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第一話『天目山の悪夢』

天正十年(1582年)如月――。

甲斐の国にも、ようやく春の兆しが見え始めておりました。南アルプスの峰々に残る雪はなお白く輝いておりますが、麓の里では梅の蕾もほころび始め、凍てついた土の下からは、草の芽吹く息吹がかすかに感じられる。されど、この甲斐、信濃を領する武田の家中に、春の訪れを喜ぶ余裕など、どこにもございませんでした。


むしろ、日増しに濃く、重く、領内を覆いつくしているのは、冬の寒さよりもなお厳しい、戦雲の気配でございます。

東海の徳川家康、そして何より、日ノ本を手中に収めんとする勢いの織田信長。この二者が手を結び、十万とも十五万とも称される大軍勢が、美濃から、信濃から、駿河から、怒涛の如くこの武田領へ雪崩れ込もうとしている。まさに、国境の至る所から、鬨の声が聞こえてくるかのような、そんな緊迫した日々が続いておりました。


武田家の当主、武田四郎勝頼。その居城である新府城(韮崎に築かれた新時代の城でございますな)にも、春の陽光は届かぬかのよう。城内を満たすのは、家臣たちの焦燥と、そして、かすかに漂う諦めの匂いでございました。


無理もございますまい。かつて「甲斐の虎」と恐れられ、戦国最強と謳われた武田信玄公が世を去ってより、早や九年。その間、勝頼どのも懸命に家を支えようと奮戦なさいましたが、天正三年の長篠での大敗は、あまりにも痛手でありすぎた。多くの勇将猛卒を失い、家中には父・信玄公の威光を知る老臣たちの、若き当主への不満も燻り続けておったのです。


加えて、勝頼どのが最も苦しんでおられたのは、おそらくは、彼自身の内なる戦いでございましょう。夜ごと、彼の枕辺を訪れる、忌まわしい悪夢。

「…また、か」

その夜も、勝頼は脂汗をびっしょりとかき、荒い息をついて跳ね起きました。ふすまは重く体に纏わりつき、闇の中、己の心臓の音がやけに大きく響く。

夢に見るのは、いつも同じ光景でございました。苔むした岩肌、鬱蒼とした木々。天目山――甲斐の東、最期の地となるであろう、その山中。

追い詰められ、僅かな家臣と共に、敵兵の鬨の声に囲まれる己の姿。血と泥に塗れ、満身創痍となりながらも、なお刀を杖に立ち上がる。しかし、もはやこれまでと悟り、岩に腰を下ろし、切っ先を腹に突き立てる……。

「う、うぅ…」

夢の中の、あの腹を裂く鈍い痛み、そして迫りくる冷たい闇の感覚。それが、あまりにも生々しく、勝頼の心を苛むのでございます。これが単なる夢とは思えぬ。まるで、避けられぬ未来を、繰り返し見せつけられているかのよう。

「父上…信玄公ならば、この窮地、いかに乗り越えられたであろうか…」

巨大すぎた父の影。比べられることの苦しみ。そして、日に日に現実味を帯びてくる、滅亡の予感。勝頼の双肩には、当主としての重圧と、悪夢の恐怖が、鉛のようにのしかかっておりました。


そんな当主の苦悩を映すかのように、新府城の評定の間もまた、重苦しい空気に満ちておりました。

「もはや、織田の大軍を防ぎきる術はござりますまい。ここは、御家の存続を第一に考え、信長公に恭順の意を示すべきかと…」

声の主は、穴山梅雪。信玄公の娘婿でありながら、既に徳川家康を通じて織田方への内通を済ませているとの噂も囁かれる男。その言葉に、同調する声も少なくない。

「馬鹿を申すな! 武田の武士たるもの、父祖伝来のこの地で、潔く玉砕してこそ本懐であろうぞ!」

老臣の一人が、怒りに顔を赤くして反論する。長篠の生き残りであろうか、その目には悲壮な覚悟が宿っております。

「いや、ここは一旦、小山田信茂殿を頼り、岩殿城へお移り願うのが…」

また別の声が上がる。小山田信茂は、郡内地方に勢力を持つ国衆。いざとなれば頼りになる、という者もいれば、土壇場で裏切るやもしれぬ、と危ぶむ声もある。

降伏か、玉砕か、それとも一時しのぎの逃避か。議論は紛糾し、怒号が飛び交うばかりで、一向に埒が明かない。勝頼どのは、その様を、ただ蒼白な顔で聞いているばかり。悪夢の残像が、彼の判断力を鈍らせているかのようでございました。


その頃――。

甲斐の国境に近い、真田の郷。一人の武将が、険しい表情で西の空を見つめておりました。名を、真田安房守昌幸と申します。年はまだ三十半ばなれど、その眼光は鋭く、底知れぬ知謀を秘めている。父は「攻め弾正」と恐れられた真田幸隆、自身も信玄公に見出され、若くしてその才を発揮してきた男でございます。

「武田の命運、まさに風前の灯か…」

昌幸の胸にも、焦りが募っておりました。しかし、それは単なる焦りではない。ここ数日、彼の脳裏には、まるで天からの啓示のように、断片的ながら鮮烈なイメージが、繰り返し浮かんでは消えるのでございます。

――燃え盛る寺。本能寺であろうか。

――地に落ち、踏みにじられる桔梗の紋。明智家のものか。

――北の空に、龍が咆哮する。越後の上杉か。

――東の海から、巨大な星が墜ちる。これは…徳川か?

