第1話 勇者アルガス
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剣は鈍く、魔法は霞のごとし。
その身に力は乏しくとも、彼はただ『言葉の刃』を以て、世界を動かした。
名をアルガス。
彼はあらゆる強権に異を唱え、あらゆる戦いに問いを投げかけ、
言葉の力で、論理と真実をもって混迷の時代を切り開いた。
――『第九紀・勇者記録集成』(大陸暦1482年/王立史料院 編纂)より抜粋
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荘厳な玉座の間には、静かな緊張が漂っていた。
重厚な柱が並ぶ広間には冷たい空気が満ち、王が玉座から威厳ある声を響かせる。
「勇者アルガスよ! そなたに命ずる。『魔王』を討ち倒してまいれ!」
広間の中央で跪くのは、一人の青年。彼は一瞬の沈黙の後、ゆっくりと顔を上げた。その黒髪は滑らかに光を反射し、紫紺の瞳には冷静な光が宿っていた。
「陛下。そのご命令、少々お待ちいただけますか」
その言葉に、王の側近たちは驚きの表情で顔を見合わせ、ざわめき始める。王も眉をひそめ、玉座の肘掛けを握りしめながら低く問いかけた。
「どういうことだ?」
アルガスは静かに息を吐き、ゆっくりと膝を伸ばして立ち上がった。
「失礼を承知で申し上げますが、『魔王を倒せ』という命令は、いささか短絡的で慎重さを欠いているように思います」
王は目を見開き、広間の空気が凍りつく。
「短絡的だと? 魔王が北の大地に君臨しておよそ百年――多くの街が魔物に襲われ、領土の半分を失ったのだぞ!」
王はアルガスを指差し、言葉を続ける。
「そなたは神託で選ばれた勇者だ。魔王を倒すのが道理であろう!」
王の語気は鋭かったが、アルガスの声は冷静だった。
「確かに、私は神託によって選ばれました。そして、それを誇りに思っています」
一呼吸置き、彼は静かに続けた。
「ですが、神託が告げる『勇者』とは何を指すのでしょうか?」
「『何を指す』も何も……勇者とは、民を脅かす魔王を討ち倒す者であろう」
王の声には苛立ちが滲んでいた。だが、アルガスはゆっくりと首を横に振る。その表情には揺るぎない信念が宿っている。
「それは一つの解釈にすぎません。神託が私に示した言葉は――≪影に沈む世界に、遍く光をもたらせ≫。魔王を討つことは手段であり、民に安寧をもたらすことこそが真の目的ではないでしょうか?」
王は険しい表情のまま黙り込む。広間には張り詰めた空気が漂っていた。
「……ならば、そなたの考えでは、どうやって『安寧』をもたらすのだ?」
アルガスは真っ直ぐに王を見据え、静かだが力強い口調で答える。
「まずは情報収集と状況の精査が必要です。魔物の被害が本当に魔王によるものか確認し、可能であれば対話を試みるべきです」
「情報収集に、対話だと?」
「状況を誤解したまま行動すれば、真の問題を見逃す恐れがあります。それどころか、さらなる混乱を招くかもしれません」
「話し合いが通じなかったらどうするつもりだ?」
「その時は――剣を抜きます。そして、必要とあらば命を賭ける覚悟もできております」
毅然とした彼の言葉に、謁見の間に重い沈黙が流れた。
王は口を閉ざしたまま、深く思案に沈む。側近たちは息を潜め、誰一人として動こうとはしない。
石造りの柱に響くのは、遠くで鳴る風の音と、どこかで滴る水音のみ。玉座の間はまるで時間が止まったかのように、凍りついた。
――やがて。
王はわずかに目を伏せ、ゆっくりと顔を上げた。
「……分かった」
その言葉は静かだが、重みを持って響いた。
「勇者アルガスよ、そなたに全てを任せよう。魔王の居城へ赴き、交渉を試みるがよい。もし交渉が不可能であれば、そなたの判断に委ねる」
言葉が終わった瞬間、謁見の間はさらに深い静寂に包まれた。誰もが王の決断の重さを感じ取り、思わず呼吸を忘れる。
アルガスはその言葉を、慎重に受け止めた。
そして、ほんの一瞬、目を閉じる。
(……託された)
胸の奥に、確かな責任の重さが落ちてくるのを感じながら、彼は静かに目を開けた。
