出席番号35番、また明日
教室の空気は、いつも同じ重さをしていた。
午後四時二十三分。時計の針が一瞬だけ止まる。
その短い瞬間だけ、まるで誰も僕を思い出せないみたいで、少し怖かった。
僕は黒板の前に立ち、チョークの粉を払い落とす。
白い粒が夕日の光を受けて宙に浮き、ゆっくりと沈んでいく。
それを見ていると、何かの雪を逆再生しているみたいだった。
誰もいない教室には、三十五の椅子が並んでいる。
それぞれにわずかな体温が残っていて、
時間が経つと、まるで順番に消えていく小さな星を見ているようだった。
僕はその最後の光を見届ける係――そんな気がしていた。
一年間、僕は誰の中心にもいなかった。
けれど、全員の座る姿勢を覚えている。
美咲は背筋をまっすぐにして、消しゴムを角から使う人。
武は笑うとき、右肩だけが動く。
出席番号三十五番の僕は、ただそのすべてを見ていた。
観測することでしか、ここにいられなかったから。
ある日の放課後、窓際の机に一冊のノートが置かれていた。
表紙には、花のシールが斜めに貼られている。
角度が少しずれている。そのずれが、僕にはない“息の抜け方”のようで、少しうらやましかった。
中には「クラスのみんなへ」と書かれたメッセージ。
ページの隅には、まだ白い空白が残っていた。
僕はその余白を見て、思った。
──世界は、少しだけ書き足りない。多分、欠けている一つが僕なんだ。
ペンを取る。
書いたのは一文だけ。
「また明日。」
まるで、誰かがその続きを書くように。
次の日、美咲がノートを取りに来た。
「拾ってくれたんだ、ありがとう」
その声が、思ったより柔らかかった。
ページをめくる音が、空気の中に溶けていく。
僕の文字に気づいた瞬間、彼女は少しだけ眉を寄せて笑った。
「これ、あなた?」
僕はうなずいた。
その一瞬、空気が少し明るくなった気がした。
まるで机や椅子が、僕らの会話を聞こうとしているみたいだった。
卒業式の前日。
黒板の端に、うっすらと数字が残っていた。
“35”。
ふざけて書かれたはずの出席番号が、消えずに残っている。
まるで教室そのものが、誰かを忘れたくないみたいに。
僕はノートを開き、最後のページに書く。
僕は一年間、みんなの存在を数えていました。
一人減るたびに、音が静かになっていくのを感じました。
心に穴を空けるように悲しくなることもありました。
けれど、その静けさの中に、たしかに声がありました。
たぶんそれが、僕にとっての「また明日」なんだと思います。
もう誰も呼ばなくても、ちゃんと明日は来る。
ペン先が紙に触れる音が、ひどく大きく感じた。
書き終えると、黒板の“35”の数字が夕日に照らされ、赤く光っていた。
まるで誰かが、そこにまだ座っているみたいだった。
翌朝。
美咲が教室に入る。
窓から風が吹き込み、ノートの最後のページが勝手に開いた。
ページの中央で、インクがまだ乾いていない。
“また明日。”
その言葉が、かすかに揺れていた。風の中に、まだ誰かの声が混じっていた。