2018年12月の邂逅 渓谷・? 前編
お久しぶりです。こんにちは。 前後編、全編です。
今回は『病院』が舞台の『長く暗い話』だと思いますので、そういったお話が苦手な方は念のために読まれないことを強くお勧めします。
あくまで楽しんでもらえたらと思って載せているため、載せておいて言うのも申し訳ないのですが、私のように『あっ今不安定だなやめておいたほうがいいかもーー』、と思った方は読まれないことをお勧めします。
幾月か前の話をさせて貰えば、きっと僕は、あの時のことを日記にでも事細かに書いておくべきだったのだ。
ーー
「慣れちゃだめだよ」
浴衣は、そう言い残すと僕に背を向けた。
途中彼女は何度か立ち止まって振り向いたけれど、ドア付近まで近づくと、スライド式の白いドアを開いてそのまま帰っていった。
結論から言えば、僕はたかを括っていたのだ。
修学旅行の延長線上だと。所詮高校の寮生活と同じようなものだろう、と。たかを括っていたのだ。いや、厳密には違うか。不安に高鳴る胸を、押さえつけるために、安心させるために、毎日不安が続くなんてことにならないように、と。自分に言い聞かせていたのだ。
きっと大丈夫、修学旅行の延長線上のようなものだからと。寮のようなものだろうから、と。
違ったのは、年齢。圧倒的に年齢が上の人達とすれ違い、同じ階に共同生活をする。
それも、病気の人達と。このストレスは計り知れないと思った。
怖かった。すれ違う人に何をされるのかわからなくて。
僕はこんな設備を使っていいほどに悪い状態なのか?
当初から感じていた場違い感が、ここにきて自分を追い詰めた。
みんな、“自分よりも悪い症状なのだ”、と。
そんなことを思って部屋に閉じこもっていたすぐ後のことだった。
食事を終えた御膳をどこに置けばいいのか困っていた僕を、近くにいた患者さんが優しく教えてくれた。
その人は、日頃廊下ですれ違うたびに、僕がたびたび恐怖心を募らせていた人だった。
何を考えているんだろう。なんでこんな人がここに?意味がわからない。怖い。怖すぎる。できる限り刺激を与えないで最小限でしか関わらないようにしなくちゃ。そんなことを思っていた。
単純に言えば、すれ違う人の中で1番怖いと思っていた人だったのだ。
1番怖いと思っていた人が、思っていたよりも良い人で、あんな酷いことを思っていた自分を少し恥じた。
年齢を重ねている人は、その分場数が違う。単純に、良い人が多いのでは?なんてことさえも思った。
先程予想していたより、快適かもしれない。
現実的な心地よさがこれから広がりそうな気がした。
それは、翌日のことだった。
「たっだいまぁー!」
ノックの音もなく、病室のドアが勢いよく開く。
「馬鹿馬鹿、声が大きい!!響くんだからここは」
「おっとごめんごめん」
宥める僕を見て数秒、怪訝そうな顔をした後に、あからさまに不快そうな顔をする彼女。
が、すぐにニコニコと笑った顔に戻ったので、曖昧な自分の記憶から僕は、それが気のせいだったのでは、と思った。
「何か変わったことあった?検査とか。一応検査入院でしょう?一応」
彼女は可動式の柵を下ろして、ベッドに座る僕の隣に腰を下ろす。
その一連の動きに、あまりに迷いがないものだから、僕は軽く引いた。
彼女に自信があるのか、僕が信用されてるのか、どちらかはたまた両方か。わからないけれど、あまりの迷いのなさに、とにかく驚いたのだ。
「……う、うん。そんな、一応を強調するなよ」
「なんだその顔はぁ、文句あるかぁ!」
ガスガスと肘で僕の身体をついてくる。
「ないない!全然引いてないって!」
「なんだと貴様ぁ!引いてたのかぁ!」
ふざけて襲いかかってくるようで、僕はその勢いに気圧されて後ろに倒れる。
ゴチン、という音がして、金属板の中で音が反響する。
ベッドの足元には、机がセッティングされていたのを忘れていた。
ちょうど、学校にある机と椅子のセット、配置をそのまま椅子をベッドにして横長の机を上から被せたみたいな形である。
僕はそこに、思いっきり頭をぶつけたのだ。
「〜〜ッ!!ぉおっ、めっちゃ痛え……痛くないけどめっちゃ痛え……!!」
頭を抱えて唸る僕に、彼女は軽く笑った。
「いやどっちだよ」
浴衣に背を向けて唸っていたものだから、彼女はそのまま唸る僕を後ろから抱きしめる。
「ごめんごめん。よしよし、痛くなーい痛くなーい。全然これっぽっちも痛くなーい。私は全然痛くない」
「あやしてるんだよなぁッ?!嫌味を言ってるんじゃないんだよなぁッ?!」
「あんま興奮するなよ、頭から血ぃでるよ」
「頭は大丈夫。どちらかというと腕かな。腕。朝採血したから。起きてすぐ」
「わざわざ降りたの?下に、うわめんどくさぁーあ?」
浴衣は、ここは9階だから下に降りて別の棟で検査をした、と言いたいのだろう。
布団から音がして、ベッドが軋んだから後ろを見ると、彼女はベッドに寝転がっていた。足は僕の腰回りにくっつけるようにしたまま。
普通にくつろいでいた。
「いや?普通に6時過ぎくらいに看護婦さんが来て、採血してった」
「えー!なにそれ起こしてくれたん?」
美人看護師かよクソが、と乱暴に言い放つ彼女は、なんというかまだふざけている感じだ。
「いいゴミ分だこと」
「なんか発音おかしくなかったか」
「冗談冗談。全然羨ましくないから」
「羨ましいか?採血って。怖かった、という話をしようと思ってたんだけど」
「お前なぁ、何歳だよ今。17だろ?17。針が怖いってなにそれ」
「オチは、全然痛くなくって、考えようによってはそういうプレイだと思えなくもないな、と。ぁあいや、こういうこと言うのは失礼なの承知してるからあくまで冗談ね」
「なら冗談でも言うなよなぁ……あれ?この文脈って私嫉妬した感じの方が良かった?なによなによ、あんな女の針の方がいいって言うの?!私の針の方が絶対痛くないのに!!みたいな?」
「いやごめんさすがにそれはちょっと狂気を感じる」
その流れだと、オチは女性2人が争って、最後には干からびた僕が残るってところかな。比喩でなく干からびるわけだ。
ぁあ恐ろしや。
彼女は少し悩んだ様子で話し始める。
「ぅーん。正直あんまり嫉妬する要素ないよなぁ……そもそも入院だし。健康じゃないことの裏付けみたいなもんだし。なんか、その辺の気持ちはそこ弁えると出てこない」
そんなに興味ないし聞いてないんだけど別に、と言いかけた僕だった。が、気付く。
弁えると出てこないってことは、弁えないと出てくる、ってことか?それは。ちょっと怖いな。
「別に?まぁ一応看病……は無理でもお見舞いに来てるわけだし。負担かけても意味ないし。しょうがないし。本当は毎日泊まりたいけど流石に止められるし。出禁喰らってもしょうがないし。別に?全然普通ですけど?ええ普通ですとも」
なぜか突然拗ねたような口ぶりになる浴衣。
「いやぁ悪いごめん。僕さぁ、初めての入院生活初日でいっぱいいっぱいでさ、そんなこと考える余裕なかったんだよね」
「余裕がないって言い方すると、余裕があれば考えてた〜みたいに聞こえるけど、それってつまり余裕がなくなれば感じなくなる程度の思い、ってことなんだよね実は」
今度は拗ねるでも嫉妬するでもなく普通に真顔で言い放つ。
「嫌な言い方するなよなぁ……心配しなくても、ちゃんと好きだって」
「聞いてないし。効いてるけど」
なんだそりゃ。
「と言うか、僕は浴衣が好きだけどさ」
「ごめん名前だと突然意味不明なこと言いだした着物フェチみたいに思える節があるからあだ名にしてくんない」
「……ぅおんっ、僕はっ!ゆかが好きだからッ!!」
真面目に言ったのに、なんかマジレス風に言われた僕は涙目だった。
「叫ぶなイキるな落ち着け落ち着け」
目を細めてニヤニヤと笑う浴衣。
遊ばれてると自覚するのはいつものことだが。今回はまぁそのおかげで少し安心したりもできた。そこまで考えてたら凄いけど。実際のところは知らない。
僕も、病院にきてこのやり取りをしたから安心する思いと、病院にいる時くらいやめない?みたいな思いが混じり合っているのでなんとも言えない。
比較的に明るくて前向きなため息をついた僕は、一言話す。
「あのね、僕はね。自分の心配をすることが、君への恩返しになるのでは、と思う節がある」
「えっ怖い怖い返すような恩なんてあげたっけ?」
そんな得体の知れないものを見る目で見ないでくれないか。傷つくぞ。
「あーいや恩というか、気持ち?愛??あい?」
「愛?そんなものあげたっけ」
「えーと。泣いていい?」
「嘘嘘冗談!あげ過ぎてあげてないのと同じくらい飽和してた!」
「…………まぁ愛はもらってるのは僕が1番よく分かってるからいいとして」
「そりゃよかった。私も欲しいなぁ、愛」
「えっくれる人いないの?」
おどけて言ってみる。
「うん……あげても、半分も返ってこない」
申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
「ごめんなさいね頑張ります」
「……はい。まぁ今は治療に専念しなよ」
「うん。そうさせてもらう」
彼女の気持ちのためにも、そうすることにしよう。
「愛という不治の病の、治療にねッ!!」
上手いこと言ったぜ、みたいなドヤ顔で片目を閉じたウインク、だめ押しで、なんかキザっぽく人差し指で僕を指差してくる。
「えーと。つまり言いたかったのは、僕は自分の治療に専念することで、君の心労を減らせるんじゃないのかな、とね。だから治療に専念します!と言いたかった」
「あーはいはいがんばがんば」
「えマジで泣くよ?泣いていい?ねえ僕泣いていい?!」
3分の2が冗談でできた言葉ではあったが、つまるところ3分の1は泣きそうだった。
「へえ。じゃあ君は泣きながら、君が見ていないところでどれだけ私が泣いているかを考えてみるといいんじゃない」
ニコリと笑って言うものだから、その嫌味がましさが尚更、言葉に真実味を増させていた。
「…………すみません」
「わかればよろしい」
少ない時間の間を縫って、せっかく一緒に居られるんだから、もう少しいい時間を過ごそう。そのための努力をしよう。僕はそう思いそう伝えたが。
「いや、まぁうん。頑張って」
と、暖簾に腕押しな感触が返ってくるばかり。
「いやさぁ、良い時間を創る為に努力するって、それを否定はしないけどさ?だって無理する方が嫌じゃん。ありのままが1番だよありのままが」
「古いぞ」
「一言もネタは言ってねぇッ!!」
若干腰と背中を足蹴りされつつ、和やかな喧嘩は、こうして幕を閉じた。
ーー
「なぁ、看護婦さんって女の人しかいないのな」
「いや、まぁ、うん。え?なに?ニューハーフとかオネエの看護婦がいると思ってたわけ?キャラ濃いわ、お姉さんキャラで十二分だろもう」
確かに、看護婦、なんだから看護婦さんの中に女の人しかいないのは当たり前か。
「というか君は看護師って言葉を知らないの?」
信じられない常識知らずという顔で見つめられた。
“看護婦”という言葉は、法律と行政機関では現在もうほぼ使われないと言われて慌てふためく僕だったが、苦し紛れに自分の思ったことを彼女に伝える。
「いやでもそうではなく、身の回りの世話をしてくれる人達?って言うのかな、そう言う人たちって女の人ばっかりなんだな、って。なんか怖いんだよね、思ってたよりも印象が。実際はそんなことないんだけど」
「え?何君ハーレムウハウハとか思ってたクチ?17歳にかこつけてまだギリギリオネショタいけるんじゃねイン病院とか思ってちゃった感じ?!うわっ、痛いわー痛々しいわ〜」
一言一句最初から最後まで見抜かれた。痛々しいところまで、正にその通りである。
「ねぇ君何?!僕のHPMP減らしにきたの?!浴衣は僕をゲームオーバーさせたいわけ?!」
心から悲痛の叫び声をあげる僕に、彼女はどうでも良さげに、投げやりに呟く。
「突然着物の批評始めたよこの人……」
「お前の名前だろうがッ!!」
