第31話 氷の音、場末にて
薄暗い店内には、酒と湿った木材の匂いが漂っている。場末の雰囲気そのものだが、客のざわめきはどこか穏やかで、居心地の良ささえ感じられた。
「シケた酒しか置いてないわね〜この店」
エリスはカウンターの酒棚を一瞥して肩をすくめた。
「エリスさん、失礼ですよ。お店の人に聞こえたらどうするんですか……」
ミーアが小声で注意する。
「だって本当のことだもの」
エリスは面倒くさそうに呟きながら、カウンターに空いたグラスを置いた。
「じゃあ次はシェリー酒で。甘いやつね」
ミーアは苦笑しつつ、自分の前に置かれた白ワインを眺めた。グラスの中身はまだ半分も減っていない。
「『イケるクチ』なんて言っておいて……意外と進まないものですね」
彼女は赤くなりながら呟いた
酒場の隅ではグレオが、ジョッキ片手に冒険者風の男たちと打ち解けている。陽気な笑い声が店内に響き、彼の軽口に男たちもつい笑顔を浮かべている。
「グレオさん、すごいですね……誰とでも仲良くなれるなんて」
ミーアが感心したように呟く。
「それがアイツの才能よ。人たらしってやつ」
エリスは受け取ったグラスを軽く揺らしながら答えると、目線を横に流した。
「それに……勇者様もなかなかね」
その視線の先――アルガスは隅の席で琥珀色の液体が入ったグラスを片手に、見知らぬ男と話し込んでいた。男が少し言い淀むと、アルガスは淡々と質問を重ね、次々と情報を引き出している。
「あれ、何杯目のウイスキーよ。顔色ひとつ変わってないけど」
エリスはグラスを口に運びながら感心したように呟いた。
「でも、ちょっと……怖いですよね。あの雰囲気」
ミーアが軽く笑いながら言った。
「まあ、あっちはあっちで任せましょ。こっちはしっぽり飲むわよ」
エリスは満足げに微笑み、再びグラスに口をつけた。
***
突然、粗野な声が二人の耳に飛び込んできた。
「おいおい、こんなとこに綺麗なお嬢さん二人かよ。酒のせいで幻覚見てんのかと思ったぜ」
背後に立っていたのは、薄汚れたコートを羽織った三人組の男たち。どれもガラが悪く、酔いのせいかその目つきは不躾だった。
「可愛いねえ、君。俺らと一杯どう?」
一人がミーアの肩に手を伸ばそうとする。
エリスはグラスを置き、鋭い目つきで男たちを見上げた。
「悪いけど、あんたたちに付き合う気はないの。どっか行ってくれる?」
しかし男たちは一歩も引かず、カウンターに手を置いて食い下がる。
「そんな冷たいこと言うなよ。お姉さんも美人だねえ。俺らと飲み直さない?」
エリスの表情が険しくなり、周囲の空気がピリついた。
「しつこいわね……燃やされたいの?」
その指先にほんのり魔力が込められ、男たちは一瞬たじろぐ。しかし、すぐにまた絡もうと口を開いたその瞬間――。
「おい」
低く響く声が、空気を切り裂いた。
酔っ払い三人組が振り向くと、そこにはウイスキーのグラスを手にしたアルガスが立っていた。
彼は男たちを冷たく見据え、わざとらしく手元のグラスを揺らす。氷がカランと音を立て、場の空気がさらに冷え込む。
「彼女たちが断ってるのが分からないのか?」
アルガスの声は静かだったが、その低さには言葉以上の圧力が込められていた。
「何だお前?この子らの護衛かよ?」
男たちは気まずそうにしつつも、虚勢を張るように笑った。
「護衛ではないが、ここまで頭が悪い相手を黙らせるくらいの役目はある」
アルガスは淡々と言い放つと、グラスを口に運び、一口ウイスキーを飲んだ。
「お前らみたいな輩には難しいかもしれないが、状況を考えろ。ここは静かに飲む場だ。しつこく絡む場でもなければ、みすぼらしい哀れさを他人に見せつける場でもない」
「……なんだと?」
一人の男が険しい顔をして声を上げるが、アルガスは表情を変えずに続けた。
「こんな場末の店でも、酒には最低限の敬意が必要だ。だが、お前らの言動にはそれがない。ろくに飲みもしないくせに騒ぐだけ騒ぎ、あまつさえ断られても引き下がらない。そんなことすら理解できないなら――」
アルガスはひとつ息をついて続ける。
「家に帰って果実水でも飲んでろ。それがお前らの知性にはお似合いだ」
その言葉に、店内の視線が一斉に三人組に集まった。誰も声を上げないが、冷ややかな雰囲気がはっきりと彼らを包む。
「おい……なんなんだよこいつ!」
もう一人が声を荒げるが、アルガスは軽くグラスを揺らしながら言った。
「お前らの立場にしてみれば、この場から退くのが最善の選択肢だ。なぜなら――これ以上、見苦しさを晒すと完全に取り返しがつかなくなるからだ」
その静かな言葉には、威圧以上の冷徹さが込められていた。三人組は口を開けたり閉じたりしながら、ついに反論を諦めたのか、捨て台詞を吐いて踵を返した。
「ふざけんな!覚えてろよ!」
三人が店の扉を出ると、店内に沈黙が訪れる。
「果実水、か……」
