2
アメリカ ワシントン FBI本部
「ユウ、久しぶりだ」
大柄で隙のない身のこなしの白人男性が大股に歩いて来て手を上げた。
「ジョン、連絡をありがとうございます」
アメリカで唯一の常勤美術品犯罪捜査チームの主任、ジョン・ハーカー特別捜査官である。
「こいつはクールマイユール以来だな」
「そうですね、『美術品及び骨董品を対象にした国際組織的犯罪に関する国際会議』でしたっけ」
イタリアはモンブランの麓のホテルでこのやたら名称の長い会議が開催された際、ジョンは演壇側で招待されていた。小鳥遊はもっぱらおつきの聴衆として参加したわけだが、各国の現状を学術的または現場の視点で講演する内容は面白いものだった。
「あの会議は国連の仕切りだったが、送迎バスやホテルの準備はなかなか快適だったよ。ただしお題目がいけなかったな。何点か興味を引くものもあったがね」
「間違いなくあなたの演題は興味深かったと思いますよ」
お世辞おべっかは日本人の得意技である。小鳥遊は息をするよりも簡単に口にした。本心とあれば更に楽というものだ。
「そいつはありがとうよ」
「国際刑事警察機構の美術犯罪チームや個人最大の美術犯罪データベースを運営する英国人も参加されていて、非常に興味深かったですね――」
挨拶はそこまでにして、二人は移動する。
「国際犯罪と言えば、例の法華津音二郎なんですが」
「ああ」
ハーカー特別捜査官は大股に歩きながら肩をすくめた。
「奴はとんでもない野郎だ。ユウ、君は奴の専属なんだってな。同情するよ」
「何か大変はなはだしい誤解があると思うのですが」
私は奴の専属というわけでは、と言う前に目的の部屋に辿り着いた。
「扉をノックする前に一つ言っておく」
「はい」
「奴は司法取引を申し出ている。そして、問題はフェルメールだ。微妙な問題でね。何しろフェルメールは寡作だ。ダ・ヴィンチほどじゃないがね。三十六点。この数字が分かるか?」
小鳥遊も漫然と飛行機に揺られていたわけではない。多少は事前勉強もしてきた。
「現存しているフェルメールの作品の数ですね。その内『合奏』はガードナー美術館から誘拐され、いまだ未解決事件です」
「そういうわけだ。はっきり言ってな、こいつは政治的な問題だ。どこの国もからみたがっている。目立つ事件なんだ。注目度も半端ない。未解決から解決の箱に移してみせれば英雄だ。各国のプレスリリースを飾るだろう。我も我も我もと分け前にあずかりたがり、色気を出した。おかげで、先の奪還作戦である通称『名画作戦』は失敗した」
ハーカーは穴から出てきたばかりの熊のように歯をむき出しにして付け加えた。
「名画の情報提供者は最後、こっちが警察だと疑い、さいならしたのさ。今回二の舞踏むわけにゃあいかねえ。法華津を確保する必要がある。その法華津が同郷者を相棒に指名し、さもなけりゃさいならだと言う。まあ、そういうわけだ」
「嬉しくて涙が出ます」
「いくらでも泣いてくれ」
ハーカーはノックした。
扉を開く。
がらんとした部屋だ。床と接着したスチール製の机。ぺらぺらの灰皿は使われた痕跡もない。プラスチックのコップ。何かに似ていると言えば、取り調べ室である。凶器になるようなものは一切置いていない。
法華津音二郎は、その殺風景で殺伐とした部屋で、あたかも貴族のように悠然と構えていた。
日本人でありながら貴族的な容貌。
長い手足はもてあまされることもなく、まるでそこが彼のための玉座であるかのようにゆったりリラックスしきって組まれている。
西欧人が東洋人の美を思い描いて、そこにノーブルを加える。すると奇跡的に法華津音二郎が出来るだろう。
しかしこの男の本質は稚気である。
道化であり、悪神だ。
神も人もかきまわしてその滑稽さを喜ぶ秩序の破壊者、北欧のトリックスター・ロキ。
人よ、争え、と黄金の林檎を投げ捨てたギリシアの争いの女神エリス。
悪戯者の守護者、妖精パック。
世にある神々の内、道化と争い、悪戯、はた迷惑の権化の神々の恩寵をたっぷり受けているに違いない。
「小鳥遊君、ずいぶん遅かったじゃないか」
法華津は悠々と足を組み直して向き合った。
「舞台はすでに整っているんだ。しかし、画竜点睛と言うだろう。足りないのは間抜けな観客だよ。つまり、君だ」
何とも失礼な話である。小鳥遊は今更一矢報いてやりたいという気概はなかった。
「ミスタ・ベア。君は合格だよ。間抜けな観客を釣って来てくれた。協力するよ。君たちの失敗した『名画作戦』は再びだ」
「そいつはありがとうよ。で、俺はミスタ・ベアじゃないと何度言ったら聞いてくれるのかね」
それで、と話を続けようとしたハーカーを遮って法華津が勢いよく立ち上がる。