再び叫ぶ僕に、彼女は面倒臭そうに話す。
「だからさぁ、はぁ、私名前好きじゃないんだってば。いや、嫌いじゃないんだけどもっとあだ名とかで呼んでほしいという気持ちがね?」
「ゆかは僕のライフをゼロにするつもりですか」
「ゆかたん」
僕は無視する事にして、考え込んでみた。
「ハーレムねえ。ハーレムハーレム……」
それはつまり、自分にないものを求めているということなのだろう。
「わーんむしされたー」
それは棒読みだった。僕も気にしなかった。
僕は続けた。
「……君がいなかったら、もしかしたら僕は病院に出会いを求めていたかも知れない」
「違うだろそれは。出会いを求めてるから、病院に可能性を感じただけだろう。その言い方だと、第1目標“人と出会う為”に病院に入ってる事になる」
「ぁあ、まぁ確かにそうではないね。あくまで付随的でサブミッション的な位置付けだし」
「思うんだけどさぁ。言いたくないんだけどさぁ」
「じゃ言わなきゃ良いじゃん」
げし、と足で胸やら腹を歩くように何度も蹴られる。
「ご、ごめんって」
それは治らないまま、話は続く。
「君さぁ!渓谷ちゃんさぁ、“求めていたかもしれない”っていうけどさぁ、今も求めちゃってるんじゃないのぉ?」
「いや、彼女いるし。僕の中じゃ既婚者みたいなもんだし、感覚として。結婚した事ないからわからんけど」
「想い重い。私の方が重いけど」
自覚があるから、この女性は自分の毒の使い方を心得ていてタチが悪い。まぁそれも含めて全てバランス良くなっているから問題ないのだが。
と言うか、そうなるとそこまで自覚して考えてやっているのでは、と思うのだが、それすらももうバランスのうちなのである。
「あーだからほら。入院中に可愛いメンヘラ女の子達に言い寄られて、なんかヤンデレ風に色々つきまとわれて、でも自分には彼女いるからー、みたいな?私のために争わないで的な渓谷と、彼女《私》と言い寄る人の修羅場に遭遇しちゃって、その上みんな何を言っても自分の存在価値を高めてくれるから嬉しいなぁ、みたいな。んで、最後はこんな事なら、僕はここに来るべきじゃなかった……僕のせいで、くっ!みたいな」
事を思ってたんじゃないの?と、呆れた顔で言う彼女に、流石の僕も呆れた。
「いや、ごめん。そこまでは考えてなかったわ」
なので、ダメージは少ない。自分が思ってたのは、言い寄られたらどうしよう、と言うところまでだ。
あれ、おかしいな。涙が滲み始めてる。ダメージ少ないはずなのに。
「うおっマジか」
少々遅れて、深読みした分のダメージが彼女に向かっていったようだ。あたかも人の気持ちを言い当てているつもりになって深読みしすぎた羞恥で顔が真っ赤になっている。
「はぁ、可愛いメンヘラ風の女の子とは私の事だったか……無意識にライバルが出る危険を感じて、こんな事を言ったわけだね、私は。なるほど。なるほどなるほど」
「あと君は別にヤンデレではないよ」
「あ、そう?かなり自覚あったんだけど」
「別に病んでるって言うか普通に悩んでるだけだろ?あ、“悩ンデレ”みたいな」
「面白くない」
「ごめんなさい……」
「まぁ普通の範囲内、と。確かにね。でもそれは私の思いが伝わりきってないだけかも」
「これ以上伝える気なのか君は」
院内の女性についての話が出てきたので、僕は改めて院内にいる人について考える。
すれ違う同世代っぽい人はいるけれど、それも1人2人だけ。話しかけることなんてしたいとはそこまで思わないし、そもそもそう言うのはあまりお互いに良くないから、タブーと設定した。
「気をつけた方がいいよ。言ったでしょ?慣れちゃだめ。何が起きるかわからないんだから」
僕はベッドから降りて、彼女を扉の近くまで送ることにする。
「それじゃ。お元気で。あ、お大事に。か。明日の私をお楽しみに〜」
「君もね。明日の僕をお楽しみに」
真似して言ってみる。
「生意気だぞ」
彼女は笑って僕の両頬を引っ張った。
「ほへぇんほへぇん」
「それじゃ……」
ドア前まで来て、僕の頰から手を離した彼女は、僕を見て投げキッスをする。
僕は眉を上げ、口パクで“ありがとう”、と言った。
「じゃーね」
静かに軋むドアのベアリングの音がして、扉が開く。
ウインクをしながら手を振る彼女に、僕も手を振り返す。
物が倒れる派手な金属音がした。
開いた扉の先の廊下から聞こえたその音に驚き目を向けると、そこには、僕の個室から見える廊下のベンチやら置かれていた金属やらが崩れており。
「おっ、おおっ、おっ、おッ……っう!!」
僕の個室の目の前、部屋を出ようとした浴衣を押しのけるように、少女の顔が僕の部屋に無理やりねじ込まれる。
突然のことに驚く僕。そして、言い放たれたのは一言。
「お兄ちゃん!!」
そこにいたのは、僕の妹だった。
「ほらみろ、言わんこっちゃない」
僕の眼前に迫り来る少女。面倒臭そうにため息を吐く浴衣。
浮かんだ彼女のワンフレーズ。
“何が起きるかわからない”。
ーー
僕には妹がいた。最後に会ったのは、おそらく3年前だ。
今となってみれば短い三年ではあるが。
両親の離婚に伴い、僕は父に、妹は母に、それぞれついていくことになる。僕の苗字はそのまま主音に、彼女の苗字は白河に。僕達兄妹の関係は完全に消滅。電話はおろかメールなどで連絡を取ることすら、全くなかった。
「うっ、うっ、うっ、嘘!!信じられない!!ううん信じる!!夢見たい!!現実だけど!!」
「何このうるさい子」
「……妹だ」
「嘘だろ?そんなことってあるか普通」
彼女が訝しげに呟いた。
「え?え!誰この人?!彼女?!彼女?!まじで?!」
「お前テンション高いなぁ……」
「お兄ちゃんが低すぎるんだよぉっ!!ねぇ、わかってる?!知ってたの?!あっもしかして知ってた?!」
「知らなかった。お前は?」
「阿夢でいいって!」
「白河さんは?知ってたの?」
「阿夢でいいってば!!昔みたいにっ!」
僕が距離感を掴めないでいるのに対して、彼女は全くそんなそぶりも見せず、ハイテンションなままに喋り通す。
「ねっ、ねっねっ!!メッセ!!メアドとか電話番号とか!!交換しよ!!」
「えっそれは……」
ちょっと嫌だ、と言いたいところではあったが、何せこれだけの奇跡の再会を果たしたのだ。それくらいしてもいいんじゃないのか。だいたい、僕の“家族以外登録しない”という制限の内にも、阿夢は例外的に入っているじゃないか。
あったのは、果たして彼女が家族なのかどうか、という認識についての疑問。
僕が彼女を家族と思っていいのかどうか、その判断は彼女に委ねるほかなかった。僕として思いたくても、彼女としてはもう僕を家族とは思いたくないのかもしれないし。今はハイテンションでも、いずれゆっくりと、大きな亀裂に気づき、その傷に傷つけられることになってしまったら。
そのことを考えると、僕は少し躊躇うのだ。
故に、僕は揺らいだ。
「ダメ。さっきから私を置いていって話してるけどさ」
ここで浴衣が声をあげる。
「あゴメン」
「誰?妹さん?ちなみに私は……君の口から言え」
「え?あ、ああ。こちら白河阿夢。元僕の妹。こちら熱湯浴衣一応彼女」
「まじかー!!にいちゃん彼女できてたかー!!いいなぁー!!リア充かようらやましー」
「いや、ここにいる時点でどうなんだそれは」
誰が入院をしているかというのは、服装のラフさ加減でだいたいわかる。外から来た人は、大抵しっかりした見た目を準備してきているから、なおさら入院患者はわかりやすい。パジャマ姿の人も多い。というか、別途料金で病院からもらえる着替えがパジャマなくらいに。
「確かに。てか、元妹って酷い!!」
「ゴメン流石に冗談」
「わかっててもそれはやっぱり酷い!!」
妹も、そうやって判断したのだろう。というか、一目見れば誰でもわかる。
要するに、“外には出られない楽な格好”だ。
「てか、お前なんでそんなテンション高いんだよ、ちょっと引いてるぞあの人」
「えっ?えっ?!えっ!!そうなの?!あっ、そうなんですか?!」
「妹じゃなくてお前に引いてるんだよ」
「えっ?!」
まさかの身内からの攻撃。いや、身内しかいないか、ここには。
「なんでなんでなんで?!彼女なのに??なのに?!」
なんだか、目に映るもの全てが面白い、とでも言いたげな、子供っぽい阿夢。少し可愛い。
いや、少しだなんてつけるのはやめろよ。事実を私情で捻じ曲げるなって。
って、僕は何に悩んでるんだ一体。可愛いなら可愛いでいいじゃないか。
「彼女だから。彼氏が妹と再会したのに全然喜ばないからひどすぎて」
「なるほど。大人っぽいねえ」
僕は置いてけぼりだった。
僕の個室では、3人のコミュニケーションが始まっていた。
それは唐突だった。
「お兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃん!!ねぇねぇ!!彼女と私どっちが可愛い?!」
「白河さん」
「やった!やったぁやったね!!彼女に勝った」
「はっ、ガキが。それは詰まる所、もはや可愛さじゃ測れないレベルの愛に達してるって意味だよ」
達観した様子の浴衣が言った。
「でもさ!でもさ!!でもでもでもさ!!可愛さでは私の方が勝ってるって!!浴衣ちゃんよりも!!んぱぁっ!やったね!!やったぜ!お兄ちゃん本当に?!」
「ぁあ。この手のことに嘘はつかない」
「お前全部のことに嘘つかないんじゃなかったのかよ」
「うるさいな強調してるんだよ」
「わっわっ!なんか大人っぽい会話!」
「この子うるさいからなんとかしろ」
あからさまに負けたことを不快に感じている浴衣。
「でもね、でもね?!わたし嬉しいなぁっ!だって、浴衣ちゃんめっちゃ可愛いもん!可愛い人に勝ったってことは、私もっと可愛いってことでしょ?!」
「渓谷ちゃんこの子何歳?お年玉あげたいんだけどッ!!」
「落ち着けまだクリスマスも来てない気持ちはわかるが」
はしゃぐ阿夢は、ベッドに座る僕を何度もチラチラと見る。
「?」
「あ、あのね?あのね、えと、その……」
僕はなんとなく阿夢の言いたいことを察していたが、彼女もこの3年のブランクを感じていたのだ、という実感に、驚きその反応を忘れていた。
「おっ、お膝乗ってもいいかなって」
「あっ、ああ、いいよ」
僕は体育座りをして膝を立てる。
「誰がそんな曲解しろつったよ!!太ももに乗せろよ!!」
横から浴衣が僕を何度も揺さぶる。
「阿夢ちゃーん、私のお膝の上どうかなぁ」
「ううん、わたし16にもなって人の膝の上に乗ろうだなんて思わないからいい」
「……じゃあ、なんでそこの谷底の膝には乗りたいと?」
渓谷は渓谷であって谷底ではない。
「お兄ちゃんは別でしょ?」
その一言の後、ベッドに足を伸ばし座る僕の上に座る阿夢。
浴衣は部屋の中にある椅子の上に座っている。
「で?」
投げやりに言われた言葉に、僕と妹は首を傾げた。
「さっき阿夢ちゃん16歳を自称してたような気がしないでもないんだけどさぁ」
「うん!阿夢16歳だよ〜」
「マジか?」
「あー、うん。マジだ。こいつこの見た目だからよく幼稚園生に勘違いされるんだが」
「それは小学生の頃の話でしょ?!もう古いなぁ、今は中学生に勘違いされますぅー」
僕を背もたれにして何度も寄っかかったり戻ったりを繰り返し、ドスドスと不服を訴える。
「結局勘違いされたままなんだね阿夢ちゃん……」
浴衣の言葉に、僕は異論を呈する。
「いや、つまりは若作りなんだよ」
「ロリなんだろ」
浴衣の目が光った。
「そうとも言う」
僕の目も光った。
「だまらっしゃい!」
頭上の僕の顔に頭突きをする阿夢。
「げふっ」
顎が痛い。
「おっぱいはクラスで1番大きいし!!」
「「?!」」
言われてみれば、と思いかけた僕ではあったが、そもそも服の上からでは正しい胸の大きさの測定など不可。
「お兄ちゃんなら見てもいいんだぞ〜〜い」
阿夢の目が光る。幼き日からロリの名を冠し続けた少女(??)、ロリの名を返上なるか?!
