9. 逃げるって何だっけ
そうだスライドガラスっていうんだっけ。顕微鏡に乗せるアレ。
アレっぽい鉱物の薄い板が大量に挟まれていく百科事典を、桐花は呆然として見ていた。
覚えるって何を? 全て。
宣言どおり、ラウー・スマラグダス中佐は幽霊船内の残存物の形状を全て記憶してしまったようだ。博物館か図書館か、人類の叡智の欠片と呼ぶ品々を収蔵した資料館に戻るなり、中佐はスライドガラスなしおりを挟み始めた。挟まれすぎた事典は扇状の半開きになっている。
「訳しておけ」
と、皮紙らしき山と金属製のペン、インク壷を並べる。
「いつまでに?」
「眠るまでに」
終わるまで寝るなってことかー!
箱舟空母でもらった、魚っぽい何かと芋っぽい何かを焼いた料理っぽい何かのおかげで、激しく眠い。ドブネズミ色になった服も予備のすとーんとした白服に着替えて快適だ。さらに図書室の静けさと午後のサンルーム的温かさなど加わったから、極上の昼寝タイムだ。
桐花はフフリと笑った。
「ムリです」
と日本語で言ってみる。
「定例会議がある。夜に戻る」
桐花が和英辞典で労働基準法の項目を探しているうちに、中佐は行ってしまった。机に突っ伏す。その嘆きの姿勢のまま意識が睡魔に持ち去られそうになったが。
いや待て。
重大な局面だと思い当たった。
ラウーがいない。籠にも石棺にも入れられてない。すなわち逃げる絶好のチャンス!
顔を上げたら、木彫り放浪僧風の老兵と目が合った。部屋の入り口に半身だけ覗かせてじっと立っている。ものすごく見張っている。妖木のような威圧感だ。桐花はがんばって見返した。
こんなちっさなおじーちゃん兵なら、蹴倒して振り切って逃げられるんじゃないかな。
敬老という脳内辞典の項目が開きそうになるのを必死で閉じる。
「中佐は」
脳内辞典の封印に成功しかけた時、妖木がしゃべった。
「あの子は眠ったか?」
カサついた小さな声だが、桐花に老人虐待を忘れさせるに十分だった。
「あの子は食べていたか?」
淡々とした質問だった。
「あの子は休んでいたか?」
桐花は記憶を探った。眠っていない。食べていない。休んでいない。桐花の知る限り、ラウーは働き続けていた。疲労の一片も見せずに。
「そうか」
悲しんでいる、と桐花にはわかった。老兵の眼差しも口調も変化がない、それでも桐花には老兵が泣いているのがわかる気がした。じょうろがあれば足元に水をやりたくなるほどに。
「あの……ラウーはユピテライズなんですか?」
異色の瞳、桁違いの記憶力、疲れ知らずで働く身体。訊くと、老兵の落ちくぼんだ目がギラリと光った、ように感じた。
「ごめんなさい。馬鹿な質問をしました」
桐花は素直に謝った。ユピテライズであろうとなかろうと、人が人を心配するのに条件などあるだろうか。
石のベンチに腰を下ろす。背筋をシャピンと伸ばして頬を叩く。百科事典と和英を開き、桐花は膨大な宿題に取りかかった。英語は上手でなくても、すばやく確実に要点をとらえる国語力は書店の娘として自信がある。
皮紙を文字で埋め尽くす。右手で書きながら左手でページをめくり、文をなぞる。埋め尽くす。
陽光は暖色を濃くして弱くなる。桐花の世界より大きな月が強烈な明かりとなったが、次第に雲が出て暗くなる。老兵が黙ってランタンと新しいインク壷を置いていった。食事っぽい何かもあったが、ペンを走らすうちに忘れた。
「よし、ラストいっこ……」
最後の翻訳を終えて天を仰ぎ、桐花は大きく息をついた。文字との真剣勝負は常に気分がいい。脳に酸素と栄養が行き渡るようだ。
ふと思いついて、皮紙の末尾に書き足す。
眠ってください、食べてください、休んでください。彼が心配してます。
「トカ。トカ、起きて」
肩を揺らされている。
「あと五分……」
「助けに来たよ、トカ」
切迫した潜めた声。非常事態の気配が桐花の心臓をドクンと暴れさせた。眠気が弾け飛ぶ。
上体を起こす。場所は変わらず資料館の閲覧用小部屋だった。
しかし景色が変わっている。火を細く細く絞ったランタンの濃い橙の光に、若草色の衣服を着たネイティヴの青年が浮かび上がっている。集う家のデーデ。
文字で埋まった皮紙の山がきれいに整えられている。金属ペンのペン先はインクがしっかり拭き取られ、インク壷のふたもきちんと閉められている。桐花はそんなマメな整頓をした覚えはなかった。
ただ、百科事典だけは閉じた記憶があった。しかし参照したはずのないページが開かれている。挟まれすぎたしおりのせいで開いたようだった。
「木彫りおじーちゃんは?」
「帰ったようだ」
通じてるのがスゴイ。
机の上は老兵が帰る前に片付けていったのだろう。桐花は腕をさすった。石の机に突っ伏して寝ていたせいで冷えている。
疲れた乙女が事切れているというのに、保護したのは資料だけか。毛布をかけてやるとかいう配慮はないのかっ?
