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第一部「…夜」

   ワールドワード・ヒストリエ座

        最終公演


日時:10/11

   LM10:00~DM11:00


大人 お一人様 2000CR

小人 お一人様 1000CR


前売り券もございます。

お求めの際は当劇場、または

お近くのチケット売場をご利用下さい。


長らくのご愛顧、有り難うございました。

劇団一同、心からの感謝を捧げると同時に、

少しでも多くの皆様に、

当劇場の最後の劇を観て頂ける事を願っております。


 子供の笑顔が通り過ぎて行く。夢見ている顔。幸せな顔。子供達の願いは、幸せは、そのままの形で未来へと変わって行けるのだろうか。この世界の、未来は子供達を幸せにしてやることが出来るのだろうか。

 うさん臭い体たらくのチケット売りが、ここ一帯で熱心に商売を続けている。もう顔を覚えてしまった者さえある。あんな事をしても、大した金は入るまいと言うのに、無視されても、蔑視されても、煙たがられても、懸命の商売は続いている。この時代には金は必須だ。ちっぽけな金のためにでも、ああも必死になるのにはそれなりに理由はある。だが、そうそう娯楽に金をはたいてはいられないというのも、他の人々の理屈だ。

 ふかしていた煙草が尽きてきた。風に吹かれて、幾つかの灰が手に付着してきている。

「まるで、私の人生その物だな」

 誰かにそう言われたのかと思ったほど、その声は突然で、私の頭に無かった物だった。だが、それは明らかに私の喋った物だった。寂しい言葉、乾いた声。私の物だ。

 何が、私の人生その物だというのだろう。煙草、朽ちて跡形もなくなってゆくこのもろい嗜好品のことか、それとも、弱々しく風に吹かれて飛ばされて行く灰のことだろうか。いや、違うか。私は少し笑いをこぼしそうになった。両方だな。

 だが、実際に笑い声は出ていなかった。笑い声は、最近では子供の笑い声しか聞くことが無い。自分とは無関係な子供の、自分の知らない幸せを喜ぶ笑い声だけしか、聞くことが無い。

「…。…」

 今度は、明らかに他人の物である声が聞こえてきた。先程から話しかけていたらしい。思考にふけっていた私を呼び覚ますように、妙な男は、妙な口調でチケットを一枚私の顔の目の前に躍らせていた。チケットは、悲しげに先程から少し強い風を体に受けて、男の手から逃れたそうに、身をよじって、私の顔に触れようとしている。

「ああ、そう、だな、一枚頂こうか」

「へい毎度!あっ」

 金と品物の当然の取引をすますと、男は恥ずかしそうに向こうの方へ行ってしまった。今の言葉から察するに、以前には、店頭に立って張りのいい声を出すような、明るめの仕事に就いていたのだろう。時代の流れには、皆逆らい様が無い。

 チケットと私だけが、その場に取り残された。最初チケットの哀れな姿がいたたまれなくなって思わず買ってしまったのだと思ったが、あの人間への哀れみも、そこには有ったのかも知れなかった。あるいは、自分の姿に重ねたか。とにかく、買うはずの無かった物を、私は手にしていた。

 先ほどまではこの場を―そう、この場を―去る予定だったのだが、買ってしまったのも何かの縁だ。数奇な縁もあったものだな、そう思いながら私は、遠くに光り、瞬き続けるネオンの下の劇場へと向かった。煙草は、ゆったりと私の足元へと落下していき、私の足の下敷きになった。


 むさ苦しいほどの人いきれ。だが、悪くない。人の波に成すがままにされ揉まれつつ、私はそれでも確実に、入場口の方へと流れ込んで行っている様であった。大勢の人間の詰まった空間というものには、たいてい、それだけ多くの人間の感情の高ぶりが有る。集まる理由があってそれに、これだけの数の人々の要求がぶつけられるのだから、ある種の祭りめいた熱気を感じてしまう。事実、そこには興奮した、人々の若々しい表情が満ちている。だからこそ、私はあの仕事に取り付いた。この表情を、この世界から消してはならない。しかし、それにも随分疲れてしまったようだ。残ったのは、一生分の疲労と、短くなった時間。悲しみと喪失しか、今までは無かったような気さえする。

 みな口々に、勝手なことを言い合っている。もう本当にこれで終わりなのか、いつか再開する予定はないのか、劇団は今後どこへ行くのか、何かやましい事件があったのではないか。思い入れるがために色々な詮索をするのはいいが、もう少し程度の高い、思いやりの有る会話は出来ないものなのだろうか。

 時計を見る。開幕時間は、明刻の十時だ。開幕までには、ゆうに三十分はあるようだ。明刻。それは、ただ明るいという時間でしかない。今のこの世界には、太陽はない。弱り切ったその太陽の光が、ぼんやりと世界を照らしているだけだ。あまり詳しい事は知らないが、太陽には休眠期という物が定期的に有るらしく、今それのお蔭で人類は人工太陽、月の世界の恩恵に与っている。その周期は数十億年単位で動いているそうだ。

 ちなみに月は明刻暗刻あるいはライト・モーメント(LM)ダーク・モーメント(DM)と呼ばれる昼夜の再現をするのだが、それの風情の無さと言ったら格別である。昼夜の区別は月光の光量の増減によってのみ行われる。それでも昼は休眠中の太陽の出ている時間帯に合わせた物にはなっているが、太陽光それ自体でははっきり言って昼夜の区別が出来る程の光量は無い。つまり、太陽光だけで生きようとしていたならここら一帯はもうとっくに氷の街と化しているだろう。今この星に生命が存在している事自体が既に不自然なほどの環境だった。終る星、こんな言葉がマスメディアで騒がれていたのも一昔ほど前のことだ。今現在それが本当になってしまっている精神の重圧下でそのちょっとした退廃的な詩情を楽しめる人間などはもう残ってはいないのだ。

 少し目を離していた間に、段々と私の位置は入場口の方へと向かっている様だ。前方にひしめいていた頭の数が前よりもずっと減っている。すでに中へと入った者が皆、こちら側にいるよりは整とんされた列となって、奥の闇へと消えて行く。その風景は、私に妙な怖気を与えた。闇の向こう側に行けば、もう二度と光を見ることが無いというような錯覚に陥ったのだ。