「血縁者の胸に興奮したらおしまいだよ」
「今は兄妹じゃないからいいんじゃない?」
「それじゃ遠慮なく揉みしだかせてもらいますか」
「おいキャラ崩壊してるよ!!渓谷何やろうとしてんの?!」
「いや、普通に胸を揉みしだこうと。何か問題が?」
僕が首を傾げる。
「あるよ!!大アリだよ!!」
浴衣が叫ぶ。
「合意の上なのに??」
阿夢も首を傾げた。
「だからなおさらまずいんじゃん!!いくら相手がロリ巨乳だからって!!」
「ロリ巨乳だからやるんじゃないか!!」
そして瓦解する阿夢のアイデンティティ。
ロリを返上してやらんがために言っていたはずの自己主張が、ロリ巨乳というまさかのなんの汚名返上もしていない、むしろロリータの中でジョブチェンジしてクラスアップしただけではないのかこれは。そう考え落ち込む。
「ロリから逃げられないのかわたしは……」
「心配するな、可愛いから」
「ならいっか!」
「うん!」
立ち直らせる兄。立ち直る妹。
これがかの有名な“ロリの進化系ロリ巨乳絶望事件”の全貌であった……!!
……なんだそれ。
時間が経ち、あとでこの時のことを人に説明しようとして僕はやっと、この一連の流れがくっそどうでもいいことで構成されているなぁと思った。
阿夢は可愛かった。あと阿夢の可愛さに罪はない。それは間違いない。
ーー
「昨日。カーテンを閉めようと思いました」
「はい」
「閉めました」
「はい」
「閉まり際になって、どこまで閉まるかな、と思って上を見上げました」
「はい」
「監視カメラがありました」
「はい」
「……びっくりしてどうしよう?!と思いました!!」
「はい。いや、そりゃあるでしょうよ」
「いや、いやいやいや!!昨日も一昨日も全部見られてたんだよ?!めっちゃ恥ずかしくない?!」
「なにが」
「いや、なんか、その、病室でいちゃついてたし……」
顔を赤くして背ける僕。
「はぁ?キスのひとつもしてないんだから良いだろ別に。なんなら別にすることしたって問題ないと思うけど」
「いやそれは問題だよ?!」
この彼女、ちょっと前までだったら、することがなんなのか全部具体的に話していたところだったが、僕の散々の注意のおかげでやっとマシになってきたようだった。
「確かに、それを目的にして入院室を使われたらたまったものじゃないと思うよ?病院さん側も」
「うん」
「でもさ、別に良くない?一度や2度くらい。毎日ならちょっとまずくても、偶にならうるさくならないようにしてればさぁ、別にストレス解消の範囲内でしょ。私も渓谷ちゃんも」
えーー。
パタバタパタ。廊下からスリッパの擦れる音がして、部屋のドアが三度ノックされる。
「はい」
「あ、あの、白河阿夢です、今……大丈夫でしょうか?」
控えめに聞こえたその声に、浴衣が応えた。
「あー今ちょっとお昼の恋人間で秘密のお取り込み中なんでー後にしてもらえますかー。夜は夜通し無理なんで、あー、となると早朝、朝も無理だわ。昼は今だし。あー、無理ですねー母の胎内に帰ってくださいー」
「……あ、は、はい…………すみません、生まれてきて」
ドア越しに、さらに控えめに聞こえた阿夢の声。
去っていく、ドアに埋め込まれた磨りガラス越しの人影。
僕は慌てて。追いかける。
「あっ、阿夢!!」
「ぉいにぃちゃん……っ」
廊下で、控えめに叫んだ僕に、振り向いた阿夢は涙目だった。
「おにぃちゃああん……」
僕を見て、苦しそうに駆けてくる。
僕の体に飛びつくと、擦り寄るように涙を零しながら僕の背中に手を回す。
「一応言うけどさっきのはもちろん僕の声じゃない。悪いな、今例の彼女が来てて。あー、悪気は、あー、まぁ120%くらいあったけど僕がその分カバーするから大丈夫」
「浴衣!なんてこと言うんだ、阿夢は繊細なんだぞ……?!」
「よく言うよ、3年以上関わってなかったくせに」
彼女はつまらなそうに呟いた。
部屋に入れた妹に背を向けて、僕は少し怖い声を出す。
「おい、ちょっと過ぎるぞ……」
と、口だけでは穏やかに怒鳴りつつ、ウインクをする。
それを見た彼女は僕の意図を察して、はぁ、と大きくため息をついた。
「えと、お兄ちゃん……部屋入れてくれてありがとう」
あからさまに僕の後ろに隠れて、彼女を怖がる様子の阿夢。
「いや、それは良いんだけど。と言うか、ちょっと話そうか。あー、時間、今で良ければ、だけど」
「話す?なにを?」
彼女がベッドに座ったまま、僕は阿夢を部屋にある対面する2つの椅子の片方に座らせる。
妹の前に座ると、僕はゆっくりと話を始めた。
「何って、これまでの事とか、その……僕達、間が空いただろう」
「そう?そうかな。そうかなぁ……ううん、そう、かな?ごめん、あんまり思い出せないや」
僕と話せて嬉しいのだろうか。ニコニコと、楽しそうに笑って話す阿夢。
「そっか。なら良いんだ」
口では平静を保てたが、彼女の異常性に、僕は気づかないわけにはいかなかった。
いや、異常なわけではない。僕の妹は、微塵も異常なんかじゃない。
普通なんだ。ただ、異常だったのは、環境の方。
環境が異常なら、普通の人も異常になる。それで異常にならないのは、異常な人間だけだ。
僕は、この病棟に来るまでに至った妹の苦しみの過程を想像して、酷く胸が苦しくなった。胸焼けのように、胃酸が逆流して不快だ。
「それじゃあ、僕達、これからどうしようか」
「どうって、どう??」
「えっと、その」
言い澱み、どもる僕に、阿夢はやや訝しげな顔をして、不機嫌そうに、しかし僕を心配するように言った。
「ねえお兄ちゃん、なんか他人行儀だよ。やめようよ。いや、やめてよ、それ。私、なんか、ちょっとそれつらいかも……って言うか、つらい。すごく嫌だ」
「ご、ごめん!!え、い、いやその……僕さ、君の事全然知らないし、知ったふりして兄面して近づくのもどうかな、って」
「兄面も何も、お兄ちゃん普通に兄じゃん、ねー?」
不思議そうに顔をかしげる彼女。
「……っ、う、うん。それは、そうなんだけど」
またどもり、黙り込む僕。それを不思議そうに見る妹。
「ぁーもう煩い煩い!!」
場を仕切りなおしたのは、浴衣だった。
「正直に言いなさいよ、それがその子への最低限度の礼儀じゃないの」
いくらか思考回路をぐるぐると巡り合わせたのちに、僕は腹をくくることにした。
「……わかった」
「?、??」
ますます戸惑い首を傾げる阿夢。
「阿夢、僕達はとても仲の良い兄妹だった。そうだね?」
「うん!もちろん、すごくね、すごく!……ちょっとクラスで噂になってたけど」
なはは、と笑う彼女に、僕は予想外のパンチを食らう。
「えっ、ごめん何それ僕知らないんだけど」
「え?いや、あの兄妹は一緒にお風呂入るーとか、将来結婚するんだぜー、兄妹なのになー、とか。中学の頃になるとだーいぶブラコンとシスコンが定着してたよ」
「え、ちょ、それマジ?」
「うん」
「捏造してたらそこそこまじで怒るよ?!」
「いや、してないしてない、してないって。て言うか、どうやって確かめるのさ。本当の事だけどさ。え?知らなかったの??」
「う、うん。え、本当に?!」
「うん。お兄ちゃんむしろ、あんなにベタベタくっついてる兄妹が普通だと思ってたの……??」
「……」
“そう言われてみると、そうかもしれない”、という言葉すら出てこない。え?あれが普通じゃないの?という戸惑いばかりが脳を刺す。
「くすくす」
ベッドから笑う声が聞こえた。僕は恥ずかしくなることすら出来ず、ただただ戸惑っていた。
「ねぇ、元妹さん」
「なんですか元彼女さん」
「私今カノなんだけど」
「私だって今妹です。ちなみに今のは“いつか元彼女になる”の略です」
「そうね。結婚したら彼女じゃなくなるしじゃあそれでいいわ妹サン」
「なんですか」
なぜか2人の間に、啀み合いながらも認め合うような空気感が流れていた。
「どんなことしてたの?ベタベタって」
浴衣が聞いた。
「毎日学校から一緒に帰りました」
「うわ」
「手を繋いで」
「うわうわうわ」
「隣同士で布団を並べてました」
「あちゃー!!」
「でも結局同じ布団で寝てました」
「ありゃりゃりゃりゃ」
浴衣の反応がいちいち深刻そうに映る。
普通じゃないのか?!えっ、それって普通じゃないの?!
