第8話 寄り道の村
馬車の車輪がきしむ音と、草原を撫でる風のざわめきが心地よく響いていた。
昼の暖かな日差しと、穏やかな風が心地よさを運んでくる。車内では、誰もがそれぞれの思考に沈みながら、車輪の音に身を委ねていた。
アルガスは窓の外に広がる景色をじっと見つめていた。なだらかな丘が続く中に、ぽつぽつと牧草地や林が混じる。地図と実際の地形を照らし合わせながら、ふと小さく首をかしげると、体を捻って御者に声をかけた。
「今、どのあたりですか?」
アルガスの問いに、前方から元気な中年の声が返ってくる。
「はいよ! ちょうど第二支線を越えて、西の尾根が見えてきたとこですね。ラグスノールまでは、もう半日といったところですかね」
その言葉に、アルガスは眉をひそめ、地図の一角を指で叩いた。
「……予定より遅れてるな。本来なら今日中にラグスノールに到着するはずだった」
座席の向かいで大剣を抱えていたグレオが、のんびりと窓の外を眺めながら口を挟む。
「そりゃまあ、商人たちの荷馬車が後ろについてきてるし、速度はどうしても落ちるよな」
「でも……あの商人さんたち、昨日治療したばかりですよね」
ミーアが不安そうに言葉を続けた。
「また野宿となると、回復しきってない身体にはよくないと思います。どこか途中で休める村に立ち寄れませんか?」
彼女の視線は商人たちを気遣うように、そっと後方の馬車へ向けられていた。
「えー、でもさ、無理やり夜まで突っ走っちゃえば着くでしょ? そんなに距離ないし」
エリスが背伸びをしながら、面倒くさそうに言うと、アルガスは淡々と返す。
「無理は避けるべきだ。正式な依頼ではなくとも、僕たちは護衛を引き受けた立場にある。安全に送り届けることも任務のうちだ」
「……真面目か、あんた」
エリスは小さく呟き、呆れたように目を細めた。向かいにいたグレオも苦笑しながら肩をすくめる。
「ま、そう言うと思ったぜ」
そのやりとりに、馬車の中にわずかな笑みと緊張のほぐれが生まれていた。
アルガスは再び御者に声をかける。
「この辺りに、寄れそうな村はありますか?」
「ちょいと北に外れますが……『コルニス村』ってとこが近いです。小さいながら、最近じゃ開拓が盛んでね。新しく畑や家を増やしてる最中なんですよ。井戸水も綺麗で、休憩所もできたばかりです」
「そこなら全員が休息を取れそうだな。よし、ルートを変更しよう。コルニス村へお願いします」
御者が頷き、手綱を引く。馬車の向きが少し北にずれ、林の間の小道へと入っていった。
***
馬車の車輪が乾いた土を踏みしめながら、緩やかな小道を進んでいく。昼過ぎに進路を変えてから数時間。林を抜けた先、小さな開けた集落が見えてきた。
「……あれがコルニス村か」
アルガスが呟くと、御者が手綱を引いて速度を落とす。
村は素朴な木造の家々が並び、煙突からは細い煙がのぼっていた。畑と風よけの柵に囲まれたその様子は、旅人の目にも穏やかな生活の気配を感じさせる。
やがて馬車が村の広場へと入ると、近くにいた村人のひとりがこちらに気づき、首をかしげながら近寄ってきた。
「おや、旅の方かい? こんな時間に珍しいな」
丸太のように太い腕をした、腰の低い中年男だった。農作業の途中だったのか、手には泥のついた鍬を持っている。
アルガスは馬車から降り、軽く会釈する。
「ラグスノールの商隊と、その護衛の冒険者です。日が落ちる前に、宿をとりたいのですが……」
「おお、冒険者のお方ですか! それは心強い……いや、ありがたい!」
男の顔がぱっと明るくなる。後ろから降りてきたグレオが軽く手を振ると、村人たちがざわざわと集まってきた。
「このあたりじゃ久しぶりに見るな、冒険者なんて」
「こりゃ今日は晩に酒を出さにゃならんぞ!」
にわかに賑わいはじめる中、年配の村長らしき男が、一行に近づき声をかけた。
「冒険者のお方……すまんが、ひとつ頼みを聞いてもらえんか?」
それを受けて、アルガスが一歩前に出る。
「何かお困りごとでも?」
「実は……ここ最近、うちの畑が何者かに荒らされるようになってな。野菜がごっそり消えるばかりか、畑そのものを掘り返されてしまうんじゃ」
「うわ、泥棒にしてもずいぶん手荒じゃねえか……いくら腹減ってたって限度があるだろ」
グレオが眉をひそめると、もう一人の村人が苦々しげに続ける。
