第四話『東海の牙、非情の決断』
上野国・岩櫃城に拠点を移した武田勝頼と真田昌幸でありましたが、ひとときの安息も束の間、彼らの置かれた状況が依然として厳しいことに変わりはございませんでした。城に蓄えられた兵糧や武具は限られており、何よりも兵力が圧倒的に不足している。織田・徳川連合軍は、依然として甲斐・信濃の大部分を制圧下に置いており、いつこの岩櫃城へ矛先を向けてくるか、予断を許さぬ状況でございます。
城内の一室で、勝頼と昌幸は、広げられた地図を前に、今後の策を練っておりました。
「安房守、北条と上杉からの返答はまだか?」
勝頼の声には、焦りの色が滲む。頼みの綱である外交が失敗すれば、いかに岩櫃城が堅固とはいえ、孤立無援では長くは持たない。
「はっ。今しばらくお待ちくだされ。両家とも、当主自らが熟考しておられるはず。容易に決断できる事柄ではございませぬゆえ」
昌幸は、落ち着き払って答える。しかし、彼の内心もまた、穏やかではなかったでありましょう。外交が成功するか否かは、まさに天運に左右される部分が大きい。
その時、昌幸の脳裏に、またしてもあの天啓のイメージが、閃光のように過ったのでございます。それは、牙を剥く巨大な獣が、東の海から日ノ本を窺う姿。そして、その獣の足元を、何かが砕け散るような…そんな不吉な光景でありました。
(東海の牙…徳川家康か…! あの獣の力が、日ノ本全体を覆わんとしている…? いや、その足元が砕ける…? これは…!)
昌幸は、ハッと息を呑んだ。
「御館様」
その声は、常の冷静さとは異なり、わずかに熱を帯びておりました。
「北条、上杉の動きを待つ間にも、我らが打つべき手がございまする。いや、今こそ、その手を打たねばなりませぬ」
「何だ、申してみよ」
勝頼が、訝しげに昌幸を見る。
「織田信長の力、その大きな支えとなっているのは、東海の徳川家康にございます。この牙を折り、その勢力を削ぐことこそ、織田本体への打撃となり、また、北条・上杉の決断を後押しすることにも繋がりましょうぞ」
「家康を…討つと申すか?」
勝頼の声が、わずかに震える。徳川家康は、父・信玄公の代からの宿敵。幾度となく戦火を交え、煮え湯を飲まされた相手でもある。しかし、その力は侮れぬ。今の武田の兵力で、正面から挑んで勝てる相手ではない。
「正面からではございませぬ」
昌幸は、低い声で続けた。その目に、冷たい光が宿る。
「策を用いまする。毒には、毒を」
そして昌幸が語り始めた策は、勝頼の想像を絶するほど、大胆かつ非情なものでございました。それは、和睦交渉を装って家康を油断させ、その裏で、家康家臣団の中に燻る旧今川家臣(岡部正綱など、かつて今川家に仕え、徳川に降った者たち)に接触し、彼らを唆して、家康自身を暗殺させる、という恐るべき謀略だったのでございます。
「な…安房守! そ、それは…! 武士の風上にも置けぬ所業ぞ!」
勝頼は、思わず立ち上がり、声を荒らげた。戦場で正々堂々斬り結ぶならまだしも、騙し討ち、それも家臣に主君を殺させるなど、人の道に悖るにもほどがある。父・信玄公ならば、決してこのような策は用いなかったであろう。
「御館様のお気持ち、お察しいたします。なれど」
昌幸は、静かに勝頼を見据え、言い放った。
「今の我らに、綺麗事を申しておる余裕はございませぬ。御館様、あの悪夢を思い出されよ。このまま何も手を打たねば、武田は滅び、御身も、我ら家臣も、犬死するのみ。あの悪夢の未来を回避するためには、この一手しかないのです。手段を選んでいては、勝機は掴めませぬぞ」