「ちなみに何時頃まで?」
「中3で両親が離婚するギリギリまで」
「マジかよ!!!妹離れしろよお兄ちゃん!!」
矛先が僕に向いた。
「僕?!」
「妹に関しては許せる。仕方ない。だが兄に関しては許せん!!妹を甘やかしすぎだし妹に甘えすぎ!!」
「そうなの?!普通じゃないの?!幼稚園生の頃からやってるだけだよ?!」
「何しれっと狂気じみたこと言ってんだよ、おかしいからなそれ。イヤイヤ期と反抗期どこに忘れてきた!!」
「反抗期はむしろ甘やかされたです」
妹の発言。
「なぜに?!」
驚く浴衣。
「いや、だって、妹が反抗してたら不満があると思ったし」
「なるほど、それはまぁ納得できる。じゃ自分の反抗期の時は?」
「え?いや、だって親に反抗するもんだろ?あれ。僕の場合は何もなくても両親に反抗してたし。ほら、結局離婚することになったくらいだから。反抗というか、妹を守らなきゃと思って。親への反感が強まると、なおさら妹を守るのにも熱が入る、と」
それだけですが何か、と言う僕に、阿夢は嬉しそうに何度も頷き、浴衣は何度も首を振る。
「お前おかしいからな、妹はまだ普通だがお前はおかしいからな!!自覚しろよ、まったく。異常だよお前。お兄ちゃんっ子な妹はまだいいが、妹離れできない兄は手が付けられんよまったく……」
浴衣の視線に後押しされる形で、僕は腹をくくることを決めた。
「僕は、この3年でいろんなことがあった」
「うん。よく覚えてないけど私もそうな気がする」
「……正直、君にどう接したらいいのかわからない」
それを話すのは、とても勇気がいった。
「わからないの?」
「うん」
「本当はこうしたいって思うけど、私がどういう状態かわからなくてそれができずにいるんじゃなくて?それを纏めてわからないって称してるんじゃなくて???」
浴衣は、渓谷の妹だなとつぶやいた。
「……そう、その通り」
「なら話は早いよね。私はそれを気にしていないし、どう接されても思うようにまとめ上げる自信がある。反抗されたら手なずけるし、従順だったら褒めて伸ばすし。ね?ほら簡単だった」
「……」
ーー
[行動A行動A。A棟ーー号室。行動A行動A。A棟ーー号室]
何時かも把握できないほど眠たい時、響いたのは、そんな放送だった。
「……寝ぼけてたのかな。でもそれで起きた気がするんだけど」
「ふーん」
「行動Aってなに?!講堂?!公道?!なに?!」
「どうでもいいじゃないそんなの。ただの業務連絡じゃないの」
浴衣はしばらく興味なさげにしてから、急に顔色を変えて僕に尋ねた。
「まさか聞いたりしてないよね」
「聞けるわけないだろそんなの?!行動Aは自殺未遂です〜とか言われたらどうするんだよ!!」
「なら聞かなくていいんじゃないの」
「はぁ……怖いなぁもう。久々にここが怖いと思った気がするよ」
「慣れてきてよかったわね」
「慣れてない!……君が言ったんじゃないか、慣れちゃダメだって」
「…………それもそうね」
はあ、と小さくため息を漏らして浴衣が部屋を歩いた。
「日が経ってきたからかな」
「うん。?」
「だいぶ渓谷の匂いがしてきたね」
「…………それは、どう受け取れば?」
「わたしは好きだからいいんじゃない。わたし以外の人はあんまり来なくなるから??」
「それ看護婦さんも入ってるよな」
「そだね」
「……」
「冗談冗談!嘘ではないけど冗談ではあるよ、半分くらいは」
言い知れぬ沈黙が場を包んだ。
十分ほどして、午前10時丁度にパタバタパタと急いた足音が僕の部屋へと入ってくる。
「こ、こんにちは〜〜」
僕は立ち上がって言った。
「待ってたよ!!」
「えっ、なになに?!」
なぜか嬉しそうに戸惑う阿夢。
浴衣の投げかけた例の質問以来、キリキリとした不安を感じていた僕は、思わず妹に問いかける。
「阿夢ちゃん、僕って匂いする??」
あれから、結局呼び捨てにする気にはあまりなれなかったので、妥協点のちゃん付けで呼ぶ事にした。
「匂い?」
阿夢は少し驚いてから、不思議そうにした。
「僕とか、この部屋とか」
「匂い??」
「匂いって、なに??」
「うん?」
「いや、匂いの意味はわかるけど。え?……うーん、あ、そういうことか。いや、しないと思う、っていうか、え?そんなのする??みたいな。ごめんよくわかんないけど結論。私はしないと思うけど、そもそも匂いっていうのがよくわかんない。だってお兄ちゃん、私の匂いってする?」
「え?阿夢ちゃんの匂い?」
「ぁわ。聞かなきゃよかったかも。怖いねえ」
「いや、いい匂いならともなく、しないかなぁ」
「いい匂い?!私、いい匂いする?!」
「えっ、え?いや、まぁ。阿夢ちゃんの匂いっていうか、服とかシャンプーとかの匂いかな?」
「がーーん」
「いやでも落ち込むことかなぁ??」
「あれそう言われるとそんな気もしてくるねえ」
僕と阿夢ちゃんは顔を見合わせてから、同時に浴衣を見た。
「「よくわかんない」」
浴衣がつまらなそうに吐き捨てた。
「それはあれだろ、お前らずっと一緒にいるから」
納得した僕達に、続けて浴衣は言った。
「お前ら二人ともいい匂いがするよ。よく似てる。」
「「どんなの?!」」
示し合わせず2人揃って同じことを聞いたものだから、僕と阿夢は笑った。
仲良いな、とだけ言った浴衣は、教えてくれた。
「阿夢ちゃんは可愛い女の子らしい匂いで、えーと、イメージとしてはアイドルがしてそうな匂いからうざい感じを取っ払った天真爛漫な感じ」
「ほえ?意味不なんだけど」
あくらは首を傾げた。
「なるほどね。いい匂いってことだよ」
「ならいっか」
僕は理解した。
「渓谷はー……。うーん。あー。言いづらいなぁ。いい匂いであるのは間違いないんだけど、なんというか、これは私だけかも」
「なんだよ、言いづらいことだと余計気になるんだけど」
「あー、ちょっとなんとなく阿夢わかったなー」
黙る浴衣に、阿夢は少し同情的な考えを示した。
今度は僕が意味不だった。
「なんか、好きな人の匂いはホルモン的にだか遺伝子的にだか好きになるっていうか、好きな匂いの人しか好きにならないというか、みたいな話をどっかで聞いたことあるんだよねー。だから、あんまり正確じゃないかもしれないけど」
どんな匂いかまじまじと僕が聞くと、浴衣は少し照れながら、僕から目をそらした。
「興奮する匂い」
「あーわかる」
僕は全ッ然わからなかった。
「えっお前ら僕をなんだと思ってんの?!またたび?!またたびか?!」
「あーなるほどね、悪くない例えだよ。うんそういうイメージ」
自虐が採用された。ショックである。
「まぁ悪い意味じゃないよ、お兄ちゃん。阿夢的にも?ちょーっとお兄ちゃん好き好き大好き寄りの立場だからあんまり客観的じゃないけど、まぁそれでも言うなら、すれ違った人がみんな抱いて!!って言うような、そんなイメージ」
「あー」
阿夢の例えに、浴衣はそこそこ共感していた。
「そんなに?!」
僕には意味不明だった。
「を、そこそこ弱くした感じかな」
全然意味がわからない。
「それもう匂いっていうかフェロモンだよなぁニュアンス……僕大丈夫かなぁ……全身媚薬みたいなこと言われてる感覚なんだけれども……」
「「あー!!」」
なぜか納得したような声を2人が同時に示し合わさず言う。
もう僕には何もわからない。わかりたくない。
2人とも僕が好きとのことらしいので、客観的な評価はできできない、と思うことにした。
「……」
何も言ってはいなかったが、浴衣が少しソワソワして自分の匂いがどう思われているのかを気にしているようだったので、僕は伝えてあげることにした。
「えーとね。なんというか」
「あはは、むずかしいねえ」
「いいよ、一言でさっくりと言ってくれれば」
浴衣がそういうので、僕と阿夢はタイミングを示し合わせることなく同時に言った。
「「美味しそうな匂い!」」
「お前ぶん殴るぞ」
僕だけ指さされて酷く睨まれた。
「なんで僕だけ?」
「お前なぁ可愛い女の子が言っていいことを自分も言っていいと思ってるのよくないからなそれ」
「いやでも、美味しそうっていうとお肉とかの香ばしい感じをイメージするかもだけど、何かこう、パンケーキ的なイメージだよ?ガツガツよりかはこう、もっとファンシーな」
僕の言葉に、そうそう、と阿夢が後押しをしてくれる。
「はちみつ……というよりかは、花の蜜、バター……というよりかはマーガリン、みたいな??」
「あー。わかる」
なんかこうね、ファンシーな。妖精さんみたいな匂い、という結論で終わった。
浴衣は意味がわからないと終始いって慌てているようなふりをしていたが、口元が緩んでいたのを僕は見逃さなかった。きっと、妖精みたいと言われて嬉しかったのだろう。
僕も少し嬉しくなった。
ーー
3人の看護師が話していた。
「阿夢ちゃん、最近元気そうですね」
「そうね」
「…………それ自体はいいことですけど、あれですかね。やっぱり、主音さん来てから」
「そりゃそうでしょ、あれは露骨に」
「まるで本当の兄妹みたいですよね、最近……兄妹にしても、ちょっと仲良すぎるくらいですけど」
横から、デスクワークをしながら別の看護師が口を挟む。
「やっぱり患者さん同士っていうのは良くないですよね……典型ではありますけど、トラブルとかも。お互いに傷つく結果にならなければいいんですけど」
若い看護師の、該当の人物2人ともを心配した不安げな高い声に、別の看護師が少し他人事のように答えた。
「まぁ大丈夫じゃないかな?」
「え?なんでです?」
「あの子達、本当に兄妹らしいよ?」
「……え?そうなんですか?」
「でも、苗字違いますよね」
「ご両親が離婚して3年離れ離れだったんだって。偶然ここで再会」
「それは……よかったのか悪かったのか良くわかりませんね」
「再会できたこと自体は良かったんじゃないの?だってあんなに仲良いし」
ぁあー、と納得する看護師たち。それなら、トラブルが起きても喧嘩で済む。心配は危惧に終わりそうだ、と。
「でもなるほど、納得ですね。あんまりに早いと思ったんですよ、仲良くなるの」
そんな看護師のつぶやきが、聞こえた。
ーー
「ここのところ、調子はどうですか?」
朝の回診で訪れた4人の医師に、少女は少し考えた。
「……」
考えるまでもなく調子はいいが、それを伝えればその理由まで勘ぐられる。看護師さんには口止めをしてあるし、その理由も伝わっているから、そこから噂が広まる心配はない。
こんなところに、わたしも何気に長くなるし、そもそも、職業柄そんな口が軽い人々ではないのだ。
いや、ある意味そういった情報は伝わりやすいかもしれないけれど。でも、少なくとも私が楽しそうにしている限り問題はないはず。
「はい。あまり変わりないです」
「やはり、気になりますかね。お兄さんのことが」
「ッ!!」
一瞬、激しく肩が震えた。
顔がゆっくりと自然に俯き、抑えようとしてもガタガタと体が震える。
バレた。お兄ちゃんと会っている事が。
まずい引き離される。いやだいやだいやだいやだ!!せっかくここまできたのに!!そんな、なんで?!