 劇場のアーケードの下に入り込む前に、もうしばらくはそれを眺めることが出来なくなってしまう前に、私は白く空しい空を見上げた。私が騙されてでもいるかの様に、真白い他には本当に何の感動も安心もない。満天の星空を見上げて感じる圧倒的な不安定さとは全く価値の異なる、うだるような惰性に漬かったやるせなさが、頭の中をひどく締め付けるだけだ。

 アーケードの下に潜り込んで、また劇団の一員との当然の疎遠な手続きをして、中の闇へと歩みを進める。あの先程の空の映像が頭の中にこびり付いて離れない。歩き行く道は、いつまでも変化無く、闇に包まれているように思えた。そう、この世界はきっと、ずっと夜なのだ。冷酷な夜の暗闇の中を、この世界はずっと歩んで行くのだ。


「こんにちは!みなさん当劇場の最後の劇を見に来ていただいて、ほんとに有り難うございます!最後になったからには、とことんサービスさせて頂きます!」

「本日みなさんにお見せます劇には、全部で四つの劇を予定しています。みなさん最後まで、ごゆっくりとお楽しみ下さい。では最初の劇になります、『ふたつの言葉』です、どうぞ」




たとえ頭の上の空には、星が無くたって、

光が無くたって、

僕には世界の姿が見える

君が世界を照らしてくれるから、

僕は世界の姿を知っている

僕にとってのきらめく星が、

君なんだってこと、

僕はいつだって知ってるよ、

加奈…


加奈…


前劇

「ふたつの言葉」

第一幕「おもい」

第一場「夜の広場」


 頭上に浮かぶ幾多の月影に照らし出される人影。年端も行かないやわな体の青年の姿が、ほのかに薄暗がりの中に浮かび上がる。

「はあ。この気持ちを伝えたいなあ。あいつは、僕のことどう思ってるのかな…」

 天を仰ぐ青年の傍らに、もう一つの人影。ほのぐらい中で、小さな体がぼんやりと現れている。

「あっ!こんな所にいたのね、もう随分さがしたんだよ。どうして夜になると、そうやってひとりになろうとするの」

「べ、別に何でもないさ」

「そうかなあ」

「それよりかな、こんな時間に危ないじゃないか、外に出たりしちゃ」

「もうあたしは子供じゃないんだから、いいじゃない。かずちゃんの面倒はあたしが見なくちゃいけないんだし。さ、行こう」

「あのさ、あの呼び方はやめてくれよ、何かみっともないだろ」

「え?そーお、かな?あたしはけっこう気に入ってるんだけどなあ」


第二場「二人の住まい」


 日差しではない、朝の光が青年の顔を照らす。安らかな寝顔。やがて目を覚ます。

「…う、うー。目覚めが悪いなあ」

 少女が青年のそばに飛び込んでくる。はじけるような笑顔。

「おっはよ、かずちゃん!」

「あう、そんな大声で叫ばないでくれ、頭が…」

「ふふ」


第三場「朝の街並」


 広がりのある空間に、まばらに立ちならぶ建物。装飾が美しい。色鮮やかな街の中を、青年と少女は歩いている。

「さあて、なにを買おうかな?」

「ははは、気が早いな」

「だって、楽しみじゃない、休日のお買い物なんて。久しぶりだし」

「ずいぶん、行ってないな、そういえば」

「うん、だから前からずっと楽しみだったんだ、今日」

「そうか」

「それにしても、人がすくないや」

「うん?ああ、そうだな。もうこんな時間なのに」

「かずちゃんじゃないんだから、寝坊しているわけでもないだろうしね」

「それを言うなよ、僕はいつも仕事があって遅いんだから」

「あ、ごめん。でも、どうしたんだろうね」

 あたりを見わたしている少女。少女と、近く一面に咲いている花々を見る青年。

「きれいにいないや」

「きれいだ…」

「うん…え?なにが?」

「あ、いや、あそこの花がな」

「あの花が?」

「そう、あれ、あの花」

「特別に、あの花だけが?」

「そ、そう、あれ」

「そう」

 時間がゆっくりと流れて行く。あたり一面を、一様にうすく藍色に染めていく。


第四場「暮れる街並」


 青年と少女が歩いている。行きと同じ道を戻っている。

「僕は、何でいつも運搬係なんだろう…」

「お花、夜は眠ってるみたいだな」


第五場「二人の住まい」


 青年が玄関にほど近い所で休んでいる。

「こ、腰…」

「え、なあに?」

「や、別に…」

「そう。もうちょっとで、ご飯だからね」

 少女は玄関から少し遠い台所に立っている。ふかい鍋の中に何かが煮込まれている。

「ふんふんふん♪」

「はあ…」


第六場「二人の住まい」


 食卓に青年と少女が座っている。暖かそうな鍋物の湯気が、うすく二人を包んでいる。

「どうかな?今日は、いつもとすこし変えてみたんだけど」

「まあまあ、かな」

「…そう」

「…ね、ねかな」

「え、なに?」

「あ、これ、あったかいね」

「うん」

「…あ、あのさ」

「うん」

「…かなって、料理とか上手いよな」

「へ?…ほんと?」

「あ、たまに」

「…そう」


第七場「寝室」


 はっきりと見えるでもない天井をじっと見つめている青年。

 微動もしない。天井以外の物を、全て忘れてしまってでもいる様子で、青年は、じっと横たわっている。

「明日から仕事、か」

 天井から視線を外す。

 横を向いたまま、じっとしている。

「…かな」

 ため息をついている。

「かな…」


第二幕「ゆめまで」

第一場「月工場」


 光る物質が規則正しく、青年の前を流れて行く。一様に、何の変化も無い輝きが、通り過ぎて行く。

「…ふう」

 汗が、青年の額からこぼれ落ちる。光る物質の上に落ち、蒸発する。

「目が、疲れるなあ」


第二場「夜の街道」


 仕事を終えて、疲れた肩をゆっくり上下させながら、青年は帰路についている。

 次々と打ち上げられて行く光り輝く物質の方を見ようともしない。足許にこそ見るべき物があるとでも言いたげに、うつむきながら歩いている。

 闇の中を、動いている。

 生まれたての月が、青年にかよわい光を当てている。

