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第五話『駿府城の凶星』

真田昌幸の張り巡らせた謀略の糸は、人知れず、しかし着実に、徳川家康の足元に絡みつき始めておりました。岩櫃城の勝頼が非情の決断を下してから、幾日も経たぬうちに、その企ては実行の時を迎えようとしていたのでございます。


駿府城――かつて今川家の本拠地として栄華を誇ったこの城は、今や徳川家康の東の拠点の一つとなっておりました。城主である家康は、この頃、武田方から送られてきた和睦の使者と、何度か会見を重ねておりました。使者の言葉は、一様に弱々しく、武田家の衰亡ぶりを隠そうともしない。

「もはや、武田に織田・徳川連合軍と戦う力は残っておりませぬ」

「御館様(勝頼)も、御命だけはお助けいただきたいと…」

このような言葉を聞くにつれ、家康の警戒心は、次第に薄らいでいったのでございます。用心深い彼も、窮地に陥った敵の哀れな姿(と見えるもの)には、つい油断が生じてしまうもの。「武田も、もはやこれまでか。信長様のご威光の前には、いかなる強敵も敵ではぬわ」と、内心、安堵すら覚えていたかもしれませぬ。彼は昌幸が流した偽情報――織田の援軍は、信長の都合でやや遅れるであろう、という報せ――も鵜呑みにし、当面の脅威は去ったと考えておりました。


その裏で、水面下では恐るべき計画が進行していたことを、家康は知る由もありません。昌幸の密命を受けた忍びと、唆された旧今川家臣、岡部正綱らは、ついに決行の日を定めたのです。それは、家康が城内の庭園で、少数の側近と共に月見の小宴を催す、まさにその夜でありました。


月は煌々と照り、駿府城の庭園は、幽玄な美しさに包まれておりました。家康は、酒を片手に、上機嫌で側近たちと談笑しております。

「武田が降伏すれば、この東海もようやく安寧となろう。これも偏に、信長様のお力添えのおかげじゃ」

「ははーっ!」

側近たちが、一斉に頭を下げる。その中には、岡部正綱の姿もございました。彼の表情は硬く、杯を持つ手が微かに震えているのを、誰も気づきはしなかった。


宴が中盤に差し掛かった頃でございます。

「申し上げます! 急ぎ、ご報告したい儀が!」

一人の武士が、慌ただしく駆け込んできた。家康の近習の一人である。

「何事じゃ、騒々しい」

家康が、やや不機嫌に眉を顰める。

「はっ、それがしにも詳細は分かりませぬが、城下にて不審な動きがあるとの報せが…念のため、御身辺の警護を厚くすべきかと…」

「ふん、大袈裟な。武田の残党でも紛れ込んだか? 心配は無用じゃ」

家康は、全く意に介さぬ様子で、杯を呷ろうとした。その、まさに刹那。

「御免!」

鋭い声と共に、闇の中から数人の影が躍り出た! 彼らは、庭園の茂みに潜んでいた、岡部正綱の手引きを受けた者たち、そして昌幸の配下の忍びであった。

「な、何奴!」

「曲者じゃ!」

側近たちが、慌てて刀に手をかける。しかし、刺客たちの動きは、それを上回る速さであった。彼らは、家康ただ一人を目指し、襲いかかる!

「殿をお守りしろ!」

本多忠勝、榊原康政といった徳川の勇将たちが、咄嗟に家康の前に立ちはだかる。激しい斬り合いが始まった! 火花が散り、怒号と悲鳴が交錯する。

だが、その乱戦の中、岡部正綱が動いた。彼は、あたかも家康を守ろうとするかのように見せかけ、その実、家康の背後へと回り込んだ。

「殿、危のうございます!」

そう叫びながら、彼は隠し持っていた短刀を抜き放ち、無防備な家康の背中を目掛け、深く突き刺したのである!

「ぐ…っ! お、岡部…き、貴様…!」

家康は、信じられぬといった表情で、己の背中を刺した男を見返した。口から、ごぼりと血が溢れ出す。

「…今川家の…無念、思い知れ!」

岡部正綱の目に、狂気とも執念ともつかぬ光が宿っていた。


「殿ーっ!」

忠勝らが岡部の凶行に気づき、駆け寄ろうとするが、他の刺客たちがそれを阻む。庭園は、たちまち修羅場と化した。

家康は、よろめきながら数歩歩き、そして、庭石の上に崩れ落ちた。その目は、まだ驚愕と無念の色を浮かべたまま、大きく見開かれている。

やがて、刺客たちは、目的を果たしたと見るや、潮が引くように闇の中へと姿を消した。岡部正綱もまた、混乱に乗じてどこかへ消え去った。


残されたのは、血の匂いと、呆然と立ち尽くす家臣たち、そして、地に伏したまま動かぬ、徳川家康の亡骸だけであった。

東海の巨星、墜つ。

その報は、夜の闇を切り裂く凶報として、瞬く間に城内へ、そして城外へと伝わっていったのでございます。


「……凶星、墜ちたり」

遥か岩櫃城で、昌幸はその報せを、冷徹な表情で受け止めた。彼の脳裏には、天啓のイメージ――東の海から昇る巨大な獣の足元が砕け散る光景――が、再び鮮明に蘇っていた。天啓は、正しかったのだ、と。

「御館様」

昌幸は、勝頼の元へ赴き、静かに告げた。

「徳川家康、討ち取り申した」

「……そうか」

勝頼は、短く応えた。その声には、喜びも、安堵もなかった。ただ、深い、底なしの疲労感と、自らが下した非情な決断の重みが、のしかかっているかのようであった。


家康暗殺の報は、当然、京の織田信長の耳にも届いた。信長は、報せを聞くなり激昂し、雷の如く怒り狂ったと伝えられます。

「猿(秀吉)を呼べ! いや、わしが出る! 武田の鼠ども、根切りにしてくれるわ!」

しかし、同時に、徳川家の混乱を収拾し、後継者を定め、東海道筋の動揺を鎮める必要にも迫られた。これが、結果として、信長の注意を東海道方面に引きつけ、信濃方面への圧力を一時的に緩めることになったのでございます。昌幸の狙いは、まさにそこにあった。


一方、この凶報は、小田原の北条氏政、越後の上杉景勝の耳にも届いた。

「家康が…死んだ? 武田の仕業か…?」

彼らは、その報の衝撃に言葉を失った。そして、同時に、武田家、いや、その背後にいる真田昌幸という男の、底知れぬ恐ろしさを改めて思い知らされたのでございます。強大な徳川家康を、こうも容易く(少なくとも表向きはそう見える)排除するとは…。

この事件は、彼らの心を、さらに武田との連携へと傾かせる、決定的な要因となったのかもしれませぬ。


駿府城に堕ちた凶星は、東海地方に大きな混乱をもたらした。しかし、それは同時に、岩櫃城に籠る武田勝頼と真田昌幸にとって、次なる一手、すなわち反撃への道筋を、わずかながら照らし出す光ともなったのでございます。謀略の連鎖は、まだ始まったばかり。日ノ本の運命は、さらに大きく揺れ動こうとしておりました。

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