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第二話『炎立つ新府』

武田勝頼の雷鳴のような宣言は、新府城の評定の間のみならず、城内全体に瞬く間に広がり、大きな動揺と混乱を引き起こしていた。

「御館様は、ご乱心なされたのか!」

「あの若造軍師の甘言に誑かされたとしか思えぬ!」

特に、信玄公の代から仕える譜代の老臣たちの間では、不満と不安が渦巻いていた。城を焼き払い、根拠地も定めず山中へ逃れるなど、武田家の誇りを地に貶める行為、いや、狂気の沙汰としか思えなかったのである。彼らの目には、真田昌幸という男は、土壇場で主君に取り入り、家を滅茶苦茶にしようとしている奸臣にしか見えなかった。


しかし、そんな喧騒をよそに、昌幸は驚くほど冷静に、そして迅速に事を進めていた。評定が終わるや否や、彼は城内の主だった武将たちを集め、撤退計画と焦土作戦の詳細を淀みなく指示し始めた。

「岩櫃城への道筋は、これこれこう。途中、敵の追撃を遅らせるため、橋を落とし、道を塞ぐ。糧食は最低限必要なもの以外、全て焼き捨てよ。民百姓には、山中への避難、あるいは敵に協力せぬよう厳命。井戸には毒を…いや、それは後々のことを考え、今は控えよう。だが、敵が利用できそうなものは、ことごとく破壊せよ」

その指示は、あまりにも徹底しており、そして非情なものであった。

「な…安房守殿! 糧食を焼き捨てるなど、もってのほか! 我らとて、いつまで戦えるか分からぬのだぞ!」

「民を見捨て、田畑を荒らすなど、国主たるものの行いではござらん!」

当然のように、異論が噴出する。しかし、昌幸は眉一つ動かさず、冷徹に言い放った。

「今、敵に渡す一粒の米、一本の材木が、我らの首を絞める刃となりましょう。民を思うならばこそ、今は非情に徹するのです。敵に利を与えず、この戦を長引かせ、疲弊させる。それこそが、最終的に民を救う道と心得られよ」

その言葉に、反論する者はもはやいなかった。昌幸の纏う、有無を言わせぬ凄みが、彼らを沈黙させたのである。


そんな中、勝頼の元へ駆けつけた者たちもいた。

「御館様、某ら、御身の傍を離れませぬ!」

仁科五郎盛信と、武田(逍遥軒)信豊。共に信玄公の血を引く、勝頼にとっては信頼できる身内である。

「五郎、逍遥軒…すまぬな。わしと共に、茨の道を行かせてしまう」

勝頼の目に、安堵と、そして申し訳なさが浮かぶ。

「何を仰せられます。我らは武田の血を引く者。御館様と、この武田の家と、運命を共にいたしまする!」

盛信の力強い言葉。信豊もまた、固い決意の表情で頷いている。彼らの忠義な姿に、勝頼の心はわずかに温まった。そうだ、まだ自分には、こうして命を賭して付き従うてくれる者たちがいる。悪夢の中で見た、皆に裏切られ、孤立無援で死んでいく己の姿とは違うのだ…!


撤退の準備は急ピッチで進められ、やがて、刻一刻と別れの時が近づいてくる。勝頼は、城の高楼に登り、燃え盛る己の城を、そして彼方に連なる甲斐の山々を眺めていた。この新府城は、父・信玄が夢見、勝頼自身が完成させた、武田家の新たな時代の象徴となるはずであった城。それを、自らの手で灰燼に帰さねばならぬとは…。

(父上…お許しくだされ…)

込み上げる無念さに、唇を噛みしめる。悪夢の断片が、また脳裏をよぎる。炎に包まれるのは、この新府城だけではなかったような気がする。もっと小さな、しかしもっと悲壮な城の炎…高遠城か? そして、見慣れたはずの家臣が、背を向けて去っていく姿…小山田か? いや、今はそんな幻影に惑わされている場合ではない。

そこへ、静かに昌幸が歩み寄った。

「御館様。間もなく、火の手を上げる刻限にございます」

「…安房守。本当に、これで良かったのか? この城を焼くことが…」

弱音ともつかぬ勝頼の問いに、昌幸は静かに、しかしきっぱりと答えた。

「城は、また築けまする。なれど、御館様と、武田の家名を失えば、全ては終わり。今は、形あるものを惜しむ時ではございませぬ。未来を掴むためには、過去を焼き尽くす痛みも必要かと存じまする。悪夢の未来を焼き払う炎と、お考えくだされ」

