんだんと早まっていく呼吸の周期に、歯がガチガチと音を鳴らし始める。
「信用、してるわよね!!」
その少し大きな声に、僕は少しだけ我に返った。
二、三度、いや、何度も、やっと目の前にいた浴衣を
「なぁんで阿夢がぁここにいるんだくそやろぉおおおおおおお!!」
正真正銘の大絶叫だった。
僕が叫ぶ。
「あの時の約束は忘れていないよな?!」
僕が叫ぶ。
「俺は約束したはずだぁあああ!!お前らのやりたいようにやらせてやるってぇええ!!その代わりにぃい!!阿夢だけは!!阿夢だけはぁあ幸せにしろとぉおお!!」
「落ち着いて!!ダメよ、ここで暴れちゃ」
浴衣が僕の身体を本気で抑えた。僕は衝動を抑えきれなかった。一度封を切った思いはどどまる事ができず、目前の憎い敵に向かって手を伸ばす。抑えられて届かない。
「ぅがぁあはなせぇえええ!!それ以外何を望んだ?!俺が何を望んだぁあ!!」
僕の目から涙が流れた。
涙はとどまることを知らず、ドア前で呆然と立ち尽くし動けずにいるその女に向かい、僕はありったけの力を込めて手を伸ばす。
手を伸ばし続ける。足で踏ん張る。あいつを。僕はあいつを。
「お前はぁっ!!なのにお前はぁあああ!!俺から阿夢を奪ってなお!!阿夢からその幸せまで奪うのかぁっあ!!俺は、俺は、俺は、なんのために、ッ」
僕は叫ぶ。
「殺してやるぅううう!!許さないぃッ俺は絶対に許さないぞお前らをおおお!!俺から全てを奪ったお前らをおおお!!俺は!!俺だけは絶対に許さない!!いつか絶対にッ!!絶対に殺してやるっ!!できるだけ惨たらしくッ!!」
僕は叫ぶ。
「落ち着いて!!大丈夫だから!!阿夢はここにいるわ!!だから落ち着いて!!お願い渓谷!!」
「黙れ!!お前に何がわかる!!俺には阿夢だけだったんだ!!阿夢しかいなかったんだ!!俺は!!俺はぁっ!!」
初めて、こんな大きな声を出した。
「っ、なんの、なんのためにっ……なんのためにあんな思いをしてまで、阿夢と離れ離れにならなければならなかったんだ……」
僕が衝動を抑え込めるようになる頃には、すでに周囲を看護師と医師が取り囲み、慌てた様子で、「落ち着いて下さい」と「大丈夫ですから」を繰り返すことしか認識できなくなっていた。
何時間も何時間も僕はベッドに座り続けた。1人で1人で1人で1人で座り続けた。
そこから移動も何もしようとしないので誰かが何かをしようとするかと思ったが、存外みんな僕を放っておいてくれていたようだった。
身体が動かなかった。
「俺は、お前も、あの男も、父と母とは思っていない。俺にいるのは最初から、妹だけだよ」
今更、父にそっくりと言われたその返答を、僕はした。
「そうね」
「」
浴衣が、僕を後ろから覆うように抱きしめながら、両手を握っていた。
「いたのか」
「ずっといたわ」
頭がうまく回らなかった。
僕は投げやりな気持ちになって、そのままベッドに、全ての力を失い、倒れるように倒れこんだ。
「なんで止めた。せっかく殺せると思ったのに」
止めてくれたお礼を言おうとしたのに。
「そうね。ごめんなさい」
「お前のせいで全部ぐちゃぐちゃだ」
違う!!君のおかげで全部丸く収まった!!
「そうね。私が悪いわ」
「…………くだらない」
「そうね。どいつもこいつもくだらないわ。生きてる価値無しよ」
……。僕は、布団に倒れたまま動かなかった。動かなくなった。動けなかった。
「はなしを。きいてくれないか」
僕は布団が湿っていて気づいた。ずっと目から涙が出ていた。
「あなたが話したいだけ聞くわ」
「ずっと話していなかったことなんだ」
倒れたままのおかしな体制で、口だけが動いた。
「うん。わかっているわ。安心して、話して」
「小学三年生の事だった。僕は生まれてきたことを後悔した」
抑揚のない口調だった。普通に話しているはずなのに、抑揚がつかない。
「何があったの」
「両親が喧嘩していたんだ。もうよく覚えていない。たまに物が飛んでくるんだよ。父が物を投げるんだ。暴力だった」
「そう」
やけに淡白な返事だったから、僕は続けた。
「僕は逃げようと思ったんだ。家から出たかった。でも出たら後で怒られてもっとひどい目にあうから、家の1番安全な、台所のコンロの下のあたりの隅の角に隠れようと思ったんだ。残念なことに、僕は小学3年生で力がなかった。とても部屋にこもるということをしてもなんら意味はなかった。リビングから逃げると、なんで逃げたと言われそうで、とても逃げられなかった。僕はコンロの下の部屋の隅に行こうと思ったんだ。限界だった。1番すみに早く縮こまろうと思った」
口が勝手に回る。
「へえ」
また淡白だ。もっと話す言葉が出てきた気がした。
「その時僕は初めて、自分に妹がいるということに真の意味で気づいた。妹の存在を呪ったよ。阿夢が生まれてこなければよかったのにと思ったんだ。今思えばひどい話だが合理的だね。それでねえ。僕はねえ。妹を守らなきゃと思った。妹がどんなだったかは何度考えてもよくわからない」
「それで」
「守ったよ。地獄の始まりだった。何度か背中に物が刺さった事がある。何が刺さったかはわからないが、僕の背中を見れば多分今でも傷があるだろう。見たことないから知らないけどね。今でも左肩の肩甲骨の骨が痛むからわかるんだ。多分これは、一生治らない。僕は妹をたくさん守った。年が幾つ違ったのか、よく覚えていないが、何度守ったのかもよくわからない。僕はね、妹の存在を呪ったよ。妹さえいなければと何度も思った。そのせいで何度も痛い思いをしたからね」
「どうなったの」
「父親が悪いように見えるだろう。いや、聞こえるだろう。違うんだ。母親が悪い。僕はいつも父に共感的だった。どちらのことも大嫌いではあったが、どちらに着くかと言われれば父に着くと迷いなく言えた。父は暴力を振るうような人間だったが、暴力を振るうような人間ではなかった。母親が悪いんだ。喧嘩両成敗とか言うよね。……どうでもいいけど。その通りだと思うっていうか、僕にはどっちも死んで欲しかった。今もそうだよ。早く死ねって思ってる。自分の身を守るために口にしないしできないけどずっと思ってた。一度も許してやろうなんて思ったことはない。ない。一度もだ。小学六年生を過ぎる頃だった。地獄は日常化した。慣れた。妹がだんだん可愛くなってきた。僕しか頼れなくなったんだ。笑えるだろ。守ってきたやつがやっと恩を返しはじめた」
「そう」
「でもねえ違うと思うんだ僕は。あいつは初めから何も変わっちゃいない。ただ、僕の考え方が、価値観が変わったんだよ。成長したんだね。人が一面だけじゃないと気付き始めた。妹の魅力に取り憑かれ始めた。僕が昔から妹を守ってきたのは、単に僕が優しいからだ。性格的に人を盾に自分だけ逃げるなんて事が死んでもできないたちらしい。まあ死んでないから後悔しなくてよかったなんて死ぬほど思わなくもなくもないけど。まぁどうでもいいか。僕は妹のために生きるようになった。妹のことしか考えなかった。ああそうか。自分のことだけ考えようにも、性格的に妹を助けざるを得ないから。だから諦めて妹を初めから助けようと思ったんだ。あとはずっと妹のために頑張ってきた。幸いあいつの見た目は良かった。母親は暴力に頼る父が大嫌いだったみたいだ。母親は娘がお気に入りだったみたいだ。娘は父も母も好きではなかった。聞いたことはないけれど、少なくとも僕から見て、どうでもいいと思ってたんじゃないのかな。きっと彼女には僕が全てだったんだ。母はなぜか僕が嫌いだった。見た目の問題かな。確かに妹は見た目が良かった。でもねえ。僕も悪くないと思うんだあ。思うに、父親に似ていると思ったんだろうねえ。母親は僕を助けてくれることはなかった。娘にはそこそこよく言っていた気がするけれど。何を言っていたんだろうねえ。妹はいつもどうでも良さそうにしてた。僕はざまあみろと薄ら笑いを心の中で浮かべていたよ。無表情でね。ここまでで質問は」
「微塵もないわ」
じゃあ先に進もう。