「待ちたまえ。間抜けな観客が、どの程度理解しているのか、確かめておく必要がある!」
「いや、しかし」
「潜入捜査に協力しよう。しかし観客がいる。これは譲れない。小鳥遊君は無知無教養を絵に描いたような人物だ」
「親にもそこまで褒められたことはないよ」
小鳥遊の切り返しに、法華津は左手を上げた。
「照れなくていい。僕らは成金日本人画商か、有名美術館の代理人として動くことになる。ゲティなんか最高だと思う。あすこの資金は潤沢だ。ひぃひぃ言っているメトロやナショナル・ギャラリーとは違う。大切なのは、もっともらしく、シンプルであること。相手に不信を抱かれたらおしまいだ。嘘は少なくしておくべきだ」
お前が言うなよ、と小鳥遊は胡乱な目で法華津を見た。
「美術犯罪!」
いきなり両腕を大きく開いて、法華津は芝居がかった仕草をした。
「小鳥遊君、君はこの美術犯罪の闇取引市場がどれほどの大きさのものか知っているかい?」
知らん、と言えれば楽だが、そういうわけにもいかない。
「……国際警察機構の概算では、年間大きく見積もって六十億ドルと言われている」
「そのとおり。クールマイユールの国際会議でお勉強してきた成果だろう」
何故自分の出張先を知っている、貴様はストーカーか、と小鳥遊の目はますます遠くなった。
「国際的な違法取引、越境犯罪として挙げらる代表的なものは?」
「麻薬」
「不法武器輸出」
ハーカーがまず答え、小鳥遊が引き継ぐ。
「そう、麻薬、武器、資金洗浄と引き続いて盗難美術品、四番目に規模が大きい。美術、古美術品は、麻薬や銃、現金と比べ、あまりにも密輸が楽だからね。空港で咎められたら、こう言ってやればいい。貧乏美大生の模写を買ったんだ、とね。おまけに美術館から個人邸宅まで、警備の無防備さ! 嘆かわしい! 元々銀行と違って厳重ガードの上、何十センチもの厚さを誇る金庫に入れるわけにもいかず、公開しておくがゆえのジレンマ。しかしろくな警備体制も敷かず、予算不足で警報システムは穴だらけ、動作感知器もままならぬ、露天に裸で並べているようなものじゃないか。それこそ盗んでください、と言わんばかりのお粗末さだ」
実際盗んだのではないだろうか、と小鳥遊は合いの手を内心で入れた。ハーカーにいたっては「言いたいだけ言わせておけ」と諦め半分の悟った菩薩のような顔をしている。ここにいたるまでにどのような経緯があったのか。
「盗むのはね、本当に楽だよ。あまりにも簡単過ぎる。誤解のないように言っておくが、国民の夢見るスマートな怪盗なんぞ存在しない。現実の窃盗は、無知で、荒々しくて、もっと衝動的でプリミティブ、かつ能率重視だ。要するに、盗みたいから盗む。息をするように盗む。かっとなって盗む。計画して盗む。盗む。ただ盗むのさ。美術品、骨董品は誘拐される。淑女たちの運命はいかに」
法華津は興がのってきたのか、ノーブルな容貌でありながら、今にもげらげら笑い出しそうだった。
「泥棒はただ盗む。金になるから。なると思うから。酔っていたから。急に神が降りてきて『盗め』とささやいたから。誰かに依頼されたから。自分のコレクションにしたいから。闇の世界でヒーローになれるから。権威に向かって『FUCK YOU』と中指を立ててやりたいから。理由は色々だ。大切に、あるいは粗雑に扱う」
法華津は指を立てた。
「一九九四年、ノルウェー、国立美術館、絵葉書」
何かの符号だろうか。小鳥遊が先を促すまでもなく彼は続けた。
「ノルウェー式美術犯罪。二人の男と一本のハシゴだ。ハシゴを建てて、二階の窓から侵入した。一度ハシゴから滑り落ちて尻もちを着いた。よろよろした足取りで再びハシゴをのぼる。この光景は警備室の監視モニターにしっかり映っていた。警備は気づかず、書類仕事に没頭していた。後に繰り返し放映され、ノルウェー国民はその間抜けな光景と間抜けな警備に歓声を上げたのさ。犯人は窓を金づちで叩き割り、警報が鳴ったが、警備は誤作動だと考えた。ご親切にも警報をリセットまでした。何という親切! そしてエドヴァルト・ムンクの『叫び』を壁から取り外し、ハシゴを滑り台のようにして絵を落下させ、相棒が下で受け止めた。この間、僅か五十秒だ」
分かるだろう、と法華津は目を細める。多分歪んだ心の移す鏡は、笑みの形に歪んでいる。
「彼らはメッセージ絵葉書を残した。『手薄な警備に感謝する』。おお、分かるだろう? 一つ、杜撰で親切な無防備さ。一つ、原始的で荒々しい泥棒。ミックスしてくれ。これが美術品窃盗の真実だ。つまり、ガードナー美術館でも全く同じことが起きた。泥棒は、やってきて、盗んだ。荒々しく。能率的に」
何と嬉しそうで憎たらしい笑みだろうか、法華津は囁く。
「そして持ち去ったのだ、『聖杯』を」