昌幸の最後の言葉が、勝頼の胸に深く突き刺さった。そうだ、これは滅びの炎ではない。悪夢を、そしてそれに繋がる過去を焼き払い、新たな未来を切り開くための炎なのだ。

勝頼は、城下に目をやった。民百姓が、家財を背負い、不安げな表情で山の方へ向かっていく。心が痛む。しかし、今は耐えねばならぬ。

「…分かった」

勝頼は、短く頷いた。


その時であった。物見櫓から、けたたましい鐘の音が鳴り響いた。

「敵襲! 敵襲! 織田の先鋒、森長可の旗が見えまする! 大軍、城下へ接近中!」

ついに来たか! 森長可ながよしは、「鬼武蔵」の異名を持つ、織田家でも屈指の猛将。信長の覚えもめでたく、その戦ぶりは苛烈を極めると聞き及んでいる。

城内が一気に緊迫感に包まれた。

「御館様、ご出発の準備を!」

昌幸が鋭く促す。

勝頼は、燃え盛る天守を最後にもう一度見つめ、そして背を向けた。

「行くぞ! 我らに続け!」


勝頼以下、武田の主だった者たちは、屈強な兵に守られ、用意されていた裏門から密かに城を脱出。目指すは上野国、岩櫃城。険しい山道が待ち受けている。

一方、大手門には、僅かな兵が残り、あたかも城主がまだ城内にいるかのように見せかけ、時間を稼いでいた。


やがて、森長可率いる織田の先鋒隊が、燃え盛る新府城下に到達した。

「ちぃっ! 火を放ちおったか! 武田も臆したか、それとも何か策があるのか?」

森長可は、若く血気盛んな武将。手柄を立てんと逸る心を抑えきれない。

「ええい、構うな! 城内に突入せよ! 勝頼の首を挙げるのだ!」

織田兵が、鬨の声を上げ、燃えさかる城門へ殺到しようとした、その時であった。

ドォォン!

突如、城門近くの地面が、轟音と共に陥没した! 先頭を進んでいた数騎の武者が、馬ごと巨大な落とし穴へと飲み込まれる。

「な、何だ!?」

「罠だ! 敵の罠だ!」

織田兵が動揺する。しかし、森長可は怯まない。

「臆するな! この程度の小細工! 構わず進め!」

兵を叱咤し、自らも先頭に立とうとした、その瞬間。

ヒュッ! ヒュッ!

城壁の上から、あるいは隠された狭間から、無数の矢が射掛けられた! 不意を突かれた織田兵が、次々と馬から落ち、あるいは盾を構える間もなく射抜かれる。

「くそっ! 弓隊、応射! 鉄砲隊、構え!」

森長可が怒号する。しかし、城壁の上の武田兵は、射っては隠れ、また別の場所から射る、という神出鬼没の動き。狙いが定めにくい。

「おのれ、真田の仕業か!」

森長可は、この撤退戦の背後に、あの智謀の将、真田昌幸がいることを察知していた。長篠の戦いでも、真田の兵だけは最後まで陣を崩さず、巧みな撤退戦を行ったことを思い出す。

「ええい、ままよ! 蹴散らせ!」

多少の犠牲は覚悟の上。森長可は、強引に兵を前進させようとする。だが、進めば進むほど、巧みに仕掛けられた障害物や、伏兵による横槍に悩まされる。それは決して大軍ではない。しかし、地の利を知り尽くした敵の、的確でいやらしい攻撃が、じわじわと織田軍の士気を削いでいくのであった。


燃え盛る新府城を背に、勝頼の一行は、夜の闇に紛れて甲斐の山道を進んでいた。背後からは、未だ鬨の声と、時折響く鉄砲の音が聞こえてくる。

「安房守、大手門の兵は大丈夫であろうか?」

勝頼が、傍らを馬で並走する昌幸に問うた。

「はっ。殿しんがりは、我が手の者が務めておりまする。深追いはさせませぬ。鬼武蔵も、あの燃える城と、我が仕掛けた『土産』で、今宵は十分でありましょう」

昌幸は、こともなげに答える。その表情には、疲労の色は見えぬ。

勝頼は、改めてこの若き軍師の底知れなさを感じていた。そして、初めて、悪夢ではない、微かな希望のようなものを、その胸に感じ始めていたのである。

道は険しく、未来は見えぬ。しかし、今はただ、この稀代の軍師を信じ、前へ進むしかない。風林火山の旗は、まだ倒れてはいないのだ、と。


夜空を焦がす新府城の炎は、武田家にとって、旧時代の終焉と、新たな苦難の時代の始まりを告げる狼煙となった。しかし、それは同時に、後に天下を揺るがすことになる大逆転劇の、まさに序章でもあったのである。

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