第34話 毒された街
エルミナの水路は陽光に照らされ、静かで澄んだ空気が漂っている。しかしその静けさが、どこか不穏に感じられた。
「ここが謎の病が多発している水路の一つだな。人通りが少ないのは助かる」
アルガスは静かに呟き、橋の上から水面を覗き込む。
住宅街の一角、家々の影に挟まれるように流れるその水路は、一見すると異常は見当たらない。
「見た感じは普通の水ですよね?」
ミーアが水路を指差すと、エリスが魔法で水を汲み上げた。透明な水が宙に浮かび、日の光を反射してきらめく。
「どうすんだ?ちょっと飲んでみようか?」
グレオが冗談交じりに言うと、エリスが即座に一蹴する。
「何言ってんのよ、体張りすぎでしょ!」
「ミーア、魔力波長を調べてくれるか」
アルガスが促すと、ミーアはエリスの側に寄って杖を構えた。
「任せてください……!<エーテル・スキャン>!」
ミーアの魔法が発動すると、宙に浮いた水が微かに光を放ち始める。やがてその光が揺らぎ、波長を描くように漂う。
「魔法でわかるのか?」
グレオが背後から興味深そうに尋ねる。
「魔力波長を調べれば、水に何か混ざってたら分かるのよ。例えば、水とお酒くらいなら判別出来るわ」
エリスは得意げに説明したが、グレオは怪訝そうな顔をする。
「そんなもん、匂いで分かるだろ?」
「だから、普通はそれくらいの精度だってこと。でも――」
期待を込めた瞳でミーアを見つめるエリス。
「ラグスノールで見せてくれたあの解析能力……。ミーアならきっと……!」
ミーアが結果を読み取り、困惑した表情を浮かべた。
「水ではない魔力波長が混ざっていますね。すごく微量ですが……」
「異物のサイオン値と魔力吸収波長を教えてくれ」
アルガスが冷静に尋ねると、ミーアは慎重に杖を握り直し、結果を口にした
「サイオン値678、魔力吸収スペクトルのピークが350、450、1240、1500です」
アルガスは素早くメモを取りながら、考え込むように呟く。
「サイオン値がかなり大きいな。魔力生成物からの派生物質か……?ピークから推定するに、骨格構造がアルファ型で、3、8、9位置に分岐点……ならば……」
彼はペンを止め、静かに結論を出した。
「呪毒の可能性が高いな。これは呪術によって生成された毒だ」
「なんで今ので分かるんだよ!?」
「あんたの脳内どうなってんのよ。なんかデータベースでも入ってんの?」
グレオとエリスが口々に驚く中、ミーアは青ざめた表情で呟いた。
「呪毒、ですか……?ではやはり、例の症状は……」
「呪いによるものだろうな。この毒が原因である可能性が高い」
アルガスが断言すると、グレオは顔をしかめた。
「呪毒なんてものが流れてるなら、もうこの街の水、飲めなくねえか?宿とか大丈夫なのか?」
「本当に微量なので、数日間飲んだ程度では影響は出ないはずです」
ミーアが答えたが、すぐに俯いて声を落とす。
「ただ……もし何ヶ月もこの状況なら……」
「街の水源を調べよう。北西部にあるはずだ」
アルガスが地図を広げて指し示し、足早に歩き出した。
***
街の北西へ向かう途中、一行は広場へと差し掛かった。観光地らしい賑わいの中、道行く人々が「勇者様だ」と口々に囁き、一部は敬意を込めて頭を下げている。
だが、その穏やかな空気を裂くように、群衆の中から怒声が上がった。
「おい、見つけたぞ!この前は散々こき下ろしやがって……!」
声の主は、薄汚れたコートを羽織った男だった。一行が酒場で遭遇した、酔っ払い三人組の一人である。
「しかも、お前が『勇者』だって!?笑わせるな!」
顔を怒りで赤くし、目を剥いてアルガスを睨んでいる。
「誰?」
エリスの短い問いに、アルガスはフードの奥から小さくため息を漏らした。