なぜ、このような光景が見えるのか。それが何を意味するのか。今はまだ、点と点が繋がらぬ。しかし、昌幸は直感しておりました。これらは、武田家が生き延び、あるいは、この乱世を覆すための、重要な鍵である、と。

「今はまだ、形にならぬ…。しかし、このまま手をこまねいていては、御館様(勝頼)は、悪夢の通りになってしまわれるやもしれぬ」

昌幸は、傍らの白馬に鞭を当てた。目指すは、新府城。この天啓が何であれ、己の知謀の全てを捧げ、主君を、そして武田家を守り抜く。その覚悟を胸に、彼は疾風の如く駆けて行ったのでございます。


さて、新府城の評定の間。議論は平行線を辿り、疲れきった家臣たちの間に、重いため息が漏れ始めた、その時でございました。

「申し上げます! 真田安房守様、ただ今ご到着!」

取次役の言葉に、一同の視線が入り口に集まる。ややあって、旅塵にまみれながらも、背筋を凛と伸ばした昌幸が、静かにその場へ入ってまいりました。年の若い昌幸に対し、侮りの視線を向ける老臣もおります。

「安房守、遅かったではないか。して、何か策でもあるのか? それとも、我らと共に枕を並べて討死する覚悟で参ったか?」

皮肉たっぷりに声をかけたのは、跡部勝資。勝頼の側近として権勢を振るうも、人望は薄い男でございます。

昌幸は、跡部の言葉には答えず、まっすぐに勝頼を見据え、深々と頭を下げた。そして、顔を上げた彼の口から発せられた言葉は、その場にいた全ての者の度肝を抜くものでございました。

「御館様。この昌幸に、武田を救う策がございまする」

「な、何だと?」

「ほざけ! 十万の敵を前に、策などあるものか!」

再び場が騒然となる中、昌幸は動じない。その声は、若さに見合わぬ落ち着きと、異様なまでの確信に満ちておりました。

「まず、この新府城、焼き払い、敵に渡さぬ覚悟を!」

「なっ……!」

「狂気の沙汰じゃ!」

「そして、御館様には某が守る上野・岩櫃城へお移り願い、時を稼ぎまする。道という道、橋という橋を落とし、焦土と化して敵の兵站を断つ。我らは地の利を活かし、神出鬼没の戦を展開。敵を疲弊させ、翻弄するのです」

「さらに! 北条、上杉を動かし、織田の背後を脅かす!」

次々と繰り出される、常軌を逸した策。城を焼く、籠城せず山へ潜む、かつての宿敵と手を結ぶ…。どれもこれも、譜代の家臣たちには到底受け入れられぬものばかり。

「たわけが! 安房守、貴様、正気か!」

「御館様を、そのような蛮地へお連れするなど、断じて許さぬ!」

非難と怒号の嵐。しかし、その中で、勝頼だけが、身じろぎもせずに昌幸を見つめておりました。

(城を焼く…? 籠城もせず…? 北条、上杉と…?)

それは、悪夢の中で見た、滅びの道とは全く違う、想像もつかぬ道筋。荒唐無稽に聞こえる。無謀極まりないとも思える。しかし、なぜだろう。この男の言葉には、不思議な力がある。その自信に満ちた双眸には、悪夢の闇を打ち払うかのような、強い光が宿っている。

(この男ならば…この男の示す道ならば、あるいは…あの悪夢を…変えられるやもしれぬ…!)

絶望の淵にあった勝頼の心に、一条の光が差し込んだかのように思えた。それは、理屈ではない。悪夢という「未来への予感」と、昌幸の「天啓に裏打ちされた自信」とが、運命的に共鳴した瞬間であったのかもしれませぬ。

「……静まれぃ!!」

勝頼が、久しぶりに聞くような、張りのある声で一喝した。騒然としていた場が、水を打ったように静まり返る。

勝頼は、ゆっくりと立ち上がり、居並ぶ家臣たち、そして昌幸を見渡した。その顔には、もはや先程までの憔悴の色はない。あるのは、土壇場で全てを賭ける者の、悲壮なまでの決意。

「皆、聞いたな。これより、真田安房守昌幸を、我が軍師とする!」

「な、御館様!?」

「異論は許さぬ! 安房守の策、採用いたす! 我らは、生き延びる! 生き延びて、必ずや再起を果たすぞ!」

勝頼の宣言は、雷鳴の如く、評定の間に響き渡った。家臣たちは、驚愕と戸惑いに言葉を失う。穴山梅雪は顔色を変え、跡部勝資は苦々しげに顔を歪めた。

ただ一人、昌幸だけが、静かに勝頼を見据え、深く頷いた。その瞳の奥には、天啓の断片が、確かな未来図へと変わり始めているかのようであった。


かくして、武田家の運命の舵は、土壇場で大きく切られたのでございます。風林火山の旗は、まだ地に落ちてはいなかった。悪夢に苛まれた若き当主と、天啓を得た稀代の軍師。この二人の出会いが、日ノ本の歴史を、誰も予想しえなかった激流へと導いていくことになるのでございますが…それはまた、次のお話。

この第一歩が、果たして武田家を救うのか、それとも更なる破滅へと導くのか。今はまだ、誰にも分かりませぬ。ただ、新府城の空には、依然として暗い戦雲が垂れ込めているばかりでございました。

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