第35話 信仰の跡と毒の工房
夜明け前、エルミナの街は静寂に包まれていた。薄暗い空の下、一行はひんやりとした水路沿いを進んでいた。太陽が地平線の向こうで顔を覗かせる気配はまだなく、空気には夜の名残が漂っている。
「眠い……」
エリスがふらふらと一行の最後尾を歩いていた。まだ目が覚めきっていないようで、歩調も重い。
「おい、寝ぼけて水路に落ちるなよ」
グレオが軽口を叩くが、エリスは険しい顔で返す。
「何もこんなに早く出なくてもいいじゃないの……」
「調査を円滑に行うためには仕方ないだろう。人がいないうちに調べる必要がある」
アルガスは淡々と答えた。声に疲労感は見えないが、目元にはわずかに影が差している。
「それにしても、エリスさん。いつも通り身支度は完璧ですね」
ミーアが微笑みながらエリスを励ました。朝の薄明かりの中でも、エリスの服装は乱れ一つなく整っていた。
「当然よ。こう見えて、私は準備だけは抜かりないの」
エリスが肩をすくめて呟く。
***
一行は、水路沿いの静かな道を丁寧に調査しながら進んでいた。
「だいぶ調べたなあ……あれ、アルガスは?」
グレオが周囲を見回すと、アルガスは少し離れた場所で明るくなり始めた東の山間をじっと見つめていた。
「ちょっと、サボってんじゃないわよ」
エリスが不満げに呼びかけると、アルガスは静かに振り返り、足早に戻ってくる。
「ああ、すまない。……この地点の毒の濃度はどうだった?」
「アルガス様の予想通り、毒の濃度が高いです。確実にこの近くが発生源か、あるいは通過地点です」
ミーアが返答すると、アルガスは険しい表情で地図を広げ、指先で場所をなぞった。
「周辺の情報と照らし合わせても、毒が混入されているのは……閑静な住宅街のそばで、いくつか空き地が点在している――このエリアだ」
東の山間から朝日が昇り始める。その光を一瞥しながら、アルガスの瞳が鋭く光った。
***
調査を続けているうち、一行は古びたレンガ造りの建物にたどり着いた。外観は苔むしており、かつて栄えていた建物の名残を思わせる豪華さがかすかに残っている。
「どう見ても怪しい建物だな」
グレオが眉をひそめた。
入口の扉は重厚な装飾が施されていたが、鍵はかかっていなかった。アルガスが手を伸ばし、慎重に押し開けると、鈍い音を立てて内側に開いた。
「普通に開くんですね……?」
ミーアが不思議そうに呟く
中に足を踏み入れると、歴史的なたたずまいの廊下が広がっていた。高い天井、壁に施された彫刻、そして床に敷かれた赤い絨毯――どれもかつての栄華を物語るが、今はすっかり埃をかぶり、薄暗さが漂っている。
「迎賓館みたいな雰囲気ね。観光地にしては豪華すぎるわ」
エリスが天井を見上げながら呟く。
「もしかしたら、教会がかつて使用していた国賓用の施設かもしれません……」
ミーアはそう言いながら、壁に刻まれた紋章に目を留める。
「教会の?」
「はい。200年前にリュート様が魔王を討伐して以降、ルクシス教は大きな権力を持ち始めたんですが……当時、国賓や高位聖職者を迎えるための施設がいくつも建てられたそうです」
「あ、ここにも勇者の像がある」
エリスが指差した先には、豪奢な彫刻の勇者像が並んでいた。
「これ、リュート以外にもいるんだな。誰だ?」
グレオが尋ねると、ミーアが即座に答える。
「そちらはリュート様より前の代の勇者様ですね。彼らも、魔王の討伐や魔物被害の解決に尽力された方々だと伝えられています」
「1、2、3……8人目がリュートね。ってことは、アルガスは9代目勇者ってこと?」
エリスが指を折りながら数える。
「初代の勇者様が選出されたのは1000年も前と言われています。もはや伝承でしか語られない存在ですが……」
ミーアが補足すると、グレオが感慨深く呟いた。
「でもこうやって、ずっと伝えられていくんだな」
アルガスは少し離れた場所で、並ぶ像を見て複雑そうな顔で佇んでいた。彼の視線は、剣を掲げたリュート像から隣の歴代勇者たちの像へと移る。どの像も威厳に満ち、静かに何かを語りかけてくるようだった。
アルガスは一瞬目を伏せ、小さく息をついた。
その様子を見てエリスが呟く。
「……あいつ、まーた考え込んでるわよ」
「まあ、どうせ『僕は勇者らしくない』とか、いつものアレだろ?」
グレオが軽く笑う。彼は大剣を背負い直し、気楽そうな声で続けた。
「過去の勇者様に比べて自分は弱いだの、飾り物だの、また一人でぐるぐる考えてんだぜ、きっと」