「父は僕を少し気にかけてくれていたように感じた。たぶんねえ。僕と父は比較的まともだったんだと思うよ。だから父は僕を気にかけてくれた。確かに普通暴力は良くないけれど、父は、望んでそれを僕にふるったことは一度も無かったように思うよ。全部、八つ当たりだったかね。関係ないか。まぁ原因は母にあるんだ。僕と妹はいつも一緒にいた。その頃から、妹が訳のわからないことを言い出した。僕が好きになったんだ。僕はひどく納得したよ、これが地獄に耐え抜いた僕への、悪魔からの贈り物なんだとね。心底どうでもよかった。けれど、娯楽としては楽しめないこともなかったから、妹で遊ぶことにしたんだ。あいつはいい。狂ってるんだ。みんな。みんな狂ってる。あいつは母親に似ていた気がする。氷のようなものをいつも持っていたように思うんだ。いや、違うかな。そうならざるを得なかったんだ。やっぱり、僕も妹も悪くはないよ。何もおかしくない。結局、全てを取り払うと、僕は妹が大切だったんだ。どれだけ苦しんだのか覚えてない。だんだんと苦しくなかった頃のことを思い出せなくなっていった。時間の問題だろうね。僕は死にたくなったよ。妹さえいなければ死んでただろうね。ああくそやろう。お前さえいなければ死ねたって何度思ったことか。両親はね。力がなくて殺せる気がしないんだけど。僕は何度か、いや、三度だけ、本当に妹を殺そうと思った事があったんだ。なぜかあいつを殺せば自由になるような気がしてね。それ以外何も考えられなかったんだ。でもね。ある日気づいた。妹がいなくなったら、僕は生きる理由が何もなくなってしまうんだ。僕には妹だけだった。自己嫌悪しながら自分を憎みながら何度も世界を憎んだんだよ。みんな大嫌いだった。僕は妹が大嫌いだった。でも、父と母のように、殺したいとまでは思わなかったんだ。いや、殺したいとは思っていたし、正確に言えば、死んでくれるならば死んで欲しいとは思っていなかった、だねえ。妹もきっと、僕が大嫌いだったんだろうね。でも僕も妹が大嫌いだった。ウィンウィンの関係が築けていたんだ。互いを守り互いを生かすための関係さ。僕は彼女を生かす代わりに欲しくもないくだらない最悪な生きる理由をもらう。彼女は……僕から何をもらったんだろう。守っていたけれど、別に僕が守らなくても何もなかったんじゃないかなあって、たまに思うんだ。僕が守っていたのは自分の正当性とか正しさだけで、いや、それすら守りきれずにいたのに。僕と違って彼女は人に好かれていたから。僕はみんなに嫌われる。死ねばいいって思われてるんだ。死ねばいいって思ってたんだから当然だね」
「」
「……そんなに悪くはなかったよ。あの地獄も。地獄は地獄で、天国があった。2人でステキな夢を見られたんだ。もしも兄妹2人だけで自由に暮らせたら、どれだけ幸せだろうって。毎日そんなことばかり話していた気がする。僕の方が一つ年上だから、少し僕の話は難しいみたいなんだけど、彼女はいつも頑張って僕の話を必死に理解していたよ。すごい子さ。僕には無理だ。そこから先は君の知る通り。両親が離婚するって言うんだ。僕は、生きていくためにも、母親にだけはついて行きたくなかった。でも、妹と一緒なのが1番だったんだ。でも。あれ。なんだっけ。あれ。思い出せないな」
両手で頭を掻きむしった。思い出した。
「約束をしたんだ。あの母親は僕に言った。お前はいらない。でも妹は欲しい。お前までついてくると妹の平穏は約束できない。でも、僕が父側についていくならば、妹の幸せは約束しようってね。確かそんなような言葉を言われたよ。実際はもっと柔らかい言葉だったと思うんだけど、僕にはお前はいらないとしか聞こえなかったから、なんていってたのか思い出せない。要は、僕がいるとストレスで妹にまで八つ当たりするかもしれないけれど、僕がいなきゃ満足でストレスもないから妹の分だけは幸せにできるって」
何も聞こえなかったから、寝たのかなと思った。
「僕の、何が悪かったんだろうねえ」
何も聞こえなかった。
「頑張ったんだけどねえ」
何も聞こえなかった。
「死ぬほど頑張ったんだけどねえ」
何も、何も何も何も何も何も聞こえなかった。
「きっと、僕が父親と似ていたんだろうねえ」
何も、聞き取れなかった。
「………………そんなことなら、あんたらが結婚しなければ、全部上手くいったのにってさ。思わない?」
僕が尋ねると、やがてゆっくりと、大号泣する女性達が部屋に何人かいたらしいことに気づいた。1人じゃないことは声の重なり具合でわかった。
僕はびっくりしたけれど、どうでもよかった。
「あとは君も知ってるだろう。僕は喪失感に苦しんでいたんだ。君が助けてくれた。間違いなく僕は、浴衣という女性のおかげで、改善に向かっていたよ。少しずつ喪失感をなくしていけていたんだ。ちょっとずつ、どうでもいいって思う頻度も減っていたんだ」
誰がいるのかわからなかったけれど、みんな泣いていた。
「何が悲しくて泣いてるの。僕は全然悲しくないのにねえ」
僕はそれがおかしかったから、笑った。ケラケラケラケラケラケラケラケラわらった。
それがまた面白かったから、もっとゲラゲラゲラゲラと笑った。
「あははははははは!!」
ひとしきり笑った。
「ゔぅぐっぁあああああああああああ!!」
どこまでも響くような絶叫を一度だけ上げて、僕は気を失った。
ーー
起きてすぐ、夢かと思った。
「お兄ちゃんねえ。実はねえ、私ねえ。お兄ちゃんが私を殺そうとした時がねえ、いつか、覚えているんだよ」
「へえ」
「6月3日。雨がうるさくて眠れなかったんだぁ」
「へえ。そうか」
「私ねえ。別に、お兄ちゃんになら殺されてもいいなぁって、全然苦しい気持ちじゃなかったよ」
「そうか」
謝る気にもならなくて。そもそも謝ってどうにかなる問題じゃあなくて。
ーー
「看護師さんから聞いたんだけどさ」
「うん」
「たまに病院から逃げ出す患者さんいるんだって」
「へえ」
「笑って話してた」
「……いつの間にそんなに仲良くなった人が?よかったじゃない、話せる人できて」
「ぁあ、散歩に付き合ってもらってたんだよ」
「デートかよ!!若くて可愛い美人看護師と仲良くねぇ〜、はっ、いいご身分だな」
半ば冗談ではあった。
「僕は嫉妬に狂った彼女から逃げ出したいよ」
「ぁあっ?!」
全部冗談で軽口ではあったが、ベッドの端に座った妹が楽しそうにクスクスと笑っていた。
「……だからってその冗談が許されると思うなよ」
「何のことだか」
「くすくす」
「ぁーあ。ずっとこの時間が続けばいいのに」
「……阿夢、何だかお姉さんのことも気に入ってきたよぉ」
「ぉお?やったぜ」
喜ぶお姉さん。
「こら、阿夢ちゃん?そんな上から目線じゃダメでしょ」
「てへへ。ごめんごめん。ごめんね?お姉ちゃん」
「ぐふぁっ」
「気持ちはわかるが俺の妹だからな!!」
「珍しっ、こいつが主張するなんて。安心しろ、まぁ気持ちはわかるが私の妹だ」
「きゃー!私のために争わないでーっ!てね?ふふ、楽しいねえ」
「そうか?」
「そう?私は楽しいけど」
「「ねーっ」」
「僕だけ置いてけぼり」
ちょっと寂しい。
「さみしい」
すると、阿夢ちゃんは笑いながら、楽しそうに嬉しそうに、腰掛けていたベッドの縁から腰を上げ、ベッドに座る僕の横に来て肩に首を持たれかけた。
「私ねえ、私を中心に回ってる世界でも、ここが1番楽しいかなぁ」
彼女は、ニコニコとして言った。
「……おっ、おい彼女!!なんか妹がいきなり破滅主義者のラスボスみたいなこと言いだしたんだがががが!!ぼくはいったいどうしたらららら」
「おおおお落ち着け彼氏ぃ!まずは身体検査をするんだ!!むっ、胸と腰を念入りに揉みしだけ!!」
「お前慌ててるフリしてぼくを貶めようとしてるだろ?!」
「……」
阿夢は、依然ニコニコとしたままだったが、ぼくには少し、彼女がイラついているように見えた。
「仲良いねぇ、2人とも。いいなぁ」
僕には、単純に、せっかく気を引けることを言ったのに、自分を放ってイチャイチャしやがって、と、怒っているように見えた。
まぁもちろん阿夢がそんなことを言うことはおろか、思うことすらないのだろうとぼくは思っているから、ただ単に自分がひねているというだけかもしれないけれど、心の声に、大きく付け足した。
「……阿夢ちゃんて、対等に話せる友達いる?」
ぼくは妹に尋ねた。
「……えーっ?なにそれ、そんなの」
少し考えてから、自分でも驚いたように彼女は言った。
「いない、かも」
「マジかぁ……それはキツイなぁ……」
阿夢は僕の言葉に、少し心外そうに言った。
「何というか、いても意味ないっていうか、必要としてなかったから気づかなかった!」
「お兄ちゃんは対等じゃないの?」
浴衣が兄妹に問いかけた。
僕は答えた。
「はぁ?何言ってんのお前。馬鹿じゃないのマジで。ここにいるのがただの妹だと思ってない?お前。マジ頭どうかしてるんじゃないの。いや目か。目がおかしい。何で直視して目が潰れてないんだよお前。神の価値がわからんのか」
