男爵令嬢、シャーリーは笑わない
王宮の夜会だというのに、わたくしの心は凍てついていた。
宙に浮遊する無数の光球が放つシャンデリアの光は、少し前までわたくしを祝福するためにあったはず。それが今では、集う貴族たちの嘲笑を照らし出す、残酷な舞台装置に成り下がっていた。
絹のドレスが擦れる音、扇の向こうで交わされる囁き声、その全てが、わたくしの惨めさを際立たせるための小道具に過ぎなかった。
視線の先、広間の中心で、あの女――エリアーナ・フォン・ヴァイスフルトが、国王陛下の隣で微笑んでいる。その隣には、氷の騎士と謳われたレオンハルト・フォン・アードラーが、主君から片時も離れぬ忠犬然として控えている。辺境の再生事業を成功させ、宰相マイズナー侯爵の陰謀を暴いた救国の英雄。それが今の彼女。鼻持ちならない。
「ご覧なさい、シャーリー・フォン・ベルク嬢よ。すっかり壁の花ですこと」
「まあ、およしになって。あの方も、元王太子殿下の寵愛を失い、さぞお辛いでしょうに」
「自業自得ですわ。エリアーナ様に魔女裁判を仕掛けて、逆に論破されたそうですもの」
聞こえよがしな侮蔑の言葉が、背後から毒針のように突き刺さる。扇で口元を隠し、わたくしはかろうじて淑女の微笑みを保った。けれど、爪が食い込むほど握りしめた手のひらには、じっとりと汗が滲んでいる。
全て、あの女のせいだ。
わたくしが手に入れるはずだった、王太子妃という最高の地位。アルフォンス殿下の、甘い愛の言葉。貴族たちの羨望の眼差し。その全てを、あの銀髪の女が、いとも容易く奪い去っていった。
視界の隅で、かつてわたくしのものになるはずだった男の幻影を探してしまう。アルフォンス殿下。だが、いるはずもない。あの愚かな男は王位継承権を剥奪され、北の修道院で終生を過ごす身だ。わたくしを選んでおきながら、結局はあの女に敗れ、あっさりと切り捨てられた哀れな駒。結構だわ。あのような中身のない男に、もはや何の価値もない。わたくしが本当に憎むべきは、わたくしを貶め、そして今、あの玉座の隣で輝いている、あの女ただ一人なのだから。
エリアーナ・フォン・ヴァイスフルト。王都から追放されていた、元公爵令嬢。
彼女は、わたくしが欲しくてたまらなかった全てを手にしている。地位、名声、そして、あの氷の騎士の、熱を帯びた視線さえも。
許せない。
どうして、わたくしではなく、あの女が。
あの堅物で、理屈っぽくて、面白みのない女が。
憎悪が胃の腑の底で黒い炎となって燃え盛る。このままでは終われない。終わらせない。わたくしは、わたくしの価値を、もう一度この王都で証明してみせる。たとえ、どんな手を使ってでも。
わたくしは、誰にも気づかれぬよう、静かにその場を抜け出した。シャンデリアの光が、やけに目に染みた。
*
王都の空は鉛色の雲に覆われ、冷たい風が吹きすさんでいた。
辻馬車を拾う気にもなれず、わたくしは冷たい風に身を晒しながら、あてもなく歩いていた。絹のドレスの裾は泥に汚れ、整えたはずの髪は、湿気で無様に乱れている。今のわたくしの心の内を、この空が代弁している。そう思えた。
いつしか足は華やかな大通りを離れ、人通りのない薄暗い裏通りへと迷い込んでいた。石畳の隙間からは雑草が伸び、建物の壁には得体の知れない染みが広がっている。こんな場所、普段のわたくしなら、決して足を踏み入れることはない。
ふと、一軒の店の前に佇んでいる自分に気づいた。
古書店。
煤けた看板には、かろうじてそう読める文字が刻まれている。ショーウィンドウには、埃をかぶった古書が、墓石を思わせる不気味さで乱雑に積み上げられていた。
何かに引き寄せられるように、わたくしは軋む音を立てる扉に手をかけた。
店内に一歩足を踏み入れると、黴と古い紙の匂いがむわりと鼻をついた。薄暗い店内には、天井まで届きそうな本棚が迷路のように並び、その影の合間を小さなランプの光が頼りなく照らしていた。
不用心だ。人の気配がない。
わたくしは夢遊病者の足取りで、迷路の中を進んでいった。指先が背表紙をなぞる。歴史書、詩集、哲学書……どれも、わたくしの渇きを癒すものではない。
店の最も奥まった一角。そこに、それは、あった。
黒い革で装丁された、一冊の分厚い本。表紙には、金色で奇妙な紋様が描かれている。それは、どの貴族の紋章とも違う、見る者を不安にさせる歪んだ螺旋の形だった。
わたくしは、吸い寄せられるように、その本に手を伸ばした。
「……お目が高い」
背後から不意にしわがれた声がした。
驚いて振り返る。そこには、いつからいたのか、影のように存在感のない老人が立っていた。店の主らしい。その瞳は闇の中で鈍い光を放っていた。
「その本は、ただの本ではございません。持ち主の、真の願いを叶える、力を持つ本。……もっとも、相応の対価が、必要になりますがな」
店主は、不気味な笑みを浮かべた。その笑みは、わたくしの心の奥底を見透かしている。そんな気がした。
願いを、叶える?