「ご英断に感謝します、陛下」
その声は、感情を抑えながらも、しっかりとした響きを持っていた。
アルガスは深く一礼し、その身を低くする。
しかし――
「ところで」
彼は、すぐに顔を上げて言葉を付け加える。
「この旅には多大な資金が必要です。武具の補充、情報収集、現地での活動費用……国からの支援を、ある程度見込んでもよろしいでしょうか?」
その言葉に、広間が再びどよめく。王は眉間に皺を寄せ、重々しい声で返した。
「資金とは、具体的にどれほど必要なのだ?」
アルガスは一拍置き、毅然とした声で告げる。
「ここ王都ルヴァリアから魔王城までの行程を考えますと――」
彼の説明は丁寧で具体的だった。交通費、宿代、装備品や消耗品――必要経費を次々と挙げるたびに、王の表情は次第に険しくなっていく。
「……ざっと一千万ゴールドは必要かと」
王は目を丸くした。
「一千万ゴールド……だと? 国家予算の一割近いではないか……!」
玉座の肘掛けを握りしめたまま、しばし言葉を失う。
その視線は、アルガスの顔を探るように見つめていたが、彼の表情は微塵も動かない。
「……冗談ではなさそうだな」
王は額に手を当て、深く息を吐く。アルガスは宥めるように手を差し出し、冷静に続けた。
「確かに大金です。しかし、この任務が成功すれば、被害を受けた農地や交易路が復興し、国の税収も増加します。それらを考えれば、十分に回収可能な投資ではないでしょうか?」
長い沈黙の後、王は軽く手招きし、側近を呼ぶ。いくつか言葉を交わして頷き合うと、側近は下がった。
そして、王は渋々と口を開いた。
「勇者よ、五百万ゴールドを支援しよう。それ以上は現実的ではない。残りはそなたが旅の中で工面せよ」
アルガスは小さく頷き、言葉を継ぐ。
「その条件を受け入れましょう。ただし、資金を工面するためには活動の自由が必要です。各地での通行許可証や税制の優遇措置をいただけますか?」
王は唸りながらも承諾する。
「よかろう。特別許可を出す。それで不足はあるまいな?」
「賢明なご判断に感謝いたします」
青年は深く一礼し、薄く微笑んだ。
***
重厚な扉が静かに閉じる。
謁見の間を出たアルガスは、ひとつ大きな息を吐いた。彼は普段と変わらぬ無表情のまま、わずかに視線を彷徨わせた。
そして、自分に言い聞かせるように呟く。
「……まあ、内容はまずまずだったか」
国王との交渉は、彼の予測より少しだけ上のラインに着地していた。
(意外と話の分かる方だったな。もっと強硬に来るかと思ったが……)
ほんのわずかに、表情が和らぐ。
(これなら、『軍属になる』と提案するのもアリだったか?)
だが、それも一瞬。すぐにその瞳が鋭さを取り戻した。
「いや、それでは教会が黙っていない……か」
呟く声は低く、しかし冷静だった。
アルガスは廊下の窓から、城下に広がる街並みを眺める。そして、その視線は高くそびえる白亜の尖塔を捉えた。
――それはルクシス教会の聖堂。
この国において、王権と並ぶもうひとつの大きな力。
(王国軍と結託すれば、僕は彼らにとって『制御不能な異物』になるだろう。二百年ぶりに選定された勇者を、『教会の威信回復の道具』にしようとした奴らだ……)
「これが、落とし所だ」
小さく、だが確信に満ちた声で呟いた。そして無意識に握っていた拳を開き、視線を落とす。
「僕はこの道を行く。誰にも縛られやしない」
ひるがえる外套。歩き出したその足取りに、迷いはなかった。
王城の廊下に、規則正しい足音が響く。
「さて、魔物被害の調査に、魔王の思惑の確認と……教会の動向への警戒。独りでは流石に無理があるな」
そう口にした後、アルガスはわずかに視線を上げ、どこか遠くを見つめるように呟く。
「――『あいつ』は、酒場にいるだろうか……?」
その言葉には、かすかな懐かしさと期待が滲んでいた。
彼は歩を進め、冒険者の集まる酒場へと向かった。
***
酒場の扉を押し開けた瞬間、ざわめきと酒の匂いがアルガスを包み込んだ。木のテーブルと椅子が雑然と並び、冒険者たちの笑い声と割れるグラスの音が響く。
彼は店内を見渡すと、人混みを避けて奥へと進んだ。床にこぼれた酒が靴底を軽く吸い付ける中、遮るように二人の男が立つ。