「てめーだって潰れてねーだろうが」
「僕は心の目で見てるからいいんだよ!」
「お兄ちゃんて何気シスコンだよねえ。嬉しいけどちょと怖い」
本当に、嬉しいけどちょと怖そうな顔をされる。
僕は体育座りをして落ち込んだ。
「そうか……怖いか……妹に見放されたら僕はもう生きていけないよ」
「でもそんな所が大好き」
「どんなに怖い彼女がいても生きていける気がしてきたぁっ!」
「お前ことあるごとに私をネタに使うのやめろ!傷つくぞまじで」
「ごめん。いや、ごめん。……でも、悪いのは僕じゃない。ましてや妹でもない。悪いのは、妹の完璧な美しさだよ」
「マジ黙れよ」
笑いながら、しかし口元が引きつっていた。
「お兄ちゃん……今日一緒に寝よっか」
「ぶふぉっ」
危ない危ない、エロいことで鼻血が出るのは日本人の文化でだけだから外人はエロと鼻血は関係ないから人体的にエロと鼻血関係ないってことがしっかりと頭でわかっていたのに興奮して鼻血が出る所だった。
「い、いや、無理でしょ」
「そうかな?ここ開放病棟だし、夜の見回りだったら余裕だよ。1時間に一回とか言ってたけど、結構アバウトだし、実際中にまで入ってきて確認することってあんまないし」
「確認されたらどうするの?」
「私個室でしょ?お兄ちゃんも個室。なら、トイレが部屋にあるわけで。トイレの電気をつけたままにすればいいんだよ。鍵は病院の都合上外からも中からも指で開け閉めできるし。あとは廊下をいかにバレずに渡れるか、だけど。これだって気分的に中じゃなくて外のトイレが使いたいっていう文句があればそういう時もあるかな、って看護師さん達も納得してくれるだろうし。バレたら自分の部屋に戻ればいいだけだし。あとはお兄ちゃんの部屋に、もしくは私の部屋にどうやってお互いが入るか、でしょ?あとはどっちが入るかだけど、……まぁいいや、お兄ちゃんが女の子の私の部屋に入るとちょーっと体裁的に問題があるから私が入るとして。それならちょっとブラコンの妹が寂しくてお兄ちゃんの部屋に入ってましたーで済むし。お兄ちゃんは妹可愛さに断りきれずつい、で済むし。あー!それなら、私の部屋にお兄ちゃんがきたとしても、私が無理を言って、って言えば通せるし。なんならメッセでそういう感じの会話の記録を残しておいて、それを証拠として訴えれば、一回限りしか使えないけど一緒に寝ることは可能だよね。翌日の夕方になってもバレてなければメッセの記録を消去してしまえば、一緒に寝てることがバレるまでは、何度だって使える。ね?完全犯罪成立…………むかっ、イラつくなぁ、そもそも犯罪じゃないし。なんで添い寝するだけでこんなこと考えなきゃいけないのかも意味わかんない。あームカつく」
珍しく、阿夢は言葉通り本当に苛ついているようだった。
僕も浴衣も、黙り込んでいた。それは、そこまでの策略を思いついた彼女に、ではない。
思いついていること自体は、正直誰でも思いつく、というか、あくまで任意入院の開放病棟の為、そこまで病院側のチェックが厳しくないのだ。
僕も浴衣も黙り込んでいたのは、どう考えてもこの妹、阿夢が、予め考えていたことを話していたように思えたからだ。
まだ少し腹立たしげに阿夢は、膝を立てて座る僕の身体を抱き込むように、尋ねた。
「……で。やる?やらない?」
僕はますます黙り込んだ。浴衣も黙り込んだ。
抱きしめるようにして、僕に自分の身体を押し付けてきているかのように感じた。僕はそれが、阿夢が僕に色仕掛けをしているかのように思えた。
いつもの子供っぽさが消え失せ、いや、その子供っぽさの純粋さを残したままに、大人顔負けの色っぽさを出したその様子に、僕は少し怖くなった。
小首を傾げたのを見て、僕は今、おねだりをされている、のだと感じた。
「そもそもそんなにダメなことじゃない気もするし、先生にお願いするのはどうだろうか」
阿夢の周囲の空気が変わった気がした。
「うん、それは、ちょっと。やめて欲しい、かな」
弱々しい言葉とは裏腹に、僕は、阿夢が激しく拒否をしている事を感じ取った。
見開いた阿夢の目は、座っていた。
ーー
2018/12/27 22:00
渓谷『おいおいまさか本当に来ないよなぁ来ないよね?』
阿夢『いっきまーーす!!』
渓谷『やめろばかばかばか!!』
阿夢『』
阿夢『』
阿夢『』
阿夢『』
渓谷『わかった!こっちからいくから!待っててくれ!妹をそんな風に来させるわけには行かない!!』
阿夢『とか言って〜〜』
メッセージアプリの画面を見ながら、僕は嫌な予感がしていた。
するすると扉の開く音がして、僕は一応看護師さんが来ているときのために寝たふりをするーー別に起きてても怒られはしないのだが、夜中看護師さんを見るといつも反射的にそうしてしまうーー。
「待たせるだけ待たせて、来ないつもりだったでしょ!」
その通りです。
僕は寝た振りを続けた。
「そんで持って、看護師さんに会ったからいけないとか、部分的に本当のこと話して、なんか適当に看護師さんに話し合わせてもらって私を欺こうとしていたなぁ〜〜?!」
一言一句その通りです!
僕は寝た振りを続けた。
「あー寒いなーこの部屋なんか寒いな〜〜よしベッドに入ろう!!」
僕のベッドに阿夢が入ってくる気配がする。
僕は寝た振りを続けた。願ういとしてはこのまま本当に寝てしまいたい。そしてそのままつまんないと言って戻って欲しい。妹にわざわざ叱られるリスクを侵させたくないのである。ただ単に。
「…………寝てるんならなにされても怒んないよね」
阿夢が、明瞭に、力強く、静かに、言ったので僕はため息をついた。
呟く。
「監視カメラ、は?」
「夜だけ透明人間〜〜」
もぞもぞと隣で動いている音がする。
「廊下のトイレを経由してここまで来たから、私の顔を見て覚えてる人でなければ、ましてや夜に暗い中で顔がはっきり見えるんでなければ、トイレに行った人とトイレから出た人の2人が見えるはず」
「いや、同一人物だろそれバレるって」
「トイレカモフラージュの時間に着替えちゃいましたー!!」
僕は呆れた。
「そこまでするか……」
隣に阿夢がいる状況で、僕はため息と深呼吸の中間の呼吸を繰り返しながらどうしたら1番いいのか考える。
「……私のこと嫌いになったんだ」
「おい阿夢、好きを証明させるおねだりはダメだって考えればわかるだろ?」
「それを使うくらい隣で寝たかったって考えればわかるだろ?」
…………。一理ある。
「わかった、一度だけだ」
「やった!1回目を許した人は2回目も許しちゃうから、これで常習化は決定だねっ!あとはバレた時に仲良く揃って怒られよう!運良く一緒に病院を追放されれば最高のハネムーンだね!」
「最悪の始まり方だけどな」
僕は苦笑した。冗談のつもりだといいが。
とりあえず今夜は仕方なく、僕は彼女と寝ることにした。
「あかりがないと眠れないの、付けてていい?」
「もちろん」
僕は枕元の明かりをつけた。
「これでいい?」
「んー。ぁりがと」
僕は明かりのことで少し笑ったのを咎められてベッドの中で何度も足を蹴られた。
やがて、感覚で5分が経つ。
「お兄ちゃん、兄妹兄妹うるさい。目障り……じゃなかった、耳障りだよ。心に煩い」
「ご、ごめん。いやでも、事実だし。」
その阿夢の怒るツボに申し訳なく思う半面、少し笑いながら僕は言った。
「じゃなかったら、こんなことしてちゃダメでしょ」
ピリっ、と。また、阿夢の空気が変わった気がした。それは昼間のものと同じようで、しかし根本的に違うように思えた。昼間は、あくまで病院側に対しての憎悪というか、憎しみのように思えていたが、今度は、今は、僕が対象として捉えられているように思ったのだ。
「ねぇ、お兄ちゃん」
阿夢が、すぐ横に寝る僕の耳元に囁きながら、足を絡めてくる。
そして、そのまま足をぎゅっと自分の方へ引き寄せる。
「ぉ。わっと。どした。さみしい?」
「……」
あくまで平常運転の僕に、彼女は少し固まった気がした。
「ぅん、さみしぃ……」
消え入るような声で、仰向けで横になっている僕を横に起こすように、僕の背中に手を回し、固く引き寄せる。
ごろんと、彼女の寝る方へと半ば無理やり身体を起こされる。
「寂しい。寂しい寂しい寂しい寂しい」
真正面で、拳一つ分ほどの距離で、彼女は本当に心底寂しそうに、涙を流していた。
「すごく寂しい」
枕元で光る小さなあかりが、彼女の涙を照らしていた。
