第十話『風林火山、天下を覆す』
南信濃、伊那谷――。朝靄が晴れ、陽光が戦場を照らし出す頃には、既に激しい戦端が開かれておりました。武田・上杉・北条連合軍の猛攻に対し、追い詰められた織田軍は、死兵と化して必死の抵抗を見せます。しかし、その抵抗も、多勢に無勢、そして何より、指揮系統の混乱と士気の低下はいかんともし難く、時間の経過と共に、織田軍の陣形は徐々に崩れ始めていったのでございます。
「怯むな! 進め! 織田の意地を見せよ!」
織田信忠亡き後、残存部隊の指揮を執っていたのは、河尻秀隆のような宿将でありましょうか。いずれにせよ、彼らは必死に兵を鼓舞しますが、連合軍の波状攻撃の前には、その声も虚しく響くばかり。
武田の赤備え騎馬隊が、疾風の如く敵陣の側面を突き、上杉の精兵が重厚な槍衾で正面から押し込み、北条の鉄砲隊が遠距離から的確な射撃を加える。昌幸が事前に練り上げた連携は、実戦においても遺憾なく発揮されておりました。
「よし! 敵陣、乱れたり! 今こそ好機!」
昌幸は、戦況を冷静に見極め、的確な指示を送り続けます。彼の采配は、まるで熟練の棋士が盤上の駒を動かすかの如く、淀みなく、そして的確でございました。
その中にあって、一際目覚ましい活躍を見せていたのが、武田勝頼その人でございました。彼は、自ら先頭に立ち、愛馬に跨って敵陣へと突撃。その手には、父・信玄譲りの采配ではなく、武将として鍛え上げた槍が握られておりました。
「我こそは武田四郎勝頼なり! 臆する者は去れ! 覚悟ある者のみ、我に続け!」
その勇猛果敢な姿は、味方の兵たちの士気を大いに高め、敵兵には恐怖を与えました。かつて悪夢にうなされていた弱々しい姿は、もはやどこにもない。父の呪縛からも、己の弱さからも解き放たれたかのように、彼はただひたすら、武田家再興という悲願のために、槍を振るい続けたのです。
乱戦の中、勝頼の目に、ひときわ立派な鎧兜を身に着け、必死に兵を指揮している一人の武将の姿が飛び込んできました。おそらくは、織田軍の総大将格の者でありましょう。
「者ども、退くな! ここを死守せよ!」
その武将は、必死に叫んでおりました。
「見つけたぞ! 敵の大将とお見受け致す!」
勝頼は、馬首を巡らし、その武将目掛けて一直線に突進いたしました。周囲の武田兵も、主君に続かんと、鬨の声を上げて後に続く。
「な、何奴!」
敵将も、迫りくる勝頼の気迫に気づき、槍を構える。両者は、瞬く間に馬を寄せ、激しく槍を交えた! キン! ガン! と、金属音が激しく鳴り響く。数合打ち合った後、勝頼の渾身の一撃が、敵将の槍を弾き飛ばした!
「もらった!」
勝頼は、返す刀で、がら空きになった敵将の胴を目掛け、槍を突き込んだ。
「ぐ…あ…っ!」
敵将は、馬上からどうと崩れ落ち、二度と動くことはなかった。
「敵の大将、討ち取ったり!」
勝頼の側近が、高らかに叫ぶ。その声は、戦場全体に響き渡り、織田軍の兵たちの心を、完全に打ち砕いたのでございます。大将を失った兵たちは、蜘蛛の子を散らすように逃げ惑い始め、戦いは、事実上、ここに決着したのでございます。
やがて、戦闘が終息し、静けさを取り戻した戦場に、勝頼は立っておりました。彼の足元には、討ち取られた織田方の将たちの首級が並べられている。信長の息子たちの顔もあったでありましょう。
勝頼は、それらを、感慨深く、そして複雑な表情で見つめておりました。長年の宿敵、織田信長とその一族を、ついに打ち破った。父・信玄も果たせなかった偉業を成し遂げたのだ。悪夢は、完全に消え去った。しかし、彼の心を満たしたのは、勝利の歓喜だけではなかった。この勝利のために、どれだけの血が流されたことか。そして、自らもまた、非情な謀略に手を染めたことへの、拭い去れぬ思い…。
そこへ、昌幸が静かに歩み寄った。
「御館様、見事にございました」
「…安房守。そなたのおかげじゃ」
勝頼は、短く応えた。
「これで、甲斐・信濃は、再び我らの手に戻りましょう。しかし、戦はまだ終わっておりませぬ」
昌幸の視線は、既に、次なる戦いへと向けられておりました。
勝利の雄叫びが、伊那谷にこだまする。風林火山の旗が、再び、高々と掲げられた。それは、武田家が、滅亡の淵から蘇り、日ノ本の歴史を大きく塗り替えた瞬間を告げるものでございました。
しかし、昌幸の言葉通り、戦いはまだ終わってはいなかった。北陸には柴田勝家が健在であり、そして何より、西国からは、驚くべき報せが届いていたのです。
「申し上げます! 羽柴秀吉、毛利と和睦し、驚くべき速さで軍を返し、京へ向かっているとの由! その数、二万とも三万とも!」
「な…猿めが、何という速さ!」
勝頼も昌幸も、その報に驚きを隠せませんでした。信長の仇討ちを掲げ、恐るべき速度で迫りくる新たな敵。この「猿」をどう抑えるのか。武田の、そして昌幸の、真の力量が問われるのは、むしろこれからだったのでございます。
天下の趨勢は、未だ定まらぬ。風林火山の旗は高く翻ったものの、その下には、新たな戦乱の嵐が吹き荒れようとしておりました。