第10話 炎と氷と
コルニス村の北端。草原と森の境界線――そこに、突如として現れた灼熱の獣たちは、咆哮と共に村へと迫っていた。
五体のサラマンダー。
赤く輝く鱗。炎を纏った尾。踏み出すごとに地面が焦げ、空気が歪む。
「な、なんじゃあれは……!」
「火の化け物が……! こっちに来るぞ!」
村のあちこちから悲鳴が上がるが、逃げる姿は少ない。既に多くの村人は避難を終えていた。
「落ち着いて! 村の広場に!」
「子どもはこっちに!」
商人たちが村人を誘導している姿に、グレオが目を見張る。
「……あれ、意外と冷静だな……?どうなってんだ?」
アルガスは息を切らしつつ、答える。
「森や岩山に異変があったら避難するよう、事前に商人たちに伝えておいた」
「おお、そこまで手ぇ回してたのか……」
「可能性は排除しない。それだけだ」
迫り来るサラマンダーに、エリスはロッドを構えて呟く。
「別に、避難なんてしなくても……こんな奴ら、私の魔術で……!」
「待て、闇雲に放っても無駄だ。作戦を立てる」
その時、数名の村人と共に、村長が駆け寄ってきた。
「なんだこれは! 火の魔物が5体も……! あんたらに頼んだのはボアの退治だろうが!」
村長の怒声に、アルガスは一瞬だけ表情を曇らせたが、即座に言い放つ。
「詳細は後で! 今は避難を!」
「ふざけるな!こんなことになるなんて、聞いてな――!」
「避難を!!!」
低く、鋭い一喝が、村長の声をかき消した。
アルガスの目は一切の感情を排し、冷たい指令を告げていた。
「ミーア、防壁魔法は使えるか?」
「す、すみません……まだ、習得できていません……!」
「……分かった。エリスに詠唱速度強化を。今すぐだ!」
「は、はい!……<コグニト・ブレウィス>!」
素早くかけられた強化魔法に、エリスは目を瞬かせる。
「えっ、私に!? ちょ、ちょっと待ってよ、なんで!?」
「氷壁を展開! サラマンダーの進路を塞げ!」
「えぇ? 属性魔法は防御には向いてないのに……!」
アルガスは剣を抜きながら、鋭く彼女を睨む。
「そのための速度強化だ!手数で押せ!」
「……っ、分かったわよ! やればいいんでしょ、やれば!!」
エリスのロッドが青白く輝き、氷結の魔法陣が地面に展開する。
詠唱が完成すると、エリスはロッドを振り上げた。
「<アイシクル・ウォール>!!」
瞬間、地面から立ち上がる鋭い氷壁が、サラマンダーの進行を阻む。熱風が霜にぶつかり、霧のような蒸気が立ちこめる。
「グレオ、正面を! 奴らを引きつけろ!」
「おうよ! ぶっ飛ばしてやるぜ、トカゲども!!」
グレオが大剣を振りかざし、氷壁の隙間から現れた一体へ突撃する。火球が飛ぶも、地を滑るように回避し、渾身の一撃で炎の鱗を削る。
アルガスも剣を構え、サラマンダーの側面に回り込む。しかし、斬りかかった刃は赤銅色の鱗に阻まれて弾かれた。
「くそ、鱗が硬すぎる……!」
その瞬間、背後から吐き出された炎が彼の左腕をかすめた。
「ッ――!」
じゅっという音と共に、皮膚が焼ける。
「アルガス様!」
ミーアが駆け寄ろうとするが、アルガスは剣を振るいながら叫ぶ。
「下がれ! 平気だ! 村人の誘導を優先しろ!」
「で、でも……!」
「命令だ!」
ミーアは悔しそうに唇を噛み、すぐに踵を返した。
「……氷壁、どんどんいくわよ!」
エリスが詠唱を終え、ロッドを強く振り上げた。
空気が一気に冷え込み、地面から突き上がるように氷の壁が立ち上がる。けれど、押し寄せるサラマンダーの勢いは、なお衰えなかった。
一体が氷壁をすり抜けるように回り込み、アルガスの前に牙を剥いて現れた。
(間に合わな――)
「アルガス! 避けなさいっ!」
鋭く、叫ぶような声に、彼は反射的に身を翻し、地を転がるようにして距離を取った。
直後、轟音と共に氷の奔流が炸裂した。
