表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
青い鳥ルーレット  作者: シトラチネ
青い鳥ルーレット
8/68

8. 北極風と太陽

 空母とおぼしき巨大箱舟に、幽霊船は横付けされていた。

 木靴のようにどっしりとした船体は表面が剥げ落ち、高波が来れば今にも真っ二つになりそうだ。三本備えられているマストは折れ、濁った灰色のロープやぼろ布に埋もれている。波に揺られるたび、木の精が拷問を受けているかの耳障りな摩擦音がした。

 空は太古の青色で晴れ渡っている。紅の墨流しで染め分けられた木星が、櫛の歯のごとく突き立つ岩山から覗いている。

 背景がどれほど美しくても、美しいほど、幽霊船は異質さを際立たせていた。

「キャラック船だ。創造主のビリヤード直前のものだな」

 中佐は箱舟空母への渡し板を心持ち足早に渡る。

「軍用船じゃねーな。つまらん」

 大佐は渡し板をしならせながら軽快に渡る。

「あの、あのっ」

 この板、生きてるんじゃなかろうか。

 桐花は二隻の船の揺れの周波の違いが生み出す複雑な運動により、猿さえ鮫の口へまっ逆さま確定なうにゃんうにゃん曲がる渡し板を前に、足止めを食らっていた。

 ん? と黒い頭だけが反応して振り返る。

「あーそうだよな、俺の嫁候補は俺がエスコートしないとな!」

「私の助手です」

 すでに幽霊船へ渡りきった金の頭が、微動だにせぬまま訂正したのが聞こえた。

 平地を歩いているかのごとく、足元も見ずに大佐が引き返してくる。物理の法則さえ筋肉でねじ伏せてるに違いない、と桐花は思った。思った瞬間、ガッと抱き上げられる。重力の糸を引きちぎったかの豪快さ。腕の中で桐花をポンポンと小刻みに跳ねさせ、姿勢を修正する。

 慣れてやがる。

 だけどすごいぞ安定感! 落っことされる不安なんて微塵もない! たくましい、頼りになる、わああニカッと笑ってくれちゃって、心も腕も包容力抜群だ!

「いくぞー、それーい」

「は?」

 桐花はその言葉が終わらぬうちに、宙を舞っていた。

「ギャー!」

 投げられた途端、桐花の体に重力の糸が巻きついてくる。

 首をねじまげて落下地点を探れば、幽霊船の甲板。腐れ朽ちた木の板、帆布だったとおぼしきドブネズミ色の繊維の成れの果て。致命傷になるほど固くはなさそうだったが、空から落ちた人間の破壊力についてほのめかされたばかりだ。甲板を突き抜け、船倉と船底を破り、結局鮫の餌じゃないか!

 ポン、ボテッゴロゴロゴワン。びちょ。

 雨風にさらされてきたのだろう、ぐっちょり濡れたドブネズミ色の布の山にうつ伏せながら桐花は、そんな擬態語および擬音語があてはまる経緯を推理してみた。

 びちょ、は考えるまでもなく、いまこの瞬間にも桐花の白い服をドブネズミ色に染めつつある湿った帆布だ。

 ゴワン、は陶器の壷を蹴った音らしい。

 ゴロゴロ、は体のあちこちが痛むからわかる。

 あれ、ポン、は?

「これは人類の文化遺産だ」

 三歩ほど離れた場所で、中佐が錨らしき錆の塊を調べている。

「おまえの体は壊れても痛手ではない」

 うん、それは今までの仕打ちで痛感してるけど、わざわざ口で駄目押ししなくてもいいだろう!

 ズルリと水気を含んだ上体を腕立ての要領で持ち上げる。髪を留めていた乾燥ワカメが水で緩んだのか、黒髪が滝のように肩へ流れ落ちてきた。

 手を差し伸べようとしてくれていた案内役石鎧兵士が、ホラー映画鑑賞中の顔でヒッと唇を引きつらせた。ものすごく逃げ腰な手を借りて立ち上がる。

 ありがとう、と言ったら蒼白の兵士はブルブルと首を振り、なぜか中佐を指差し呟いた。

「今日こそ世界の終末です」



「桐花。私は覚えるから、重要だと感じるものがあれば示せ」

「覚えるって何を?」

「全て」

 だから何の全てを? と聞き返す隙を与えず、金属鎧の背中は甲板を眺め渡しながら船首の方へ行ってしまった。とにかく追うかと踏み出した帆布の下は、甲板が腐り落ちていたらしい。嫌な空振り感とともに重力が桐花の足をつかんだ。

「おっと嫁候補、危ねーなあ」

 ギャーと叫ぶより前に引き戻される。桐花の腰に巻きついた太い腕は、穴から伸びる重力の指をいとも簡単に振り切った。

 なんて頼もしいんだ大佐、嫁候補を船から船へ投げ渡す暴挙なんて許してあげたい!