「お前……『勇者』に選ばれたアルガスって奴だよな?」
「へえ、実物は案外ショボいな。ソロで草むしりばっかやってるって噂、マジだったかぁ?」
嘲笑混じりの言葉に、アルガスの動きが止まった。男二人は気にも留めずに話を続ける。
「そんな奴が、よくもまあ勇者ぶって外歩けるよなあ? ハハ」
「護衛してやろうか? タダとは言わねえが、今なら特別価格でな」
あからさまに見下した目と、ニヤついた薄ら笑い。周囲からも、薄く笑いが漏れる。
アルガスは、わずかにまぶたを伏せた。
何度も聞かされてきた。剣も魔法も冴えない『底辺冒険者』――その評価は、誰より彼自身がよくわかっている。
(なぜ自分が選ばれたかなんて、僕にも分からない。それでも――)
アルガスはゆっくりと、男たちに視線を向ける。
「冒険者になって、もうすぐ六年だ」
「……あ?」
「この六年間、僕は採取依頼を585件受けている。そのすべてで、評価は良以上。納品物に不備なし。遅延なし。失踪なし」
男たちは眉を動かすが、彼は構わず続ける。
「対して、君たちはどうだ?先月、鉱石採掘の依頼を受けて失敗したな」
一瞬で男たちの顔から笑みが消えた。
「記録にも残っている。納品量は規定の半分、品質も最低ランク」
視線を鋭くするわけでも、語気を強めるわけでもなく。ただ事実を列挙する。
「報告では『魔物に追われた』とあるが、実際は酒場の喧嘩で無駄な時間を潰し、採掘地への到着が遅れた。その挙句、他のパーティとトラブルになり、採掘を諦めた」
「な……なんでそれを……!」
「情報は巡る。それを理解しないから、君たちは『その程度』なんだ」
そして、アルガスは少しだけ、わざとらしく首を傾げる。
「最低限の依頼すら満足にこなせない者が、他人の評価を語るのは滑稽だと思わないか?」
ざわついていた酒場が、徐々に静まる。
アルガスは最後に、ほんの僅かに口角を上げた。
「僕は『強い』同行者を探している。君たちは――お呼びじゃない」
周囲の視線が、嘲笑混じりにチンピラへと向けられる。男たちの顔が、みるみる赤黒く染まった。
「てめえっ、調子に乗るなよ……!」
怒声とともに、男が掴み掛かろうとする。
その瞬間。
「おい、やめろ!」
低く鋭い声が飛んだ。
場の空気が張り詰める。振り返った先に立っていたのは、一人の屈強な男。
鋭い目と精悍な顔立ち、無駄のない立ち姿に、背負った大剣。それだけで場の空気が張りつめる。
「……グ、グレオさん!?」
チンピラ二人の顔から血の気が引く。
「こんな場所で騒ぐな。酒が不味くなるだろう」
グレオと呼ばれたその男――淡々とした声音だが、圧は尋常ではない。
「す、す、すみませんでした!!」
顔を引きつらせた二人は、慌てて身を翻し、酒場を飛び出していく。
扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。
酒場に静けさが戻る。
グレオは一度ぐるりと見渡すと、ふっと口元を緩めた。それはさっきまでの厳しさとは違う、少し柔らかな笑みだった。
「大丈夫か? アルガス」
「……ああ、問題ない」
アルガスは無表情のまま応じたが、ほんの僅かに肩の力を抜いた。
グレオはそれを受けて、わずかに頷く。
そして、すっと身を傾け、アルガスの顔を覗き込むように視線を合わせる。短く刈られた茶髪が、わずかに揺れた。その目は鋭さを残しつつも、どこか懐かしげな色を帯びている。
「久しぶりなんだ。ちょっと話そうぜ」
アルガスは一瞬だけ視線を巡らせてから、静かに頷いた。
そして――二人の『再会』は、次なる一歩へと動き出す。
初めての小説執筆なので、拙い部分も多いかもしれませんが、温かく見守っていただけると嬉しいです!
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※追記(2025.04.05)
1話〜旧35話まで、大幅改稿を開始しました。
※追記(2025.07.24)
大幅改稿は途中で挫折しております。エタる直前でしたが、なんとか持ち直したのでそのうちちゃんと改稿します。