あたり一帯が凍気に包まれ、サラマンダーの動きが完全に止まる。アルガスがいた地点も含めて、地面ごと分厚い氷に閉ざされていた。
「……危な……」
思わず漏れた声は、冷気にかき消されるほど小さかった。
「はい、次っと!」
息を吐くように呟くと、エリスはロッドをくるりと回し、次の魔法の詠唱に入った。目元には焦りも怯えもなく、ただ研ぎ澄まされた集中が宿っている。
「おらぁっ! まだまだ、いくぞ!!」
グレオの大剣が振り下ろされ、炎の尾を振り上げたサラマンダーを叩き伏せる。続けて、アルガスも氷に縛られた一体の喉を正確に貫いた。
地面にはすでに四体のサラマンダーが倒れている。熱気と煙が渦巻く中、グレオが肩で息をしながら叫んだ。
「よっしゃあ! これで終わりだろ!」
だが――その時、アルガスが目を見開いた。
「……まだだ」
その言葉と同時に、森の方角へと駆け出す影がひとつ。最後のサラマンダーが、炎を纏った尾を引きながら、木立の間を滑るように逃げ出していた。
「おいおい、もう終わりだろ! 逃げてんだし、放っとけよ!」
グレオが追おうとした足を止める。しかし、アルガスは叫んだ。
「サラマンダーは知能が高いと言っただろう!」
「はぁ?」
「逃げられれば、今日のことを『脅威』として記憶し――次は『復讐』に来る!」
その声には、確かな確信と論理の刃が込められていた。
「『生かしておく』意味が、どれだけ危険か考えろ! 仕留めきるまでが防衛だ!」
グレオが短く舌打ちをし、大剣を担ぎ直す。
「……チッ、そう言われたら動かねぇわけにはいかねぇな!」
だが、数歩踏み出した瞬間――足がもつれた。
「くっ……!」
右脚のふくらはぎ、深く裂けた傷から血が滲む。先ほどの戦いで、サラマンダーの爪を受けた箇所だ。
「……やべえ、追いつけねぇかも……!」
歯を食いしばって踏ん張るグレオを見て、エリスがロッドを握り直した。
「だったら――私が止めるわ!!」
エリスは森の逃げ道を見据え、詠唱に入る。
「<グラン・ヴァインズ>!」
地面が震え、森へ逃げ込もうとしていたサラマンダーの足元から、太い蔦が次々と伸びる。足に絡み、胴に巻きつき、最後には尾までも拘束され――動きを封じた。
「よくやった!――グレオ、今だ!」
その声に応えるように、グレオが地面を蹴った。
「おうよッ!!」
痛む足を引きずりながらも、渾身の力で跳躍する。そして振りかざされた大剣が――サラマンダーの頭部を、真っ二つに叩き割った。
最後の魔物が、断末魔を漏らすこともなく沈黙する。
森の縁に、焦げた土と立ちこめる蒸気の匂いだけが残された。
***
「アルガス様、腕の治療を……!」
ミーアが駆け寄ると、アルガスは座り込みながら振り返った。
「村人の治療は?」
「終わってます! ほんの数人でしたので……!」
「なら、グレオを優先してくれ。少し無理をさせた」
「……分かりました。すぐ、戻ります!」
ミーアは躊躇いながらも、森の端からゆっくりと歩いてくるグレオの元へと走って行った。
畑の隅で、崩れ落ちる村長の姿があった。
「ああ、畑が……! 全部、燃えてしまった……!」
「村長……命が助かっただけでも、ありがたいと思いましょうよ……」
「しかし……! こんな、こんなことが……!」
遠くで嘆く声を聞きながら、アルガスは前腕の焼けるような痛みに顔をしかめた。
そのとき――キィンという音と共に、冷気が患部に触れた。
「なっ……?」
見れば、薄い氷が腕を包んでいた。
エリスが肩で息をしながら、ゆっくりとロッドを下ろす。
「これで冷えるでしょ。応急処置だけどね」
「……雑、だな」
アルガスが眉をしかめると、エリスは目を逸らす。
「私の治癒魔法じゃ、火傷は治せないから……仕方ないでしょ」
彼女はアルガスの横に腰を下ろすと、静かに目を伏せて呟いた。
「……ごめん。私が突っ走ったせいで……」
