第11話 ネイヴァス・カロンド
薄暗い資料室。アルガスは分厚い帳簿を開き、その細かな記録を静かに目で追っていた。数字や取引内容に集中する彼の表情は冷静そのもので、静かな室内にページをめくる音だけが響いていた。
「表向きはどれも整っている……だが、どうも怪しいな」
呟きながら最後のページを閉じると、アルガスは簡易なメモ帳に手早く記録を残し、隣の棚から新たな帳簿を引き抜いた。
静かにページを開き、目を細めて内容を確認し始めたその時、背後から足音が近づいてきた。その音は整ったリズムで響き渡り、やがて低く穏やかな声が部屋に響いた。
「勇者様が当商会にご足労いただけるとは、大変光栄です」
アルガスが振り返ると、そこには一人の若い男が立っていた。上質な仕立ての衣服をまとい、整った顔立ちに柔らかな笑みを浮かべる彼は、どこか余裕を感じさせる雰囲気を漂わせていた。
「……あなたは?」
アルガスの視線が鋭くなる。
「申し遅れました。私はネイヴァス・カロンド。カロンド商会を預かる者です」
ネイヴァスは優雅に一礼すると、穏やかな声で続けた。
「勇者様の噂はかねがね伺っております。こうして直接お会いできるとは、何とも光栄なことです」
「ご挨拶ありがとうございます。捜査中ですので、必要であれば後ほどお話を伺います」
アルガスは視線を帳簿に戻しながら、冷静に応じる。ネイヴァスはその態度に気を悪くした様子もなく、柔らかく肩をすくめた。
「ええ、もちろんです。ただ……少し心配になりましてね」
「……何がです?」
アルガスは視線を動かさずに問い返す。
「勇者様ともあろうお方が、当商会の帳簿や書類を一枚一枚確認される姿を拝見し、ふと考えたのです。果たして、その労力に見合うだけの『成果』が得られるのか、と」
アルガスは静かに帳簿を閉じ、ネイヴァスに向き直った。
「成果があるかどうかは、私が判断します」
ネイヴァスは優雅な笑みを崩さず、わずかに頭を下げた。
「なるほど、それは頼もしい限りです。ただ、もし万が一、何も出てこなかった場合には……当商会の名誉を守るため、しかるべき対応をさせていただくこともありますので。その点、どうかお忘れなく」
「警告のつもりですか?」
アルガスは冷ややかな目で相手を見据える。その瞳には微かな光が宿り、鋭い威圧感が漂っていた。
「いえいえ、あくまで慎重を期すためのお願いです」
ネイヴァスは柔らかな笑みを浮かべたまま、軽く頭を下げる。
「では、どうぞごゆっくりお調べください。お困りの際には、いつでもお呼びくださいね」
そう言い残し、ネイヴァスは静かに踵を返して去っていった。その背中を見送りながら、アルガスは短く息をついた。
「……嫌味なやつ」
そう呟いたのは、ネイヴァスと入れ替わりに資料室に入ってきたエリスだった。雇用記録の束を両腕に抱えている。
「自分が有利だと信じてる人間が取る態度ね。絶対、ギャフンと言わせてやるんだから」
「……そうだな」
アルガスは再び帳簿に目を戻した。その瞳には、鋭い思索と僅かな焦燥の色が宿っていた。
***
その夜、一行は宿に戻り、テーブルを囲んで集まった。テーブルの上には集められた資料が山積みになり、ランプの光が淡くそれらを照らしている。
「どう考えても、怪しさしかないわね」
エリスが護衛の雇用記録を手に取り、真剣な口調で切り出した。
「護衛の数が多すぎるのはもちろん、出所の怪しい傭兵まで雇ってる。実被害の出てない商会が、これだけお金をかけて護衛を雇い続けるなんて……普通じゃないわ」
「見ろよ、この地図」
グレオが机の上に広げた地図を指差す。
「カロンド商会の通行ルートだ。魔物襲撃があった場所、その時間を綺麗に避けてるんだぜ。そんな偶然、ありえるか?」
ミーアは持参した書簡の束を手に取る。