その言葉が、わたくしの乾ききった心に甘い毒のように染み渡っていく。
エリアーナへの復讐。
失った地位の奪還。
それはわたくしの渇望。
震える手で首に下げていたサファイアのネックレスを外した。母から譲り受けた、大切なネックレス。
「……これで、足りますかしら」
店主は宝石を一瞥すると、満足げに頷いた。
「ええ、ええ。十分すぎるほどの、対価でございますとも」
わたくしは黒い魔導書を胸に抱きしめた。これが最後の希望。最後の切り札とならんことを。
*
三日経った。自室に戻ったわたくしは、震える手で黒い魔導書のページをめくっていた。
羊皮紙に記されていたのは、おぞましい図形と、理解不能な古代語の羅列。黒魔術、呪い、生贄の儀式……その禍々しい内容と絵図に、一瞬、吐き気を催した。
けれど、わたくしは、本を閉じることはできなかった。エリアーナの、あの全てを見下すような、涼やかな顔が、脳裏に焼き付いて離れない。あの女から全てを奪い返すことができるのなら、この魂を悪魔に売り渡したとて構わない。
わたくしは数ある儀式の中から、最も簡単で、最もささやかな呪いを試すことに決めた。
ターゲットは決まっている。先日の夜会で、わたくしを「壁の花」と嘲笑った子爵令嬢。あの女の自慢の、豊かな金色の髪。それが全て抜け落ちればいい。
真夜中。わたくしは部屋の鍵を固く閉ざし、床に魔導書の指示通り銀の粉で魔法陣を描いた。揺れる蝋燭の炎が、壁にわたくしの歪んだ影を映し出していた。
先日侍女に命じて手に入れさせた子爵令嬢の髪を一筋取り出すと、それを魔法陣の中央に置いた。そして呪文を唱え始めた。
喉の奥から紡ぎ出されるのは、およそ人のものとは思えぬ、低く乾いた響き。魔導書に記された古代の言葉は、その一音一音がわたくしの舌の上で奇妙な実感を伴って転がっていく。意味を理解しているわけではない。だが、その言葉を紡ぐたび、その悪意に満ちた意味が、奔流となってわたくしの脳内に直接流れ込んできた。
「彼の者の美しき冠を、無価値なる藁へと変えよ。その輝きを奪い、その誇りを地に堕とせ」
呪文を唱え終え、髪の毛を、蝋燭の炎で燃やす。
パチ、と。
小さな音を立てて、髪が燃え尽きたその瞬間、激しい疲労感が、わたくしの全身を襲った。生命力そのものを、ごっそりと吸い取られた感覚だった。
わたくしは、床に崩れ落ちると、そのまま、気を失うように、深い眠りへと落ちていった。
*
数日後、社交界は一つの噂で持ちきりだった。あの傲慢な子爵令嬢が原因不明の急速な脱毛症に苦しんでいる、と。医師も匙を投げ、今では屋敷から一歩も出られないらしい。
その報せを侍女から聞いた時、わたくしの背筋をぞくりとした悪寒と、それ以上の全能感にも似た歪んだ歓喜が駆け抜けた。
成功した。
わたくしの力が。この魔導書の力が。
わたくしは鏡の前に立ち、自らの艶やかな髪を指で梳いた。美しい。誰よりも。この美しさは誰にも奪わせはしない。
その夜からだった。わたくしが悪夢にうなされるようになったのは。
夢の中で髪を失った子爵令嬢が、血の涙を流しながらわたくしを追いかけてくるのだ。その指先は、わたくしの髪を掴もうとしている。
「返せ……わたくしの髪を、返せ……!」
その怨嗟の声に、悲鳴を上げて飛び起きる。
荒い息をつきながら鏡を覗き込むと、そこに映る自分の姿に再び悲鳴を上げた。