沈黙が流れる。氷の冷気だけが、静かに辺りを満たしていた。
やがて、沈黙を破るように、アルガスが低く問いかけた。
「君は、何をそんなに焦っているんだ?」
静かなその言葉に、エリスの肩がわずかに揺れる。
「……焦ってる、か。そうね。否定はしないわ」
彼女はロッドをそっと握り直し、ぽつりと呟いた。
「祖父がね、ちょっと名の知れた魔術師で。古代魔術の研究をしてたの。……でも、最後まで完成できなかった魔術がひとつだけあって」
ひと呼吸置いて、続く声はどこか遠くを見ているようだった。
「本当は、もっと早く一緒に研究すればよかったのよ。なのに、怖がってた。知識も覚悟も足りなくて……踏み出せなかった」
言葉が途切れ、わずかに声が震える。
「気づいたら、もう遅かった。――だから、もうあんなふうに後悔したくないの」
アルガスは何も言わず、そっと視線だけを彼女の横顔に向ける。
「絶対に、完成させるって誓ったの。お祖父様が一生を捧げたあの魔術――それがどんな意味を持ってたのか、私が解き明かす」
その言葉を受けて、アルガスは目を伏せると、少しだけ声を和らげて返した。
「――それが、君の旅の理由だったんだな」
「うん。いろんな魔法を見て、世界を回って……古代魔術の痕跡だって探せるかもしれないって思ったの。だから、ついてきた」
エリスの肩が、わずかにすくんだ。
「でも……もうダメか。冷静さを欠いた行動をしたら、責任取らなきゃいけないんだもんね。私、早速やっちゃったじゃない……」
自嘲の混じった呟き。だが、アルガスは迷いなく口を開いた。
「……責任は、さっき取ってもらった」
「……え?」
「君の魔法がなければ、村の被害はもっと大きくなっていた。氷壁も、土魔法での拘束も……充分すぎる働きだ」
エリスは言葉を失い、しばらくアルガスを見つめた後、目を伏せた。
そして、ぽつりと小さな声で問う。
「……ついていっても、いいの?」
「……ああ」
アルガスは遠くの梢を眺めながら、静かに言い添える。
「それに、魔王が敵性勢力だった場合……『消し炭』にできる人材が必要だ」
「……っ、何それ」
思わず吹き出しそうになった声が、喉の奥で小さく揺れた。
「ほんと、理屈ばっかりね」
エリスは、そっとロッドを膝に置きながら、焚き火の名残のように微笑んだ。
その内に、アルガスの腕を包む氷が徐々に溶け、水が滴り落ちた。
「……まだ、痛む? もうちょっと冷やそうか?」
「いや、いい」
二人の間に、再び沈黙が落ちる。やがて、アルガスがため息をひとつ吐き、口を開いた。
「……そもそも、氷を直接患部に当てるのは推奨されていない」
「え?」
「流水にするとか、氷水で冷やすとか、やり方があるんだ」
「ちょっと、え、待って? あの……」
淡々と言うアルガスに、エリスの表情が怪訝なものに変わる。
「もちろん、冷却による一次的な血流の収縮は鎮痛に効果があるが、氷を直に当て続けると凍傷のリスクが――」
「ああ!もう、うっさいわね!!」
エリスは思わず立ち上がり、地団駄を踏んだ。
「こういう時は、素直に『ありがとう』くらい言ってくれない!?」
「不適切な処置に、礼は必要ないな」
「はぁーーーーっ!? あんたね! 燃やすわよ!?」
アルガスはそっぽを向く。だが、その頬が少しだけ緩んでいた。
ちょうどそこへ、治療を済ませたグレオとミーアが戻ってくる。
「アルガス様の治療……まだいいですかね?」
控えめに尋ねるその声に、グレオが笑って答えた。
「……あの氷が溶けるまで、待ってりゃいいんじゃねえかな?」
エリスが罵声を浴びせ、アルガスがそれをあしらう中、彼の腕を包む氷が静かに解けていく。
ぽたり、と落ちた水は、焦げた土に吸い込まれた。
それは、ただの水滴だったかもしれない。けれどどこかで、それは――
少しだけ溶け始めた心の、しるしかのようにも見えた。