昌幸の言葉は、冷徹な刃のように、勝頼の良心と恐怖心を同時に抉った。そうだ、あの悪夢…天目山での無惨な最期。家臣たちの裏切り。武田家の滅亡…。それを回避できるのならば、たとえ鬼にでもならねばならぬのか。
「ぐ…っ」
勝頼は、拳を握りしめ、苦悶の表情を浮かべた。脳裏には、父・信玄の厳格な顔が浮かび、彼を厳しく詰問しているかのような幻覚さえ見える。
(父上ならば、何と仰せられるか…いや、父上とて、武田家存続のためならば…)
長い、息詰まるような沈黙の後。勝頼は、絞り出すような声で、呟いた。
「……わかった。安房守、そなたに任せる」
その声は、力なく、震えていた。
「ただし、一つだけ条件がある。もし…もし、その策が成功したならば、徳川の遺臣たちは、決して粗略に扱ってはならぬ。彼らもまた、乱世の習いに翻弄された者たちじゃ。厚遇することを、ここに誓え」
「…御意」
昌幸は、深く頭を下げた。勝頼の苦悩を理解しつつも、彼の決断を確かなものとして受け止めたのでございます。非情な策を実行する一方で、僅かながらも人の情けを残そうとする。それが、勝頼という男の、甘さであり、また、美点なのかもしれませぬ。
直ちに、昌幸は動き始めた。まず、徳川家康に対して、和睦を探る使者を派遣した。もちろん、これは時間稼ぎと油断を誘うための偽装工作でございます。使者には、言葉巧みに「武田はもはや戦う力なし」「織田の援軍が来れば、武田は滅亡は免れない」といった情報を流させ、家康に「武田、敵にあらず」と思わせるよう仕向けたのです。
そして、その裏では、昌幸の意を受けた腹心の忍びたちが、駿府城下へと潜入していた。彼らの目的は、旧今川家の家臣たち、特に家康の下で不遇を託っている者たちを探し出し、接触すること。
岡部正綱――かつて今川家の重臣として鳴らし、桶狭間の戦いでは主君・義元の首を取り返したほどの忠義の士。しかし、今川家滅亡後、徳川に仕えるも、どこか満たされぬ思いを抱えていた。彼の他にも、今川家への旧恩を忘れられず、成り上がりの徳川家とその家臣たちに反感を抱く者は、決して少なくはなかったのです。
昌幸の忍びは、そうした者たちの心の隙間に巧みに入り込み、囁き始めました。
「岡部殿…いや、今川家の忠臣よ。このまま、成り上がり者の下で朽ち果てて良いのか?」
「家康がいる限り、今川家再興の夢は潰えたままぞ」
「もし、家康がいなくなれば…? 我ら武田は、貴殿ら旧今川の者たちを支援し、駿河・遠江の故地を取り戻す手助けをしようではないか」
甘い言葉、危険な誘惑。それは、彼らが心の奥底で望んでいた、しかし口には出せなかった願望を、巧みに刺激するものでございました。最初は警戒していた岡部正綱らも、度重なる接触と、武田からの具体的な支援の約束(もちろん、これも昌幸の策謀の一部ではありますが)に、次第に心を動かされていくのでございます。
「…家康さえ、いなくなれば…」
彼らの目に、暗い、危険な光が宿り始めた。それは、武田家の、そして日ノ本の運命を、再び大きく揺るがそうとする、凶星の輝きにも似ておりました。
岩櫃城では、勝頼が一人、星空を見上げておりました。東の空には、ひときわ明るく輝く星がある。あれが、徳川家康の将星であろうか。その星が、間もなく、己の家臣によって砕け散ろうとしている。
(これで、良かったのか…?)
自問自答は続く。しかし、もはや退くことはできぬ。非情の決断を下した以上、あとは成否を見届けるのみ。勝頼は、固く拳を握りしめ、迫り来る運命の時を、ただ静かに待つのでございました。