しかし老兵の上司があの中佐であることを思い出し、桐花はあっさりその行動に納得した。
「警備兵は吹き矢で眠らせて隠してきた、今なら逃げられる」
「逃げる?」
戸惑った自分に、桐花は驚いた。
ずっと逃げたかった、心底こりごりしてた、だけどこんな挨拶もなく隠れて消えることになるなんて、いやそれこそが逃げるって意味のはずなんだけど、でもでも。
「いやちょっと待って、一応こう、書き置きというか恨み言というか」
「早く出よう、友人が待ってる」
「友人?」
のそり、と返事するように廊下から影が姿を現した。胴長短足で、たれ耳が地に着きそうなほど長い。目はドッシリと思慮深そうだ。毛は白に茶色のぶち。
犬。
「こいつがトカの匂いを嗅ぎつけてくれた。ヨシヨシよくやってくれたね、ハハ、ハハハハそんなに舐めるな、あっ耳はダメっ」
デーデはとろけそうな笑顔で頬ずりに夢中になっている。ばわう、と犬が小さく吠えた。
「そうだった、逃げなきゃ。行くよトカ、紫の洞窟でマザー・ガウフが待ってる」
「マザー・ガウフ?」
すらりと濃い眉をひそめて、デーデは哀しげに嘆息した。憂いのアジアンスターといった趣だ。
「どうしちゃったんだ本当に。誇り高き才女の君が、マザーさえわからないなんて」
トカの母親か、と桐花は合点する
「マザー・ガウフは心配してる。癒す家のチボが、トカを死者の船で見かけたって。いくらなんでもそんな、罰当たりなことしないよね。できるわけないよ」
幽霊船のことらしい。ラウーに蹴り伏せられたが見られていたようだ。デーデは否定の言葉を信じきった、曇りのない瞳をしている。
ごめーん、それホント。それに鯨も食べちゃった。おいしかったよ!
言えない。
桐花が口をもごもごさせていると、犬がまた小さく吠えた。
「そうだった、逃げなきゃ。行くよ、トカ」
待って伝言っていうか捨て台詞っていうかアバヨとか、何か残していかなきゃいけない気がする!
犬が走り出し、デーデが走り出し、早く、と急かされる。桐花は焦って周囲を見回した。英和と和英と二冊の辞典を抱え、なおも焦って見回した。
「早く!」
ああもう!
緊迫した口調に負けて、桐花は扉へと駆け出した。
紫の洞窟で待っていたのは、大ババ様だった。
あんたが母親でたまるかー! と叫びたくなるのをこらえてその前へ行き、桐花は改めて洞窟内を見渡した。
かがり火が、洞窟内を隙間なく埋めた紫水晶の柱を照らしている。一本一本が大人二人で抱えても届きそうにないほど太くて大きい。打ち付ける波、柱の先からぽたぽたと落ちる無数の滴の音が重なり合って、音楽を奏でているようだ。
デーデと桐花と犬は人目を盗んで市街を抜けてきた。闇夜に降り出した雨が煙幕となって味方して、兵士はおろか誰にも会わずにすんだ。
長いはしごを伝って海へ下り、イルカに乗って外海へと向かった。幽霊船とは湾を挟んで向かい側にある岬に沿って進んだ。屈まないと頭をぶつけそうに低い入り口をくぐれば、そこが紫の洞窟だった。満潮時には深い海に沈むのだろう。
水晶群はかがり火が揺らめくたびに色と表情を変える。ずっと眺めていたい桐花だったが、大ババ様、マザー・ガウフのしわに埋もれた茶色の瞳でじっと見据えられ、イルカの上でかしこまった。「マザー」が一族の女系の長という意味らしいと気づいたからだ。
「よく帰った。我らが娘、紡ぐ家のトカよ」
老いて震える低い声で、大ババ様がのたまう。桐花はただいまと返すべきか迷った。
「集う家の、デーデよ、ご苦労だった」
「いいえ、統べる家のマザー・ガウフ、苦労など何も!」
デーデは犬を抱えたまま深く頭を下げる。
「全てこの鼻の良い友人のおかげなのです」
「そうか。苦労を、かけた」
「友人へのねぎらいのお言葉、感激です!」
あのさーデーデ。大ババ様はデーデを人払いしたがってるんだと思うんだけどなー。