嫌だ、誰にそんな権利がある!!なんのために引き離す!!依存して何が悪い!!兄に迷惑はかけない。かけているというなら聞いてみればいい。
大丈夫、迷惑はかかっていないはずだし、たとえかけていてもそこで迷惑だと答える兄ではないから、それはどちらにしろ大丈夫。申し訳ないけれど、そこは追い追いやっていけばいい話。今阿夢が危惧すべきは、お兄ちゃんと引き離されること。
うまいことを言って誤魔化そうとしたのに、あまりの衝撃から言葉に詰まる。
ますます動揺が表に出たと思って動揺して、ますます言葉が出なくて、私はどうしようもなくなって、涙が目の端に滲むのがわかった。
女性の高い声がした。
「白河さん失礼しまーす」
ドアが開き、パソコンや血圧を測る道具などを載せた台を乗せた看護婦さんが入ってくる。
「あっ、回診中でしたか。あとにします、すいません」
注目が集まるその人に、自然、私も目が吸い寄せられた。
女性が、宙を小さく平泳ぎをするようにして横に線を引く。そして、オッケーの丸印を私に見せた。
……何をしてるんだろう。
「!!あっ、ありがとうございます!!あとでまたおねがいしま、す、ねー」
「はーい」
看護婦さんは胸をなでおろしたように安心した顔で部屋を出て行った。
セーフ、オッケー、と伝えたかったのだろう。つまり、何も医師には伝わっていない!!全部私の早とちり!!
「えっと、兄が気になるか、という話でした、よね??」
「はい。それが気になってまともに何も手につかない、というところは、何かこの週末で変わったりは、しましたかね?」
「えっと……」
咄嗟に嘘をついて話をそらしたい衝動にかられつつ、それをやると兄がすぐ近くにいる事がバレた時が大変なので、バレても差し障りのないことを言うことにする。
「そう、ですね。はい。心境自体に変化はないんですけど。ちょっと、まぁ、気が、楽に、なった、かな?という感じです」
「それは良かったですね。何か、きっかけがありましたか?」
「きっかけ、というか、まぁより兄のことを考えるようになって。それが返って、自分のことを考えるきっかけになったと言いますか」
「なるほど。では、お薬の感じは」
「このままの感じで問題ないかなと思います。すいません、ありがとうございます。朝はぼーっとしちゃって。昨日あんまり寝てなかったかな、なはは。すいません」
私は違和感をなくすためのつくり話をしてみた。
「寝れませんか?」
墓穴を掘った。そうだった、そりゃ聞かれるよね。
「えーと、なんていうか、昨日はちょっと楽しい事があって興奮して眠れなくって。良いことなんで、はい。あの!いい事というのは身内の励ましというか、はい!そういう感じのことです!!」
危ない、いい事なんて言ったらそれを聞かれてしまう。うーん。差し障りのないことを言うのって難しい。
まぁいっか。そんなのどうでもいい。
つらくても楽しくても、お兄ちゃんといられれば、私はそれだけで満足なのだ。
兄と会えなくなってから、私は酷い喪失感に襲われ、会えるはずの当たり前の存在だったかけがえのない人間を失った。
優しい母が、兄のことを尋ねると父を思い出し豹変する。もう尋ねるなと言う。
私は徐々に不和を心の中に蓄積し、やがてひどい鬱状態になった。何をしても楽しくない。一瞬楽しくても兄がいないから意味がない。自分1人では完結してはいけない、そんな思いが楽しさから私を突き放す。
学校でもなるべく楽しく過ごせるように、兄がいた頃のような明るい自分でいられるように頑張った。
兄に頼りきっていたことはわかっていたし、頼りすぎなことも自覚していた。ただ、それは兄も同じだと私は言わなくても、言っちゃいけないことだから、言えなくても、理解していたのだ。
兄は、私を守ることで自分の精神を保っている。そんなこと、守られている立場の私が、守られているだけの私が、言っていいことじゃないのは明白だし、そもそもそんなこと私にとって何の負荷価値もないことだ。
それはむしろ兄が、なんの価値もない私の中に価値を見出してくれたという素晴らしい事であり、私にとって嬉しいことだった。でもきっと感謝のつもりで兄にそれを言うと、兄は自身を責め出すだろうから、私は言わなかったのだ。
兄がいなくなってから、何もかもが楽しくなくなった。初めのうちは、なぜ近くにいるはずの存在の兄が自分の隣にいないのか、その権利がないのか、奪われた、とばかり思って、発露することのない怒りが、ただ充満していた。
それを何度も何度も爆発させながら、必死に兄にたどり着こうとすればするほど、私は兄から遠ざかっていくように感じた。
でも、やがてそれは、兄にもう二度と会えないという絶望になった。
ただただ苦しい日々が続く。希望を持つこともできない。もはや阿夢の中で、お兄ちゃんという存在は、死亡してしまったのと同じ扱いになっていた。
もはや兄には会えないものとして諦めていた。
だから、つらくても普通に生きられるように頑張った。頑張って頑張って頑張ったけど、やっぱり私はとてもつらくて、兄と妹のようなものを連想させるものを見るたびに、私は発狂しそうなほどに苦しんだ。
何をするにも、兄の存在が頭に焼き付いて離れなかった。
鬱になった。初めはそれがまさか鬱だとは思わなかった。診断されてから、やがてしっくりときた。それからは、兄がいない事が、むしろその程度の負荷価値しか私に与えていない事が許せなかった。兄をその程度の存在だと、兄がいないことを“鬱”と称してそれで終わらせようとする医者にも、医師がそんな診断をすることしかできないくらいにしか弱れなかった自分に反吐が出た。
自分を否定し、何度も死のうと思った。こんな自分では、お兄ちゃんに万が一会えたとしても、万が一何かの偶然で道ですれ違えたとしても、会わせる顔がない。
自分を否定し続けた。それでも、兄しかいなかった。
兄がいたからここまで苦しめたし、兄がいたから今の今まで生きてこられた。
私は、自分が苦しんでいる理由を何度も何度も兄に押し付けては、そんな自分を悔やみ苦しみ最低だと否定した。
薬を処方されて1年以上が経ったが、よくなる気配がない。
私も楽になりたかった。でもなれなかった。どうしたら楽になれるのかを話していたら、試しに入院をしてみることになった。
どうやら、話は私の知らないところで進んでいたらしく、試しに、という言葉から連想していた1、2週間という期間とは程遠い、6ヶ月の入院が予定されていた。
施設は綺麗だったし、新しかった。その場になんの不満もなかった。病院食も不味くはないし、先生はチーム制で朝と夜の回診をしてくれる。毎日調子を優しく聞いてくれて、悪いところがあったり不満があればすぐに言うように言ってくれる。
薬を増やすと激しい辛さは少し収まって、日が経ち、薬なんてなくても耐えられると思うようになり薬が減ると、とても耐えられない苦しみが私を襲った。
薬を増やすと頭がぼーっとしたし、なんだかうまく思考が働かないような気もしたが、いつも気のせいだと思っていた。それが薬のせいだとは、思いもしなかった。
薬で楽になると、私は薬なんかで楽になってしまった兄への思いを想って、涙を流した。
泣いても、誰も慰めてはくれなかった。何回か偶然タイミングが合って、泣いているところを看護師さんや医師に見られたが、慰められても私は慰められている気がしなかった。
心底他人がどうでもよかった。兄だけだった。兄だけしかいなかった。
兄を思うと涙が出た。会いたいなどとは、もう思いもできなくなっていた。
楽になるために一から兄について赤裸々に話したのに、医師から聞こえてくる言葉は、母へ、兄と阿夢を会わせるように、との進言かと思いきや、“兄への依存”“この状態で会っては良くない事が起きる可能性がある”といった、そんな症状の言葉ばかりで、絶望した。
母のくだらないプライドのせいで、私は延々と苦しめられていた。
しかし、親に逆らう事ができなかった。皮肉にも、それができていたのは、兄がいたからだった。兄がいない中で、私は怖くて何も言えなかった。自分が情けなくてしょうがなかった。
望みはどこにもなかった。ただ、つらくて仕方がなかったから、医者の言う通り兄のことから考えを逸らして、1人で虚しくなく生きていけるようになるために努力するという意味不明な日々が続いた。
あくまで阿夢本人が望んで入院したという形の、任意入院の開放病棟ではあったが、精神病棟のくせに、窓の鍵は閉まってないし、そもそもベランダに出ることは禁止されていないものだから、何度もそこから落ちていく想像をした。
本気で自殺しようと思ったことは、思い出に印象深く残っていたが、ある程度日々が流れると、途中から毎晩がその繰り返しになるようになって、毎晩悪夢にうなされるようになった。大体両親に襲われる夢だった。大抵兄は死んでいたか殺されていた。私が兄を殺したこともあった。そういうときは、死ぬほど嫌な思いをして起きる。
夢であるから、比較的すぐに忘れられる事が救いだった。
しばらくそんな入院生活が続くと、あるとき私は、夢の中でなら、たとえ悪夢の中でも兄に会えることに気づいて、次に夢の中で兄に会えたら、絶対に兄に話しかけようと思った。
悪夢を見た。今度は兄に話しかけられなかった後悔が強く刻まれた。同じことを繰り返すうちに、ついに夢の中で兄に会って話をしようと意識をすることに成功した。やった!!と喜ぶと、意識が現実のものになり目が覚めた。
私は運命を呪った。
みんな死ねばいいと思った。片っ端から殺してやろうかとも思った。そうだ、そうすればいつかはお兄ちゃんに会える。
でも、果たして私は“お兄ちゃん”さんに会いたいのかどうか、もう、それすら、自分でよくわからなくなっていた。
それでも、頑張って前向きに生きようとしていた。
ちょっとずつ、無理のないように気をつけながら看護婦さんと話せるようになった。
昔は明るかったと母が話すと、看護婦さんたちや、それを聞いた人は大抵声を上げて驚いた。私はもうそんな昔のことは思い出せなくなっていた。
兄のことを、思い出せなくなっていた。何も、考えられなかった。
ただただ辛さから解放されたい。それだけを胸に、長引く入院生活に絶望していることにすら気づかず、私は日々を過ごしていた。
「今日は何をするの?」
看護師さんが、血圧を測る道具を腕に巻きながら聞いてきた。
「えと。作業療法《OT》で、なんか、えーと。紙貼ってポスター的なの作ろうって。みんな言ってるので。たぶんそれかな」
「あーいいねえ。どんなポスター?」
「あじさいとかじゃないかな。よくわかんないけど」
「どうでもいいけど、私カタツムリとか昔からさわれないんだよね」
「へえ。どうでもいいね。くすくす」
「ちょっと阿夢ちゃん!ひどいなーもう」
私は、ちょっとなら談笑できるようになっていた。
がんばって、頑張っていた。
なぜだかわからないけれど、そうしなければならないような気がした。
後日廊下を歩いていると、新しい患者さんが入ってきたようだった。二つ隣の個室だった。部屋の内容は私と同じとか、もう、どうでもよかった。どうせまたすぐにいなくなる。そもそもここの入院棟は1週間から3週間を目安の短期入院がメインなんだ。私は基本的にはイレギュラー。