「…ぃつけ…やろ…」

 誰かの罵声は、青年の耳に届かない。深く深く、奥の闇へと入って行く。

「かなの手料理が食べたいな…」


第三場「酒場」


「まだかこっちは!」

「ねえ、お酒はやくしてよ!」

「た、ただいま!」

 客に酒を出すために、あちらこちらへと忙しく働いている青年。

「こっちもおねがい!」

「は、はい!」

 一生懸命に客をもてなす。額から汗が絶えることはない。

「おまちどうさまでした」

「はい、ありがと。偉いのね、若いのに」

「あ、いえ。家族のためですから」

「感心ねえ。じゃ、頑張ってね」

「あ、どうも。失礼します」

「おい兄ちゃん、こっち頼むよ」

「はい、今すぐ」


第四場「住居の前」


「ただいま!」

「おかえりなさーいっ!」

 戸口で一組の男女の愛が確かめ合われている。一人の青年が、じっと見入っている。

「いやあ。もううちに帰るのがまち切れなくって…」

「…うふふ」

 熱くやりとりを繰り返しながら、男女は住居の中へと消えて行く。誰もいなくなってからも、青年はまだ見つめている。

「…はやく帰ろう…」


第五場「二人の住まい」


「ただいまー、って、誰もこたえてくれやしないか」

 疲れた顔で中へ上がり込んでいく青年。

「…あ」

 諦めたようにうつむいていた表情が、驚き混じりに明るくなる。

「かな…」

 静かに一点を見つめている。使われることもなく寂しげにしている食器を前にして、少女は、先程まで読んでいたらしい本と雑誌の上に眠りこけてしまっている。

「全く、こんな所で眠る奴があるかよ」

 と言いつつ、青年は自分の席にくたりと座る。

「あれ、なんだか」

 青年は立ち上がり、はっとなっていすを見つめる。青年の席に、ぬいぐるみが置いてある。食器をもう一度見る。

「…家族のため、か。ほんとだよな」

 しばらく立っていた青年は、そのぬいぐるみをつかみ、起こさないように少女を抱きかかえると、少女の部屋へと運んでいく。そして、その部屋を後にし、青年の自室へと入っていった。


これから語られる物語に、じっと目をこらして下さい。

そして貴方の幸せを見つめ直して、それを抱き締めて上げて下さい。


第三幕「5」

第一場「緋の街並」


「だめだ!こっちにも火の手が廻ってる!」

「おい君!早くこっちに来い!炎に巻き込まれてしまうぞ!」

 世界を呆然と見守っている少年の姿が、激しい赤い光の中に、くっきりと浮かび上がっている。動くことがない。影のように、人のシルエットとなって立ちつくしている。

「…めだ……おきざりには………きない、あいつを………」

 口が単調に弱々しく言葉をはき続ける。対照的に、拳には憎悪による物のように力がこもり、握り締めすぎたその手から、鮮血が滴っている。

「……ていいはずは……ゆるさないぞ…ぼくは…ぼくは…」

 俯きながら、口元が悲しく笑う。髪に隠れた瞳が、何を思い、何を見つめるのか。応えのないままの火炎の山脈は、熱い風を交え、少年の希望と暴走を吹き消そうとしている。

「おい!危ないぞこんな所にいては!こっちに来るんだ!」

 荒々しい大人の腕が、少年の体の沈黙を破る。

 その時、少年の時間が動く。諦めの始まりは、続くことなくかえって少年の情熱と大切な命への思いを加速させ、全神経、全身の筋肉とを、瞬間的に前方へと眼前の絶望に燃える炎へと駆動させた。

「うあ!おいだめだ君!行くんじゃない、戻ってこい…」

 誰にも彼を止めることは出来ない。そして最後に、黒い影の揺らめきを残し、巨大な光の一部となって、少年は消えた…


第二場「ふたりの住まい」


「いたい!」

「あ、ごめんね!ちょっと治療薬つけ過ぎちゃった」

「なるべくお手柔らかに頼むよ」

「うん」

 上半身を露出して座る青年の後ろに少女はかがんで、布にしみこませた薬を青年の背中に丁寧に塗って行く。いたわる表情は暖かく優しい。すこし感謝の色もこもっている様だ。

「そ、そこ、凄くしみる…」

「ごめん、でもちょっと我慢してて。…なかなかなおんないね、かずちゃんの怪我」

「え、ああ、でもこれだけの規模じゃあそう簡単にはな」

「あたし、毎日お祈りしてるんだよ、かずちゃんの怪我が早く治りますようにって」

「…優しいんだな、かなは」

「かずちゃんもね」

 少女のくちびるが、青年の横顔に素早く触れる。

「じゃ、もうすぐご飯にするね」

 そして何事もないように、青年の元を離れていく。赤く染まっている頬を、青年は不思議そうにさすっている。

「やけどがまた、増えちゃった、かな」


第三場「滅びた街並」


「…ぁ……ぁ…ぃ……ぁぅ」

 黒くなった体から薄く白い煙を上らせた少年が、廃墟の中を歩いている。いや、むしろ動いていると言うべきか。行くあても無さそうに、少年はのろのろと揺れている。

「……か……ぁ……、あ…」

 目玉という方が適切なくらいに変形してしまった目の中の力無い瞳は、何が見えているのだろう。動く方向に規則性が見られない。曲がってはよろめき、動いては崩れる。

「ど……こ…ぉ……ぁ…」

 口から唾液が滝のようにだらしなくこぼれ落ちる。彼の瞳には、食料が見えているようだ。線の不明瞭になった口元が、どことなく歪んで笑みを表そうとしている。

「…ぁ…ぁ…。……ぁ…ぁ」

 発声の機能が支障を来してきたようだ。ただ口を開けさえすればかろうじて発音できる音だけが、恐らく無意識に喉から漏れだしている。

「ぁ…ぁ…ぉ…ぁごッ」

 突き出していた建物の枠組みの一部を、喉元深く入れ込んでしまい、その鉄の棒を嘔吐するように、勢い良く後ろにのけぞり、その場に倒れ込む。

 突起物の海となった地面へと激しく頭を打ち付けた今の衝撃で、赤い生命力がじわじわと確実に流れ出す。それを待ち焦がれていたかのように、彼の目、口、声には、笑うピエロの化粧の様な、証拠のない幸せを謳う雰囲気に満ちている。

