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春の陽射しに柔らかな芝生が青々と輝き、大して手を入れられていない野の花に近い花が風に揺れている。まるでそんな風に揺れる花が奏でているような、繊細で柔らかな弦の紡ぐ音がその空間を満たしていた。
その音色は今柔らかな曲ながらも山場を迎え、そして徐々に収束していく。
「とっても素晴らしかったですわ、ティティ」
曲が終わったばかりの余韻に満ちた空間に、それに代わるようにパチパチと可愛らしく手を打ち合わせる音が響いてきて、ユースティティアは曲を奏でている間詰めていた息をふぅっと大きく吐きだした。そして音のするほうに視線を向けると、にこりと笑顔を浮かべる。
「ありがとうございます、ディーエ様」
奏でていたユースティティアの細腕には少し余る竪琴を両腕で抱えて、丁重にお辞儀をしたユースティティアにディーエと呼ばれた少女はにっこりと嬉しげな笑みを浮かべた。そうしてから、ぱちぱちと音がしそうな長い睫を持つ瞳を瞬いて小さく首を傾げる。少女のその動きに合わせて、結い上げられていない自然流れの美しい黄金の滝が、華奢な肩や背を覆う様が目にも鮮やかだった。
「どうして、こんな所で弾いていたのですか?」
こんな所、と言われてしまいユースティティアはその美貌に柔らかな苦笑を浮かべた。王宮のとある場所にあるひっそりと静まり返った庭園。ここは、かつてのこの国の現王太子殿下とその乳兄弟たちの『秘密の隠れ家』だった。
幼い頃から行動力のあったこの国の王子殿下が庭師や彼女たち乳兄弟を巻き込んで作った秘密の花園。花園とは名ばかりの咲いているのは手を掛ける必要のない野草ばかりだが、ユースティティアにとっては子どもの頃の大切な思い出の場所だった。ここで姉や王子の後をついて走り回っていた頃はまだ何も知らずに、ただ明日は幸せな今日の続きだと信じていた。
胸に過ぎったほろ苦い感情にユースティティアは苦笑して、自分の答を待っている目の前の美しい少女を改めて見やる。
陽射しを受けて煌く美しい黄金の髪、星を浮かべて澄んだ紫紺の瞳、抜けるように白い処女雪の如き肌。端整に整った面差しは浮かべる表情も相まってとても優しげだが、受ける印象は驚くほど異なるのにその顔立ちはとても良く彼女の兄に似ていた。
このジール王国の民ならば、彼女の姿をみて誰であるか分からない人間などいないだろう。未だ社交界にデビューする前とはいえ、明らかにこの国の王族の特徴を色濃く受継いでいるこの少女こそ、ジール王国の王女であり王太子の最愛の妹アウタディエースであった。
「ティティ?」
柔らかな春の風にそよぐ長い髪を押さえて再び首を傾げたアウタディエースに、ユースティティアは自分が王女の問いに答えないままぼんやりしていたことに気づいて、慌ててその白い頬に笑みを刻んだ。
「申し訳ございません、ディーエ様。ぼんやりしておりました……ここは、ほとんど人が来ることが無いですから。練習をするのに最適だったのです」
王族の住まう離宮からほど近いこともあり、ここは許可のない人間が立ち入ることが難しい場所である。この花園自体は別段立ち入るのに許可が必要ではなかったが、如何せん秘密の花園、と言う名の通り、ここに辿り着くことが出来る道はごく一部の限られた者しか知らない。広い王宮のごく一角に実に巧妙に隠された隠れ家なのだ。
「そうですわね、確かにここはわたくしたちの秘密の場所ですもの」
にこりと降りそそぐ陽射しのように柔らかな笑顔を浮かべた王女は、けれどきっとユースティティアの心情を完全にではないけれど察したのだろう。それ以上は言うことなく、のんびりと野草しかない庭園を歩き出した。
その背中を見るともなしに見ながら、ユースティティアはふと気づく。この王女の傍らにはほぼ常と言っても良いぐらいに、いつも彼女の妹がいるのだ。だが今はその姿が見えず、思わず首を傾げた。あの妹はその鮮烈な髪色だけではなく、とても鮮やかな存在感を持っている。いれば気づかないということは無いだろう。
「そういえば、ディーエ様? 今日はティーアは一緒ではありませんの?」
ユースティティアの記憶が確かならば、彼女は確かに今日もアウタディエースの元に行くと言って邸を出かけて行ったはずだ。
「ティーアは今出かけているのです。ですから、気晴らしに来たのですわ」
「まぁ、そうでしたか」
公爵令嬢と言う立場でありながら、あまり細かいことを喧しく言わない父のおかげで、ユースティティアも妹のフェレンティーアも、貴族の令嬢としては規格外なほど自由にすることを許されていた。長女のアルレイシアなどはそれを良い事に王立研究院に居室を構えて研究に明け暮れ、ほとんど家に帰ってくることもない。