私は唐突に、自分が頑張っている理由がわかった。
兄に、褒めてもらえるような気がしていたからなのだ。きっとそうだ。そうに違いない。此の期に及んで。
私は、何故自分がそれに気づいたのかに、すぐに気づいた。
廊下を歩いていて、最近入ってきたらしい患者さんを、看護師さんが主音さん、と呼んでいたのだ。こんな苗字他で聞いた事がない。
もしかしたら、私の親戚にあたる人かもしれない。そんな淡い希望があった。もしかしたら、その人から辿って兄に会えるかもしれない。精神科病棟と場所柄、患者さんに直接聞くのは躊躇われたので、看護師さんに聞いた。それから、考えが追いついてきた。
「さっき主音さんて聞こえた気がするんですけど」
「え、え?え、ええどうしたのそんな興奮して」
「私旧姓が主音なんです!!主なる主に音って書いて主音!!親戚かもしれないんです!!どうしても、どうしても!!会いたい人がいるんです!!」
考えなくても言葉は出た。
幸い、看護師さんは私とよく話す人だった。事情を理解してくれて、珍しい苗字だから、そういうこともあるかもね、と、ただ個人情報のことは当然教えてもらえなかったし、それは私も初めからはあまり期待してはいなかった。
私は、午前と午後のOTを蹴ってーーと言っても別に予約制ではなくOTを使用するという登録さえしてあれば行きたくない時は行かなくていいのだがーー、ひたすら新しく入ってきた患者さんのいる個室の、その扉の前のベンチで見張っていることにした。可能な限り、全ての時間を使って。幸い私は、暇だった。
食事は三食。患者が取りに来なくてはならない。場合によっては運んでもらうこともできるかもしれないが、普通はまず自分で取りに行く。
その日はもう夜で、食事は翌日の朝からだった。
兄と再会したのは、その翌日のことだった。
ーー
今日も、朝から阿夢が僕の部屋に遊びにきていた。
僕もする事がないし、どうやら彼女もそうらしいので、2人で暇つぶしを兼ねて遊んでいる。というか、なんか楽しく会話をしている。それ自体は治療に対して悪いことではないはずなので、難しく考えず、支障のない範囲で話している。ただ、妹のことに関しては僕が敏感に感じ取ってあげなくてはいけないし、その責任があると思っているから、わりと頻繁に負担がないかを訪ねる。
自分が邪魔だと遠回しに言っているのか、と怒られたりもするのだが、そんなことは全くなくただ心配なだけだ、というような意味合いのやりとりを1日1回はしている。
「私今度お兄ちゃんに料理つくりたい!」
ここ最近の定位置、ベッドに座る僕の膝の上にちょうど収まりながら、嬉しそうにいった。
「お前料理できんの?」
「できない!!」
「ダメじゃん」
練習するもん、と言いながら阿夢は本当に楽しそうで、僕もつられてちょっと嬉しくなる。
「おにぃちゃんだってできないでしょー?!」
「ふっ、悪いな、俺は一足先に料理をマスターしたぜ」
そう、実は今の家で僕は料理の手伝いをしている。というか、料理は僕がほぼ全部やっている。
「なっ、なんだとぅ?!」
「台所を席巻してやるよ」
「微妙にショボいけど凄い!!じゃこんどなんかつくって!!」
「いいだろう。ナンか、つくったことないが面白そうだ」
「そういうのいいから」
「……なんか最近みんな僕のギャグに冷たくない?」
ーー
入院5日目。
「思ったよりも気が滅入るんだ。今のところ朝のパンにかけるジャムは毎日変わるけれど、初めて見た時1番美味しさに懐疑的に思ったあんずジャムが、僕の中では実は1番美味しい。はちみつは少しかけづらい。こぼれやすいし垂れやすいから」
ふーん、そうなんだ、と、つまらなそうに、しかし全く関心がないわけでもなさそうな相槌を打つのは浴衣。
僕の座るベッドに腰掛けて、足をぶらぶらとさせている。
ここで僕は、ちょっと日頃の謝辞を述べることにした。
「……気を使ってくれてるんだよね。ごめん、わかってるから。と言うか、わかるように努力してるから。いや、するから」
「なんかくどいな。てか別に気なんて使ってないよ?私いつもと何か違うとこある?」
浴衣は不思議そうに言うから、僕も少し考える。
「……確かに、いつも通りといえばいつも通りか」
「うん。もし今気を使ってるなら、今までずっと気を使ってきたことになると思うけど?」
「た、たしかに。まぁいいや、ありがとう」
僕は1人つぶやいた。
「うーん。解せぬい」
浴衣はほぼ毎日面会に来た。家からこの病院まで1時間近くかかるはずなのに。往復2時間だ。しかも駅から少し歩く。
着替えを持ってきてくれるのは助かるのだが、正直着替えはまとめて置いていっても問題無いはずだし、僕としてはやっぱり彼女に無理をさせているんじゃないかと心配になった。
ーー
それは、翌日のことだった。
「なぁ、この前の。やっぱり気を使ってるんだろ」
「だぁから使ってないってば、なんでだったっけ?こたえてみ」
「いつも通りにしてるだけだから。今気を使っているならば、いつも気を使っていることになる」
僕は答えた。
「イエス」
彼女は頷いた。
「でもさ、違うって気づいたんだ。普通、入院してる患者の元に行ったら気を使うよ。気を使って、いつもと少し違くなるはずなんだ」
「……そうかなぁ」
彼女は少し恥ずかしそうに笑いながら首を傾けた。
「つまり、いつもと同じなことが気を使っている証拠なんじゃないかな、って思った」
「…………ぅう。恥ずかしいなぁもう……そう言うこと言われると」
つまりは、彼女は僕を安心させるために、本当は心配とか苦労とか色々あるであろうところを、僕を安心させるために、わざといつも通りを装ってそのままに過ごしていたのだ。
「アッ!誰の入れ知恵だ」
彼女は思いついたように、探偵さながらに僕を指差した。
「ぇっ?!入れ知恵なんて……」
思わず動揺したさまは、犯人さながらだと思った。いや、犯人ならこんなに動揺しないか。せいぜいが僕は噛ませだね、噛ませ。あはは、妙にしっくりきたよ。
そんな事を覇気もなく思いながら、僕はゆるりと笑う。
「むむむむむ」
長く眼力に見つめられたので、僕は(薄情にも)白状する。……。
「岩戸さんと阿夢ちゃんに……」
「はいきた岩戸さんと阿夢ちゃん〜!だと思ったね」
「あのなぁ、岩戸さん知らんだろ」
「みらいのわたしはしってる!!そうごふんごのわたしはすでに旧知の仲に!!」
「5分の仲な」
「行ってくるわ」
彼女は、ベッドからブラブラさせていた足の動きを使って、勢いよく飛び上がると、そのまま扉をあけて出て行った。
「う、うん」
病人置いて説教いくのかよ……と少し呆れたが、気にしなかった。
彼女がこの部屋を出てドアが閉まって1人になってから、初めて気づいた。
もしかして彼女は、また僕に気を使って1人にさせてくれたんじゃないのか。
考える時間がないのも、結構きついものだ。
「……気を遣わせてばっかだな」
口に出したのは、それを気づいていると言うことを気づいて欲しいと言う、僕の嫌な自己主張の無意識下での意識の結果だった。
少し自己嫌悪した。
そう思ったけれど、仕方がないから僕は内面に思考を向けてみる。
まず、病人として扱われることがつらい。意識していなかった、なんで自分が、と言う思いが再び芽生え始める。閉鎖的環境。何も制限されていないようで、閉じ込められているかのような精神的束縛感が拭えない。
などと、少し無理しながら引き出せば引き出すほどに、それらはやはりつらくなるばかりで、僕はゆっくりと考えるのをやめた。
ーー
「怖いんだ」
少し、思い切って言ってみた。
「何が」
愛も変わらずといった調子で、浴衣は間髪入れずに言ってきた。
「……いいづらたくない」
「分けて言えよ。それ結局言いたいって意味になってない?」
「……オフレコで頼む。あとこれは陰口のつもりはない。僕は僕の心境を伝えたいだけなんだ。ただ単に不確定要素からその可能性があるのだと自分も含んでいるとわかって言っているんだ」
「わかったから」
「…………」
僕は深呼吸をして、緊張しているかのようなフリをした。フリ、というより、なんだか、自分に自分を信じ込ませるような、そんな意味合いを持った、自分に向けた演技じみたものであった。
「べ、別に緊張はしてない」
「うん」
そういうと、自分の声が意図せず少し震えていて、緊張していたことに気づき驚いた。
「……他のすれ違う人が、怖いんだ」
「他の人って、看護師さんとかお医者さん?」
「……」
お前、わかってて聞いてるだろ。そういう意図をもって軽く睨むと、彼女は存外違うようで、少し慌てて首を振った。
「違う違う、だって普段話すのそれくらいでしょ?君」
「うんまぁそうなんだけど」
「だからその人たちかなって。ごめんごめん、悪気はなかった。それで?他の患者さんたちの何が怖いの?良い人そうじゃんみんな。話したことないけど」
自分で言っておいて、その良い人そうという言葉の脆弱性に自分で軽く笑いながら話している彼女。
それがなんだか谷底に向けて背中を押された気がして、僕は少し落ち込む。
「いや、話したことあれば良い人なのはわかるんだよ。でもさ、良い人そうだから余計怖いんだって!!いや、悪い人そうなのよりは良いんだろうけどさ」
「ぅーん?何が不安なの?」
「……みんなが怖い。何されるかわからないから怖い」
「人間不信だもんねー。私のこともそうやって疑ってるんでしょう。知ってるよ」
「ちょっとやめてよもー僕は君の前でくらいちゃんと正直に素直になれるよう努力はしてるんだから。別に他の人と話す時そうじゃないわけじゃないけど。一応特別そうしてる的な意味で!!」
「うーん。それ否定してなくないかー」
「どんなに親しい間柄でも疑うことはある!!それだけ!!」
「あそ」
彼女はつまらなそうに、あるいはつまらなそうな体を装って言った。
僕は続けて、思っていることをつらつらと話し続けた。
「なんかさ。すごく可愛い人がいるんだ。怖いから直視しないようにしてるんだけど。なんかたまに視界に映る感じが、可愛らしい感じがして、声とかもまぁそういう感じで」
「良かったじゃん。それどういうオチ?実は男の人だってオチだよね」
「実は普通の女の人なんだと思うけど……いやワンチャンス男の人という可能性もあるか!!」
「ねえよ」
「……えー。彼女の前で他の女性(仮)を褒めるなどという不注意に気づくのが話した後で申し訳ない限りではありますが、それだけ不安だったということです」
「そんなことないと言いたいところだけど、まぁ確かに、渓谷君普段なら気い使ってそんなことしないよねー。絶対ではないけども」
「……はい。すみません後で謝るから。聞いて」
「はいはい遮ってごめんね。可愛い人がいて?惚れた?私と別れちゃう?あちゃー破局か」
言葉の節ごとにいちいち演技くさい驚いた顔やら悲しそうな顔やらをしてくるので気持ち的に鬱陶しい。あと胸が締め付けられてキツイ。
「冗談でもやめてよ?!その嫌味ブーメランってわかってる?!ブーメランじゃないと僕がつらいんだよ?!」
「いいからはよはよ」