一瞬。ほんの一瞬だけ。
鏡の中のわたくしの髪が、ごっそりと抜け落ちて見えたのだ。
幻覚。
そう。分かっている。分かってはいるのに。
わたくしは震える手で、自らの髪を何度も、何度も確かめずにはいられなかった。
これが対価。
あの老人が言っていた相応の対価。
恐怖がじわりと心の底から這い上がってくる。
それと同時に、わたくしの心の奥底で黒い炎がより一層激しく燃え盛る。
この程度で怯むものですか。
わたくしはまだ、何も取り返してはいないのだから。
次の獲物は誰にしましょうか。
わたくしの美しさを疑う、愚かな誰かさんに。
*
最初の小さな成功は毒のように甘く、わたくしの魂を蝕んでいった。
子爵令嬢の悲劇は社交界の恰好の噂話となったが、誰もその裏にわたくしの呪いがあるなどと疑う者はいない。ただの不幸、それで済まされる。その事実にわたくしは言いようのない優越感を覚えた。愚かな者ども。わたくしは、お前たちの運命さえこの手で操ることができる。
わたくしは魔導書の虜になっていた。
夜ごと自室に籠っては新たな呪いの儀式を執り行う。わたくしを冷遇した伯爵が狩りの最中に落馬して足を折った。わたくしの悪評を流した侯爵夫人が原因不明の熱病に倒れた。一つ、また一つと、わたくしを蔑んだ者たちが不幸に見舞われるたび、わたくしの心は歪んだ達成感で満たされていく。
だがその代償は、確実にわたくしの精神を蝕んでいった。
毎夜の悪夢は日に日におぞましさを増していく。髪のない子爵令嬢だけでなく、足の折れた伯爵が、熱に浮かされた侯爵夫人が、血の涙を流しながらわたくしを追いかけてくる。彼らは口々にわめき立てる。「お前のせいだ」「呪われろ」と。
幻聴も始まった。
昼間一人でいると、どこからともなく彼らの怨嗟の声が聞こえてくる。幻覚も見るようになった。ふとした瞬間に鏡に映る自分の顔に深い皺が刻まれているのだ。
一瞬だけ、鏡の中の自分が老婆へと変貌した。
慌てて目をこすりもう一度見ると、そこにはいつもの美しいわたくしがいた。けれどその恐怖は肌にまとわりつくように消えなかった。
わたくしの化粧は日増しに厚くなっていった。シミ一つ、皺一本たりとも人目に晒すわけにはいかない。この完璧な美しさこそが、シャーリー・フォン・ベルクという存在の最後の砦なのだから。
*
いつしかわたくしの関心は、失った地位を取り戻すことから失われつつある自らの「美」へと完全に移行していた。
エリアーナへの憎しみは変わらない。
けれどそれ以上に、鏡に映る一瞬の老いがわたくしを恐怖のどん底に突き落としていた。
魔術の代償は確実にわたくしの肉体を蝕み、その輝きを内側から食い荒らしている。
このままではいけない。
わたくしは魔導書の中に、若さと美しさを得るための禁断の儀式の項を見つけ出した。それには複雑な魔法陣と希少な薬草、そして何よりも強い意志が必要とされた。
わたくしは十日をかけて準備を整え、満月の夜にその儀式を執り行った。
儀式を終えたわたくしの姿は確かに以前にも増して輝いて見えた。肌は陶器のごとく滑らかになり髪は絹糸の光沢を放っている。けれどそれは他者の目にのみ映る幻の仮面だった。
鏡を覗き込む。
そこにいたのは誰だかわからなかった。