明かりがないと眠れないと言う阿夢の言葉が、嘘だったかのように感じた。
それぐらい、演出的であった。
それぐらい、完璧なまでの、これ以上ない僕の心を掴む行動だった。
阿夢が演技をしたら、僕ならわかる。僕にはその自信がある。だからこれは、演技じゃない。
でも、阿夢はきっと、つくったんだ。今のこの状況を。一番効果的に僕を揺さぶれるように。最高の状況で最高の言葉を言えるように。
言葉は、予め用意したのだろうか。
しかし、そんなものは関係ない。
たとえいくらやろうと思ってやった狙いを持った確信犯的行動も全て、嘘がないならば、真実だ。
それくらい、心を揺さぶられた。
昼間に数回思ったような、阿夢が考えているであろうことについての可能性を思いついたわけではない。明確に。確実に。間違いなく、阿夢が考えている事が、僕にはわかった。
いや、違うか。僕は少し身震いするような気持ちだった。
わかったんじゃない、伝わってきたんだ。さらに言えば、阿夢が僕に伝えた。
「ぁのね。あのね。さみしいの。すごくすごくさみしいの。伝えきれないくらい。胸が苦しいの。切なくてたまらない」
思考が、宙に吸い込まれていくようだった。何も考えられなくなる。
「苦しいの。苦しくて苦しくてくるしくてくるしくて喉が締まるの」
僕の背中に回された手が、ゆっくりゆっくりと、恐る恐る探るように、僕の首元にぴったりと触る。
「まいにちまいにちくるしくてたまらない」
「」
頸動脈を撫でるように、冷たい手が、ゆっくりと優しく動く。
「くるしくてくるしてつらいのに、あくらはいつもつらいの」
思考が溶ける。何も……考えられない。
阿夢の手が、ほんの少しだけ震えている気がした。
「つらくてつらくてくるしいの。あくら、まいにち死にたいの。でもね。死んだらお兄ちゃんと会えなくなっちゃうでしょう?だから、許せなくて。私、ううん、阿夢はね、ずっとずっとおにいちゃんのことだけをかんがえていたのに。ずるいよねぇ?。みんな。ずるすぎてころしちゃいたいのをおさえるのでせいいっぱい。あっ、ううん、ちがうの、んふふっ、くすくす」
阿夢は少し起き上がって、動かない僕に、僕の右耳に唇を這わせた。
あのね、と、小さな声で大きく聞こえた。
「みんなが阿夢を虐めるの」
頭を、心地の良い空白が支配した。
耳元を這う乾いたねっとりとした音が、身体に絡みつくように官能的で、何もできない。
あー、これはまずい。
ダメだ、くそっ、こんなの耐えられない。
平静を装おうとしたが、そのためには思考を止める必要があった。ダメだ諦める。それは無理だ。だから方向を転換する。阿夢を相手にしないんじゃなく、説得するんだ。
一瞬の間に決意した僕は、阿夢と対話することを試みる。
「んぅ、でもね、お兄ちゃんは違うよねぇ。くちゅ。おにいちゃんだけは、いつも阿夢の……くちゃり……」
まるで何か得体の知れない何かが耳の中を這うようだとおもった。めがちかちかする。
いや、ちかちかしているのは心か。
「いつもそほぅ、おにいひゃんらけは、いつもそうだった……くちゅくちゃ…………いつもいつも馬鹿みたいに私の味方で、……くすくす、そこがかわいいんだけど、ふふっ、んーん、あれ、えーと、そうじゃなかった、んふふ、くすくす。くちゃり、おにいひゃんらけは、いつもわたひのみかたらった、そう、らから、どんなにつらいときでも、おにいちゃんだけは、ぁくらのぉ……、」
くそっ。わざとらしく嬌声たてやがってこいつは……たてやがってこのやろう、くそっ、ちくしょう、だめだ、もっ、て、いかれる。
ふと、一瞬乾いた粘膜音が静かになった。
「おにいちゃんだけは……あくらの、」
空白。
「みかた、だよ……ね」
疑問形ですらない、押し付けることすら、探ることすらしない、すがるような言葉。
もう他に、希望がない事が、考えなくても理解できた。
満足したのか、阿夢は僕の耳元から声を離すと、再び僕と拳一つ分の距離で向き合った。
「阿夢ね、おにいちゃんしかいないの」
「……うんわかってる」
阿夢はゆっくりと、ゆっくりと、僕に顔を近づけた。
元から無いような距離が、どんどん無くなっていく。
「なのにみんな、お兄ちゃんから離そうとするの」
ほんの少しの間が置かれた。
「私それが許せない」
ふと、はっきりと確かな口調で、耳に響く声で聞こえた言葉。
少し驚いていると、阿夢は少し僕から目をそらし、考える。
「あちがった。えーと、なんだっけ、あそう。私、お兄ちゃんしかいないから、ね?いいでしょ?お兄ちゃんも私しかいない、って事で」
なんておざなりな演技なんだ。
僕は確かにそう思った。確実に明快に。ぁあ、話の流れは見えている。阿夢が僕を好きな事なんて、大好きな事なんて、愛している事なんて、100億年前から知っている。僕だって、そうなんだ。僕だって阿夢が大好きなんだ。愛している。それを言うべきか言うべきでないかを悩むことはあっても、それ自体について悩んだ事なんて一度もないしこの先もないだろう。
ぁあ、話の流れなんて見えきっている。
兄しか頼れない妹が、普段のぶりっ子かまってちゃんな甘えたがりのキャラクターで弱みを見せながら兄に甘える。さみしいと涙を見せて、ついでに兄を色仕掛けで籠絡する。オチは“2人で一生幸せに”、だ。
そんなことわかってる。初めからわかってる。ずっとずっと全部全部わかってたよ。そんなこと。
でも。でもね。阿夢。僕には、君のその馬鹿みたいな申し出をきっぱり断る事ができない。どころか、断る事ができない。
「おにいちゃんがだいすき。とられたくない。彼女なんて言わないで。あんなやつ今すぐ投げ捨てて。私を選んで。1人はもうやだ。みんなみんな大嫌い。本当はお兄ちゃんも嫌いだけどお兄ちゃんしかもういないから仕方なくお兄ちゃんを選ぶの」
朦朧とする意識の中で、混濁する思考の中で、僕はなんとかまともな相槌をひねり出す。
「ぁあ。うん。わかってるよ」
僕は阿夢のおねだりを断る事ができない。
だって嘘がない。演技はあっても嘘がない。全て真実だ。嘘みたいな甘えも、嘘みたいな涙も、嘘みたいな腹黒さも、全部真実だ。たくさんたくさん考えて、たくさんたくさん思ったことを、ちょっとだけ部分的に出しているだけなんだ。
人間を一つの言葉で推し量ろうなんて、その言葉にがんじがらめにする事なんてできないし、その必要もない。
甘えたい気持ちがあるんだろう。子供のままのお兄ちゃん子の気持ちもあるんだろう。それを客観的に見て笑う人よりよっぽど大人びた気持ちだってあるんだろう。
全部、嘘じゃない。
「みんなみんな大嫌い……でもお兄ちゃんは一番マシ。お兄ちゃんが本当は大好き。でも大嫌い。阿夢ね、ずっとずっともうよくわからなくなっていたの」
僕が全部わかっているように、君も、全部わかっているんだろう。僕が君の全てを理解して、その上で断れないから、だから、全てわかりながら押し切ろうとしている。
「でも、やっぱり、お兄ちゃんがいないとだめ。ぃないと、おかしくなりそう……っ生きるに耐えない、だめ。もう……おかしくなりそぅなのぉ」
涙声で話す。
震えるように、僕の背中に手を回す。
なんて可哀想なんだろう。少しでも力になってあげたい。ならなくちゃ。
ぎゅっとぎゅっと、阿夢は僕を抱きしめた。
あれだけ近かった互いの顔と顔の距離も、鼻とおでこがくっついたことでいよいよ消失した。
「……お兄ちゃん」
「なんだい」
「……私のこと、好き?」
疲れたのか、弱々しい声だった、
「もちろん」
僕は穏やかな気持ちで言った。
「好きって言って」
強がるように毅然と喋ってはいるが、内心不安なのが、声に交えて聞こえてくるようであった。
「……大好き」
「好きって言ってって言ったのにぃ!!」
そこそこ思いっ切り、足をガンと蹴られた。
「酷いな」
結構痛くて、僕は笑った。その痛みが、なんだか嬉しかった。
よそよそしさが、一時的にでもなくなったような、そんな、印象を抱いたけれど。いつもいつもよそよそしかったのは、僕の方だったのに。
阿夢も、遠慮、してたのかな。そりゃそうだよな。気を、使わないわけがない。
「……いろいろ、ごめん」
僕は目を瞑って言った。
「やだ」
足を何度も蹴られる。掛け布団がバサバサと風を送って涼しい。
僕は少し怖くなって、恐る恐る目を開けた。
「んふふ」
すると、阿夢は楽しそうに笑っていた。
「……色々とか、まとめて言おうとしてごめん」
「やだ」
足を蹴られる。布団が揺れる。ベッドが軋んだ。