 夢を見ている、と表現する方が、彼にふさわしいだろう。終わりゆく脳の中では、何物にも換え難い、輝きと安らぎの世界が、広がっていることであろうから。


第四場「ふたり、の住まい」


 静止が有るきりで、部屋は凍ったように、無音と不動を保っている。その中心には、絵の中から切り抜いたような、息づかいの見られない人影がある。青年の姿だ。

 手には何かが握られている。少なくとも、付着している。輪郭だけからは、その物質を識別するのは難しい。

「…かな」

 話しかけている口調だが、その言葉の先に誰かの存在は認められない。視線は恐らく、手の先の物体を見つめている。

「私の大好きな、加奈」

 そう、私の大好きな加奈。


第五場「宵に浮かぶ月と街並」


 月を見上げている。閑散とした空気の中を、冷たい風がながれ、通り過ぎて行く。

 足音が続いている。この世に存在することの証拠に、誰かの足が歌っている。

 眠り込んでしまっている。来る無き明日に備えるために、誰かが、夢に浸っている。

 足音は続いている。誰かに聞いて欲しいとでも言うように、執拗に音は続いている。

 月明かりが、むき出しの瞳を薄く照らしている。乾いたそれに、再び涙をもたらそうとしている。

 音楽が流れている。ひとりのための、一人にしか聞こえない、幸せを精一杯奏でようとしている。


 その時、ふたつの見えない言葉が、合った。


 倒れ、足音の旋律が消えている。一瞬の静止が、諦めの姿を露呈する。

 気付く。そこに有るのは絶望ではなく、明るい希望。生きて行けるかも知れない、祝福の感触。

 立てる。この地の上で、まだ立つことは許されている。ならば歩こう。この偶然の活力源に、感謝を捧げながら。逝ってしまった若き意識のために、心を分け与えながら。


終幕「ココロカタカナ」

第一場「日々の住まい、緋の住まい」


「世界のウソが何だったのか、知ってるんだ、ボクは」

 彼の口が整然と、落ち着き払って優しく開く。手にしている柔らかくは無さそうに思える物体を、愛おしげに愛撫しながら、彼の言葉は紡がれていく。

「…ちょっと、昔の話をしようか」

 呼びかけるように彼が呟く。

「むかしむかし、あるところに」

 声を向けるモノは、やはり手の先の物質だ。

「とてもかわいいけれど、寝込みがちでか弱いおんなの子」

 手の先の物体を軽くへこませるように、なで続ける手に圧力がかかる。

「そして、なんのとりえもないけど、その女の子が好きな気持ちなら誰にも負けない男の子がいました」

 少し言葉がとぎれる。何かを思っている様子だ。

「男の子は、いつの日も、家にこもってひとりぼっちの女の子の家に遊びに行っていました」


第二場「記憶に有る街並、白くかすむ空の街並」


「こん、にち、わ」

「うん、こんにちは、かな」

 嘘に見えるほどに笑顔を輝かせ、少年は、床につく少女を前にし、椅子に礼儀正しく腰掛けている。

「今日そとすごくいい天気だね」

「そう、?そら、しろ、い、なに、も、ちが、わ、ない、よ、?」

「そっか、そりゃあかなは知らないよね。そとがいい天気のときには、とても気持ちのいい風がふくんだよ」

「…そう。いい、な」

 布団から少しからだを上げた姿勢そのままに、少女はぎこちなく首を動かし、日あたりの良い窓の方を見る。少年は、表情を変えない。

「…くさ、さん、うれ、し、そう、だ、ね」

「ねえ」

「え、?」

 少女の視線がゆっくりと動きそして、少年の顔を凍り付いたようにまっこうから捉える。少年は少し目線を逸らすようにして、

「窓さ、開けてみれば?」

「まど、を…?」

「そう。そこから、風とか、草の匂いとか、いろんな世界を感じれるしさ、病気にもいいんじゃない、それって」

「…うん、」

 そう言って、細長い腕を静かに扱いながら、少女は窓を開ける。どっと吹き抜けてきた風、それにくすぐられるように、落ちつきなく揺れる少女の髪。少年は、その瞬間を、何より素晴らしいと思った。


第三場「草原、風の中で」


「か、なぁ…」

 ついに走る気力が尽き、その場にどさっと倒れ込む青年。吐く息の荒さと対照的に、青年の表情は弱々しい。

「え~?ちょっとダメでしょかずちゃん、そんなことで」

「はう…でもこんな激しい運動、最近すっかりご無沙汰してたもんだから」

「いいわけ」

「ちがうっ!」

 言うが早いか、青年はむやみに起き上がり、それと同時に勢いよく走り出している。少女は笑い、笑いながら青年の後を追いかける。

「あのさあ」

「ん?」

「なんなの、忘れ物って」

「さあ、なんだったかなあ?」

「は?それでどうやって探すんだよ…」

「ううん、どこに忘れたかは知ってるんだ、でもなんだったかは忘れちゃった」

「変に都合のいい、忘れ物だなあ…」

 軽快に駆け抜けるふたりの、舞い散る汗に、日差しは惜しみない光を投げかけ、きれいに輝かせていた。


第四場「草原、木の下で」


 少女が微笑んでいる。青年を膝の上で寝かし付けながら。

 彼女が忘れ物だと言っていたのは、昨日の朝早くから準備をしておいたお弁当で、

 それを失くしたと青年に偽った場所で、

 それは草と共に暖かくも冷たくも有る朝と昼との間の時間を、

 まだ旅慣れない風の子の地面すれすれを行き過ぎるのを、

 くすぐったそうに揺れる木に影を落とす日差しの滑らかな白を、

 穏やかな羽色を持ちその自分に満足している事を歌うかのような大小様々な鳥や蝶が舞うのを、

 懐かしむ様に、驚きと共に初めて見ているかの様に、

 うす紫の布ふろしきの衣装の中で食べて貰う時に自分の勢一杯を出し切れる様にと今はまだ眠っている自分の護るべき愛らしい子供たちを抱きながら、

 木陰の中で、新鮮な空気を喜び、味わっていた。

 待ち人の幸せな未来を予想し、そしてそれを共有する自分の作り主が一生懸命かけって来るのを遠くの足音に感じながら。


 そして今、そんな自然への愛に包まれていた数々の、食べ物と言う名の柔らかな実りは、

 それを作った人の愛を享受し自分の有意義な立場に満足して、彼女と彼女の愛を向けられた青年の体の中で、

 ゆっくりゆったりとその短くも純粋な生を、豊かな命の海の波音を感じながら透明にさせていった。


 青年は、今まで見ていた夢の中に何らかの滑稽が潜んでいたのだろう、すぐさま少女を不快にさせるような寝言を二言三言吐き捨て、そして安眠をもたらす至上の枕を失い自らも滑稽に横転してしまった。

