第八話『本能寺燃ゆ、西からの狼煙』
天正十年六月朔日、夜。
京の都は、深い静寂に包まれておりました。前日に入京した織田信長は、供回り僅か百名ほどで、本能寺を宿所としておりました。茶会などを催し、比較的くつろいだ様子であったと伝えられます。天下布武の実現を目前にし、あるいは、多少の気の緩みがあったのかもしれませぬ。まさか、己の身に、死の刃が迫っているとは、夢にも思わずに…。
その頃、丹波亀山城を発った明智光秀率いる一万三千の軍勢は、闇に紛れて京へと向かっておりました。表向きは「備中への援軍に向かう途中、京で信長様の閲兵を受ける」という名目。兵たちも、まさか主君が謀反を起こそうとしているとは露知らず、ただ命令に従い、粛々と行軍を続けておりました。
光秀の胸中は、いかばかりであったでありましょうか。長年仕えた主君への恩義と、募り続けた不満と怨恨。将軍家再興という大義への憧憬と、謀反という大罪を犯すことへの恐怖。それらが、彼の心の中で激しく葛藤していたに違いありませぬ。しかし、一度振り上げた拳は、もはや下ろすことはできぬ。彼は、己に言い聞かせるように、何度も呟いていたと言われます。「是非に及ばず…」と。
一方、岩櫃城の真田昌幸は、この運命の夜を、固唾を飲んで見守っておりました。光秀からの「時期が来れば応じる」という返答を受け、彼は直ちに北条、上杉へも連絡。「決行の時は近い。準備を怠るな」と。そして、自らも、いつ何時、信長討死の報が届いても、即座に対応できるよう、臨戦態勢を整えていたのです。
彼の脳裏には、天啓のイメージ――燃え盛る寺、地に落ちる桔梗紋――が、繰り返し去来しておりました。
(今宵か…? それとも、明日か…?)
張り詰めた緊張感の中、昌幸は、ただひたすら、西からの報せを待ち続けておりました。
そして、運命の時は、ついに訪れたのでございます。
六月二日、未明。
夜明け前の闇が最も深い時刻、明智軍は、静かに本能寺を包囲いたしました。
「時、は今…天が下、知る…」
光秀が、何を呟いたかは定かではございません。しかし、彼の静かな号令と共に、兵たちは鬨の声を上げたのでございます。
「敵は、本能寺にあり!」
その声は、静寂を切り裂き、眠っていた京の都を揺り起こしました。鉄砲の轟音、矢の射掛ける音、そして、人々の怒号と悲鳴。本能寺は、たちまちにして、地獄の戦場と化したのです。
「何事じゃ!」
信長は、物音に気づき、跳ね起きました。近習の森蘭丸が、血相を変えて駆け込んでくる。
「申し上げます! 敵襲! 桔梗の紋! 明智日向守の謀反にございまする!」
「…光秀が?」
信長は、一瞬、信じられぬといった表情を浮かべました。しかし、すぐに状況を悟ると、その目に怒りと、そして、ある種の諦念にも似た光を宿らせたと言われます。
「是非に及ばず」
その有名な言葉を発すると、信長は自ら弓を取り、次いで槍を手に、押し寄せる明智兵を相手に奮戦。蘭丸、坊丸、力丸ら、近習たちも主君を守らんと、獅子奮迅の働きを見せますが、いかんせん多勢に無勢。次々と斃れていきます。
やがて、寺には火が放たれ、炎は瞬く間に本堂を包み込みました。熱風と黒煙が渦巻く中、信長は、もはやこれまでと悟ったのでございましょう。奥の間へと引き下がると、静かに自刃して果てた、と伝えられております。享年四十九。天下統一を目前にしながら、最も信頼していたはずの家臣の裏切りによって、その野望は、燃え盛る炎と共に、灰燼に帰したのでございます。
「信長様、討ち取り!!」
明智方の兵士が、勝鬨を上げる。光秀は、燃え盛る本能寺を、複雑な表情で見つめておりました。これで、長年の軛から解放された。しかし、同時に、取り返しのつかない大罪を犯してしまったという重圧が、彼の双肩にのしかかってくるのを感じていたのかもしれませぬ。
この「本能寺の変」の報は、驚くべき速さで各地へと伝播いたしました。
もちろん、その報せは、岩櫃城の昌幸のもとへも、いち早く届けられました。
「申し上げます! 京より早馬! 本能寺にて、明智日向守様、信長公を討ち取り申したとの由!」
「…来たか!」
昌幸は、思わず拳を握りしめた。天啓は、成就したのだ! しかし、感慨に浸っている暇はございません。ここからが、本当の戦いの始まりなのでございます。
「直ちに、全軍に出陣準備! 北条、上杉にも伝えよ! 約束通り、進軍を開始せよ、と!」
昌幸の指示が、矢継ぎ早に飛ぶ。
勝頼もまた、その報を聞き、しばし呆然としておりましたが、やがて、その目に決意の光を宿らせました。
「安房守! 我らも出るぞ! 父祖の地、甲斐・信濃を取り戻すのだ!」
西からの狼煙は、確かに上がった。それは、織田信長という時代の終焉を告げると共に、武田家にとって、反撃の、そして天下への道を切り開くための、まさに号砲となったのでございます。
しかし、光秀の謀反、信長の死は、同時に、日ノ本全土を再び大きな混乱へと突き落とすことにもなりました。特に、中国地方で毛利と対峙していた羽柴秀吉は、この報を聞くや、驚くべき速さで軍を返し、京へと向かうことになるのでございますが…。それはまた、別のお話。
今はただ、本能寺の燃え盛る炎が、新たな時代の幕開けを、血の色で染め上げているばかりでございました。