「一昨日、酒場で君たちに絡んでいた輩だな」
「よく覚えるわね」
赤ら顔をした男は、泥酔していた時とは異なり、その目に怒りと憎悪を宿している。
「偉大なる勇者様はリュート様だけだ! お前なんか偽物だ!」
「しかも、リュートの信奉者か……まずいな……」
アルガスが眉をひそめて呟いた途端、男は荒い息を吐きながら地面に転がっていた小石を拾い、力任せに投げつけてきた。
「危ない!」
ミーアが叫ぶが、アルガスはフードを払って即座に反応する。剣を引き抜き、鋭い音を立てながら石を弾き落とした。石は空を裂き、地面に転がる。
「ちょっと、何やってんのよ!?」
エリスが男を睨む。
だが、周囲の群衆から驚きの声が漏れる暇もなく、男は次の石を拾おうとした。
「おい、やめろ!」
グレオが前に出ようとするが、アルガスが手を上げて制した。
「僕がやる」
アルガスは剣を収めながら低く呟き、瞬時に男の間合いに踏み込んだ。
腕を掴み、体の重心を崩すように振り下ろすと、男は呆気なく地面にねじ伏せられる。
「なんだ、離せ!この偽物め!」
男は怒声を上げて暴れるが、アルガスは膝で男の肩を押さえつけたまま、低く冷静な声で言い放った。
「店での態度は見逃したが……これ以上やるなら罪に問われるぞ」
「罪だと!?お前みたいな奴が勇者を名乗る方が罪だ!リュート様に失礼だ!」
なおも叫ぶ男の顔には、屈辱の色が濃く浮かんでいる。アルガスは鋭い眼差しを向ける。
「あんたが僕をどう思おうが構わない。『偽物』だろうが『不遜な勇者』だろうが、好きに貶せばいい」
アルガスの静かな声が、男の耳元で低く響く。
「だが――こんな街中で他の人を巻き込んで暴力的な行動をするのは許さない。周りの人々が怯えたり、怪我をしたらどう責任を取るつもりだ?」
男は一瞬だけ言葉に詰まり、周囲の群衆に目を向ける。その視線の先には、困惑した表情で後ずさる子供や、怯えた顔で立ち尽くす女性たちがいた。
「……あんた、場末の酒場にいたな。エルミナ市民なんだろう?リュートの名誉を守りたいのも分かるさ」
アルガスはそのまま続ける。
「でも、それならリュートが何のために戦ったのかを考えろ。彼は人々を守るために命を賭けた。それを敬うあんたが、同じ人々を怯えさせてどうする?」
「で、でも……!」
男はなおも抵抗しようとするが、アルガスの瞳が鋭く彼を射抜いた。
「リュートを敬うなら、その名に恥じない行動を取れ。ここで石を投げ、誰かを傷つけることが、彼の誇りを守る行いだと本当に言い切れるか?」
男は何も言えず、拳を握りしめて俯いた。その肩は小刻みに震えている。
「……すみません、でした……」
「分かればいい」
アルガスはゆっくりと手を離し、男の肩から膝をどけた。
***
立ち去る男の背中を見送りながら、ミーアが不安そうに呟く。
「魔物被害が増加して、謎の病気が流行っているともなれば、こうやって心が荒む人も出てきますよね……」
「その不安をどう使うか……教会はそこに目をつけているのかもしれない」
アルガスは静かに答えたが、その目はどこか遠くを見つめていた。
周囲の群衆は、怯えながらもアルガスに向けて安堵や感謝の表情を浮かべている。
「さっきの男みたいなのがもっといてもおかしくないのに……この雰囲気、不自然だと思わない?」
エリスが小声で囁く。
「確かに……」
アルガスは短く頷き、視線を群衆に走らせた。
(街中でこれほどまでに魔物被害が増えているのに、不満がほとんど表に出ていない。まるで誰かが意図的にその怒りを制御しているようだ……)
しかし考えを巡らせるのは後回しだと判断し、彼はフードを深く被り直した。
