第三話『山河の盾、安房守の策謀』
新府城を後にした武田勝頼の一行が目指す上野国・岩櫃城への道程は、想像を絶する困難に満ちておりました。夜陰に紛れて進むとはいえ、道は険しい山道ばかり。冷え込む夜気は容赦なく体温を奪い、兵たちの疲労は色濃く、その歩みは重い。時折、背後から聞こえてくる織田軍の追撃を知らせる角笛の音や、遠雷のような鉄砲の響きが、彼らの不安を掻き立てるのでございます。
「水が…水が尽き申した…」
「兵糧も、もはや底が見えておりまする…」
悲鳴にも似た声が、隊列のあちこちから聞こえ始める。勝頼の心も、その度に締め付けられる思いでありました。悪夢の中で見た、飢えと疲労で次々と倒れていく家臣たちの姿が、またしても脳裏をよぎる。
(いや、違う…今は、安房守がいるのだ…)
勝頼は、かぶりを振って幻影を追い払った。隣を馬で進む真田昌幸は、泰然自若として、いささかも動揺を見せぬ。その落ち着き払った姿が、不思議と勝頼に、そして兵たちに、僅かながらも心の支えを与えておりました。
昌幸の策は、この撤退行においても、着実に効果を上げておりました。
「前方の橋を落とせ! 丸木一本、敵に渡すな!」
「あの峠道、上から岩を落とし、道を塞げ! ただし、我らが通った後でだぞ!」
昌幸の指示は、常に的確で、無駄がない。小部隊が先行し、要所要所で追手の足を止めるための工作を施していく。狭い谷間では伏兵が横槍を入れ、織田軍の斥候を討ち取り、敵の進軍速度を巧みに遅らせるのでございます。
特に、追撃の主力である森長可の部隊は、この見えざる敵の妨害に、いらだちを隠せませんでした。
「またか! また道が塞がれておる!」
「昨夜も伏兵に襲われ、荷駄隊が被害を受け申した!」
鬼武蔵と恐れられる猛将も、顔も見せぬ敵の執拗な抵抗と、慣れぬ山道での行軍に、次第にその鋭気を削がれていくのでした。彼は武田のゲリラ戦術の背後にいる昌幸の存在を強く意識し、「安房守め、なんとも厄介な…」と苦々しく呟く他なかったのです。
そんな死線を潜り抜ける道中においても、昌幸の頭脳は、既に次の、そして更に大きな布石を打つべく回転しておりました。
(天啓の示せしは…北の龍、そして血の絆…)
彼の脳裏には、あの評定の前に見た鮮烈なイメージが焼き付いている。咆哮する龍の姿、そして、固く絡み合う蔦のようなもの…。
「御館様」
昌幸は、勝頼に声をかけた。
「今こそ、北条と上杉を動かす好機かと存じまする」
「しかし、安房守。彼らが、我らのために危険を冒してまで、織田に弓を引くだろうか? 特に北条は、長年、我らと争ってきた相手ぞ」
勝頼の懸念はもっともでございます。
「ただ頼むだけでは、動きませぬ。彼らにとっても、織田の力は脅威のはず。その恐怖心を煽り、同時に、我らと組むことの『利』を示すのです。そして何より…」
昌幸は、言葉を切った。
「疑念を打ち消す、確かな『絆』を結ぶ必要がございまする」
その言葉と共に、昌幸は具体的な外交策を勝頼に示した。北条に対しては、仁科盛信を正式な使者とし、複数の縁組(盛信の子、信勝の妻、勝頼の娘)という破格の条件をもって、強固な同盟を提案する。上杉に対しては、別の密使を遣わし、最大の懸念材料である柴田勝家を足止めする具体的な策謀(朝倉旧臣の利用や一向一揆扇動など)があることを匂わせ、信濃への出兵を促す、というものでございました。
「なんと…そこまで…」
