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たった二人きりの狭くはない庭園内には、さわさわと春風が立てる葉擦れの音だけが響いていた。ユースティティアは言葉を見つけることが出来ないまま、細い腕には少し重い竪琴を抱えなおした。
普段ならば、幼い頃よりもう一人の妹のように思って育ったアウタディエースと過ごす時間には、気まずさも苦痛もない。けれど今は、沈黙が際立たされるような葉擦れの音すら、耳に痛いような心地になっている。
そんなユースティティアの心境を察したわけではないだろうが、落ちる沈黙を破って口を開いたのはアウタディエースだった。
「そういえば……ティティはお兄さまが主催される今度の舞踏会には、当然出席なさるのですわよね?」
舞踏会。
まだ社交界に出ていない王女には余り縁のないものではあろうが、それでも向けられた話題に、感じていた気まずい心地を払拭するように微笑んで頷いた。
「はい、出席するつもりでおりますわ」
「やっぱり。羨ましいですわ、今度の舞踏会にはシアの婚約者の方もいらっしゃるのでしょう? わたくし、どんな方がシアの婚約者になるのか、とても気になっておりますの」
「……え?」
楽しげに微笑んで手を合わせたアウタディエースの唇から出た言葉の意味を、咄嗟に理解することが出来ず、ユースティティアは無意識に間抜けた声を上げてしまっていた。大きな瞳をさらに大きく見開いて驚愕する彼女の驚き様に、アウタディエースも驚いたように目を瞬いた。
「え……? まさか……ティティは、ご存知ありませんでしたの?」
「お姉様が婚約するなんて……そんな話、わたしは聞いておりません」
自然と顔が強ばるのを感じながら、僅かに固い口調で言ったユースティティアに、アウタディエースはその美しい金色の柳眉を顰める。
「まぁ……」
呟くと少し考えるように視線を巡らせてから、小さく首を傾げた。
「お兄さまが仰っておられたのです。シアは自分では決められないから、お兄さまが選んだ方と婚約すると言っていらしたのだと」
「殿下が、選ぶ? そんな、まさか……」
「お兄さまはもう、シアのお相手をお決めになられたみたいですわ。今度の舞踏会は、シアとその方を引き合わせるために開かれるのだとか……」
アウタディエースの言葉は、どれもがユースティティアにとって初耳のことだった。だが、言われてみれば思い当たることがないでもなかった。
今までは舞踏会前ともなると、サロンは舞踏会で着る衣装や噂の人物などの話で持ちきりになるのだ。しかし今回に関して言えば、ユースティティアが出席したサロンでは、あまり舞踏会に関して話が弾むことはなかった。みな何か尋ねたげにちらちらとユースティティアを見るのだが、それを口に出して彼女に問いはしなかったのだ。
ユースティティアはそれはアストラスのことだろうと予測していたのだが、実際はそうではなかったのだろう。恐らく、今のアウタディエースの話の真偽こそを確かめたかったに違いない。けれどユースティティアが家族のことを話題にされることを嫌っているため、遠慮して口に出せなかったのだ。
強ばった表情のまま、ぎゅっと掌を握り締める。握りこんだ指先は、竪琴を奏でるために指の皮が厚くなってしまっていて少し堅い。きちんと手入れがされているため見た目には分からないが、触れてしまえば一目瞭然だ。それは彼女が今まで積み重ねてきた努力の一部で、ユースティティアはそんな自分の指先を微塵も恥ずかしいとは思っていない。
勤勉かつ真面目な家族に囲まれて育ったユースティティアにとって、幼い頃から努力をすることは当たり前だった。彼女は確かに努力をすれば相応以上の結果が挙げられる優秀な部類の人間だったが、それでも大した努力もなく何事もこなせてしまうような天才的な人種ではない。そんな彼女はけれど、自分自身の満足が行く結果が出るまで努力を続けることは、決して嫌いではなかった。
それでも、努力だけでは手に入れることが出来ないものもあると、今はもう知っている。
(姉さまの婚約者を、ラウダ様が……? どうして、そんなことに……)
思わずきつく閉じた瞼裏に、手を取り合って走りながら笑いあっている、二つの幼い背中が浮かんでは消えた。ずっとずっと追いかけ続けて、結局追いつくことが出来なかった二つの背。甦る光景の中にある実質的な距離は、遠いものではない。二人は決してユースティティアを置き去りにはしなかったのだから。
それでも並んで駆けて行く二人の背は、ユースティティアには決して追いつくことができないと思わせるだけの、絶対的な距離感を感じさせていたのだ。
「仕方がないことですし、今更だと分かってはいますけれど……わたくしは未だに、少し、残念ですわ」
耳に聞こえた声にいつの間にか俯けていた視線を上げた。その先で、アウタディエースは言葉の通りほろ苦い笑みを浮かべていた。
「お兄さまの隣に……王太子妃の座につくのはずっと、シアだと思っていたのですもの。そのシアが、お兄さま以外の方と婚約するなんて……喜ばしいことだと分かってはいますけれど、残念ですわ」
「ディーエ様……」
彼女の気持ちは、ユースティティアにもとても良く分かった。あの二人がどれほどの絆で結ばれ、互いのことを深く分かりあっているか。ずっと傍で見てきた自分たちは、誰よりもそれを良く知っているのだ。
家柄や年齢的なつり合い、容姿や教養や立場。そんなものにばかり目を向けて、考えている周囲の人間たちとは違う。
並んで立つことが何よりも自然だったあの二人が、別々の人間を隣に置くことなど、想像もつかない。ユースティティアはそれを『残念』などという言葉で括ってしまうことは出来なかった。
(婚約が、喜ばしい……? そんなわけが……)
ユースティティア自身も含めた今の王太子妃候補たちは、確かに『王太子妃候補』としてはそれなりに瑕疵のない姫君たちだ。けれど『ラウダトゥールの妃』というならば、他の誰でも駄目だろうとユースティティアはもうずっと思っている。
だからこそ、彼女自身は王太子妃の座に興味を示したりしたことはなかったのだ。家柄も容姿も教養も全てが、王太子妃候補として誰よりも優れていると言われようとも。
ユースティティアはユースティティアであって、アルレイシアではない。どれほどそうなりたいと思っても、『アルレイシア』になることは決して出来ない。
ただ、その一点。
けれどそれゆえに、ユースティティアでは絶対に駄目なのだ。
(それなのに……姉さまが別の人と結婚する? そして……ラウダ様は『王太子妃候補』の中から、誰かを選ぶの?)
考えただけで、ゾワリと背筋が震えたような気がした。何かを思うより早く、素早い身のこなしで立ち上がる。
「ティティ?」
「申し訳ありません、ディーエ様。わたくし……用事を思い出してしまいました。これで失礼いたします」
明らかに口実だと分かる言い訳を口にして、けれど所作だけは優雅さを失わずに流れるように美しく礼をする。そんなユースティティアの様子にアウタディエースはしばし目を瞠っていたが、咎めることなく微笑んで頷いた。
アウタディエースの首肯を見るよりも早く、ユースティティアは踵を返すと足早に秘密の花園の出口へと歩き出した。腕に抱えた竪琴の重さも、もう僅かにも感じることはない。ただ急き立てる気持ちのまま、一刻も早く彼の元へ向かうことしか考えられなかった。
だから、残されたアウタディエースの苦笑を含んだ呟きが、ユースティティアの耳に届くことはなかった。
「わたくしは別に、お兄さまのお相手が、ティティでも良いと思うのですけれど――――」
その言葉はただ、秘密の花園に吹き抜ける春の風にさらわれて消えていったのだった。