一人の常連らしき男が吹き出し、静かな笑いが周囲に広がる。
アルガスは笑いには一切反応せず、グラスを置くとミーアの隣に腰を下ろした。
「助けていただいて、ありがとうございます……」
ミーアが控えめに礼を言う。
「こんな店に連れてきた僕の失態だ。すまない」
アルガスは短く答えると、再びウイスキーを口に運ぶ。
「……それにしても容赦ないわね。あれ、実質二度と店に来れなくしたでしょ」
エリスがグラスを揺らしながら言うと、アルガスは冷静な目で彼女を見た。
「僕は事実を言っただけだ。どう受け取るかは相手次第だ」
「ほんとキレッキレね……敵に回したくないわ」
エリスはため息をつきながら、再びグラスに口をつけた。
***
アルガスはカウンターに置かれたグラスを指先で軽く押し、空になったことを確かめると、淡々と声を上げた。
「マスター、同じのを頼む」
彼の落ち着いた声が静かな店内に響く。カウンター越しの店主が手際よく新しいグラスに琥珀色の液体を注ぐ中、その光景を目にしたミーアが恐る恐る口を開いた。
「アルガス様、それ……何杯目なんですか?」
「次で5」
「5杯目!?そんなに飲んで大丈夫なんですか?」
心配そうに尋ねるミーアを横目に、アルガスは新しいグラスを受け取りながらさらりと答える。
「4杯目からはロックにしてるから、むしろ抑えてる方だ」
「それまでストレートだったんですか……?!」
目を丸くし、声を震わせるミーア。その隣でエリスが呆れたようにグラスを揺らした。
「ペース落としてるつもりなのが、完全に酒豪の発想よね」
アルガスは軽く肩をすくめると、遠い目をしながらぼそりと語り始めた。
「昔、グレオと組んでた時に……パーティに悪ノリする奴がいて、そいつが毎晩『酒の精霊だ』とか言って新しい酒を持ち込んでたんだ」
「……面倒臭そうな奴。それで飲まされてたの?」
「ああ、毎晩潰れるまでな。吐いて寝て起きて……気づいたら鍛えられてた」
ミーアが控えめに口を開く。
「アルガス様、グレオさんと組んでたの6年前ですよね?じゃあその時って……」
「……18だ」
少し間を置いて、目を逸らしながら答えるアルガス。
ミーアは眉をひそめてきっぱりと言い返した。
「いや16ですよね!?計算合ってませんよ!酔ってるんですか!?未成年飲酒はダメです!」
「……冒険者なんてそんなもんだよ」
「いやあ、不良すぎるでしょ?」
エリスがすかさず茶化すように口を挟む。
「勇者の肩書きが泣くわね。民に示しがつかないんじゃない?」
アルガスは軽く肩をすくめ、無表情のままさらりと返す。
「逆だろ。不良がたまたま勇者に選ばれてるだけだ」
彼はグラスを一口煽ると、少し皮肉めいた声で続けた。
「それに、酒飲みながら神託を受けた神官様がいる時点で、ルクシスはその辺寛容なんだろ」
微妙な空気が流れる中、ミーアが目を細めてぼそりと呟いた。
「……それ私のこと言ってますよね?」
「他に誰がいるんだ?」
***
「おい、二人とも無事だったか?」
ジョッキを片手に、グレオが陽気な声で三人の元へ戻ってきた。
「不良の勇者様がスマートに守ってくれたわ」
エリスが手をひらひら振りながら、気の抜けた声で答えると、グレオが少し不思議そうな顔をする。
「……不良って何だ?」
アルガスはグラスを置き、グレオに視線を向ける。
「どうだ?何か情報は?」
「魔物の目撃情報は結構あったぜ。特に水路近くと街の裏通りだな」
グレオはジョッキを置きながら続けた。
「場末の店ってのも悪くねえな。観光客がいない分、地元のやつらが色々話してくれる」
「あっ、なるほど。表通りの店だと、観光客ばかりで目撃情報も当てにならないですしね」
ミーアが控えめに頷いた。
「そういうこと。ここに来て正解だったな。――ま、俺が飲みたいだけじゃないって分かっただろ?」
グレオが冗談めかして笑う。
「その割に、楽しそうに飲んでたけど?」
エリスが冷たく突っ込むと、グレオは軽く手を振った。
「いいだろ?話が盛り上がる方が情報も出てくるんだよ」
アルガスはグレオの言葉を軽く肯定するように頷くと、淡々と続けた。
「街中でも魔物が出るというのは重要な情報だ。水路の怪しい光については聞けなかったが、引き続き調べる必要がある」
「明日は目撃情報の場所を中心に回りましょう」
ミーアが前向きな声で提案する。
「ああ」
短く答えたアルガスの手元で、ウイスキーの氷がカランと音を立てた。
酒飲みシーンは書いていて楽しいですね。
【最初の一杯の頼み方】
グレオ「とりあえずエールで!大ジョッキな!」
アルガス「一番強い奴を頼む。ストレートで」
エリス「ヴァンディール・レッド――なんてあるわけないわよね……知ってた。じゃあ、この白でいいわ」
ミーア「ええと、甘めのカクテルとかって……?あ、無いですか……。では、私も白ワインをお願いします……」