ミーアが少し心配そうに声を挟む。
「でも、アルガス様って本当に真面目ですよね……。責任感が強いから、つい考え込んじゃうんだと思います」
「考えすぎんなって、いつも言ってるんだけどな」
グレオが苦笑すると、エリスが鼻で笑いながら言葉を継ぐ。
「大丈夫でしょ。どうせ、またすぐいつもの顔に戻って、『できることをやるだけだ、行こう』って言うわよ」
そのやりとりを見ながら、ミーアは微笑む。
「エリスさんって、なんだかんだアルガス様のことよく見てますよね」
「あいつが、毎回毎回同じことしてるからよ」
アルガスは像を一瞥し、何かを振り払うように軽く頭を振る。仲間たちの声が耳に届いているのかいないのか、彼はその場を離れると、冷静な声で話し始めた。
「教会の施設の可能性があるのなら、なおさら注意して調べたほうがいいな。建物の東側から順に――」
一瞬、言葉が途切れる。彼の視線はまだどこか遠くを見ているようだった。
「――いや、行こう。時間が惜しい」
歩き出したアルガスを、三人が追いかける。
「ノルマクリアね」
「今回、ちょっと早めだったな」
「……でも、たまには悩むのやめてもいいと思うんですけどね」
ミーアが小さく呟くと、グレオが笑いながら返した。
「そりゃ無理だろ。あいつの考えすぎるクセは一生治んねえよ」
「ま、それで解決するんだから文句ないでしょ」
エリスが肩をすくめると、アルガスが振り返り、軽く睨んでからぼそりと呟いた。
「……君たち、たまには黙って歩けないのか?」
その一言に、グレオが吹き出し、エリスが肩をすくめる。ミーアは小さく笑いながら、その背中を追って歩き出した。
***
その後、建物を一周してくまなく調べたものの、目立った発見はなかった。
「結局、何もなかったな」
グレオが肩をすくめる。
「ここはハズレか……。しかし、他に付近に怪しい建物は……」
アルガスは眉を寄せながら再び地図を広げる。
一方ミーアは、古びた壁を手でなぞりながら神妙な顔をしていた。その様子を見て、エリスが問いかける。
「どうしたの、ミーア?」
「何かあります……壁の向こう側に、魔力反応が。少し待ってください」
彼女が静かに杖を構えると、魔力の波紋が壁の内側を透過するように広がった。
「……やっぱり。ここに空間があります」
その言葉を聞き、アルガスは地図をしまい、壁に近づいた。
「空間……?グレオ、頼めるか」
「おう、任せろ!」
グレオが力任せに壁を押し込むと、隠し扉が音を立てて開き、地下へと続く階段が現れた。
「これは……やっぱり何かあるのね」
エリスが息を呑む。
「慎重に行こう。敵がいる可能性もある」
アルガスは低く指示を出し、一行を率いて階段を下りていった。
***
地下室にたどり着くと、一行は異様な光景に息を呑んだ。広い部屋には奇妙な実験器具や瓶が並べられ、どこか病的な雰囲気が漂っている。薬品の刺激臭が鼻をついた。
怪しい薬瓶の中身を素早く解析したミーアが報告する。
「これ……水路から検出された毒と同じです」
「やっぱりな……」
アルガスが眉をひそめながら呟く。
「ここで毒を作ってたってことね……。どうするの?証拠を持って帰るの?」
エリスが周囲を見回す。
「毒自体の持ち帰りはリスクが高いな。何か資料を――」
「資料も結構たくさんあるぜ。たぶん、魔術関連のものっぽいけど」
グレオがいくつもの紙束を指で弾いて示すと、アルガスが険しい顔で応じた。
「全部持って帰ったら怪しまれるな。しかし、一つ一つ精査する時間もあまりない……」
「ふふん、私に任せなさい」
自慢げにそう告げたエリスは、机の上に白紙の紙束を置くと、ロッドを取り出した。
「<ライト・イミテイト>!」
彼女が魔法を発動すると、紙がその場でふわりと浮き上がり、光の軌跡に沿って表面に文字が現れる。しばらくして光が収まると、紙の表面には、元の資料と寸分違わぬ内容が書き写されていた。
「じゃん!コピー完了!どうよ?」
エリスは紙束を引っ掴んでアルガスに示す。
「転写魔法か。やるな……」
資料を受け取りながら、素直に感心するアルガス。
「天才魔術師エリス様に感謝するのね」
腕を組んでニヤリと笑うエリスに、横からミーアがぽつりと呟いた。
「それ初級聖属性魔法なので、私もできますけどね」
「ちょっと黙ってて!私にも活躍させてよね!」
エリスがミーアの腕を引っ張り小声で釘をさすと、ミーアは曖昧に笑った。
「行くぞ。ここに長居は無用だ」
アルガスの言葉に、一行は足早に部屋を後にした。