 少女は子悪魔の様な少し意地悪な微笑を浮かべ、青年の頭を変わったスポーツに使うボールの様に揺すり出した。青年は、そうされている自分を納得させるだけの夢を見続けているのか、得意げな草まみれの顔で睡眠を楽しんでいる。


 少女の忘れ物。それが何だったかだけが思い出せないと言ったそれは、今ここにこうして目の前に有る、彼の寝顔なのだ。いつも疲れて帰ってくる彼の、安らかな、何の心配もしていない、子供の様な寝顔だったのだ。それが、見たかったのだ。

 その事を思いながら彼の頭を玩具にしていた少女は、笑顔のまま、小さな雫をぽたぽたとたらした。笑顔は、何時の間にか、彼女のものも、彼のものと同じ、時間を忘れているかの様な、気持ちの良さそうなそれに戻っていた。


 ふたりの様子を、風になびいている木が優しく、いつまでも見守っていた。


第五場「霞んで行く街並、戻れると信じていた場所…」


「なんてさ」

「え、…?」

 窓に釘付けになっていた少女の意識を、少年のことばが呼び戻した。好奇心が主体の顔をしているが、そこには不思議に安堵の色が見られる。

「なあ、に、かず、ちゃん?」

「まあたその呼び方で。それ女の子みたいでいやなんだってば」

「ふふ、ふ」

 小刻みに体を揺らしながら、少女は心から楽しそうに笑う。純粋にその笑顔がかわいかったのと、自分はからかわれたのだという事実が、少年の表情を泣き崩れたような情けないものにした。

「…まあ、ほどほどにね」

「はあ、い」

 口調とは裏腹に、笑顔で快活に片手をあげてみせる少女。少年の顔はさらにゆるんだ。

「あ、なあ、に」

「え?…ああ、さっきの?」

「うん、」

「…いや、たださ、こうゆう草原で、かなといっしょにかけったりしたいなって思って」

「…そう、だね」

 少女の家は、少し小高い丘の上にある。窓からの景色は、夢の中のように、ただ草原が広がっている。

「…いつ、か」

「え」

「なお、す、から、あたし、びょ、うき」

「うん、がんばれよ」

「うん」

 少女は強い。少年はその事実を心の支えとし、また、その事実で少女に惹かれている。

「…それ、でね、その、と、きは…」

「ああ、そうだあれ持ってくるよ、あれ」

「あれ、って…?」

「あはは、あれだなあかなは。あれに決まってるってそんなの」

 あれを取りに行きたいのだろう、少年は立ち上がると、そそくさと少女の前から去った。いつものことに少女はため息をつきながら呟く。

「いつ、か、あれ…あた、し、に、くれ、る、の、かな…」


第六場「アカノスマイ、アノスマイ」


「…こうして、彼らの日常は過ぎていました」

 彼の言葉は、途切れることなく、手の先の物体へと語られて行く。

「少年は、たとえ外で元気に遊べなくても、病気が治らないようなことがあっても、少女とずっと一緒にいたい、この静かで落ち着く日々がずうっと続いてくれればいいと、ただそう願っていました」