「……その、ごめん」
うまく言葉にできない。
「やだぁ」
笑っていた。彼女は、笑っていた。
僕も、穏やかな気持ちだった。
彼女は僕を抱きしめ続けていた。
「ごめん」
何を謝っているのか、自分でもよくわからなかった。謝る事柄は分かっているけれど、うまく言葉にできない。
「やだってば」
彼女も、少し飽きたように抑揚を落とした。
「…………っ」
僕は、枕に顔を押しつけるように乱暴に目元を拭うと、目を開けて阿夢を見た。
「ごめん」
僕は激しく言った。
「やだ」
彼女にもそれが伝わったのか、よく目があった。
僕は耐えられず、息を飲んだ。次に息を吸った時には、僕は彼女を思い切り抱きしめていた。
「っう、ううっ、ぅうううっ、ごめん……っう、ごめん、ごめん、ごめん阿夢ごめんなぁっ……何もできなくて、お兄ちゃんなのに、お兄ちゃんなのに、ごめん、僕、頑張ったんだけど、ごめん、本当に、何も、何もできなくて、ごめん、忘れててごめん、考えなくててごめん、ずっと、ずっと、ずっと、気がかりだったんだ……!!」
僕は大粒の涙を零してしていた。
「やだぁああっ、ぐすっ、ゆるざないっ、ぜったいに、ぜっだいにゆるさないっ!!なんで、なんでなんでなんでなんで!!なんで私だけ置いていったの!!いみわかんない!!ずるい!!おにいちゃんだけずるいぃいい!!」
阿夢も大粒の涙を零していた。
僕と阿夢は、病院の人に見つかる事も考えず、わんわんと泣いた。泣きじゃくった。強く強く、互いを、痛いくらい抱きしめ合いながら。
何度も何度も同じことを繰り返し言って、泣きじゃくった。
時間が経つと、僕達はそのままの体制で、話を始めた。まだ夜は長そうだった。
冬で良かったと思った。
2人で布団を深くかぶって、ひそひそ話をするように、子供みたいに話した。
「あのさ?私にお姉ちゃんできてたことさ?知ってた?」
「あーいや、昨日まで知らなかった」
「“知らなかった”?やっぱね。ママ連絡とってるとか言って嘘吐いてた。マジ死ねばいいのに」
阿夢はヘドが出る、と言った様子で吐き捨てた。
「そう言ってやるなよ。僕らが出会えたのもその“お母さん”さんのお陰だろ?」
「うっわぁ。実の母になんてことを。お兄ちゃんの方が酷いこと言ってるよ。わかってる?」
僕らはクスクスと笑った。僕は、僕達が仲が良かったことを思い出した。
「ごめん」
僕は彼女を、再び強く抱きしめた。
「もういいって」
彼女は、ぼくの背中を軽く二度叩いた。
「……許したつもりないだろ」
僕は軽く目を細めて彼女を見た。
「許したとは一度も言ってないし言う気はない」
彼女は少し無表情に近かった。
「あっそ。勝手に恨んどけ。俺はもう知らん」
「たまに俺になるよね」
クスクスと阿夢は笑った。
「お前だってたまに阿夢になるだろうよ」
僕もつられてなのか、クスクスと笑った。
すると阿夢が言った。
「阿夢ちゃんは良いのです!可愛いから」
おでこをくっつけたまま胸を張るように口を突き出すものだから、危うくキスしそうになった。
「それで本当に可愛いから嫌だよなーもう」
さりげなくキスを回避しながら、本心を言う。
「えへへ」
阿夢は褒められて本心で嬉しそうにしつつ、さりげなくキスを避けられたことを根に持ってそうな目つきをしたので、僕は目を閉じた。
「なぁ。そういえばさぁ」
言いかけたところで、また阿夢の周囲の空気が変わるのを感じた。
「……私以外の人を口に出そうとしてない?」
「してる」
「それも女の人を」
「母も女の人でしょうよ」
思わず僕の口から減らず口が出た。
「そういう揚げ足取る人きらい」
「僕も嫌い」
くすりと笑ったのは、僕だけだった。
阿夢は急に怖い顔になって、抱きしめていたはずの腕には、必要以上に力が込められているように感じる。
抱きしめるじゃなくて、逃がさない、という意志を感じる。
「ここで言わないのもお互いモヤモヤするだろ?だから言うよ。僕にも姉……ではないけど、家族が増えたんだ」
「妹とか言ったらマジで自殺するけど」
「大丈夫だよ、お前の方が可愛いから」
「んふ。ちょっと思ったより嬉しかったからいいや」
存外本当に嬉しそうだ。が、追及は続く。
「僕の方の家庭もどきでさ、実は姉というか。従姉妹??みたいな人ができた」
「へえ。その人と共同生活してたら、意気投合して付き合うことになったんだ。へー。はじめてしったよ」
……何も言ってないんだが。
僕は少し呆れた。
「あのヤロウ口滑らせやがったな」
「口止めしてたんだ」
睨まれる。
「してないしてない全然してない!!なんとなく話して欲しくなかったことだし!!話すなら自分で話したかったし?!」
「話して欲しくなかった?」
やっべ。またまた口が滑った。
「話すとまずいことでもあるの?」
「ないない。いや、なんとなく気まずいだろ。妹放り出して自分だけ勝手に家庭内で打ち解けちゃって。その上共同生活している家族の中の従姉妹と付き合うことにーだなんて、孤独を謳歌している妹に100回殺されても文句言えねーなーマジでとかぜんっぜん思ってない」
僕の言葉に、阿夢は軽蔑したような目を僕に向けた。
「私そういうの嫌い。阿夢には正直でいて欲しいけどそういうなんか冗談めかして全部正当化しようとしてるの大嫌い。真面目に正直に話せばいいって言うんじゃないけど、追求する立場だと追求されるべき奴が叩かれることから逃げてるのを見ると虫唾が走る」
お前よく口が回るなぁ、とか思ったけれど、口に出すだけで多分今度こそ本気で半殺しくらいに罵られる気がする。
「……」
睨まれた。あーはいはい。これバレてるな。
「ふー。悪かったよ。あー悪かった悪かった!散々謝っただろうよ終わったことをぐちぐちぐちぐちうるさいなぁもう」
「兄さんほどじゃない」
「ごめんなさい俺が悪かったです。謝るので許してくださいなんでもします」
「へぇ。妹萌えの“お兄ちゃん”フェチなんだ。ふーん。おまけに1人でするときはあんな妹を想像してだなんて……ちょっと軽蔑」
蔑視。
「いや僕は全然そう言うのないから。そういうのは妹じゃなくてむしろ姉萌えだから気にしなくていいぶふぉっ?!」
顎を思いっきり頭突きされた。
「はいはいなるほどそこで出てきたか従・姉・妹!!」
こうして話は転々とし、実は共同生活状には、従姉妹が数人いて、それもみんな女の子達だということがバレるまでは概ね楽しく話した。バレてからも概ね楽しく話した。違いは足蹴りがあるかないかだ。
「世界で一番好きな妹は誰」
「妹に限らず世界で一番好きなのは阿夢だよ。今のところ。多分一生」
「未来永劫?」
「当たり前だろ」
「……そう。嘘くさ」
「おい、さすがに怒るぞ」
「……………………ごめん」
少し雑に彼女の頭を撫でると、彼女は複雑そうな顔をして僕を見たり撫でる手を見たりを繰り返した。
「彼女は2番目だ。間違いない。浴衣とはそういう付き合いをしている。初めからそういうことになっている」
「彼女に悪いとか思わないの」
「思わない。いや、思わなくもないんだけど、そもそもあいつが勝手にそれを望んで始めたことだからさ。僕、初めに言ってるんだよ。全部妹が一番だって」
「お姉さんなんて答えたの??」
彼女は少し興味があるようだった。
「いや、それでいいから、って。その状態ごと丸ごと愛する的なこと言ってたかな」
「何よ的なことって。テキトーだなぁ」
ふと、会話が途切れた。
なんとなしに、楽しいことの余韻に包まれた気持ちになった。
少しして、阿夢が言った。
「……いいなぁ」
素直に、そう思っているような声だった。純粋な、恨みやつらみに左右されていない、その影響を帯びていない声。
故に僕は何も言えなくなった。
「ずるいなぁ。浴衣さん、お兄ちゃんとイチャイチャできて」
「イチャイチャなら阿夢との方がしてるよ」
これに関しては確信があった。
「そういうことじゃないってわかってるくせにそういうこと言うんだよね。やっぱやだなぁ。そういうのは。でもまぁいいや。気休めもないよりマシだよね」
なんだか、やっぱり悲壮感があるのだ。
ここまできて、やっぱり結局状況は変わらない。
「でもさぁ。やだよねえ。好きな人が自分以外の人と話したりしてるのはさ」
単調な言葉を話す阿夢の目から、涙が伝っていた。
僕はそれがとてもつらくて、また阿夢に気持ちを引っ張られてしまう。
いけない。僕がこんなんだから阿夢は前に進めない。でも、そもそも阿夢を突き放す必要なんて、本当にあるのか?みんなで幸せにやっていく方法なんていくらでもあるんじゃないのか。