「……えーと。可愛い人……っていうか、普通っぽい人がさ、いるとさ。なおさら怖いんだよね。何考えてるかわからないから。もっとヤバそうに感じちゃって」
「そんなさぁ、周りみんな殺人鬼的な考えで生きてたってつらいだけでしょうそれは。大丈夫だよ私の愛で守ってあげるから。お前の態度次第で厚くも薄くもなる盾ね」
「ふぅよかったなら大丈夫だ。気持ち的には」
今回に限って言えば、ふてぶてしさは演技じみた自覚の上に成り立っていた。
「よくもまあ自信があることで」
彼女は少し呆れたように言った。
「僕悪いとこある?」
「そういうところは可愛くないからあんまり好きじゃない」
つまりは実際悪いところはない、と。それを理解しているから可愛くない、と。
まぁ、僕も自分が可愛いと思っている可愛い人よりかは、謙遜してる人の方が好ましく思う、か、なぁ??うーん。よくわかんなくなってきちゃった。
「…………どうしろと?」
「無理して欲しくはないから演技もして欲しくないし、自分にも私にも嘘吐かれるのもまっぴらごめんだし。まぁ結論今の素のままでいいんだけどさ」
「やっぱね」
「そういうところが!」
「でも直しちゃダメなんでしょ?」
「だからって直そうとも気にしようともしないのは腹立つ」
「じゃ気にする」
僕は本当に気にしてみる。1人になったら、後でじっくり考えよう。
「はぁ、……本当に気にしてるから怒りも無理やり沈静化されるってものだよね。まぁいいや。それで、その不安はどうにかなりそう?」
「うーん。そもそも可愛い人が怖いし。女の人怖いし。何されるかわからないし誰にいつ殺されかけてもおかしくないって考えてるとそれが怖い。そう考えてる自分も嫌になる」
「それは嫌にならなきゃダメでしょ。まぁなってなくてもいいけどさ」
「……どうしたらいいかな」
「自分でも言ってたけどさ、要は知らないから怖いんでしょ?逆に全員と顔見知りになればいいじゃん。相手が自分を襲わないと思えるくらい仲良く。フロアにいる全員と。たまにくる来訪者に関しては仕方ない。街に出て全員と仲良くなるのは無理に等しいのと同じことでしょ?」
「いや、全員で……何人いると思ってるんだよ。僕も知らないけど、100人より下くらいなことしかわからないぞ。あ、いや、もしかしたらそれ以上かも。わかんないけど」
「多めに言ったなこのやろう。それ対処するのはお前だかんな」
僕らは少し黙り考えた。
「30人は少なく見積もりすぎかな?」
浴衣が言った。
「40人てとこじゃないの?そんなに部屋もないし。あーでも患者だけでも30、いや、25人……うーん、少し少なめに20人だとして。看護師さんたちもそれくらいいるじゃん。お医者さんも含めたらもっとか」
「……60人くらいが現実的に少し多めに考えた人数?」
「無理だろ2クラスだぞ」
「友達100人、でっきるっかな?」
リズムよく歌う浴衣。
ーー
最初の1週間、特にはじめの3日がきつかった。なぜ自分がこんなところに、とか、閉じ込められているわけではないけれど。
閉じ込められているような閉鎖的な雰囲気に、明るく優しい看護師さんたちが、なおさらその閉塞感を強めるのだ。
まるで、閉じ込められていると患者が思いにくいように、明るく優しくするように心がけている、と言われているかのようで。
実際そこまでひねくれたことを本気で思うわけじゃない。ただ、そういう側面もあるんだろうな、という思いがやはり気持ちを落ち込ませるのだ。
僕の場合はありがたいことに、幸い設備は最高級。明るく優しい看護師さん、頻繁にある回診。自分の状態をしっかりと把握してもらえるし、不満や不安、困っていることをわかりやすく聞いてもらえるから、これと行った不満ははじめの2日3日で全て解消された。
だから文句のつけようがない。
それがより一層、僕の心を窮屈に感じさせたのだ。
そういう意味では、気を使ってくれることも含めて、広い意味でいつも通りに振舞ってくれる、浴衣の存在が、どれだけ僕の救いに、いや、助けになっていることだろう。救いというほど傾倒的な思いじゃない。もう少し地に足ついた現実感のある思いだ。
というか、実際暇だし。暇で暇で仕方がない。やる事がなくてやる事がないものがやるべきことのようにのしかかってくる。
暇!!みたいな。
そして、来れる限りの時に、そして僕が調子のいい時にーーくると僕も嬉しくて調子のことなんか忘れてしまうけどーーいつも決まって僕の調子をドアの近くでしおらしく尋ねてから、彼女は部屋に入ってくる。
スリッパの音というのは魔性だ。みんなスリッパを履いているから、期待したらドアの向こうに通る人みんなが妹に聞こえてくる。
スタスタスタ。テトテトテト。スー。サー。すーはー。よしっ。
コンコンコン。
だがしかぁし!!こんなに可愛いスリッパ音(あとその他諸々の音)を立てられるのは僕の可愛い妹しかいないそうだろう!!
「はぁい」
僕が返事をすると、ドアがゆっくりと開く。
「えと、白河阿夢です……あの、主音渓谷さん、今、大丈夫ですかね」
ドアからベッドまでは距離があり、ベッドの上にいると、ドア近くに誰がいるかは声でしか判断できない。
何が言いたいのかと言えば、おそらく彼女は、僕が阿夢の姿を見たくないのに自分を見てしまう事がないように、気を使ってドアの近くにいるのだ。
「どうぞ。大丈夫ですよ」
僕がそう言うと、少し忙しないスリッパの音は、僕を見るなりもっと忙しなくなる。
「んふぁっ」
ベッドから立ち上がる僕を見るなり、目を輝かせるようにして、僕に飛びつく。
「おにいちゃあんっ!」
若干の勢いを持ちながら、僕の胸元に頭を突進させ、腕を背中に回す。
「ほいっ」
僕は彼女を抱きとめ、抱きしめる。
「さみしっかった??私は寂しかった」
聞く前に自分のことを話してしまう。きっと、来る前から言おうと思って、言いたくてたまらなかったんだろう事が伝わってくる。
昨日会ったばかりなのに、なんて思いつつ、正直僕も寂しかった。
「あー、僕は、君の数倍寂しかった」
正直僕も寂しかった、とだけ言えばいいものを、つい思っていることをそのまま口に出してしまう。
「いいよ?そう思いたければそう思っても。事実は違うけれどそれを誤認し続けるがいい!」
どうも今日の阿夢は挑戦的だ。
「わかった僕の負けだ。阿夢ちゃんのお兄ちゃん愛には負けるよ。大好きだ」
僕が負けを認めて諦めてベッドの真ん中にあぐらをかいて座りそう言う。
「……」
阿夢は、僕がもう少し言い返すと思っていたのか、顔を真っ赤にしてこくりと頷くと、スリッパを可愛らしく脱ぎ捨てて僕のあぐらの中に収まった。
しばらく沈黙したけれど、そのあとは普通に楽しく話した。
ふと、僕は思った。いつも来てもらってばかりだな、と。
「なぁ、偶には僕が行こうか?」
僕の問いかけに、少し首をひねって僕を見た阿夢は、控えめにふるふると首を振ってみせた。
「ううん。いい」
それが可愛いらしいというかいじらしくって、僕は少し切なくなった。
彼女の髪を撫でたく思ったので、撫でていいか聞いてみる。
「うん。いいよ。おにいちゃんだけ、んへへ〜」
楽しそうで嬉しそうで何よりだ。とても癒される。その分君が苦しんでいないといいんだけれど。いや、もしそうなら僕は自分がいくら苦しんででも、一刻も早く君の苦しみを取り除いてあげたいとさえ思うけれど。
全てを口にするには、少し重たく感じた。
「本当のことを言って欲しいんだけど」
「うん」
彼女は少し身構えて、体がこわばったのがわかったけれど、僕が笑って首を振ると、安心したように楽な姿勢に戻った。
「僕と一緒にいて、無理、してない?」
そこで言葉が途切れそうになって、すぐ捲し立てるように話した。
「つらかったらできる限り協力するし、できる限りなんとかしてあげたいんだけど」
彼女は一度僕に優しい笑みを零してから、少しだけ、言いづらそうなのを隠すように笑って言った。
「たまに、お母さんとか、くるから。鉢合わせたら、あれでしょ」
「……つらい思いとかしてないよな」
「し、してないしてない!……………………お兄ちゃんと触れ合ってる時間は」
あのクソヤロウ、ぶっ殺してやる!!
正直僕はそんなことを危うく純真無垢な妹の前で口走るところだった。
「……あー。えー。あー、だから、あー、……えーと」
だがしかし、妹のために母にもいいところがあると今では彼女のみの母となった僕の実母を擁護するのは、それでも、それでもためらわれた。声が出てこなかった。
「いいよ、気を使わなくて。鉢合わせるとあれだからってだけだし。あと、お兄ちゃんからくると、ちょっと体裁的に問題あるから。女の私が通うならまだ通い妻で済むけど」
「いや通い妹だろうそれは。やべえこっちの方が艶かしいな。なんか若さというか幼さのイメージが生々しい」
「お兄ちゃんなんか不純」
少し目を細めて見つめられたので開き直ることにした。
「17歳男子!!から不純を取ったら何が残ると?」
「純粋なバカ」
「その通り!!」
用意していた答えを言われて僕は勢いよく正解を言い渡すしかなかった。
ーー
明くる日、阿夢がベッドにずる僕のあぐらの上で話している時、丁寧で規則的なノックの音が三度した。
「はーい」
いつもより20分も早く浴衣が来たのかとも思ったが、彼女ならこんなに丁寧にノックせず、2度ノックをしたらすぐにバーンと扉を開けて入ってくるはずだ。
あるいは彼女の冗談かとも思ったが、阿夢が不安そうにしたので、僕は丁寧に返しすことにした。
一応阿夢を背中に回してからーードアからでは見えないところに阿夢を行かせてもよかったけれど、阿夢が僕から離れたくなさそうで不安だったし、何より呼べば人が来る、安全が確立されたこの病院で、僕も他人のために彼女と離れるのが嫌だったための処置だーー扉の向こうの人物の入室を促した。
「どうぞ」
少し声を張り、音をドアの外まで通らせると、丁寧な所作で扉が開き、部屋に入るとこちらに背中を見せないように扉を閉じた。
大きな鞄を持ち、キチッとした制服を着た女性が部屋に入ってくる。
「失礼します。こちらに白河阿夢さんがいると看護師さんに聞いてきたのですが……」
僕が綺麗な人だなと思った時、阿夢が驚いたように僕の上着を背中からぎゅっと掴んだ。
見慣れない僕を見て部屋を間違えたのかと思いかけた女性が、さっと僕の背中に隠れた阿夢を見つけた途端、声を荒げた。
「あなた!ここでなにしてるの?!」
「げっ見つかった!!」
阿夢は少しふざけた様子でさらに縮こまって僕の後ろに隠れた。
「まさか本当に他所様の病室にいるなんて!ご迷惑でしょう?ほら、行きますよ!!」
はじめ僕は心臓が激しく脈打つほど警戒心を一気に高めたが、それを背中越しに密着した阿夢が悟って、小声で言った。
「白河家での義理の姉、一応敵ではないはず」
「本当に平気なのか?!」
つられて僕もひそひそと小声で話す。
「大丈夫だよ、あの人は」
少しの間を置いて、僕は返事をした。
「……わかった」
これ以上の質問は妹を疑うことになる。この間も僕にとっては最悪に等しい行為ではあるけれど、1番は阿夢の身の安全だから苦渋ではあるが仕方がない。
いや、本当にそうなのか?自分の無力さを純粋な妹に押し付けるなよ!!