 何かを思い、言葉が途切れる。

「…ただ、それだけだったんです」

 そう、本当にそれだけだったんだ。

「ですが、運命の神様はいたずらでした」

「少女の病気は、とうとう治ることはありませんでした。ほんとうは、快方には向かっていたのですが、しかし、完全に回復するには、時間がありませんでした」

「少年には、もう一つ願いがありました」

「少女の病気が、完全に回復したなら、その時は、少女のささやかな願いをかなえてあげよう、そして、少女のとびきりの笑顔を見たい」

「その日が来ることを、心待ちにしていました」

「ですが、平和な時間はその日が来る前に終わり…」

「少年は、涙を流しながら、朽ちていきました」

「それだけ、の話です、それだけの…」

 終わりなんだ。これから先を、進める道は、無い…。

「…そんなことないよ、かずちゃん…」


最終場「草原、月の下で」


 「いい?始めるよ…」

 「うん、いいよ、かな」


 月の夜の下で、風が暖かく包む時に…

 ふたりが心を重ねて、踊りで一日を明かして…

 何もできなくなり、倒れて空を見上げながら

 ただ一言、この言葉だけを、伝えたかった。

 「大好きなんだ、かな、ずっと一緒にいたい」


 彼女がほしがっていたもの…

 ウサギのように澄んだ白さ、クモのように空高く飛び上がれる

 そして、彼女のココロのような、汚れなく希望にあふれた

 たったひとつの、靴。それは僕のスニーカーだった。

 「もし、も、びょ、うき、が、なお、った、とき、に、は、その、かず、ちゃん、の、くつ。ちょ、うだ、い」


 もちろん僕はあげるつもりだった。

 でも、君の困った顔が、

 すねたように、いたずらをするように、

 僕のことを見つめるあの瞳が、

 とても、きれいに見えたから…。

 僕は、しらんふりをして、代わりにつまらない冗談でごまかしていた。

 「こんな靴はいたら、かな、ただでさえあれなのに、ますます余計にそう見えちゃうよ?」

 「なに、よう、あれ、って」

 「それが分かったら、あげてもいいかな、かなに」

 「いじ、わる…そん、なの、いわ、ない、もん…」


 日々は流れて、僕らの時間も過ぎていって…

 僕らの夢が、もうすぐこの手に届きそうだった、

 僕らの大切な約束が、赤く染まった街の中で…

 君の笑顔が見えない場所から、跡も残さず、誰にも知られず

 溶けていってしまうのを見たとき…

 もう、僕の生きていく術はないと思った。


 大きすぎる光に向かって、僕は叫んだ、僕は走った

 でも、僕の力は小さすぎて…


 僕はそこで夢を見た。

 君を助け出して、ふたりで平凡な、それでもとても満ち足りた、幸福な、

 慎ましやかな生活をしている、未来の、小さな暮らし。

 君はとても元気になっていて、僕の事を一生懸命構ってくれて。

 二人で買物に行って、そして僕が荷物持ち係。

 それで、ちょっと疲れていたせいも有ったけど、

 君が作ってくれた料理は、とても美味しくて。

 でも、そんなにストレートに誉めるほど僕は大胆になれなくて、

 荷物持ちの悔しさも有って、食卓での会話はちょっとぎこちなくて。

 そんな悶々とした気分のまま、次の日、仕事の日を迎えて。

 忙しくて、忙しくて、僕は目が回りそうになっている。

 でも、君が家に居てくれるから、家族の君を守りたいから、

 僕は、目の前の仕事に必死にしがみつくようにして、

 とにかくひたすら頑張っている。

 家に着くと、君は寝ていて、それでもそこには

 君が寝る前何を思ってそこに居てくれていたかがすぐに分かる、

 食器、僕の席に置かれたぬいぐるみ、そして食器の上の置手紙。

「いつもありがとう。昨日、かずちゃんが初めてあたしの料理を誉めてくれて、とても嬉しかったよ。あたし、かずちゃんの為になる事は料理を作る事くらいしか出来ないから…。荷物持たせはいつまでたっても誉めてくれないかずちゃんへのちょっとした罰、のつもりだったの、つまらない事させててごめんね。もうこれからはふたりで持とうね、かずちゃんがぎっくり腰になって持てなくなっちゃうといけないし。

 それで、今日はそのかずちゃんが誉めてくれた事で、小さなパーティーをしたいかな、って思ったの。これからもふたりで仲良くやっていきましょう、て言うことの証になるように。で、びっくりパーティーにしたかったんだけど、でも、良く考えたらあたしかずちゃんが帰ってくる時間まで起きていた事なんて無かったから、今もすごく眠いんだ。かずちゃんって、こんなすごい時間までがんばってるんだよね…尊敬しちゃう。だから、その仲良しパーティーはまた今度のお休みにしよう。今日でもいいんだけど、もうちょっと頑張ってみるけど、あたしいつも早寝早起きだから無理だと思うんだ。もし眠っちゃってるようでしたら、お手数ですが、あたしを部屋まで連れていってください。それでかずちゃんの荷物持ちの呪いはおしまい。悪い魔女は今宵、しっかり美容に悪い遅くまで起きると言う罰を受けましたから、最後のわがまま、聞いてください。

 P.S.あたし、かずちゃんがいない時はいつもこのぬいぐるみをかずちゃんて呼んでるんだ。だから代わりに座ってるの。この子も一緒に連れて来てね」

 そして僕は、君と僕の名のぬいぐるみを部屋まで運んでいった。君の体は、いつも持たされている鉛の塊と比べると、綿毛のように軽かった。

 次のシーン。僕の体が治療を受けている。僕の頭にノイズが走る。こんな程度では済まない所まで、僕の体は…恐らく僕の心はどこか自分にまだ未来が有る事を信じている部分が有って、それがこんな都合の良いまやかしを見せているのだろう。でも、話の中ではふたりはまだ、ぬくもりの中に、幸せの中に、僕の手のとどかない世界に居た。彼らは、存在しない未来の僕達は幸せそうだ、現実の僕達を嘲笑っているかのように、とても幸せそうだ。

 そしてパーティーの日が来た。いつの間に外に行っていたのか、帰ってきてすぐに君はちょっといたずらな顔で、忘れものをしたから一緒に探して、と言った。忘れものを探すと言う行為に違和感を感じながらも、僕はついていった。そしてその忘れものとは結局パーティーのもの、お弁当だった。びっくりパーティー、と言う言葉を思い出して、僕は笑ってしまった。ふたりでそれを仲良く、騒ぎながら食べ、そして僕は寝てしまう。寝てしまって、そして頬に暖かい雫を感じる。でも、それが何を意味しているのかは、僕には、分からなかった。

 そこで夢は、終った。僕はその夢を大事に胸にしまった。実現できる事の無い、綺麗な幻を、この現実世界で失った物の様にはしたくなかった。


 眠ってしまいそうな、凍えてしまいそうな…涙もかれて月の下で、僕は、空しさに溺れていた。君にこの夢を渡さずに、消えてしまいたくない。でも、響いていた歌があった。それは本当は足音でずっと聞こえていた。心をくすぐる、不思議な足音。懐かしくて、笑顔がこぼれてきて…。

 君がこの場に来てくれるなんて事は、考えてもみなかった。でも、君は来てくれた。君は歩く事すらままならないであろう重い体を引きずって、ここまで来てくれた。そして、僕に折り重なって倒れてしまった。その時の君は僕の有り様に絶望してしまっていたのだろうと思う。それでなくてもこんな冷え切った夜を病んだ体で歩いてきたんだ、君自身も相当危険な状態の筈だ。夢が無ければ、きっと君も僕と同じ道を辿る事になる。

 だから、僕は僕の中に宿っていた夢を君に渡した。そうしたら、君は顔を上げ目を丸くして僕の顔を見た。僕の肉体はもう滅びてしまっているから、見てくれても、僕に何かを期待してくれてもどうにもならない。僕に出来るのは、君にこの幻を見せてあげる事だけなのだから。そう、僕は死んでしまうのだから。それでも君は言ってくれた。

 …そんなことないよ、かずちゃん。まだふたりで出来ること、きっとあるよ、かずちゃん…

 君はその言葉で、君の心の中で、この幻と共にずっと僕と暮らし、生き続けて行く事を約束してくれたのだ。僕達は、生死を越えて結ばれる事が出来たのだ。それ以上、僕の望む事は無かった。ありがとう、かな…いや、加奈。それにしても、とてもはっきりとした口調で言ったな。君の素敵な元気な姿は、夢じゃなく現実になったんだね。そういえば、あの時の暖かい雫は、今君が流してくれている物と同じものだったのかも知れないな。

