第七話『桔梗の揺らぎ』
日ノ本にその名を轟かせる織田信長。その麾下には、綺羅星の如く、数多の有能な武将たちがおりました。柴田勝家、羽柴秀吉、丹羽長秀…そして、明智光秀。
明智日向守光秀。彼は、織田家中にあって、異色の存在と言えましょう。元は足利将軍家に仕えたとも言われ、高い教養と優れた行政手腕を持ち、信長の信頼を得て、瞬く間に重臣の列に加わった男。その一方で、生真面目すぎる性格や、出自に対する劣等感、そして、どこか影のある雰囲気が、他の荒々しい織田家の武将たちの中では、時に浮き上がって見えることもございました。
この頃、その明智光秀の心は、密かに揺れ動いておりました。きっかけは、度重なる信長からの叱責や、時に理不尽とも思える冷遇でございます。例えば、かつて丹波攻略に際し、人質として差し出した母を見殺しにされたことへの怨恨。あるいは、徳川家康饗応の席での失態を厳しく咎められ、面目を潰されたことへの屈辱。これらが、彼の信長に対する忠誠心に、少しずつ、しかし確実に、亀裂を生じさせていたのです。
「…わしは、一体、何のために戦ってきたのか」
光秀は、自らの居城である坂本城で、一人、琵琶湖の静かな水面を眺めながら、自問自答を繰り返しておりました。若い頃、足利将軍家に仕え、乱れた世を正し、泰平の世を築くことを夢見ていた。その夢を託せるのは、もはや織田信長しかいないと信じ、身を粉にして働いてきた。しかし、今の信長は、かつての理想を忘れ、ただ己の覇道を突き進む暴君と化してしまったのではないか? 神仏をも恐れぬその所業は、果たして正しい道なのであろうか?
そんな光秀の心の隙間に、まるで囁きかけるように、ある報せが届けられたのは、家康暗殺の衝撃が冷めやらぬ頃のことでございました。もたらしたのは、真田昌幸が放った密使。その密使は、極めて丁重に、しかし核心を突く言葉を、光秀に告げたのです。
「日向守様。武田勝頼公は、亡き信玄公の遺志を継ぎ、ただいま、織田の圧政に苦しむ人々を救うべく、立ち上がっておられまする」
「…武田が? 滅亡寸前ではなかったのか?」
光秀は、訝しげに問い返す。
「それは、織田方が流した偽報にござります。御覧じよ、徳川殿のこの度の御不幸。これも、武田の力が未だ健在である証左にござりましょう。そして、勝頼公が掲げる大義は、一つにござりまする」
密使は、そこで言葉を切り、光秀の目をじっと見据えて言った。
「すなわち、足利将軍家の再興にござりまする」
「な…将軍家、だと…?」
光秀の顔色が変わった。足利将軍家――それは、光秀がかつて仕え、そして見限らざるを得なかった、過去の主君。しかし、彼の心の奥底には、今なお、室町幕府という伝統的な権威への、ある種の郷愁と敬意が残っていたのかもしれませぬ。
「勝頼公は、信長公のように天下を私物化するおつもりは毛頭ござらぬ。ただ、乱れた世を正し、再び将軍家を奉じて、古き良き秩序を取り戻したいと願っておられるのです。日向守様こそ、そのお心を最も深くご理解いただけるお方と、勝頼公は信じておられまする」
昌幸の言葉(を伝えられたもの)は、実に巧みでありました。信長への不満、武士としての矜持、そして忘れかけていた若い頃の理想。それらを同時に刺激し、光秀の心を激しく揺さぶったのです。
(将軍家再興…? もし、それが真ならば…わしが信長を見限り、武田につくことは、裏切りではなく、むしろ、真の忠義を貫くことになるのではないか…?)
光秀の脳裏に、そんな危険な考えが芽生え始めておりました。もちろん、すぐに武田の言葉を鵜呑みにするほど、彼は単純ではございません。しかし、一度蒔かれた疑念と希望の種は、彼の心の中で、日増しに大きく育っていくのでした。
昌幸は、光秀の性格を深く分析していました。彼のプライドの高さ、潔癖さ、そして、一度信じ込むと、そこに突き進んでしまう危うさ。昌幸は、焦らず、しかし執拗に、様々な情報(信長のさらなる横暴ぶりや、武田の意外な健闘ぶりなど、真偽織り交ぜて)を、光秀の耳に入るように流し続けました。あたかも、じっくりと獲物を追い詰める狩人のように。
そんな折、信長から光秀へ、新たな命令が下されました。
「日向守、貴様に、中国攻めの毛利輝元に対する、羽柴秀吉への援軍を命じる。直ちに兵を整え、備中へ向かえ!」
表向きは援軍命令。しかし、光秀には、これが事実上の左遷、あるいは、自らの軍事力を削ぐための口実にしか思えませんでした。家康饗応の失敗を、未だに根に持っているのか? あるいは、自分の存在が邪魔になったのか?
(もはや、信長公は、わしを信用しておられぬ…)
光秀の中で、信長への不信感は、ついに決定的なものとなったのです。
備中へ向かう準備を進める光秀。しかし、その足は重く、心は千々に乱れておりました。このまま、秀吉の下に付き、毛利と戦うのか? それとも…?
彼の元へ、再び武田からの密使が訪れたのは、そんな時でございました。
「日向守様。御決断の時は、近づいておりまする。もし、貴殿が立たれるならば、我ら武田は、北条、上杉と共に、必ずや貴殿を支援いたしまする。天下を正す大義は、今や貴殿の双肩にかかっておるのです」
そして、密使は、昌幸からの最後の切り札とも言える言葉を告げた。それは、信長自身の、具体的な動向に関する情報でありました。
「信長公は、間もなく、少数の供回りを連れて、京の本能寺に入られるとの由。これぞ、まさに天が貴殿に与えた好機かと…」
その言葉を聞いた瞬間、光秀の中で、何かが吹っ切れたのかもしれませぬ。迷いは消え、彼の目に、冷たく、そして鋭い光が宿った。
「…分かった」
光秀は、低く、しかしはっきりとした声で、密使に告げた。
「時期が来れば、応じる、と。そう、安房守殿にお伝えくだされ」
それは、事実上の、謀反への同意でありました。桔梗の紋は、ついに、その本来の色とは違う、血の色を帯びようとしていたのです。
信長は、家康亡き後の東海道の安定に一定の目途をつけ、また、秀吉の中国攻めも佳境に入ったことから、自らは一旦、京へ戻り、本能寺に逗留することにいたしました。これが、光秀に決起の絶好の機会を与えることになるとは、夢にも思わずに…。
運命の歯車は、もはや誰にも止められぬ速さで、回り始めておりました。京の都の上空には、嵐の前触れのような、不気味な暗雲が垂れ込め始めていたのでございます。




