◇閑話:王の賭け
アルガスが王城を去った後、会議室には国王の他、重臣たちが集っていた。
机には地図が広げられ、予算案の巻物が山積みにされている。
「なんですかな、あの若者は!」
額に汗を浮かべた財務大臣が、机上の拳を強く握りしめた。
「本当に『勇者』なのでしょうか! あの理屈っぽさ、剣も魔法もおぼつかぬと聞きますぞ!」
「……ああ、やはりそんな調子でしたか」
渋い顔の大司教が静かに応じる。
「教会に呼び出した際も、なかなか手を焼いたものです」
「聞いていた通りの見事な論だったよ、大司教殿。まるで王宮の老練な外交官だ」
王は手にした水差しを静かに戻し、低く呟く。
「……まさか、『魔王討伐命令』を突っぱねるとはな」
「まったく、歴代の勇者の例になぞらえて、先陣を切らせるつもりだったのだが」
軍務大臣が苦々しげに腕を組む。
「光の神ルクシスが遣わす勇者とは、即ち『魔王討伐の剣』である。それが、今までの道理であり伝承であったはず……」
大司教が静かに呟き、深くため息をついた。
「だが、彼はそれを否定した。『討伐』ではなく、世界に安寧をもたらすことが目的だと」
王は目を閉じ、椅子に深く身を沈める。
「理屈としては正しい。だが、『今までの勇者』は、誰もそれを問うことなく、剣を手に取った」
大司教が続ける声は、どこか驚愕と困惑を含んでいる。
「神託が示す使命を、あれほど冷静に『再解釈』した者は初めてだ」
「そうだな。あの目には……まるで、伝承すら自らの理屈で塗り替えるほどの力があった」
王は苦笑し、杯を傾ける。
「だが、理屈で国は動いても、人の心までは動かせぬ」
軍務大臣が渋い顔で言った。
「魔王の脅威に怯える民は、『勇者が剣を取る姿』を求めているというのに」
「そう、国をひとつにまとめるためには『象徴』が要るのだ」
だが、そこで王は肩を落とし、疲れたように嘆息した。
「……とはいえ、本人がその『象徴』というものを、まるで忌避する」
「何かあったのですか?」
農政大臣が首をかしげる。
「当初は、城門前の広場で見送りの式典を――王族・貴族・教会を交えて盛大に執り行うつもりだった。軍楽隊も組織していたというのに……」
王は机の上の巻物を恨めしげに見る。
「すべて断られた。『意味がない』の一点張りだ。観衆の前を歩くだけの行為に『効果』があるのかと、わざわざ論理的に説明まで受けた」
「……想像に難くありませんな。我々も、儀式や巡礼をことごとく断られました」
大司教は苦笑しつつ、手元の聖典を閉じる。
「『勇者の旅立ち』といえば、民にとっては希望の象徴……それを見せることが、どれほど大きな意味を持つかも、分からぬわけではあるまいに」
王は一つため息をついて続けた。
「いや、分かってはいるのだろう。だが彼にとっては、『効果なき象徴』は無価値ということなのだ」
「……まったく、扱いに困る勇者だ」
軍務大臣が呆れたように呟く。
「だが――だからこそ、あれほどの理屈を背負いながら、動き出す覚悟ができるのかもしれぬ」
王は静かに椅子を揺らし、窓の外に目をやった。
「過去二百年……いや、もっと以前から続いていた『型』が破れ始めているのかもしれませんな」
大司教が遠い目をしながら呟く。
「型破りにも程があります!話を聞いている限り、もはや『型崩れ』ではありませんか!」
財務大臣は必死に声を荒げる。
「しかも、1000万ゴールドを要求するとは、あまりにも法外!いくら神託に従い選ばれし者とはいえ、度が過ぎております!」
「……だが、彼の説明は理に適っていた」
軍務大臣が腕を組んでうなる。