 そろそろお別れだな。君が来てくれる前から、あの月を加奈って呼んでたんだよ。他の月は爆発してしまったのに、あれだけは無傷で残ってるなんて、不思議だね。月が二つ残る事は出来なかったけれど、あの月はあんなにも強く輝いているんだ、君もあんな風に強く輝いて生きてね。僕にとってのきらめく星は、君なんだから…。


 ふたりの様子を、闇に浮かんでいる月が優しく、いつまでも見守っていた。


 拍手。ごく些細だが、それでもそれは有った。人々の活動の証、喜びの音の乱舞。生命はここにある、その音が、執拗にそう叫び続けている。

 最後の、仕事は、終わった。私は席を後にして、そのまま劇場を出た。


 風の温もりは異常に不吉に思えたが、しかしなおそれを受け入れている自分もまた奇妙だった。この温もりは日常の事で、人工的な種々の装置で世界中の気象は操作されていて、これはその一つである人工創風機により送られてきているという、なんとも物寂しい風だ。しかし、先程脳裏を掠めた映像があった。私が子供だった頃、幼い恋愛に心を弾ませていた中で、窓から流れ出てふたりを勢い良く撫でた暖かな風を、今の風のそれなりの温もりに関連付け連想してしまったようだ。

 春、だったろう。あの季節は私にとって掛け替えのない、愛おしい思い出だ。あれ程に私を和ませる物は、それから歩んできた人生の中では殆ど無かった。いや、何か貴重な事をしてきたか、それすらも怪しい。

 気晴らしに煙草を取り出す。季節は巡る。春を経て、無我夢中になって歩んできた夏があり、そして夢から覚める秋がある。その時には、何もかもが枯れ始め、それを戻そうと躍起になっても、全てが遅すぎる。それが、今の私か。それもよかろう。夏があった。それだけでも、それは命をまっとうに消費した証拠足り得るだろう。

 煙草に火を付けようとライターの炎を付け、付けたままそれを風に当て、それが消されることがあるのかどうかを試しながら意味もなく歩き続けていると、目の前にチケットが揺れた。

「…?」

 火に没頭していた意識と目をその紙切れへと向けると、そこには何故だか、先程私にチケットを売ってきた妙な男がいた。

「へ、へ、へ」

 突然私の視界を遮った上に下劣な笑みを浮かべるので、よほどそのチケットごと引火してやろうかと思ったが、その男の一言は、その行動より素早かった。

「あ、あんたあの名声優の絵馬さんだろ?」

 絵馬…。それは私の劇団での通り名であり、たった今私が捨てた名前でもある。これからはその名は必要ないだろう。以前のように、ただ一つ、あの名が有れば十分だ。

「失礼、私はもうその名前で呼ばれる者ではなくなっているので」

 そう言って、そして男を横切って歩きだす。しかしまた男の一言が私に降りかかった。

「ま、待ってくれよ!おれ、あんたのふぁんなんだ!」

 その上に腕までつかんでくる。しつこくまとわりつくのが気に障ったので、振り向きざま男の目を睨んでやる。

「!…い、いやあ、あんたがそんなにふぁんの相手をするのがイヤなら、いいんだけどさ…」

 言う表情は以前の印象と同様、哀れで思わず吹き出しそうになってしまった。何とかそれは堪えたが、そんなことをしている内にもまだ男がなにやら呟いているので、とうとう私も折れて話を聞いてやることにした。偉ぶった態度が取りたいわけではないが、ただ、今は誰とも話をしたくない気分だったのだ。

「わかった、まだ少しは時間がある、話を聞こう」

「あ、ほんとかい、そりゃ良かった」

 表情が心から安堵している。この表情を、私は劇を通す活動の中で求めていたのだった。

「いや、おれずっと前からふぁんだったんですけど、あんた声優さんだから、いままでどうゆう人なのかわからなくって。でも良かったですよ、今日偶然おれが、最後の劇のためにダフ屋やってて、あんたにチケット売ることが出来て」

 声優だから、声だけで演じる者だから姿を現さなかったというわけではない。私の肉体を、大衆の前に曝したくなかったのだ。

「あの時の声で、私だと分かったというわけか」

「へいそうです。でも、あの時あせっちゃいましたよ、何おれは声優さんにチケット売るなんて訳の分からない事やってるんだろうって。それでも絵馬さん、当り前のように受け取るもんだから、それで、もうなんだか凄く恥ずかしくなってあの時は逃げてしまったんですけど」

「それは構わないよ。私も丁度チケットを渡したい連れがいたものでね。しかし、札売りはあまりためになっていないのではないか?劇団にとって」

「え、あはは、そう細かいことは置いて下さいよ、先生。それくらいのことしか、おれ思いつかなくって」

 それで高い値を払った私の事も考えろと言いそうになるが、口をつぐむ。早くこの男の本題を聞きたかった。

「…それで、話は」

「あ。あの、今日のあなたの劇、すごく感動しましたよ」

「…そうか」

「ええ。以前までの劇もあなたを知ってからは殆ど全部見てますけど、今回のは格別でしたね、真心がこもってるって言うか」

「照れくさいことを言わないでくれ」

「いいえ、ほんとに、一世一代の名演技でした」

「確かに、一世一代かも知れないな、これで最後なのは事実だから」

「そうですか…もったないないです、とても」

「ありがとう」

 口から自然にこぼれ落ちてきたが後で気付いた。この言葉を、今、初めて観客に伝えられたことを。

「…おれ、あなたの劇にはほんとに感謝してるんです」

「…そうか」

 逸らしていた意識をまたもとへと戻す。

「ずっと前、おれもあなたと同じで、月の爆発事故で親父を亡くしたんです。それでおれ、急に世界に見捨てられた様な気になっちゃって、おふくろを慰めてあげなくちゃいけないのに、逆にぶつかったりして。それで何もかもイヤになって、ふと目に留まったこの劇場に、行くあてもなく入ったんですよ。

 そこで、初めてあなたの劇を聞いて、それでその優しい語り口調に、思いっきり感動して、泣いて。日常ってなんて大事なんだろうって事を知って、劇が終わるなり泣きながら飛び出して気持ち悪いほどお袋の相手してやりましたよ。大丈夫、まだ俺がいるからって。