勝頼は、その策の大胆さと、周到さに息を呑む。縁組は、もはや同盟というより、一蓮托生となる覚悟を示すもの。上杉への提案は、まさに相手の喉元に刺さった棘を抜いてやる、というに等しい。
「御館様、ご決断を。この機を逃せば、もはや次はございませぬ」
昌幸の静かな、しかし有無を言わせぬ迫力に、勝頼は頷いた。
「…よかろう。安房守に全て任せる。五郎(盛信)を呼べ!」
かくして、仁科盛信は、勝頼の全権大使として、僅かな供回りと共に、険しい山道を越え、一路、相模の小田原城を目指すこととなったのでございます。それは、武田家の命運を賭けた、まさに虎穴に入らんとするが如き、危険な旅路でありました。
一方、勝頼本隊から別れた武田信豊らは、信濃の山中に潜み、地の利を活かしたゲリラ戦を展開しておりました。彼らの狙いは、織田軍の後方撹乱と、補給線の寸断。特に、信濃南部に進駐していた織田方の将、河尻秀隆の部隊は、彼らの神出鬼没の奇襲に悩まされ続けたのです。
ある夜のこと。伊那谷を進軍していた河尻隊の宿営地に、信豊率いる精鋭部隊が、音もなく忍び寄った。
「今だ、かかれ!」
信豊の合図と共に、四方八方から鬨の声が上がり、火矢が射掛けられる。油断していた織田兵は、大混乱に陥った。信豊隊は、敵陣の一部を突破し、兵糧や武具に火を放つと、深追いすることなく、再び闇の中へと姿を消した。
「おのれ、武田の残党めが!」
河尻秀隆は地団駄を踏んだが、後の祭り。この一撃で、彼の部隊は少なからぬ損害を被り、前線への進軍を一時停止せざるを得なくなったのです。こうした小さな勝利の積み重ねが、疲弊した武田軍の士気をわずかながらに高め、また、織田軍に「武田、未だ健在なり」という印象を与える効果をもたらしたのでございます。
幾多の困難を乗り越え、勝頼率いる本隊は、ついに上野国、岩櫃城へとたどり着きました。切り立った崖の上に築かれたこの山城は、天然の要害。真田家が代々守ってきたこの城ならば、しばらくは織田の大軍の攻撃にも耐えうるであろう。
城に入った兵たちは、疲労困憊しながらも、ようやく安堵の息をつくことができた。勝頼もまた、久しぶりに、悪夢にうなされることなく、短い眠りを得ることができたのでございます。
その頃、遥か東、相模の小田原城では。
北条氏政は、武田からの使者、仁科盛信と対面しておりました。盛信が丁重に、しかし堂々と述べた同盟の条件――複数の、しかも極めて重要な血縁者同士の縁組という提案に、氏政は驚愕の色を隠せませんでした。
(武田、本気か…? いや、本気でなければ、これほどの条件は出すまい…)
織田信長の圧倒的な力。それに従うか、抗うか。抗うならば、誰と組むべきか。氏政の心は、激しく揺れ動いておりました。隣に座る嫡男・氏直もまた、緊張した面持ちで盛信を見つめている。
一方、越後の春日山城にも、昌幸が放った密使が到着しておりました。上杉景勝は、柴田勝家への具体的な対抗策がある、という武田の申し出に、半信半疑ながらも、強い関心を抱かざるを得ませんでした。もしそれが真実ならば、長年悩まされてきた北陸方面の憂いを軽減し、再び信濃へ目を向けることができるかもしれない…。
武田勝頼は、岩櫃城に拠点を確保した。そして、真田昌幸が放った二つの矢は、関東と越後の二人の巨頭の心を、確かに射抜こうとしておりました。風林火山の旗の下に、新たな風が吹き込もうとしている。それは、反撃の狼煙となるのか、それとも、さらなる嵐を呼ぶ前触れなのか。今はまだ、誰にも予測はつきませぬ。ただ、盤上の駒は、確実に動き始めたのでございます。