「……おにいちゃんさ。実は阿夢が押し倒せばなんでもさせてくれるでしょ」
ふと、あくらが明るい声で言った。
「……のーこめんと」
「させてくれるんだぁ。やっちゃおうかなぁ」
楽しそうな声遣いで阿夢は言った。
「大丈夫。知ってた?僕の妹って、どんなに自分がつらくてそうしたくても、兄の弱さに漬け込んで弱みを握ったりはしないよ。絶対に。100パーセント。これは確信」
「…………よく言うよ。本当は内心ヒヤヒヤなくせに」
「言ったもん勝ちやったもんがちだよ。やるなら今だ。ほらやってみろよ」
阿夢は黙り込んで、挑発的な僕の言葉に口を固く結びながらも、何やら葛藤をしているように見えた。
僕は何で自分が張り合っているのかよくわからなくなってきたが、やっと自分のやりたかったことがわかって、それを行動に移した。
「阿夢は良い子だよ。僕の期待を裏切れない。そうすれば自分は幸せになれるとわかっているのにできない。うん、良い子だよ。とっても良い子。偉いね。よしよし」
僕はまた、彼女の頭を何度も撫でた。
彼女は、何も言わなかった。
「たしかに、妹が僕の身を尊重してなのか期待を裏切れないからなのかなんなのかはわからないけどさぁ。いやぁ、本末転倒なんだけど」
僕は若干自分で引き気味にながらも、落ち着いて投げやりに笑って言った。
「そんな妹は、助けてやりたくなっちゃうよね」
「え」
くそっ、そうだ思い出した。阿夢を相手にしたくなかったのは、説得すれば必ず言い包められると思っていたからだ。
「期待して、良いの?」
阿夢が少し素直に聞いた。
「うん」
「期待外れだったら、たぶん自殺しちゃうよ」
真顔で言うものだから、本当にそのつもりなのだろう。いや、彼女の精神力も、当然無尽蔵ではない。するしないの問題ではなく、今度こそ耐えられなくなる。きっと、そういう意味なのだろう。
「……ねえお兄ちゃん。気を使わなくても良いんだよ?私が死ねばお兄ちゃんはもう無為に苦しまなくて済むし。あの浴衣さんならたぶん良い感じに罵りながら乗り越えさせてくれるよ、たぶん」
「やめろよ、そういうこと言うの。もしそうなるなら、僕はお前が死んだらお前の死を乗り越える前になるべく苦しい死に方をするよ」
「…………せっかく重たい妹から解放されたのに?」
「開放じゃない、地獄が始まるんだよ。阿夢のいない世界なんて僕には耐えられない。逆で考えてみると良い」
「うわあ」
阿夢は顔を青くした。
それから、ポツリと言う。
「ねえお兄ちゃん。私のこと、犯してくれない」
「ごめんなんて言ったかよく聞こえなかった」
「……聞こえなかったんなら良い。自分でやる」
のっそりと重そうに身体を持ち上げる阿夢。
「おいおいおいおい何する気だお前?!」
「阿夢ね、お兄ちゃんが好きなの」
「そりゃ知ってる。僕も好きだ。それで?」
阿夢は僕を見て大粒の涙をこぼす。
「なんで私たちは付き合っちゃいけないの」
悲痛な叫びだった。
「……兄妹だから」
思ってもいないことを、僕は口にした。
「世間体?」
「……そうだ」
僕は肯いた。
「……なら、ねえ、お兄ちゃん。もし私たちが、兄妹じゃなかったとしたら?」
「それはない。いつから一緒にいると思ってるんだよ。赤ん坊の頃からだぞ」
「実は、互いの連れ子同士が本当の兄妹として育てられてたら?」
「真実を隠す意味がない」
「逆だよ。むしろ伝える意味がない。だって、伝えたところで何も変わらない。夫婦は一生このままの家族の状態でいるつもりだったんだから。まさか将来離婚するなんて、最初はみんな思わないでしょ」
「……どういうことだ」
「もし仮に、私達が兄妹じゃなかったら」
「なかったら?」
「結婚してくれた」
疑問なのか、そうであるだろうと推測しているのか、僕にはよくわからなかった。
「……さあね。そもそもできるの?結婚。連れ子とはいえ兄妹でしょうよ」
「できるよ。法的にはね」
やけに現実味と真実味のある口調だった。僕は少し怖くなった。
「もしそうだったら、お兄ちゃん私にどうしてくれた」
「……今と変わらないよ。結婚なんて程度の狭い話とか制度で括られた愛なんて持ち合わせちゃいない」
「違うよ。きっと結婚してくれた。そうでしょ。それがわかってるから今と変わらないなんて言ってる」
「……」
そういえば、僕はなんのために妹を遠ざけていたんだっけか。
「ううん、違う!そう、お兄ちゃんはきっと今と変わらない。そんなことで変わる愛は、お兄ちゃんは持ち合わせちゃいない!!あはは!!確かにその通りだ!!」
阿夢は、結局1人で全部納得し、結論にたどり着いたようだった。
「全部あの女のせいじゃん」
周囲の空気が凍る感触がした。
「お兄ちゃんは私が一番なんじゃなくて、あくまで一番大切にしたい人が私なだけ。1番頼り合って支え合いたい人は私じゃない」
次々と紐解かれていく心理。
「お兄ちゃんは悪くないよ。仕方がないことだから。これはタイミングの問題。なるほどね、脇役のように立ち居振舞っておいてちゃーんとアンカー打ち込んでおいたってわけね。ふふっ、やるじゃん、浴衣さん」
ついてついけない僕のことを置いていって、1人で思考を進めていく阿夢。
「熱湯浴衣!!」
それはとても大声だった。
ーー
「邪魔です」
「あそ」
阿夢の威嚇を意も介さずに、ただ平然と浴衣は答えた。
「別に私はいいのよ?退いてあげても」
「……嘘をつかないでください」
疑り深く、決して浴衣を信用しないと言う決意をギラギラと瞳に移しながら阿夢は言った。
「いやいや、本気で本当に。条件は、あるけど」
「……ほらみろ」
浴衣は笑顔で言った。
「あなたが私より彼を幸せにできて、なおかつ私より幸せになれること」
阿夢は、背筋がゾッと泡立つような感覚を覚えた。
「……」
「だって、それなら、私一人分の不幸であなたと彼の2人がすごく幸せになるから、全体で見るとプラスでしょう?私が彼の隣にいるよりも」
「自信はあります。が、それは事実とは異なるかもしれません」
「なるほど、素直なのね。嫌いじゃないわよそういうの」
ーー
「勝負しましょうか。あなたと私、どっちが彼を愛しているのか」
「よくも私からお兄ちゃんを奪ったな」
「怒らないで、決してあなたは私にとって悪い子じゃないんだから」
「……」
「だってそうでしょう。あなたが死ねば彼が悲しむ。あなたが悲しめば彼が悲しむ。だったら、あなたを大事にするのは二次的に必要な事でしょう?私だって、彼を悲しませたくはないもの」
「ムカつくなぁイライラするなぁその上から目線の勝ち誇ったかのような言い方は!!」
「怒らないで、妹ちゃん。あなたなんて彼にとって所詮は苦しい記憶を互いに依存しながら生き抜いただけの存在。苦しくなくなればあなたも必要なくなる。彼は優しいからそのことに気づいていないだけ。一度大切に思ったら、死ぬまでそう思っているべきだと無自覚に無意識に思っている。可愛いくらい馬鹿で愚か。でもそこがいい。いいえ、悪くないといった方が正しいかしら」
「分析は得意?お得意になれるから好きみたいですけれど」
「事実よ。あなたにとっては残念だけれど、私はここであなたの心をへし折らないといけないの。ごめんなさいね、微塵も悪いとは思ってないけれど」
余裕の表情を消して崩さない浴衣。
「愛人くらいだったら、構わないわよ?別に」
「いつまでも下に見るなよ。あなたなんか所詮ただの連れ子。より思いの通じ合っているのは、すぐに私たちの方になる!!」
「あら、勝ち誇ると思ったのに。殊勝な心がけね。その通りよ、あなたの言う通り。子供の頃から話していたからって、大人になった時に気が会うとは限らない。ずっと話していたならともかく、ブランクがあってはいけないわ。そう、今のところあなたが負けている。でもそれは、すなわち慢心しないで頑張れば、その穴を取り戻せるとも言える」
「……穴はもう取り戻したと思うけど」
「そうね。そうかも。ええそうかもしれないわ。でも残念もう遅いの。諦めて。鍵穴は一度埋まったら円になるわ。そうなったらもう他の鍵は、どんなに穴に適した形の鍵穴でも、入れないの。絶対に入らない。鍵穴に入れるのは一本だけよ。穴を開ければ違うかもだけど。あなたにそれができる?自分のために彼を傷つけることが」
「……っ」
この女、どこまで考えて話している。自分はどうしたらこの女に勝てる?どうしたらこの女の必勝ルートから抜けられる?