「数ヶ月、いや年単位に及ぶ『黒の荒野』への遠征。腕利きの冒険者を三名ないしそれ以上雇い、旅の安全を確保せねばならん。装備、補給、そして情報……金がかかるのは当然だ」
「……腑に落ちるが、あれほどまでに具体的な算段を立てていたとは」
王が天井を仰ぐ。
「もとより、500万でも捻出できれば御の字だと思っていたのだろう」
「しかも、減額の代わりに色々と要求されたのでしたな?」
大司教が静かに問いかける。
「ああ。様々な特権を求められたので、私と貴方の承認の元、『勅書』という形で与えたのだ」
王は苦々しく答えた。
「……あの目を見れば分かります。我らの足元を見透かしていると」
大司教は目を閉じ、椅子に深く腰掛けた。
重い沈黙が流れる。
「それで……その500万をどこから出すつもりだ、王よ?」
軍務大臣の問いかけに、王はため息をついた。
「予備費だけでは到底足りませぬぞ!」
財務大臣が机を叩く。
「国境の防衛費が近年増大しているようだが……そこは削れないのか?」
農政大臣が提案するが、即座に軍部の老将が首を振る。
「それはなりませぬな。西の帝国、東の小国同盟、どちらも隙を窺っています。国境の目を薄くすれば、たちまち侵攻の口実を与えましょう」
「それに――」
軍務大臣が苦渋の表情で言葉を継いだ。
「北の最終防衛線、ノルド=グラーデは既に綻びが見え始めている。駐屯軍は守備で手一杯。魔物による被害は、各地でも急増しているが、掃討作戦を行う余力などない」
「しかし、勇者殿が言っていたように、『魔王軍』として攻め込んできている訳ではないのだろう?」
農政大臣が問う。
「ああ、確かに魔物は各地で暴れてはいるが、組織的ではない。あれは……まるで、魔王の統率が及んでいないようにも見える」
軍務大臣は苦々しげに吐き捨てる。
「……それが、かえって不気味だ」
「ゆえに、賭けるしかない――勇者アルガスに」
国王は重々しい声で呟く。
「彼が踏み出すことで、膠着を破る鍵が見つかるやもしれん」
一同は顔を見合わせ、再び予算案に目を通す。
「他に不要不急の予算は……」
「貴族たちへの補助金を削るのはどうだ?」
「反発は必至だな。だが、背に腹は代えられまい」
「王都西区の整備を延期してはどうか?」
「民の生活に直結するものです。不満が湧いては、王宮の信が揺らぎます!」
「豪華な公会堂の修繕などは後回しでよかろう。あれは貴族どもの面子のためだ」
議論は錯綜し、怒号と溜息が交差する。
やがて、国王が手を上げた。
「……500万ゴールドは、予備費と優先度の低い予算――貴族への支援金を中心に再配分して捻出する」
一同が沈黙する。
王の言葉が、重く空間に響いた。
「私から、諸侯へ説明する場を設けよう」
「……陛下」
国王はゆっくりと立ち上がり、窓の外に目をやった。
「……あれほどまっすぐに『問いを立てる者』を、私は久しく見ていなかった」
王は静かに目を閉じ、呟く。
「あの若者の目には、我々には見えぬ何かが映っている。ならば、賭けてみるのも悪くはあるまい」
窓の外には、夕暮れの帳が静かに降りていた。
朱に染まった空の下、王都ルヴァリアの石造りの屋根が影を伸ばし、ひとつ、またひとつと家々の灯りがともっていく。
そのさらに向こう、城壁の外に広がるのは、淡く色づいた広大な平原。風が草を撫でてゆき、波のように地表をさざめかせていた。
「光の神ルクシスが、彼の導きとなるでしょう」
大司教が聖印を掲げ、祈祷の言葉を重ねる。
「この国の行く末と、勇者の旅路に――光の加護があらんことを」
静まり返る会議室に、蝋燭の火が小さく揺れた。