 先生の劇で聞いた台詞なんか取り入れたりしちゃってたから、『あんた母さんに優しくしてくれるのは良いけど、父ちゃんの代わりにあたしと結婚してくれなくても良いんだよ』なんて言われたりしましたよ、はは。

 それ以来、あなたの劇に浸りっきりです。何かを勘違いしてきているとしか思えない、劇を聞きながらべたつく青いカップルを大声で注意したときもありました」

「…それも個人なりの楽しみだろう。それにそれでは、他の人達に私の劇が聞こえなくなってしまうな」

「それでもですね、あんな神聖な場所をみだらな行為で乱すというのは…」

 思いかけず、この後も彼とは話し込み、いつまでも終わる気配がないので仕方なく私は彼と後日酒場で落ち合う約束までした。

「では劇が始まりますんでこれで」

「ああ」

「あの劇場の最後の姿は、ちゃんと見届けてやらなきゃいけませんからね」

「本当にあの劇場を愛しているんだな…」

「もちろんですとも。あすこで優しさを学び、恋を学び、人生を学びましたからね。ではまた後でお会いしましょう」

「そうだな」

 そう言ってようやく別れたかと思ったが、彼に呼び止められた。

「先生!あの、『ふたつの言葉』って、考えてみたんですけど、『愛』と『夢』、の事ですか?先生の劇のテーマだと、いつも思ってたんですけど」

「…ああ、正解だ」

 やった、と少年のように体で喜びを表現し、そして本当にその場を去った。


 こうゆう事なら、彼のような者がいるなら、私は報われたのかも知れない。私は劇を続けながらも、日に日に酷くなっていく治安、血も涙もない残虐な事件、人間の仕業とは思えない行為の数々を目にしてきた。私はどうしてもそれらをくい止めたかった。人々の心の潤いになりたかった。人々に正義と真心を訴えてきたつもりだった。しかしそれでもなんの変化もなく、世界の形相は悪魔のそれへと成り果てていった。人々の心が、凍り付くのを感じた。

 劇を初め、娯楽という物の大半に、人々は関心を示さなくなっていった。時代的様相、ひどく不安定になった生活の安全のため、生存を確保するために人々は金を実用的な物ばかりにつぎ込んだというのも、その問題の一つの要因であるが、それの他にも何かあると私は思う。人の心は、何かに狂っている。何らかの、世界の嘘に。そう信じている。だから仕事も信じた。この活動を通し、人々の心に再び春をもたらせるという事に賭けた。

 つい今まで、私の行為の全ては水泡に帰したのだと感じ、私の人生の暴露たる今回の劇は、録音というふざけた形にし、-勿論、その事実を、先程の彼を含め観客は誰も知らない-実際の劇場には足を踏み入れないでおこうと思っていた。しかし、私の未練の残る心は、意味もなく私を劇場のそばへと運び、そして偶然的にチケットを手に入れ、そして自分の作品を自分で鑑賞するという滑稽な形になった。それすらも当然皮肉のつもりだった。観衆は、私のことなど見ていない、ただ惰性的な態度で娯楽を馬鹿にしているだけだ。途中突拍子もなく笑って、周りの観客を不快にさせたりもした。

 今ではそれをこの上もなく後悔している。殆どはそうではないにしろ、彼のように、少し下品でも人の性質を正常に持っている者がいるのなら、彼のような少数に向けてでも、正しい態度で演じてみせるべきだった。夜は、きっと彼らのような者の情熱で、光を得、朝を迎える日が来るだろう。確証など有りはしないが、今はそう信じたい。

 人生の暴露と言ったが、描いていない部分は勿論ある。私は実際、この時の火災で親を無くした。だが、親子の死別を描く事は法律で禁じられているのだ。親子の死別はもはやフィクションで語る事ではない、あまりにも日常茶飯事だ。それをわざわざ作り話の世界でまで見せると言うのは馬鹿げた話だ、と政府はこの法案をあっさり通してしまった、無論大方の世論もこの法律に賛成だ、彼らは娯楽の推移など殆ど気にとめてもいないのだから。その為に私は、自分の親に関しては全く描写しない事を決めた。父親に捨てられて、母親だけの片親だった、私の事を良く可愛がってくれた。彼女には本当に感謝している。だが、それを叫ぶ事は許されていなかった。私もそれは皆と共有するような思い出ではない、ただ静かに私の心の奥底で忘れられない事として思い出の小箱に鍵を掛けておけばよい、そう思う事にした。

 それでも死別自体は描けない訳ではない、そこまで制限したら娯楽の伝えられるメッセージが本当に娯楽の域を脱さない軽いものになってしまう(死別だけがテーマ性を持ちうる、などという素っ頓狂な事を主張している訳ではない。だがそのレベルの事を制限されたなら他の要素も何時禁じ手になってきても可笑しくなくなる、その危険性を言っているのだ)。だから今回の作品は法の網に掛からなかったのは幸運と言っておくべきか。

 そこでふと我に返った。今更こんな事を思い返して、なんになると言うのだ、つまらない懐古趣味は、とっくの昔に捨てた筈だったのだが。…いや、人生を最後に顧みると言うのは、人間の避けられぬ性質なのかも知れない。

 煙草は止めどなくくすぶり続け、とうとうくわえてはいられない程になってきた。それをつまみ、投げ捨て、無意味に念入りに踏みつぶす。

 目の前に巨大なゲートが見えてきた。ここを越えると、心ない獣達の遊園地が待っている。夢を見続けた人間を、そのまま覚ませる事無く安らかに休ませてくれることだろう。私は現実に生きていけるほど、逞しくはない。一人で歩む人生は、苦痛と屈辱にまみれていた。だから、わたしはあのこのまつせかいへいこうとおもう。こんなにがんばったんだ、きっとあのこもわらってわたしのことをむかえてくれるにちがいない。きみといっしょに、このせかいで、出来ることはもう精一杯やったんだ、だから、もう、一緒に、ずっと一緒に、いさせて、ね、かずちゃん…。


「…ありがとう、先生、そして、さようなら…」


前劇「ふたつの言葉」 完


-彼の科白-


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