肌は土気色にくすみ、目元には深い隈が刻まれ、唇は乾ききってひび割れている。髪は艶を失い、枯れ草の束と化していた。鏡の中の醜悪な怪物がわたくしを嘲笑っていた。
『これが、お前の本当の姿だよ、シャーリー』
鏡の中から声がする。わたくし自身の声だ。それは底なしの悪意に満ちていた。
『いくら取り繕っても無駄なこと。お前は内側から腐っていく。エリアーナは今この時も輝いているというのに』
「黙りなさい!」
手にした燭台を鏡に叩きつけた。けたたましい音を立てて鏡が砕け散る。けれどその破片の一つ一つに、怪物の嘲笑う顔が映り込んでいた。
それからわたくしは、屋敷の静寂だけが唯一の慰めとなっていった。
侍女たちの無遠慮な視線や意味のないおしゃべりがひどく神経に障り、彼女たちはわたくしの苦しみを理解しようともせず、一人また一人と勝手に去っていった。
かつてあれほどわたくしを慕っていた友人たちも、今では何の便りもよこさない。
そんなわたくしの元を訪れるのはただ一人。
あの古書店の店主だけだった。
「おやおや、シャーリー様。ずいぶんとおやつれになりましたな」
彼はわたくしの惨状を見ても少しも驚く様子はない。
「そのお悩み、もっと強力な儀式でなら解決できるやもしれませぬぞ。例えば、あのエリアーナの輝きそのものを奪い取ってしまう、とか」
彼の言葉は闇の中から差し伸べられる蜘蛛の糸。ああ、これこそがわたくしを救う唯一の道。この糸を手繰り寄せ、あの女を引きずり下ろせるのなら、その先に何が待ち受けていようと構わない。
*
エリアーナを完全に破滅させ、そしてわたくしは真の美しさを取り戻す。
そのためならば、もはやどんな禁忌を犯すことも厭わない。
わたくしは魔導書に記された最大級の呪いの儀式を行うことを決意した。それには生贄が必要だった。「穢れを知らぬ、清らかなる者の血」が。
好都合なことに数日前から、屋敷の周りを一人の村娘がうろついていた。わたくしが庭で育てている珍しい薔薇に興味を引かれたのだろう。その瞳はまだ世の汚れを知らぬ純粋な好奇心に満ちていた。
あれなら使える。
わたくしは侍女頭に命じ、その娘を「お茶会に」と偽って屋敷へと招き入れた。
*
その夜、王都は嵐に見舞われた。窓ガラスを叩きつける激しい雨音と空を引き裂く稲妻が、わたくしを祝福していた。
薬で眠らせた村娘を地下の古い貯蔵庫へと運び込む。
すでに儀式のための魔法陣が描かれている。
描いたのはもちろん、わたくし。
娘の手首に銀のナイフを当てる。
そのか細い腕の柔らかな感触に、一瞬、手が止まる。
だが、脳裏に浮かんだのはあの女――エリアーナの勝ち誇った顔。
その瞬間、わたくしの心から、最後の憐憫が消え失せた。
わたくしは呪文を唱え始めた。
その声はもはやわたくし自身のものとは思えなかった。
「深淵の王よ、我が声を聞け。我が憎悪を糧とし、彼の者に裁きの鉄槌を。その光を奪い、その魂を、永遠の闇に閉ざしたまえ……」
稲妻が地下室の小窓を青白く照らし出す。その光に浮かび上がったわたくしの顔は嫉妬と狂気に歪み、もはやかつての可憐な面影はどこにもなかった。
わたくしが銀のナイフを振り下ろそうとしたその瞬間、静寂を破る甲高い叫び声と共に、村娘がにわかに暴れ出した。細い腕にはあり得ぬほどの力が込められ、縄がぶちぶちと音を立ててちぎれる。
――能力? 何者、この子は!?