けれど王女であるアウタディエースはそうはいかなかった。彼女は生まれてからのほぼ全ての時間をこの王宮内で過ごしているのだ。成人して社交界に出るようになったところで、それはほとんど変わらないだろう。出来ることはこうして傍仕えの者の目を盗んで、兄に譲られた秘密の場所で散策するくらいなのだ。
ぽろん、と白く細い指先が弦を弾いて澄んだ音が奏でられる。その音に惹かれるようにアウタディエースの視線がユースティティアの手元を見やった。
「よろしければ、ディーエ様のために何か弾かせてくださいませ」
微笑んで言ったユースティティアの言葉に、アウタディエースはぱっと顔を輝かせる。そしてその柔らかな美貌に年相応の愛らしい笑顔を浮かべた。
「ありがとう、ティティ。嬉しいですわ。ああ、どうせならわたくしも笛を持ってくれば良かったですわね」
胸元で手を合わせて実に嬉しげに微笑むアウタディエースに釣られるように、ユースティティアも笑顔になる。
(本当に……姿かたちは似ていても、ちっとも似ていない兄妹だわ)
春の陽射しをたっぷりと浴びて温かく生い茂った草むらにドレスを気にすることなく座り込み、アウタディエースは聞く体制を取る。そんな可愛らしい王女の姿を視界の端に収めながら、ユースティティアは慣れた仕種で竪琴を奏で出した。
既に体に覚えこませた慣れた動きで曲を奏でながら、ユースティティアの頭の片隅にふとかつてこの庭で過ごしていた頃のことが過ぎって行った。
ユースティティアが竪琴を習い始めたのは、姉であるアルレイシアがお后教育の一環として習い出したことがきっかけだった。幼い頃のユースティティアはどこに行くにも姉の後をついて歩き、彼女が習い事を始めると一緒になってそれをやりたがったのだ。
アルレイシアとの三歳という年の差から周囲の人間にまだ早いと窘められたこともあったけれど、結局は習っているアルレイシア自身が許したことから、普通の貴族の令嬢よりは少し早く色々なことを学びだした。とにかくユースティティアは何をするにも姉と同じでありたがった。
竪琴だけではない。自国や外国の歴史、学問、詩の朗読、ダンスや作法に至るまで、将来王太子妃となることを嘱望されたアルレイシアが学ぶことは、普通の貴族の令嬢よりも遙かに多く、幅広かった。本来ならばユースティティアには必要のなかった勉強もある。けれど、とにかくユースティティアは大好きな姉と王子に仲間はずれにされることが何よりも嫌だったのだ。
(そういえば……あの頃からだったわね……)
慣れ親しんだ弦の感触を指先で楽しむように滑らかに曲を奏でながら、ユースティティアの意識はまだこの庭で駆け回っていた幼少時の記憶を辿っていった。
この秘密の花園を遊び場として駆け回ることをしなくなったのは、ユースティティアの妹フェレンティーアが産まれた頃だった。それは即ちユースティティアとアルレイシアの母であり、王太子の乳母だったシェレスティーアが産褥で寝付くようになった頃である。
それまで当たり前のようにいつも傍にいた母がベッドから出られなくなり。そうして年上だったアルレイシアがシェレスティーアの代わりに、妹たちと幼い王女の母代わりを務めるようになったのだ。あれほど腕白だったラウダトゥールも大分落ち着き、幼馴染であるウィルトゥースを連れて駆け回ることはあっても、無茶な遊びにアルレイシアを巻き込んだりすることがなくなったし、幼い妹たちの面倒も良く見ていたように思う。
そんな中でユースティティアはとても中途半端な存在だった。生まれたばかりの幼い妹や王女を差し置いて姉に傍にいてもらうことを強請ったりしないだけの分別はあったが、かと言って二人の面倒を見ることができるほどでもなく。そしてウィルトゥースのようにラウダトゥールの子分のとして一緒に駆け回ったり悪戯の片棒を担ぐこともできなかった。
だから彼女は仕方なく、一人の時間を紛らわすように習い事に打ち込むようになったのだ。幼少時のユースティティアはお世辞にも見栄えのする子どもではなかったから、今のように一人でいる時間を作ることに苦労するほど人に囲まれていることもなかった。
それでも努力している姿を人に見られるのは何となく気に喰わなくて、よくこの場所に来てはその日習ったことを復習していたものだった。そのうちに習い事に関してはアルレイシアよりも教師に褒められることが多くなった。尤も、別段ユースティティアはそのことを嬉しいとも思わなかったが。
