第4話 治癒術師ミーア
掲示板の前に立つ少女は、アルガスの足音に気づいたのか、驚いたように肩を震わせた。銀色の髪が淡く光を受けて揺れ、その動きとともに彼女の不安げな表情がはっきりと見えた。そして彼の姿を認めると、小さく声を上げた。
「あ、アルガス様……! お久しぶりです」
彼女の姿を目にしたとき、アルガスの脳裏に一つの光景がよぎった。
教会の大広間――荘厳な柱が並ぶ神聖な空間の奥。遠くの壇上、大司教の隣に立ち、純白の衣装に身を包んでいた少女。
あの時の彼女は、まるで祈りの象徴のように、静かで崇高な存在だった。
だが今、目の前の彼女は――少し肩をすぼめて、掲示板の前で戸惑い、怯えたように辺りを見回している。
けれどその瞳だけは、あの日と変わらない静かな光を湛えていた。
アルガスは目の前の少女をじっと見つめ、怪訝そうに問いかける。
「確か……ミーア、だったな。教会にいるはずの君が、こんなところで何をしている?」
ミーアは一瞬ためらい、俯いた。しかし、すぐに意を決したように顔を上げ、震える声で答えた。
「実は、教会から抜け出してきたんです。冒険者として登録して、自分の力を試してみようと思って……」
その言葉にアルガスの眉がわずかに動く。
「君が、冒険者に……?」
ミーアは困ったように小さく頷く。
アルガスは彼女の決意に戸惑いながらも、どこか理解を示すように深く息を吐いた。
「話を聞かせてもらえるか?」
ミーアは少し安堵したような表情を浮かべ、そっと頷いた。その様子を遠くから見守るエリスとグレオは、互いに顔を見合わせ、どこか興味深げに二人のやり取りを見つめていた。
***
「彼女はミーア。僕に『勇者の神託』を伝えた神官だ」
アルガスがそう紹介すると、テーブルを囲むエリスとグレオは同時に驚きの声を上げた。
「ええっ? それって……『ナントカの神子』ってやつか?」
グレオが目を丸くして身を乗り出す。
「『託宣の神子』、な」
アルガスは淡々と補足する。
「神の声を受け取り、それを伝える存在だ。何百年かに一度、突発的に神託が降りる……そのとき、神子が目覚めるとされている。歴代の勇者は、すべて彼らを通じて選ばれてきた」
「へぇー、すっげぇ……!」
エリスも興味津々にミーアをじっと見つめた。
「そんな立派な神官様が、どうして冒険者の溜まり場なんかにいるのよ?」
ミーアは少し戸惑いながらも柔らかく微笑み、控えめに訂正する。
「神託を伝えたのは事実ですが……私は神官見習いに過ぎません。それに……教会を抜け出してしまいましたから、今はただの駆け出し冒険者です」
アルガスは腕を組むと、静かに尋ねた。
「何があったのか、詳しく話してくれるか?」
「……はい」
ミーアは少し俯きながら声を落としたが、やがて決意を込めたように顔を上げた。
「一ヶ月前、私が伝えた神託――『アルガス様を勇者に選ぶ』という内容が、教会内で大きな波紋を呼んでしまいました」
その声には申し訳なさそうな響きが含まれていた。慎重に言葉を選びながら、彼女は続ける。
「神託は絶対的なものとはされていますが、教会の上層部からは『彼は勇者としてふさわしくない』という声も上がったんです」
その言葉にエリスが驚きの声を上げる。
「勇者にふさわしくない? 何それ? 理由は?」
ミーアは困ったように微笑み、控えめに答えた。
「それは……アルガス様が、教会の方針に疑問を呈されたからです」
「疑問を呈したって?」
グレオが興味津々に問い返すと、ミーアは言いにくそうに視線を泳がせた。
するとエリスが口を挟む。
「ねえ、どうせ教会の偉い人相手に理屈っぽいこと言ったんでしょ?」
グレオも笑いながら膝を叩く。
「ああ、それだ。アルガスならやりそうだな」
「……理屈をこねたわけじゃない。ただ、伝承にある『勇者らしい振る舞い』を求められたから断っただけだ。それと、魔物問題をすべて勇者に丸投げする教会の姿勢を指摘したが――」
アルガスの弁解の途中で、エリスは呆れたように肩をすくめた。
「ほらね。教会でそんなこと言ったら、そりゃ揉めるわよ。それで、教会と仲が悪いって話になるのね」
アルガスが不機嫌そうに目をそらすと、ミーアが申し訳なさそうに話を再開した。
「アルガス様のお考えに共感する方もいましたが、それが引き金となり、教会内部の派閥争いが激化してしまいました。そして……私には、それを抑える力がありませんでした」
彼女は寂しそうに視線を落とし、指先を軽く絡ませる。
「教会の中で、自分の無力さを感じる日々が続きました。それで――」
ミーアは顔を上げると、ふっと小さな笑みを浮かべた。どこか覚悟を決めたような笑みだった。
「もっと広い世界を見たいと思ったんです。『神子』としてではなく、自分の力がどこまで通じるのか、確かめたくて……」
ミーアの空色の瞳が揺れるように微かに動いた。その奥には、不安と、それを乗り越えようとする小さな光が交錯していた。
「……それで、教会を出て冒険者として登録しました」
語り終えたミーアに、グレオが頷きながら言う。
「なるほどな。つまり、自分で成長するために抜け出したってことか」