阿夢はそこまで考えたところで、浴衣の言葉に孕まれた違和感に気づいた。
「おい……ちょっと待て。どういうことだ。お前、おい、今、なんて言った」
阿夢は完全に瞳孔を開き、怒りに肩を震わせている。
「あなたにできるかと言ったの。自分のために彼を傷つけることが……で、いいかしら?ぷっくすくす、くすくすくすくすくすくす」
笑いが堪え切れない、と言った様子で楽しそうにいやらしく笑う浴衣。
阿夢は確信する。
浴衣に飛びつき、その襟を思いっきり掴む。
「お前ぇええええええ!!」
「ぁあ怖い怖い。なんでそんなに怒るの?」
浴衣は真顔で思い出す。
「ぁあ、そういえば。あなたもあの人達の娘だそうね。あらごめんなさい。とばっちりよね、あなた達は。これは素直に謝るわ?だって私が悪いもの。くすくすくすくす」
言葉とは裏腹どころか、まるで謝る気がない。どころか、今度は手で覆いながらも隠しもせず笑っている。
「でも、あなたもよく知っているでしょう?あの家庭にはもともと無理があったのよ。私は彼を救い出すために、やむなく家庭を壊すお手伝いをしただけ。真の団欒を壊すなんてこと、普通にはまず無理よ。まぁ、私にはできるかもだけど、そんなことはどうでもよくって。えーと、なんだったかしらね?くすくすくすくす。ぁあそうそう、私を恨むなら、家庭を壊したことよりも、兄を奪ったことを恨むといいわ。家庭を壊すことに関してはちょっと筋違いよ?それによって彼は救われたというのはまぁ事実上結果論的にしょうがないくらい否定できない事実だから」
ひとしきり笑い終えると、浴衣はつまらなそうに、怒りに打ち震える阿夢を見る。
「そんな怒らないで……って無理か。クスクス。ごめんなさい、笑うつもりはなかったんだけど、あんまりに自分の思う通りに行くものだから面白くって面白くって。私、悪い人間じゃないのよ?いや、本当に。信じられないでしょうけれど、いや、本当にね?ぷっ、言えば言うほど嘘臭くなってる……くすくすくすくすくすくすくすくす」
兄と何があったのかはわからないが、この女は狂っている。阿夢はそう思った。
「私ねえ。異常に愛しすぎているんですって、渓谷を。そういう家に生まれたの」
「は?」
「信じられる?自分の家が、誰かしら心に決めた人を異常に愛する、って。信じられないわよねえ、くすくす。だって、ただ単に私が幾つになってもバカップルの親がいて、祖父母もバカップルなだけなのよ??ただの仲良い人達なだけじゃない〜、って」
椅子に腰掛けた浴衣は、くすくすと笑う。
「渓谷に初めて会ったときわかったわ。恋とか、そういう次元じゃなかったの。一目見たときから、あいつを自分の思い通りにしないとおかしくなってしまいそうで」
「歪んでる」
「そんなことないわ。極端なのは気持ちだけ。やってることは至極真っ当よ?家庭内不和で両親に苦しめられ、両親から妹を守り、自分には味方がいない。可哀想じゃない、そんな彼を助けるために、私は御両親にただアドバイスしたの。離婚したらどうですか、って。それだけ。まぁちょっと弁護士とかなんか探偵さんとかその辺のいざこざ恐喝くらいはあったかもしれないけれど、概ね渓谷が許してくれる範囲のことしかしていなかったわよ?」
ならば大丈夫なのだろう、と思ってしまうあたり、自分も兄にぞっこんだなと阿夢は思った。
「私はあなたの敵だけど、あなたは私の敵じゃない。あなたの敵は私だけど、私には敵なんていないわ。無敵だもの、彼がいれば」
それは、圧倒的自信。圧倒的理解。故の、圧倒的な違いの理解、それが強固な絆、支え合いにつながっているのだと阿夢は理解した。
「でも、そうね。私はあなたからお兄ちゃんを、あるいは、お兄ちゃんから妹を奪ったことには変わりないわ?まぁその辺りについては仕方がなかった、としか言えないけれど」
悪びれもせず浴衣は喋り続けた。
「あ、せっかくだから、この前吐いてた嘘も一つ。種明かししていいかしら?」
「……もう勝手にすればいいじゃないですか」
「敬語なのが可愛いから、少し優しめに。あなたはそれを聞いたら絶対に落ち込むと思ったから、渓谷と決めていた事があるの。嘘よ。優しい嘘。でもそれを暴くことは、要するに優しさを剥奪して貶めることを意味するわ。私がそれをするのは、単に愛しのダーリンに寄る羽虫を叩き落として痛めつけて身の程を理解させて楽しむだけじゃなくて、一緒に彼を愛していきましょう?っていういわば同盟、部下にならないかっていう誘いの証でもあるのよ。わかる?」
「ぜんっぜんわかんないですうー!!!」
ムキになって話した阿夢に、間髪入れずに立った一言浴衣は告げた。
「彼ね、私の弟なの」
衝撃が走り、同時に、様々な思慮思考が阿夢の中を過った。
姉に、兄を、奪われた。その上、自分は妹という肩書きすら奪われ関係性を剥奪され、あまつさえそれを奪った本人は兄だけでなく姉という、私から奪った“最も親しき家族”の肩書きまで奪った。
「そうそう、あなたが疑問に思っていることを教えてあげる」
浴衣は続けた。
「なんで彼があなたを受け入れられないか、について」
浴衣は続けた。
全て彼は知った上でやっていた。
「一度入った鍵穴は抜けないわ。私、死んでも抜ける気ないもの。殺しても無駄よ!あなたに私は殺せない。肉体は殺せても彼は取り返せない!!あははははは!!惨めね!!」
その女は高笑いをした。
ーー
僕は一月ほど前のことを思い返していた。
当初2週間と思われていた入院が開始1週間で4週間想定だったことがわかる。落ち込む。地獄から逃れてきたはずの病院が、また新たな地獄だと感じていた。
食事は健康的で、病室がカーテンで区切られた、保健室を思い出す相部屋ではなく、個室だったことも幸いしてーーいや、正確には浴衣がそうしてくれたのだがーーシャワーにトイレ、果ては大きなスイカ一つ入るくらいの冷蔵庫に小さめのテレビまで。おまけにドア付近にある洗面所は手を翳せば自動で水が出る仕様。
枕元にあるナースコールのボタンを押せばもちろん、直接声をかけても柔らかく対応してくれる看護師さん達。
月曜から木曜日まで、ほぼ毎日朝と夕方に担当の先生の回診。
患者1人に担当医に加えて4、5人のグループ態勢で対応してもらえる。
毎日困ったことや不安なことがないか聞かれる。
毎日担当の看護師さんが毎朝の検温血圧腹部の触診、睡眠状態のチェックをしてくれる。困ったことがあれば一緒に考えてもらえる。話を聞いて欲しいといえば時間をつくって貰える。
果ては、散歩の同伴まで。
非の打ち所がない病院の施設。
まるで病院ではないかのような至れり尽くせり。
でも僕には、それが余計なおさらそこが病院なのだと、気遣っている裏が透けて見えるようでたまらなく不快で不安だった。
誰に何を言えばいいのかもわからず、ただ落ち込んだ。
監視カメラが部屋にあったから、暴れる気にはならなかった。隣の部屋には人がいるから、大声も出せない。騒音にはかなり気を使った。それでも最低限の生活音で迷惑をかけてしまったかもしれないけれど。
涙が滲んでは虚無的な笑みをこぼすことを日に2、3回、これを何度も繰り返した。
どんな憤りも、言葉になる前に消えていた。
治る可能性を想って、自分で入院の選択をした。
果ては自分が何に不満なのかすらわからなくなっていた。
不満を聞かれるから答えるけれど、答えは出ないまま日々が続いた。
2週間を過ぎた頃には生活に慣れ始めて、食事にも何も思わなくなっていた。
2週間を過ぎたあたりから、食事が2週間単位で同じものが繰り返し出ている事に気がついた。
それでも毎日共通するのは、朝は牛乳がありパンが主食なこと。たまにチーズも出た。乳製品は基本朝しか出なかった。昼と夜は大体いつもご飯と汁物がある。
入院予定が、残り3週間を切る頃には、僕もこのままずっと入院が続いていてもいいのにだなんて馬鹿なことを本気で思っていた。
感覚としては、小学校を卒業するときの、このままずっと小学校に通っていたいなどという感覚に近かった。
入院が残り1週間になってからは、僕は退院のことを、少しずつ考えるようになっていた。
はじめの頃あんなに考えていた退院がもうすぐ近くになると、なんだかここへ来て何が変わったのかよくわからなくなった。
シャワーを浴びるとき、冷たい状態から暖かくなるまでがやけに早く感じていたのは、多分気のせいではなかったのだろう。
病院はあらゆるものがバリアフリー、とでもいうのか。いって仕舞えば、介護しやすいようにできていると感じられた。それは決して僕にとって使いにくいわけではなく、むしろ使いにくさよりも広々とした空間が使いやすかった。手すりも掴めば立ちやすかったし。困ることはなかった。
それが僕に精神的な影響を与えていた。そう、たとえば、その高い利便性が、入院をする、という事につながっていたのかと感じるように。
寝るときに頭を向ける方の部屋から少し小さめに音楽が流れてきたり、聞き取れないくらいの大きさの電話の声があったのは、僕にとって不思議な感覚だった。
アパートなどでよく聞くような、隣の部屋の生活音がうるさいというのはこういうことなのかな、と僕は思った。
看護師さんからは、テレビをつけてうるさいと言われたらこちらから伝えるから、全然気にしなくていいと言われていたが。
結局、テレビは病院に来た初日に使い方を説明された時の一度きりしか点けることがなかった。
騒音を立てるのが怖かった。
そんな、とりとめもないくだらないことを考えていて、僕は思った。
ぁあ、思い出せない。
大事なことが欠けている。なんで僕が病院にいるのかとか、なんで来たのかとか、そもそもなんで退院していいのかとか。いや待てそもそもなんで入院したんだ?