彼女がずっと自分という存在を認めて欲しいと思っていたのは、姉と幼馴染の王子だけだったのだから。
年を経るに毎に、いつまでも三人で居られないことは理解できるようになっていった。アルレイシアとラウダトゥールは特別で、ユースティティアは二人の間には決して入れないのだということも。
それをはっきりと悟らされたのは、もう一人の幼馴染であるウィルトゥースが現れたことに大きく起因していた。
ある日突然現れた、傷だらけでやせっぽっちの子ども。彼はまるで世界中の全てが敵みたいな鋭い目をしていた。まだ幼かったけれど、ユースティティアは初めて彼に会った時に感じた衝撃と恐怖を良く覚えている。全身に白い包帯を巻かれて、それを所々血で染めながらぎらぎらと輝く目に睨みつけられた。あの時彼女はすぐ傍にいた姉に取りすがって恐怖に大泣きしたのだ。
その少年がそんな風に威嚇する人間は、ユースティティアだけではなかった。彼は自分に近づくあらゆる人間にそうだった。しかしアルレイシアとラウダトゥールだけは別だったのだ。まるで人に懐かない肉食獣の仔のような少年は、けれど二人には決して牙を剥くことしなかった。アルレイシアとラウダトゥールもまた、まるで本当の兄弟のように少年を労わった。
やがて彼はウィルトゥース・プロバットと言う名のラウダトゥールの家庭教師の子どもだと教えられた。幼心にもユースティティアは彼の存在に違和感を感じていたけれど、姉と王子は二人の間だけに全てを秘めて決してユースティティアに教えてくれることはなかったのだ。
それでも彼女は二人の背中を追うことは止められなかった。決して特別な二人の間に入ることは出来なくとも、二人はユースティティアを除け者にはしなかったから。三人でいられることこそが、ユースティティアの何よりの望みであり、幸せだった。少なくとも、あの頃は。
三人だったところにウィルトゥースと言う存在が加わり、やがてラウダトゥールの妹、アウタディエースが生まれた。
三人が四人になり、五人になり。
そして最後にユースティティアの妹であるフェレンティーアが生まれた。
アルレイシアは幼い妹たちの世話にかかりきりになり、ラウダトゥールは世継ぎの王子としての勉学に忙しくなった。ウィルトゥースもまたラウダトゥールと共に過ごすことが多かったし、何より彼はラウダトゥールの剣術の師であった人物にその才を見出されて騎士としての修行を積むことになったのだ。そのため勉強よりは剣術や乗馬の訓練をして過ごすことが多く、ユースティティアとはあまり接点を持つこともなかった。
それでもまだ子どもだったため、共に過ごす時間は減ったとしても無くなりはしなかった。
ユースティティアは一人の寂しさを埋めるように習い事に励み、その成果を姉やラウダトゥールに見せて褒めてもらえることが何よりの楽しみだった。
生まれたばかりの妹たちは可愛かったし、母と共に過ごせる時間が減ってしまったのは寂しかったが、アルレイシアとラウダトゥールは変わらず側におり、ウィルトゥースもいた。一向に良くならない母・シェレスティーアの病状は心配だったが、病床を見舞えば母はいつも変わらぬ笑顔で迎えてくれていたから、幼いユースティティアはそれを特別不安に感じたことはなかったのだ。
けれど、別れの足音は着実に迫っていた。ただ、幼い彼女がそれに気づくことがなかっただけで。
そして同時に、徐々に、だが確実に。歯車は狂い始めていたのだった。
それまで狂うことなく流暢に奏でられていた曲に僅かに混じった不協和音にアウタディエースは目を瞬いた。白く細い指先はさらに一音、二音と奏でて、けれど諦めたようにやがて弦から離れた。
「ティティ?」
王女の気遣わしげな柔らかい紫紺の眼差しに何とか笑顔を返して、けれどそれ以上竪琴を引き続ける気にはどうしてもならず、ユースティティアは一つ息を吐いて手を下ろした。
「大丈夫ですの? ティティ。何だか少し、顔色が悪いようですわ」
「申し訳ございません、ディーエ様」
謝罪を口にすればアウタディエースは逆にユースティティアを気遣うような表情で首を振った。そしてその可憐な桜色の唇に少し寂しげな笑みを刻む。
「いいえ、お気になさらないで――――わたくしもここにいると、まるで昔に戻ったような気持ちになるのです。だから……分かりますわ」
「ディーエ様……」
目にした王女の、無邪気さとは程遠い諦念を含んだ悲しげな笑顔にこそ、はっきりと流れた時間の長さを見せつけられた気がして。ユースティティアはその長い睫を持つ紫紺の瞳を僅かに伏せて、胸にある痛みを吐き出すように小さくため息を吐き出した。