「もうよい」
「良くはありません! トカのことも、こうまでご心配いただき……わあ、どうした!」
デーデの腕から抜け出た犬が、洞窟の入り口へと泳ぎだす。短い足フル回転で意外に速い。気配にさとい脱走犬をイルカで追いながらデーデは、マザー・ガウフ、失礼しまーすと叫んで消えた。
ちゃぷん、ちゃぷんと脱力感を増幅させる波音が響く。
顔と気立てはいいのにな……全くだ……と桐花は大ババ様とアイコンタクトしてしまった。
「雨で、寒かったろう」
大ババ様は水筒らしきモノをかぽりと開けた。石製だがフェルト状の布で保温されており、筒からはほんのり湯気が立ち昇る。
雨に打たれてきたし、イルカに乗っていると足先は海に浸かりっぱなしだ。寒かった。
大ババ様には軍医送りされて良い印象がなかったが、あれもデーデと同じく、トカのユピテライズを懸念してのこと。桐花は水筒を受け取った。
「おまえは、仮にも、紡ぐ家の娘だ」
ゆっくりと単語で区切りながら、大ババ様が話を切り出す。桐花は茶っぽい何かに口をつけながら曖昧に頷く。
「診察や、勾留のあいだに、我らの刺繍を、話したりは、しなかったろうな?」
『紡ぐ家』はネイティヴの家系や歴史を刺繍で記録・保管する一家だ。
ラウーの講義を思い出す。尋問するような大ババ様の口調から、刺繍される事柄には軍に知られたくない内容もあるらしかった。
「ええと……たとえば?」
「薬。金属。鯨の、回遊路。金属」
大ババ様、金属を二回言ったよ? 大事だから?
内心で突っ込んでから、桐花はハッとした。大事だからだ。
空中の城塞都市で、金属はほとんど見かけなかった。ラウーの鎧とペンくらいだ。石鎧兵士の剣は石を磨いたものだった。木も。およそ桐花の現実世界で使われる木製品や金属製品は、ここでは石で出来ている。石が豊富だからというだけじゃない。
この土地は垂直に近いほど切り立った岩山か、狭くて急な傾斜地ばかりで、木材は貴重なのだ。いかだは実は超高級住宅なのかもしれない。
同様に金属が採れないか、採れても製錬加工する技術が失われているのか。
「いえ、してまひぇん」
舌がもつれた。
「白魔が、拷問を、したな」
ラウーの拷問が決定事項で語られている。それはもうと答えかけて、桐花は首をひねる。無体な扱いを受けたが、口を割らせようという意図は感じなかった。むしろこの世界について教えてくれた。
「人類の宝を教わりました」
おかしな沈黙。
「やはり気が、触れたか」
待って! 激しい語弊があった!
「ユピテラーイの、ふりをし、刺繍と引き換えに、やつらの保護を、ゲホゴホッ、カーペッ、受ける気かとも、思ったが」
「ええっ? ま、待って、わた、わたひは」
舌が回らない。
「そそ、そういふ、しゅ、趣味は」
指から水筒が滑ってイルカの背に落ちる。ピギッという抗議が遠い。
「一度、死者の船に、乗れば、戻ることは、ならぬ」
視界が回り出す。二本の赤い幕が近づいてくる、幕じゃない、あの色には覚えがある、兵士の服。隠れていたのか。
「死出の、船へ」
「父なる精霊の腕へ!」
唱和する兵士の声が耳にこだます。
「我らが友人、鯨たちの、霊を、鎮めるため」
「我らも差し出さねばならぬ!」
腕をつかまれているはずなのに、自分の体は空気との境目もわからず、上も下もない。
「精霊の嫁よ、一度は内諾、しておきながら。恐れをなして、気が触れるとは、情けない」
「海の精霊の元へ!」
トカ。
桐花は意識だけで語りかける。
逃げたんだね。ネイティヴの友人である鯨、帝国軍に狩られた鯨たちを慰めるため、海に捧げられることになったんだね。だからどこでもいい、とりあえずどこかに逃げたかったんだね。
お互い、貧乏クジ引かされたんだね。
うん、でもこれは夢だから。謎が解けたところで起きようじゃないか。
……夢じゃないと困る。