罪悪感が重たい胃酸のように広がっていった。
ずかずかとベッドに座る僕の目の前までにやってきたその女性に気づき、僕ははっと見上げた。
「ごめんなさい、その子、うちの妹なんです。もう自室に帰らせますから、本当ごめんなさい」
丁寧にお辞儀をする彼女。所作が丁寧できびきびとしているため高圧的に感じたが、嫌な感じではない。
「さ、帰りましょう?」
優しい笑みで、僕の後ろにいる阿夢に手を差し出す。
「嫌だ。私この人とずっと一緒にいるの」
「ずっとはだめよ、あなたはきっとすぐに退院できるから、この人とずっとは会えないわ」
「ならもっと入院します〜〜」
阿夢が下を出してまぶたをめくる。あっかんべーー、と言わんばかりに。
「なっ、な、なな、なっ!!あくっちゃんが、駄々をこねた?!」
すると女性はたじろいで激しく動揺した。
「私この人とずっと一緒にいるもんっ!!一生一緒よ!」
随分と棒読みで阿夢は宣言した。
「なぁッッ?!そ、そんな、あくらが、私のあくらが……」
女性はカバンを落として言った。
「グレた?!」
女性は激しく驚いていたが、阿夢はけらけらと笑っていて、誰がどう見てもふざけてるとわかる様子だ。
阿夢はダメ押しとばかりに下唇を噛んで笑いを抑えながら僕の肩に抱きついた。
「病院で非行少女になるなんて!!」
女性が悲痛に叫び、阿夢が口を開く。
「私と彼はラスベガスで一緒に悪いことをして大金を稼ぐのよ!!そしたら世界一周の旅をしてまわるの!!この病院が私たちの愛の巣なのよ〜〜!!」
おいおい、なんだそりゃ。
阿夢が女性に背を向けるようにして僕と向き合う。それから、ウインクをして見せて、僕の頬にキスをした。
最後に、片手を僕に抱きついたままで、“お願い”と片手で合唱ポーズをとった。
なるほど、つまりはそういうことか。
頬にキスされては仕方ない、阿夢に付き合おう。僕は少し残っていた緊張の芯が解けて、体が楽になった気がした。
「そう、そういうことね、あくっちゃんはいい子すぎたのよ……そう、そういうこと、悪い男に惹かれやすいのねあくっちゃん!!」
ぶふっと阿夢と僕が吹き出す。
「「なわけ」」
小声で僕と阿夢の声が合った。
「「あはははっ!!」」
2人で声をそろえて笑った。
それを見て女性が目元をひくつかせる。
「あなた、一体うちの子になにを吹き込んだの……?!」
「吹き込むもなにもないぜぇえ!!俺はこいつの彼氏なんだぜええ〜!!こいつは、俺の言うことならなんでも聞くぜえええ!!」
僕が言い終えると、堪えることもせず阿夢が腹を抱えて大爆笑した。
「そ、そんな、かっ、彼氏?!約束したじゃない!!初めての恋バナは私に1番最初にするって!!一度もされてないわ?!」
女性は涙ぐんで手振り身振りで激情を示す。
「う、嘘でしょ、マジかこの人」
「もう少しいけるかも」
もう少し?そんなバカな。これ以上こんなのに引っかかる人間なんているのか?本当に?
しかし僕は阿夢に言われて、さらに付き合うことにした。
「恋バナなんてしらないぜええ!!男も女もこの世のもんはみんな俺のもんだぜええゲヘヘヘヘへ」
大爆笑しながら阿夢が言う。
「きゃ、きゃああー!すてきーー!!」
女性は足をガクガクと震わせる。
「ひっ、ひどい!」
そして、決意したかのように阿夢に抱きつかれる僕を指差す。
「こんな、こんな人に妹はやれないわ!!女が欲しいなら私を選びなさい!!でも妹は返して!!相手なら私がいくらでもしてやるから!!」
阿夢が面白おかしすぎて僕の胸をドンドンと叩いて痛い。
「でも妹は今すぐ離しなさい、妹を離さないと、私、私はどんなことでもするわ……!!」
と、彼女のが血走り、いよいよ本気で怒ったところで僕も堪えきれず大爆笑した。
「ぶはははは!いい人だ!!めっちゃいい人!!お前よかったなこんなお姉さんいて!!」
「それ渓谷さんに言われると微妙な気分」
僕を主音と呼ばないところに、妹の姉に対するいたずら心を感じる。さては、しばらく伝える気がないな?いいだろう、妹談義に花を咲かせたいところではあるが、僕は見知らぬ姉よりもよく知る妹を優先しよう。
ほっぺのキスは高くついたわけだ。兄の僕が安く受け取るわけにもいかないけども。
阿夢がおかしすぎると言った様子で、抱きしめるように首へ手を回しながら僕の背中をバシバシと叩く。
「そ、れ、と!!あなたなんなんですかさっきから!!たとえ付き合っててもそんな密着するなんて不純ですよ離れてくださいその子から!!」
「悪いなぁ、げへへへへ。こいつはおれにめろめろなんだぜ。ぐはははは。ぶふっ」
これに引っかかる人は流石にいないだろうよ、と思ってこらえきれず笑う。
「きゃー!悪なのが素敵ーぶふっ」
おい妹。あんまり笑いすぎると収集つかんぞ。
「いけない、大学に行ってサークルのみんなに相談しないと……!!ゆかちゃん、そうゆかちゃんならきっと助けになってくれるはず!!」
女性は慌てて携帯を取り出そうとして鞄を落としたことに気づき、そこから携帯を探し始める。
僕は違和感を感じて阿夢に尋ねた。
「大学……?」
「そりゃまあ大学生だし」
僕は彼女の服装を見直した。青いリボンの付いたシャツにブレザー、スカートにオーバーコート。
「制服は?!」
「あれ私服。きちっとしてるのが好きなんだって」
「と、同い年か歳下かと思ってたのに……僕年上をからかってたの?!」
「同い年って、その人21だよ?」
「四つも上じゃないか!!」
年齢差なんて気にしないのが僕の考え方ではあるものの、やはりこういうことが現実に起きると年上の者を敬おうとして萎縮してしまった。
そもそも年上年下同い年など関係なく、人としてやっていいことだったのか?と罪悪感に沈んでいく。
だが、だんだんこの女性も悪いような気がしてきた。責任転嫁なのだろうか。いやしかし、この人は純粋に妹を心配していたわけだし、配所は丁寧に対応してくれていたし。
僕の膝の上で笑い疲れた様子の阿夢を横目に、僕が汗をかき始めた頃、女性が鞄からスマートフォンを見つけ出した。
「ゆかちゃんお願い出て!!そして先輩を助けて!!」
僕の膝の上でニマニマと微笑む阿夢に、歳上をからかったと知り内心汗びっしょりの僕、誰かに電話をかける女性ーー院内は、個室内では電話可であるーー。
そして、電話がかかるのと同時に、僕の個室のドアがトトッと雑に2度ノックされると同時に開いた。
「この人に対しては悪質よ、2人とも」
浴衣が、僕と阿夢に少し強い口調で、ただ責める気ではないことのわかるトーンで言った。
「げっ」
僕が呟いた。
「げっとはなんだげっとは」
浴衣が眉をしかめて不服そうにした。
「いやごめんつい。なんとなく?」
僕が悪かったため、素直に謝る。すると彼女もまあいいやと見逃してくれる。
突如入ってきた浴衣に、女性は驚いて携帯を落とした。
「今電話かけたの」
「通路内だったので切りました」
浴衣は面倒臭そうに淡々と答えた。
「ずいぶん早いのね、というか、話してないんだからくるわけないわよね」
浴衣はなんとか無視とはとられないような無関心の淡々とした様子で話そうとしなかった。
少し呆れているようにも見えた。僕の目が変なのかもしれないけれど。
「……ゆかちゃん?何してるのこんなところで」
「こっちのセリフですよ先輩。来る病室間違えてますよ」
「違うわ!せっかくお見舞いに来たのに誰もいないから妹を連れ戻しにきたの!」
「ぶふっ、妹って、あれが?」
浴衣も堪えきれず笑った。
「あれとは何よあれとは。いつも話しているでしょう。マイスイートラブリーシスターよ!!」
「あっそ。そんじゃご勝手にどーぞ。連れ戻すのは合意の上でおねがいしますねー」
「それが大変なのよ!あの子人がいいから悪質な男に騙されていて!!このままでは非行に走って大変だわ!!」
女性は、僕と僕の膝の上に収まっている阿夢をぱっと見て顔を青くした。
「いえもう走りかけちゃってるかもしれないの!!」
「ぶふっ」
浴衣が笑った。
「何笑ってるのよゆかちゃん、どうかしたの?笑うような状況じゃないと思うんだけど?!むしろ助けてよ!!可愛い後輩なら、可愛い先輩を!!お願い!!」
「どうかしてるのはあなたの方ですよ先輩。状況を考えなさいな。あなたのいう悪質な男とそれに騙された可愛い妹さんは、今一緒に兄妹談義に花を咲かせていますよ。なんて和やかなことか」
女性はふときょとんとした様子で首を傾げた。
「というかゆかちゃんなんでここにいるの?」
「先輩って相変わらず頭いいけど馬鹿ですねー」
「あなたねぇ。前々から口が悪いとは思ってたし注意してたけどそろそろ怒るわよ?」
「ブフッ、自分で状況見てから怒ったらどうですか。間抜けな自分に」
まったく、愛すべき人だなぁ、と微笑みながら、僕の着替えを回収するいつもの作業に移る浴衣。
ーー
「言えた義理じゃないですけど………………阿夢を、よろしくお願いします」
「言われた義理じゃないですけれど。……というか、考えなくても普通に妹をよろしくって言っていいと思うけどね」
僕はなんとなくその人が、困ったような咎められないような、優しくすべきか迷っているような顔をしている気がした。
「…………言えた義理じゃ、ないので」
僕はその人の目を見ることができなくなった。怖かった。目をそらして自分の影を見た。影が動いた。浴衣が構えたのがわかった。
「なぁんかうちの妹から聞いてた明るく楽しいお兄さんじゃ無ーい!!」
口を開いたのは阿夢ちゃんの姉だった。
「鬱っぽいねえ」
阿夢がくすくすと笑って言った。鬱ーーと言ってもそういう類の病気、であって鬱ではないのだがーーだからこんなところにいるのに。と思ったのだろう。
ーー
先程、回診で看護師さんに呼ばれた阿夢は、一時的に自室に戻った。流石に、体温やら血圧やらを他の人の部屋で測るのはどうか、と思ったからだろう。
「世間は狭いわね」
高校の制服のような私服を着た女性、白河秋さんは少し淡々と言った。たくさんのことが起きて疲れたのだろう。
「ですね」
世間話をして打ち解けた気がした。
この人になら、阿夢を任せても大丈夫だろう。
「心配ないわ。私が保証する」
僕の目配せに気づいた浴衣が、そう一言呟いた。
ーー
「ずいぶん賑やかな病室ねえ」
部屋に入ってきたその声を聞いた途端、僕たちの会話は一瞬で途切れた。
後編に続きます。