「村長の畑だけじゃない。開拓で新しく作った区画の畑は、特に被害がひどいんだ。昨日はうちの若い衆が、森の近くで背後から襲われちまって。怪我をして、いま寝込んでるんだ」
エリスが眉をひそめた。
「それって、ただの盗賊とかじゃなくて……魔物の仕業?」
「ああ、そう思っておる。村人たちも恐れて、夜は外に出られん。どうか、魔物を退治してくれ!」
村長の懇願に、周囲の村人たちの視線も集まる。
アルガス達は一瞬だけ顔を見合わせた。
「……状況は理解しました。ただ、私たちは今――」
アルガスが慎重に言葉を選びながら口を開きかけた、その時。
「構いませんよ。どうぞご対応ください」
言葉を遮るように、背後から年長の商人の落ち着いた声が響いた。
「ここで一晩休めるなら、私たちも助かります。護衛を頼んだ身とはいえ、今この村が抱えている問題を見過ごすわけにはいきません。私たちは大丈夫です」
アルガスがわずかに眉を動かし、その表情をほんの一瞬だけ柔らげる。
「……ありがとうございます」
彼は軽く頭を下げると、村長に向き直る。
「では、明朝より調査を開始しますので――場所の案内を頼めますか?」
その言葉に、村長の顔が一瞬曇る。
「……明朝? できれば今すぐにでも、対応してもらえんか? また何かあったら……」
その声には切実な色が滲んでいた。背後の村人たちも不安げに顔を見合わせる。
「もうすぐ日が暮れます。この状態で畑や森を調査しても、視界は悪く、状況判断は困難でしょう。無闇に動けば、危険を増やすだけです」
アルガスは即座に淡々と返す。その声音には一分の隙もなく、論理と安全性を重んじた冷徹な判断があった。
「出たわね……ド正論」
すかさず、後ろからエリスの小さな声が漏れる。わずかに呆れを含んだその声に、村人たちが困惑したように視線を向けるが、アルガスは気にも留めない。
「それに――」と、アルガスは声の調子を変えた。
「被害に遭われた方がいるのなら、治療を優先しましょう。今、最も確実に対処できる問題から解決するべきです」
村長はしばし黙ったのち、深く息を吐いて頭を下げた。
「……分かった。無理を言ったな。まずは若い者の治療を、頼んでもよいかの?」
「もちろんです」
アルガスは即答し、背後へと声をかけた。
「ミーア、来てくれ」
「はい、すぐに」
ミーアは杖を手に歩み寄る。その歩調はやや早く、背筋からは張りつめた空気が伝わってくるようだった。
村人の一人が「こっちです」と促し、二人はその後を並んで歩き出す。
まだ柔らかく湿った土の小道を踏みしめながら、ミーアがそっと問いかけた。
「……アルガス様も、治療を?」
「僕は情報収集だ。処置中に軽く話を聞く」
ミーアは一瞬だけ戸惑うように目を伏せ、それから小さく頷いた。
「……分かりました」
短いやりとりだったが、その中には確かに、小さな信頼と、まだ越えきれぬ境界線があった。
***
夕暮れ時、残りの一行は村の宿屋で商人たちと合流し、荷物を下ろしていた。エリスは肩を回しながらあくびを噛み殺す。
「ずいぶん悠長な旅ね……今日はまともに街の宿屋で寝られると思ったのに」
「文句言うな。泊まれるだけマシだろ」
グレオが大剣を壁に立てかけながら苦笑する。
「それに、明日の朝には原因を突き止めて、さっさと解決して出発するんだろ? アルガスがそういう性格だし」
「まあ、この辺の森にいる魔物なら、私が燃やしちゃえばすぐ終わるかぁ……」
エリスはそう呟きつつ、窓の外を見た。
西の空にはすでに雲がかかり、遠くの地平に霞むような灰が広がっていた。村の畑に伸びる影の上に、ぽつり、ぽつりと水滴が落ち始める。
「なんかあいつ……理屈捏ねてる割には、お人好しよね。いや、見返りがあるとか、そういう打算なのかしら」
皮肉混じりに呟いたエリスに、グレオは少しだけ笑って答えた。
「さあな。でも、あいつは……理屈を『盾』にしてるだけだよ。本当は、誰よりも――」
そこで言葉を濁し、視線を外す。
「……ま、本人が認めるかは別だけどな」
雨音が少し強くなり、屋根を静かに叩く音が部屋に広がっていった。
寄り道の村に、雨が降る。
そして――雨に煙る森の奥、何かが這うような気配が一瞬だけ通り過ぎた。そのすぐあと、不自然な『赤』が、一瞬だけ揺れた。
火の気配などあるはずもない。湿った風の中で、確かに灯った――その小さな炎。
それはまるで、何かがこちらを見ているかのように、静かに揺らめいていた。




