第九話『四面楚歌、魔王の黄昏』
本能寺の変――明智光秀による織田信長討伐の報は、燎原の火の如く、瞬く間に日ノ本全土を駆け巡りました。それは、各地に散らばる織田家の諸将たちにとって、まさに青天の霹靂。絶対的な権力者であった信長の死は、彼らに大きな衝撃と混乱をもたらしたのでございます。
特に、信長の嫡男であり、既に家督の一部を譲られ、織田軍の総司令官として信濃方面に展開していた織田信忠にとっては、父の非業の死は、計り知れぬ打撃でありました。
「父上が…光秀に…!? 馬鹿な、ありえぬ!」
信忠は、京の妙覚寺にあって父の訃報に接し、当初は信じることができなかったと言われます。しかし、事実と知るや、彼は僅かな手勢を率いて二条新御所(当時の皇太子の居所)に籠もり、明智軍の攻撃に備えようといたしました。しかし、圧倒的な兵力差の前には為す術もなく、奮戦虚しく、父の後を追うように自刃して果てたのでございます。
信長の他の息子たち、次男・信雄、三男・信孝らもまた、それぞれの拠点にあって父と兄の死を知り、激しい怒りと共に、今後の身の振り方を案じなければなりませんでした。しかし、彼らには、この未曾有の危機を乗り越えるだけの器量も、家臣団をまとめ上げる求心力も、残念ながら欠けていたと言わざるを得ませぬ。織田家は、その巨大な柱を失い、内部から崩壊の兆しを見せ始めていたのです。
この織田家中枢の混乱は、真田昌幸にとって、まさに計算通り、いや、計算以上の好機でありました。彼は、信長・信忠父子の死を確認するや、かねてより準備を進めていた「信長包囲網」を、一気に発動させたのでございます。
まず、北からは、上杉景勝が満を持して大軍を率い、越後国境を越えて北信濃へと侵攻を開始しました。柴田勝家が動けぬ今、彼を阻むものは何もない。上杉軍は、破竹の勢いで織田方の拠点を次々と攻略し、川中島周辺までをも制圧する勢いを見せます。
南からは、武田と固い同盟を結んだ北条氏直(父・氏政と共に)が、大軍を率いて甲斐・駿河方面へ進軍。家康亡き後の混乱に乗じ、旧徳川領への影響力を強めると共に、信濃南部へも圧力をかけ始めました。
そして、東、岩櫃城からは、武田勝頼が、真田昌幸と共に、精鋭を率いてついに出陣! 目指すは、父祖伝来の地である甲斐・信濃の奪還でございます。風林火山の旗が、再び故郷の空に翻る時が来たのです。
さらに、信濃国内では、武田信豊、仁科盛信らが率いるゲリラ部隊が、これまで以上に活発な動きを見せておりました。彼らは、織田軍の残存部隊や、後方から送られてくるはずの補給部隊を執拗に襲撃。道という道を寸断し、橋を焼き落とし、織田方の連絡網を完全に麻痺させていったのです。
「水も食料も届かぬ!」
「ど、どこから敵が襲ってくるか分からぬ!」
信濃各地に残された織田方の将兵は、完全に孤立し、補給を断たれ、士気を喪失していくばかりでございました。
まさに、四面楚歌。
織田家は、信長・信忠という指導者を失っただけでなく、北から上杉、南から北条、東から武田本隊、そして内部からはゲリラ部隊の撹乱という、四方からの挟撃を受ける形となったのです。かつて天下を席巻した強大な軍団も、その中枢と神経系統を断たれてしまえば、もはや烏合の衆となりかねませぬ。
特に、信濃南部に残存していた織田軍の主力部隊(信忠と共に信濃にいた兵や、河尻秀隆などの部隊)は、絶望的な状況に追い込まれておりました。北からは上杉軍が迫り、南からは北条・武田の圧力が強まる。そして、頼みの綱である補給線は、完全に断たれている。
「もはや、これまでか…」
「どこへ逃れればよいのだ…」
兵たちの間には、諦めと絶望感が広がっておりました。
昌幸は、この状況を的確に把握し、勝頼に進言いたしました。
「御館様。敵は、もはや戦意を喪失しておりまする。今こそ、決戦の時。南信濃の伊那谷あたりに、敵主力を誘い込み、一挙に殲滅いたしましょうぞ」
昌幸の脳裏には、天啓の最終局面――四方からの矢が、獲物を囲み、仕留めるイメージ――が、はっきりと見えておりました。
「よし、安房守! そなたの策に乗った!」
勝頼の声にも、迷いはありません。かつて悪夢にうなされていた面影はなく、その顔には、武田家再興への強い意志と、決戦への覚悟がみなぎっておりました。
武田本隊は、上杉・北条軍と連携を取りながら、巧みに織田軍の残存主力を、南信濃の広々とした谷間――伊那谷へと誘い込んでいきました。そこは、周囲を山々に囲まれ、逃げ場のない、まさに決戦の地として誂え向きの場所でございました。
追い詰められた織田軍は、もはや死兵と化して抵抗するしかない。しかし、彼らを待ち受けていたのは、士気高く、地の利を得、そして周到な作戦計画を持つ、武田・上杉・北条の連合軍だったのでございます。
決戦前夜、勝頼は陣中にあって、静かに星空を見上げておりました。明日は、武田家の、そして己の運命を決する一日となる。不思議と、悪夢はもう見ない。代わりに感じるのは、武士としての高揚感と、これから失われるであろう多くの命への、かすかな痛み。
(父上…見ていてくだされ…)
勝頼は、空に輝く父・信玄の将星に、そう心の中で語りかけたのでございます。
夜が明け、伊那谷に朝靄が立ち込める中、ついに両軍が対峙いたしました。四方から、武田の赤備え、上杉の「毘」の旗、北条の三つ鱗の紋が、朝日に輝いている。対する織田軍は、数こそまだ残っているものの、その陣容は乱れ、兵たちの顔には疲労と絶望の色が濃い。
やがて、陣太鼓の音が谷間に響き渡る。
「かかれぃ!」
勝頼の号令一下、連合軍の各部隊が、鬨の声を上げ、波のように織田軍へと殺到していったのでございます。魔王亡き後の、黄昏の戦いが、今、始まろうとしておりました。