わたくしを突き飛ばすと、娘は地下室から転がるように逃げ出した。
魔法陣は主たる生贄を失い、制御不能の魔力の奔流と化した。
「ぐ、あああああっ!」
暴走した魔力がわたくしの体を内側から焼く。
他者を呪うための力が今、わたくし自身に牙を剥いていた。
幻影の仮面が音を立てて剥がれ落ちていく。鏡を見なくとも分かる。わたくしの肉体は今、取り返しのつかないほど醜く焼けただれている。
人を呪わば穴二つ。そのありふれた警句の意味を、わたくしはこの身をもって知った。
*
翌日、王宮騎士団と教会の異端審問官たちがわたくしの屋敷に押し寄せてきた。
あの村娘が血まみれの姿で騎士団の詰め所に駆け込んだのだという。「シャーリー様が、わたくしを、何かの儀式の生贄にしようと……」と泣きながら証言したそうだ。
騎士団は屋敷の地下室から魔法陣と血の付いたナイフを発見した。もはや言い逃れのしようもない。
わたくしは、捕らえられた。
冷たい鉄の腕に両脇を固められ、屋敷から引きずり出される。その時、異端審問官の一人が、侮蔑に満ちた声で吐き捨てた。
「見よ、これが王国を惑わす邪悪な魔女の末路だ」
魔女。
その言葉が、わたくしの思考を貫いた。違う。わたくしは魔女ではない。
魔女は、あの女、エリアーナのはず。
なのに、なぜ。
思考がぷつりと途切れる。
そうだ。わたくしはかつて、あの女を、同じ言葉で断罪しようとした。
ああ――。
わたくしは抵抗する間もなく、騎士たちに引きずられていく。
石畳の冷たさが、薄いドレスを通して伝わってくる。
その時、道にあふれた群衆の中に見知った顔を見つけた。
お父様。お母様。
ああ、助けに来てくださったのね。
最近、わたくしが部屋に籠もりがちであることを心配して、何度も扉越しに声をかけてくださっていた。わたくしは、大丈夫だと、そう答えていたけれど、本当は、大丈夫ではなかった。でも、これで、この悪夢から……。
おかしい。二人の顔に浮かんでいたのは、娘を案じる親のそれではない。
恐怖と、絶望と、諦観。
お父様が、震える声で、呟いた。
「……やはり、お前は……魔女に、なっていたのか」
その言葉が、わたくしの、砕け散った心の、最後の欠片を、粉々に吹き飛ばした。
全てが終わった。そんな気がした。
*
魔女裁判にかけられた。
ここは舞台。そう、わたくしのための舞台。
石の壁は書き割りで、高い窓から差し込む光はわたくしを照らすための照明。
目の前に座る肥え太った男たちは、滑稽な衣装をまとった役者たち。
傍聴席で囁き合う虫けらどもは、わたくしの独白に彩りを添えるための端役。
「なっ、何をすればあんな顔に……」
「まるで老婆じゃないか……シャーリー嬢はまだ十代だったはず」
「魔女という訴えは本当だったようだな……」
――うるさいわね。
わたくし、シャーリー・フォン・ベルクは、この茶番劇の、ただ一人の主役だというのに。
いや、違う。わたくしの視線は傍聴席に座るもう一人の主役を捉えた。
エリアーナ・フォン・ヴァイスフルト。聖女の仮面を被ったあの女。
いいわ。その仮面、わたくしが剥がしてあげる。
「お聞きなさい、愚かな者ども! あの女こそが魔女! あの女の『奇跡』こそが悪魔の業! 冬に野菜? 見たこともないお茶? 笑わせるな! 全ては悪魔に魂を売って得た、まやかしの力! わたくしは、この国を魔女から守るために立ち上がった、ただ一人の騎士!」
わたくしの声が、劇場中に響き渡る。
議場がざわめく。もっと、もっとだ。わたくしの言葉に酔いしれろ。
エリアーナは黙ってわたくしを見ていた。その無感情な瞳が、わたくしの神経を逆撫でする。だが、それも今のうち。この裁判はわたくしが勝つ。そして、あの女は魔女として、火刑台の露と消えるのだ。
*
空気が変わった。わたくしを疑いの目で見ていた虫けらどもが、今はエリアーナに、その視線を向けている。いい気味だわ。
だが、あの女は少しも動じない。傍聴席から静かに立ち上がると、審問官長に発言の許可を求めた。