「この書簡……カロンド商会と、魔物被害がほとんどない商会の間でやり取りされたものです。ただ、内容がとても曖昧で……」
エリスがミーアから書簡を預かり、目を通す。
「『引き続き優先的な取り扱いを保証』……『今後も双方が利益を共有できる形を模索』……妙に遠回しね。都合良く解釈できるようにしているんでしょうね」
「それらの商会、カロンド商会と不自然な取引を繰り返しているな。商品の実態が無いものもある」
アルガスは静かに告げ、手元の帳簿を机に置いた。
「ただ……思ったより収穫が少なかったな。どうりで、あの余裕……」
アルガスは昼間のネイヴァスの言動を思い出しながら呟く。
「えっ。こんなに見つけたのに、まだ足りないのか?」
グレオが驚いた様子でアルガスに問いかけるが、彼は黙ったまま机の上の資料を睨みつけていた。すると、エリスが口を開いた。
「ここまでで分かったのは、カロンド商会が何らかの形で襲撃をコントロールし、被害を避けているということ。それに、被害を受けていない商会とカロンド商会が結託している可能性が高いってことね」
彼女は腕を組みながら、少し苛立った口調で続ける。
「問題は、どうやって襲撃を操っているか……ね」
「それについては、手がかりを見つけたぞ」
アルガスは薄汚れた紙切れとメモを取り出し、机の上に置いた。
「それ、昨日俺とミーアが見つけた紙だな」
「暗号、解けたんですか?」
「ああ。予想通り、日時と場所の記載があり、襲撃現場と一致していた。それに……ここ。途切れていて難航したが……『魔術』と書かれている」
紙切れとメモから目を上げたアルガスは、エリスを見やった。
「何か、心当たりはないか?」
「確かに、雇われた傭兵の中には魔術師もいたわ」
先ほどの雇用記録を一瞥するエリス。だが、すぐに眉根を寄せ、考え込むような表情になる。
「でも、魔術で魔物を誘導ねえ……」
「無理なのか?」
「かなり大規模な複合魔術になるわね。それを使えるような奴らじゃないと思うけど……それに――」
アルガスとエリスの議論の外で、地図を眺めていたグレオが何かに気づき、身を乗り出した。
「どうかしましたか?グレオさん」
「いや……なんかこの倉庫、街から結構遠くてさ。俺だったら、ここに荷物取りに行きたくねえなと思って」
カロンド商会の拠点地図の端を指差し、笑うグレオ。
「確かに、移動ルートからも離れていて商会の業務には使いづらい場所ですね……お二人とも、ちょっといいですか?」
ミーアも地図を覗き込みながら首を傾げ、アルガスとエリスを呼んだ。
「郊外の怪しい倉庫……まさか、何かを隠してる?」
エリスは地図を眺めながら呟くと、アルガスを見た。
「……ならば、確認するまでだ」
アルガスは立ち上がり、静かながらも力強い声で宣言した。
「明日、この倉庫を調べるぞ」
「よっしゃ!ここまで来たら怪しい場所は全部調べてやろうぜ!」
グレオが手を叩き、豪快に笑う。
「……証拠を隠しているとしたら……当然、抵抗はありますよね。それに、あの傭兵雇用記録……」
ミーアは少し俯きながら、不安げな声を漏らした。
「勇者様の信書があれば、どうにでもなるだろうよ!」
グレオが豪快に答えると、ミーアは少しだけ微笑んだが、その表情から完全に不安が消えることはなかった。
一方、アルガスの表情は険しいままだった。
「相手はただの商会ではない。慎重に行くぞ」
「やけに真面目ね。あの嫌味な奴に一泡吹かせたいだけじゃないの?」
エリスが微かに笑みを浮かべ、茶化すように言うと、アルガスは眉をわずかに上げて答えた。
「それもある」
その一言に、部屋に軽い笑い声が響く。そんな中、アルガスは再び資料に目を向けた。その表情には、明日の調査に向けた確かな決意が宿っていた。