「行くぞ。これ以上ここにいるのは無駄だ」
***
一行が歩き始めると、エリスが肩をすくめながら口を開いた。
「そもそも、あんたが手当たり次第論破するから石なんか投げられるのよ。反省しなさいよね」
「酒場で君が燃やしていた方が良かったとでも言いたいのか?」
ぶっきらぼうに呟くアルガスに、エリスは呆れたように答える。
「手加減してやらないと、どんどん肩身が狭くなるって言ってるの」
「大きなお世話だ」
そう呟くアルガスに、グレオが吹き出した。
「ま、危なっかしいやつを更生させたわけだし、結果オーライってやつだな!」
「それにしても……アルガス様、鮮やかに制圧してましたね。いつも、魔物相手だと歯が立ってないのに」
ミーアがぽつりと呟くと、アルガスは軽く頭を振って言葉を返す。
「これでも冒険者やってるんだ。流石に丸腰の一般男性には勝てるさ」
「酔っ払いと暴徒相手には最強の勇者かあ……」
エリスがぼそっと呟く。
「なんか言ったか?」
アルガスがちらりと視線を向けるが、エリスは肩をすくめて笑うだけだった。
***
広場から出る寸前、アルガスは足を止めて勇者像にちらりと目を向ける。
(リュートの名誉を守りたい……か)
その言葉を思い返すと、ほんのわずかに胸が痛むような気がした。
あの男の怒りと憧れ、それ自体は理解できる――だからこそ、それが間違った形で表れたことが惜しかった。
(感情だけで動く正義は、やがて歪む。だからこそ僕は……冷静でいなければならない)
アルガスは目を細め、表情を引き締めた。そして、仲間を追って歩き出す。
***
夕暮れ時、一行は街の北西端に到着した。そして、早速水路の水の調査を開始する。
「調べますね……あれ?」
ミーアが困惑の声を上げる。
「どうした?」
「何も……入って無いです。水の魔力波長しか観測できません」
「えっ、ここが怪しいんじゃなかったの?」
エリスが声をあげる。
「……まあ、確かに水源から毒が投入されていたら、街全体に被害が出ているはずだな」
アルガスが顎に手を当てながら冷静に分析する。
「無駄足かよお……」
グレオが肩を落とす。
「いや、『水源付近には毒が無い』というのは重要な証拠だ」
アルガスは地図を広げ、最初の調査地点と水源を指でなぞった。
「毒が混入されているのは、街の途中……この範囲のどこかだな」
「つまり……この毒は自然混入ではなく、誰かが意図的に入れたものってことですね」
ミーアの言葉に、エリスは渋い顔をしながら呟いた。
「誰かが毒を流してる……正気じゃないわね」
「正気かどうかは関係ない。事実として、意図的に仕込まれている以上、目的があるはずだ」
アルガスが淡々と言い切ると、グレオは溜息をつきながらぼそりと呟いた。
「その目的ってのが、一番怖ぇ話だよな……」
「明日はこの範囲を徹底的に調べよう。さあ、今日はもう帰るぞ」
アルガスはさっと地図をしまうと踵を返して足早に歩き出す。
「アルガス、どうした?何でそんなに急いでるんだ?」
グレオが声をかける。
アルガスは水路の先をちらりと確認する。
「例の礼拝堂のライトアップが始まりそうだ。とっとと、ここから離れた方がいい」
「えっ、あれさっき言ってた『十二の祈りの小礼拝堂』?ちょっと見たいんだけど!」
エリスが礼拝堂を指差して目を輝かせるが、グレオが軽く笑いながら首根っこを引っ張る。
「おいおい、観光は後だ。帰るぞ」
「えー!せっかくここまで来たのに!」
「エリスさん、わがまま言わないでください」
ミーアも呆れ顔でエリスの腕を引っ張る。
アルガスはため息をつきながら再び礼拝堂に目を向ける。そのライトアップの光景は確かに美しいが、彼の胸にわずかな不安を残したままだった。