「また同じお話ですの? わたくしが魔女ではないことは、先日の議会で証明されたはずです。それともシャーリー様は、ご自身がわたくしを告発したその論理で、今度はご自身が断罪されることをお望みで?」
エリアーナの冷たい声が議場に響き渡る。その言葉は、わたくしの告発が、かつて自らが仕掛けた茶番の繰り返しであることを、虫けらどもに思い出させた。ざわめきが、嘲笑へと変わっていく。
違う。違うのよ。
わたくしの告発を、子供の癇癪をあしらうように受け流すと、彼女は自らの「奇跡」が、ただの知識と論理の産物であると、退屈な講義を始めた。地熱がどうの、酵母がどうのと。虫けらどもは、その陳腐な理屈に感心したように頷いている。馬鹿ばっかり。
一通り説明を終えたあの女は、ようやく、本題に入るとでも言うように、わたくしへと視線を向けた。
「……シャーリー様が行ったとされる、数々の呪いの儀式。それも分析させていただきました」
エリアーナが広げた羊皮紙。そこに描かれているのは、わたくしだけの、秘密の魔法陣。
「この儀式は、単なる体調不良を引き起こす類のものではございません。これは、対象者の魂そのものを少しずつ削り取り、生命力を奪い尽くす、極めて悪質な古の呪術。被害者たちは、ただ病に倒れたのではありません。彼らは、生きたまま、魂を喰われていたのです」
違う。
違うけれど、本当は。わたくしは、そこまで考えていなかった。ただ、苦しめばいいと、そう願っただけで……。
「この術を行使することは、すなわち、相手の魂を殺すことと同義。王国法において、最も重い罪の一つですわ。シャーリー様。あなたは、ただ人を妬んだのではない。その手で、複数の魂を弄び、破壊しようとしたのです」
エリアーナの言葉は、冷たい刃となって、わたくしの罪の重さを、骨の髄まで刻み付けた。
ああ、ああ。頭の中で、何かがのたうち回っている。
「黙れ黙れ黙れ、この魔女めが! お前が、お前さえいなければ、わたくしは……!」
喉が張り裂けそうなくらい叫んでいた。
「証人を」
審問官長の声が、わたくしの叫びを遮る。
扉が開いて、あの古書店の主が入ってきた。
そうだ。この男。この男が、わたくしの正しさを証明してくれるはず。わたくしは、最後の希望を、その老人に託した。
だが、店主はわたくしを一瞥すると、興味なさそうに視線を外した。
「証人。被告に禁断の魔導書を売り渡したか」
「いいえ。そのようなおぞましい本、店で扱ったことは一度もございません。この令嬢にも、見覚えはございませんな」
老人は首を振った。
「嘘よ! この男が、わたくしに……! お前、わたくしを忘れたとは言わせないわ! あの日のこと、母から譲り受けた大切なサファイアと引き換えに、この本をわたくしに売ったではないか!」
わたくしは、鎖を引きずる音を立てて身を乗り出した。衛兵に押さえつけられる。
「見なさい! この男の、白々しい顔を! こいつが全ての元凶だわ!」
店主は動じない。ただ、憐れむような、それでいて底の知れない瞳で、わたくしを見つめ返すだけだった。
「おかわいそうに。どうやら、もう、お心が――」
その言葉が、法廷の空気を決定づけた。貴族たちは、もはやわたくしを、哀れな狂人としてしか見ていない。
わたくしは、最後の望みを託して、傍聴席に座るエリアーナを見た。あの女なら、この茶番に気づいているはず。
だが、エリアーナは、じっとわたくしを見ているだけだった。その瞳には何の感情も浮かんでいない。勝利の喜びも、わたくしへの侮蔑も、憐憫さえも。ただただ、無機質なガラス玉が、そこにあった。
ああ。
ああ、ああ。
そういうこと。
そういう、ことだったのね。
この女は初めから、わたくしなど見ていなかった。わたくしの嫉妬も、憎悪も、狂気も、全て、この女にとっては、取るに足らない、道端の石ころほどの価値もなかった。
わたくしは道化。
誰に踊らされたわけでもない。ただ、誰の目にも映らない舞台の上で、一人で、滑稽に、踊り狂っていただけの、哀れな道化だった。
乾いた音が、喉から漏れた。
それは、笑い声だった。