「そういうことに……なりますかね」
ミーアは小さく頷いた。
エリスが少し考え込むようにしながら口を開く。
「というか……全部、こいつのせいじゃない?」
エリスに指差されたアルガスは、僅かに眉を動かした。
「い、いえ。そんなことは……!」
「それに、出てきたってことは……後ろ盾もないってことでしょ?」
「……はい」
ミーアが申し訳なさそうに微笑むと、エリスはため息をついた。
アルガスは黙ったまま、ミーアの顔をじっと見つめていた。その眼差しには、複雑な感情が浮かんでいる。やがて、彼はゆっくりと口を開いた。
「君は……回復魔法や補助魔法は使えるか?」
ミーアは驚きつつも丁寧に答える。
「は、はい。えっと……応用治癒三級と、魔法支援員の資格を持っています」
「属性魔法は?」
「水属性が中級程度まで、聖属性は基礎的なものを少しだけ……」
「実戦経験は?」
「……ほんの二、三回です」
アルガスは顎に手を当て、考え込んだ。その様子にエリスが眉をひそめ、何かを言いたげに彼を見つめる。
やがて、アルガスは顔を上げ、静かに言った。
「ミーア、僕たちの旅に同行してほしい」
ミーアは戸惑ったように目を瞬かせ、驚きと困惑が入り混じった声で答える。
「私が……勇者様の旅に、ですか? でも……」
アルガスは頷き、落ち着いた口調で続けた。
「君の力が必要だ。応治 三級に支援員の資格、二属性魔法。それだけあれば、回復・支援の基礎は十分に担える。実戦経験は不足しても、構成上の要件はすべて満たしている」
「欠点はパーティ内で補いつつ、これから経験を積めばいい」
そこで、ほんの一瞬だけ間を置いて、ちらりと隣のグレオを見る。
「――これは、誰かさんの受け売りだがな」
視線を受けたグレオはニヤッと笑い、親指を立てて返した。
アルガスはわずかに口元を緩めると、再びミーアを見つめて言葉を続けた。
「だから、僕たちと一緒に来てほしい」
ミーアは視線を落とし、躊躇いがちに答えた。
「……私ではきっと足手纏いにしかなりません。皆さんに、迷惑をかけてしまいます……」
その返答に、アルガスはしばらく押し黙った。
(これは同情か、罪滅ぼしか……いや、違う――『合理的な選択』だ)
彼は心の中で言い聞かせるように呟くと、やがて穏やかな口調で語り始めた。
「ミーア、僕は勇者としてここにいる。そして、それは……君が神託を信じ、僕に伝えてくれたからだ」
その言葉に、ミーアははっと顔を上げた。彼女の瞳を真っ直ぐに見据えながら、アルガスは言葉を重ねる。
「あの時、君は僕を勇者として認めてくれた。君の言葉がなければ、僕はここにいない。だから今度は、僕が君の力を信じる番だ」
ミーアは息を呑み、しばらく考え込んだ。そして、小さな声で答える。
「……分かりました。すぐには無理かもしれません。でも、少しずつでも……アルガス様の力になれるよう、頑張ります」
「こちらこそ、よろしく頼む」
アルガスが短く頷き言葉を返すと、ミーアは控えめに微笑んだ。
その様子を見ていたエリスが、わざとらしくため息をついた。
「私にはあれだけ言っといて、この子にずいぶん甘いわね。不公平じゃない?」
アルガスは平然と返す。
「彼女は、自分の弱点を客観的に評価できているからな。君と違って」
「んなっ……!」
エリスが身を乗り出すと、グレオが豪快に笑いながら二人の間に割って入った。
「おいおい、もういいだろ!仲間も揃ったんだし、まずはメシでも食おうぜ!」
グレオが豪快に声を上げ、店員に手を振って注文を始める。その姿を見て、ミーアもエリスもつられて笑みを浮かべる。
そして、飲み物が届いたとき――
「よっしゃ! ここはやっぱ、リーダーの音頭で乾杯だろ!」
グレオがグラスを掲げ、ニヤリと笑いながらアルガスに目を向ける。
しかし――
「そういうのは、やらないぞ」
アルガスはぴしゃりと断言し、グラスすら持たない。
「なんでだよ! せっかく決起の宴って感じじゃねえか!」
「儀式的な形式に意味はない。実務に支障が出るほど酔わせるわけにもいかないし」
「いや、そういう理屈じゃなくてな……!」
グレオが苦笑しながら頭を抱える一方で、エリスは吹き出す。
「まったく、雰囲気ぶち壊す天才ね」
アルガスは冷静に返す。
「無駄な浮つきは、油断につながる」
「……ほら始まった」
エリスが呆れ顔で肩をすくめる中、ミーアだけが控えめにグラスを持ち上げ、ぽつりと呟いた。
「あの、それでも……皆さんとこうして一緒に食事を囲めるのは、嬉しいです」
その言葉に、グレオとエリスが目を合わせ、ふっと笑う。
アルガスは少しだけ沈黙してから、ため息をついた。
「まあ……例外的に、乾杯くらいは許容しよう」
「最初からそう言え!」
グレオが笑いながらグラスを掲げ、四人のグラスがカチリと静かに触れ合った。
静かな乾杯の音は、四人の絆の始まりを告げるように、夕暮れの喧騒の中へ静かに溶けていく。
こうして、勇者アルガス、剣士グレオ、魔術師エリス、治癒術師ミーア――四人の旅は、静かに、そして確かに始まったのだった。