なんてことを繰り返していたら、次第に考えることをしなくなっていた。
起きていたことはわかるのに。事象でしか認識できない。普通、嫌なことを思い出したら嫌な気持ちになるものだと思うし、怒るようなことがあったら怒る気持ちに少しでもなると思うのに。
今の僕はただ、不和が解消されたわけでもないのに、ただ、ただ、起きたことを認識することしかできなくなっている。
あのときこうされて、あのとき僕は怒っていた。あのときこんなことがあって、あのとき僕は悲しかった。それだけだ。
今の僕は何にもない。そんな状態。
ふと、阿夢の顔が脳裏に過ぎった気がした。
目に涙が滲んだ。
それは溢れることなく、滲んだだけで収まる。いつもよく起きることだった。
まるで目薬をさしたかのような目の潤み方だった。
ぁあそうか、僕はきっと、離れたくないんだ。
……うん。わかっていたよ。
“だからきっと、考えないようにしていたんだね。”
僕の心の中で、浴衣が言った気がした。
ーー
色々落ち着いて共同生活が始まって落ち着いて。ある日、阿夢が浴衣に尋ねた。
「ねえ。浴衣ちゃん。お兄ちゃんとどこまでいったの」
「どこまでって?」
浴衣はわかっていて訊ね返した。
趣味が悪いなと阿夢は思ったが流石に呆れて取り合わず、そのまま答えた。
「一応交際しているんでしょう?キスとか手を繋ぐとかあるじゃない」
「……」
目を細めて少し考え込む浴衣に、阿夢は笑いながら言った。
「あっ、もしかしてキスもまだ?!」
馬鹿にするような、まだ自分にもチャンスがあるような、そんなような可能性を孕むように言われたものだから、浴衣は少し怒って逆に言い切った。
「全部よ」
浴衣がなぜか少し怒りっぽいなとは思った阿夢も、その言葉の意味をしっかりと頭の中で理解できるまでに時間がかかった。
「……ぜんぶ、」
柔らかく復唱して、彼女は思わず口元をひくつかせた。
「お生憎様な事で。さー、噂のダーリンに愛してもらいに会いに行きましょーっと」
そう言って、あからさまに阿夢に敵意を見せつける浴衣。
「ねっ、ねえ?!お兄ちゃんとはいつ会ったの?!」
「え?会ってから最低でも二年は経つけど」
「3年は?」
「え?」
「いいから。あーこれでもいいや。あの、それって私とお兄ちゃんのパパとママが離婚してから??」
「…………なに?気色悪いわね。目をつけてたのはもっと前からだけど、ええ。そうよ。直接会ったのはそれくらい」
それを聞いて、しばらく俯いている阿夢。
急にどうかしたのかと思った浴衣に反して、急に笑い出す阿夢。
「く、くくっ、ぷっ、ふふっ」
「な、なによ」
「い、いや、なんでも」
笑いが堪え切れない、と言った様子で、阿夢はケラケラと笑い始める。
その様子に呆れ果てて、浴衣は構わず渓谷の元へと行こうとする。
二階にいる渓谷の元へ階段を上っていると、あくらの声が後ろから聞こえた。
「ねぇえ!!浴衣ちゃんさぁーあ!もしかしてー!お兄ちゃんの初めての彼女だからってぇー!自分がー!!」
楽しそうに、明るく嬉しそうに言っているのが、浴衣にとって、実に気味が悪かった。
「全部お兄ちゃんの初めて独り占めしてるって勘違いしてたりしないよね」
家中に響き渡るような、ケラケラとした不快な子供っぽい笑い声が不快で、ふーっ、と息を吐く浴衣。
「名前で呼ぶのはやめろっつっただろうが……!!」
小さく呟くと急いで階段を駆け上がる。
「ねえ!!渓谷!!」
叫ぶ浴衣。
「なあに」
彼は本を読んでいた。
「どうしたの慌てて」
さっきの阿夢の大声が、聞こえていないはずがない。そう思いながら、浴衣は絶叫するように問いただした。
「私が初めてだって言ったよね?!」
浴衣は仮にあいつのいう通りでもそんなことでどうこうなる事はないと思いつつ、自分自身が思いの外動揺していることに気がついた。
「うん。そうだよ?」
彼は即答した。
「……って、ごめんなんのことかよくわかんないけど。初めてできた妹、とかじゃなければ。妹関連じゃなければ全部君が初めてだと思うけど?まぁファーストキスは、6歳くらいの時に転ばされて口から床についたから、それが初めてかもだけど」
「くそっ!!」
浴衣は冗談すら耳に入らないようだった。嘘を見分けることはできる。できるはずなのだ。ではなぜ?なぜあの妹はあんなに自信満々に言った?そういう作戦?いや、にしては何か妙だ。違和感、そう、渓谷の方にも違和感がある。
そう、なにかーー。
渓谷は無視して階段を駆け下り、下の階に落ちるように着地する。
阿夢はどこだ。
探すまでもなく、そいつは階段前の廊下で楽しそうに佇んでいた。
「どういう事だ!!」
「でもこれは……中学生の時の、お兄ちゃんと私の、2人だけの秘密だから」
唇に人差し指を当てて、ウインクしてみせる阿夢。
「……説明しろ」
「浴衣ちゃんこわーい」
完全にふざけている。この女は明らかに上位を気取っている。浴衣は一刻も早く吐かせて対処法を考えねばと思った。
「……はぁ、うるさいなぁ。聞かなきゃ疑惑で済むのに。聞いたら確定だけどいーのー?」
「煩いさっさと話せ」
浴衣に胸倉を掴まれ、ニヒルに笑った阿夢は話した。
「ほら、もう随分前のような気がするけれど、ちょっと前に彼から聞いたでしょう。私を殺そうとしたって。私もそれを覚えてる。それでね。その時に、私言ったの。どうせ殺されちゃうなら、それ自体は全然構わないけれど、せっかくだからお兄ちゃんの手助けがしたいって」
にやにやとニタニタとニマニマと笑う阿夢が、浴衣には不快でしょうがなかった。
「それで……!!」
襟元を揺さぶる浴衣。
「急くなよ。今話してるだろ」
笑って話し続ける阿夢。
「私が言ったのはそれだけ。あとはお兄ちゃんの方からがバーっと。雨が降っててねー。外がうるさくてお互い眠れなかったんだよ。ただ、約束したのは、この約束は忘れようってこのことは忘れようって」
阿夢はくくくっと笑った。
「いやさぁ、私から持ちかけたんだよ。それ。私は全然楽しかったし面白かったしなんなら幸せだったけどさぁ、お兄ちゃんが絵に描いたような絶望っていう顔しててさぁ。見るに耐えなくて、忘れようって。私から。忘れてくれなきゃ困る、とか言ったかなぁ。ほら、私もお兄ちゃんも根は真面目だから。バカ真面目に互いのために約束守って忘れようとしてたわけだけど。多分、お兄ちゃん覚えてなかったでしょ?」
ケラケラと笑いながら、浴衣の表情をよく見て阿夢は言った。
「ひっどいなぁー!そんなに忘れたかったのかぁ!!あっははは!!これ私が忘れちゃってたら完全消滅かぁあーよかった」
阿夢は浴衣の両目を背伸びして覗き込むように言った。
「忘れてなくて、ほんとよかった」
渓谷って、ところどころ記憶が抜け落ちてて変な部分あるよねえ、と、阿夢は呟いた。
「小さい頃に人とか殺してたりしてもぜーんぜんおかしくない追い詰められ方してるし。くくっ」
もし殺してたら、1人じゃ到底しきれないその手伝いをしてたのは誰なんだろうね、と続ける阿夢。
浴衣は理解した。もはやブラフかどうかも関係がない。大事なのは、渓谷ですら知らない事実を知っているという絶対的な自信!!
「あーあーみんな真面目だなぁ馬鹿みたい。普通にお兄ちゃんを分け合えばいいのに。私がケーキを切ってあげるからさ。みんなで食べるといいよ。きっと美味しいよ?くぷぷっ」
渓谷の行動過去の過ちも全てそれもどうせ全部お前が誘導したんだろうが阿夢ぁあ……!!!
浴衣は激怒した。
「阿夢が……!!」
「お前に言われたかねーよ黒山羊」
かくして、能天気な闇を抱えた自覚なしの少年渓谷は、2人の女性に狙われながらあるいは、もっと多くの女性に狙われながら、生きていく。
泥沼なドロドロの争いは、まだ始まったばかり……。
まず病院に関しての話はほとんどでっち上げだと思ってください。小説内にて夜間見回りの意味がないと言う旨の発言がありますがあれは都合よくねじ曲げて書いているだけですので、どうぞ現実には当てはめないでくださいね!!
オムニバスなのに投稿の文字数に収まりきらず前後編になってしまいました!!読んでいる方、気にされている方等いらっしゃいましたらすみません!!
これは 丁度1年前頃に書いていました。ヤンデレかどうかあまり自信がありません。
これが私の思うヤンデレではないのかなと思うのですが、正直言ってだんだんおかしな方向に逸れてきている自覚があります。
なんだかこじれてきていますよね。わかりにくくなってきている気がします。がんばります!