いや、笑い声というには、あまりに、あまりに、何かが欠けている音だった。潤いが、感情が、魂が、ごっそりと抜け落ちた、ただの音の残骸。
道化。
そうか、わたくしは、道化だったのか。
エリアーナという好敵手に打ち負かされた、悲劇のヒロインですらなかった。彼女の壮大な脚本の上で踊らされていた哀れな操り人形でさえなかった。
誰の目にも映らない舞台の上で、一人で、勝手に、滑稽に、踊り狂っていただけ。エリアーナは、観客ですらなかった。彼女は、わたくしなど、はじめから見ていなかった。
絶対的な、宇宙的なまでの無関心。
それが、わたくしの世界の全てを粉々に砕いた。
「あは、はは、あはははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは」
止まらない。
止まらない。
止まらない。
黒い渦がわたくしの内側で、無限に回転していった。
*
有罪。
火刑。
それが、わたくしという道化に下された、最後の審判だった。
結構だわ。この茶番劇の幕引きには相応しい。
広場は虫けらで埋め尽くされていた。
彼らの好奇と侮蔑に満ちた視線が心地よい。
薪の山。
ああ、ここがわたくしの最後の舞台。
空が青い。
執行人が、松明を投げる。
炎が立ち上る。
熱い。
痛い。
息が出来ない。
肺が焼ける。
ああ、見ていなさい、エリアーナ。
わたくしは、お前の記憶の一部となってやる。
お前が決して忘れることのできない、おぞましい悪夢となってやる。
炎がわたくしを喰らう。
炎がわたくしを喰らう。
感覚がなくなっていく。
*
エリアーナは酷い臭いに顔をしかめながら、炭に変わってゆくシャーリーを見つめていた。
燃えさかる十字架から目を離さずに。
自身の罪から目をそらさないように。
炭と化しても、シャーリー・フォン・ベルクは微笑んでいた。
その狂気の笑みは、王都の人々の記憶に、そして、エリアーナ・フォン・ヴァイスフルトの魂に、永遠に消えることのない、火傷の痕となって刻み込まれた。
*
シャーリー・フォン・ベルクの処刑が終わった。
これでまた一つ、プロジェクトが完了した。
シャーリーの存在は、わたくしの事業計画における、予測不能なリスクファクター、いわゆるブラックスワンだった。放置すれば、いずれ無視できない損害をもたらす。
早期の損切り。
合理的かつ、最適な判断だったと評価できる。
レオンハルトは懸命にわたくしの心を気遣っている。
彼の瞳に浮かぶ憂いは、わたくしという投資対象への誠実なデューデリジェンスの表れだろう。だが、心配は無用だ。わたくしのメンタルヘルスは、常にKPIとして管理されているのだから。
その夜、私室で一日のレビューを行っていると、音のない影が一つ揺らめいた。
古書店の店主だ。
王国の元暗部。
顔を変えて抜けたと聞いている。
どうやって顔を変えたのかまでは聞いていない。
とはいえ、彼もまた、このプロジェクトにおける重要なアセットの一つ。
「エリアーナ様。計画通り、全て完了いたしました」
老人は、恭しく頭を下げる。
「例の魔導書も、無事、回収しております」
彼の手には、シャーリーを狂わせた、あの黒い本があった。
わたくしは、それを受け取る。
「ええ、ご苦労様。実にスムーズな事業清算でしたわ」
わたくしは、魔導書の表紙を指でなぞる。
シャーリーの絶望も、狂気も、全てはシナリオ通り。
彼女は自らの意思で破滅の道を選んだ、と思い込んで逝った。
人間とは、かくも御しやすく、そして、脆いもの。
「これで、次のプロジェクトの準備が整いましたわね」
わたくしの瞳に映るのは、シャーリーのそれとは比較にならない、深く、冷たく、次なる事業計画への展望。
そう、これから隣国を落す。ゲルハルト・シュトライバー将軍、あなたはわたくしの推しに攻め込んだ大罪人。許さない。絶対に。
(了)
お読みになっていただき、ありがとうございます。
よろしければブックマークしたり、下の★をポチポチしていただけると、作者が捻れて喜びます。
もうちょっとしたには、本作品の前作品(異世界恋愛)へのリンクがあるので、ぜひぜひー(*´v`*)