 桐花が礼を言うと、大佐が笑う。磨かれた銅色の肌に白い歯が映えてまぶしい。

「なんの。ラウーが覚える前に壊したりしたら、死んでもネチネチ言われそうだからな!」

 騎士道精神でなく保身だったのか。

「動かしてもダメだ、あいつはそっくりそのまま記憶するだろ。は、知らん? あいつが覚えられないことなんかこの世にねーぞ、ユピテライズだもんな!」

 え、と仰いでも快活な笑顔は止まらずにこう続けた。

 そりゃそーだろ、あの目、ありゃ普通の人間じゃねーだろ? おまけに白魔だ。は、知らん? ネイティヴは帝国軍について情報規制でもしてんのか? 不届きだな!

 あいつはまー軍規だの軍人の名前所属階級だの、会議での発言だの、戦地で何人何羽の部隊を率いてどう展開してどんだけ戦果と被害があっただの恐ろしく正確に覚えててさ、書記官を路頭に迷わすつもりとしか思えないね! あー能力を悲観して出家しちゃったヤツもいたね!

 俺の可愛い愛人たちの誰に何のプレゼントをしたかも覚えてくれねーかな、ムリだろーな、興味がなけりゃ一瞬で忘れやがるからな。

 まーだからこの幽霊船も丸ごと覚えちまえば、わざわざ持ち帰んなくてもいいわけ。昼間に堂々とそんなことしてみろ、死者の世界のもんを持ち込んだ、ってんでネイティヴが暴動起こ……。

 あれっ嫁候補、おまえネイティヴだろ、幽霊船に乗ったりしていいのか? 死出の船だろネイティヴにとっちゃ! 禁忌の象徴なんだろ!

 わー噂をすりゃ来たよ来たよ、めんどくせーなもう。

「アダマス帝国軍よ! 我々は、ただちにこの棺を海の精霊へ返すことを要求する!」

 野太い声が響き渡った。



「海の父の腕へ!」

「精霊の元へ!」

 船外でシュプレヒコールが渦巻いている。大勢の喚声に、幽霊船のどこかがまた苦しげに呻いた。

 何事か、と桐花は舷へ首を伸ばす。ネイティヴだ。イルカにまたがったすとーんとした色とりどりの衣服たちが何十と、幽霊船を包囲している。

 直後に背中に覚えのある衝撃波を受けて、桐花は甲板へと沈没した。

「大佐、屈んでください。帝国軍に損害を与えたいなら、にっこり笑ってネイティヴに手を振ってやってください」

「おまえはもー、非常時でも感心するくらい嫌味だよなー」

 大佐の口調は伸びやかだったが、サッと風の軽さで甲板に伏せた。桐花は背中にブーツ裏だけでは説明できない重圧を感じながら、泥水くさい帆布から必死に鼻を背ける。もろくなった板が、腹の下でミショッと不吉な音を立てた。

 立ち上がったらまず最初に和英辞典の「人権侵害」の項を突きつけてやる、と心に誓ったが。

「大佐もおまえも、この船にいるのを見られると戦略上の不利益だ。見られたか?」

 さあ、船上からネイティヴが見えたからといって、見られたとは限らないんじゃないかなーイタタタ、背骨ゴリッていったゴリッてー!

「私はアダマス帝国軍のスマラグダス中佐だ。気を静めていただきたい。今朝にも申し上げた通り、この船はしかるべき調査を終えたのち外海へ曳航し、自然の手へ委ねることを、誠心誠意約束しよう」

 乙女の背中を踏みつけながらで何が誠心誠意かっ。

 大佐も伏せたままウンウンと頷き、中身をごっそり頂戴したあとでな、と小さく補足している。しかしネイティヴは納得していないようだ。

「調査が不要と言っている! 今すぐ父の御手に返さねば、精霊たちの怒りをかうことになるだろう!」

「帝国軍が鯨たちを食べるから、すでに海の精霊はお怒りだ! この船がその証だ!」

「死者の船を海へ!」

 やまぬ抗議に、大佐がハーアとため息をこぼしている。

「あのさー、嫁候補。帝国軍もネイティヴも、互いの腹を探り合いながらの共存にはもういい加減、ウンザリしてんだろ? 西の島とか南の海とか、立ち向かうべき脅威が外にいくらでもあるってのにさ。内輪もめすんのは損だと思うだろ? 和平のシンボルがいるだろ、なあ?」

 事情はよくわからない。だが黒い目が真剣そうなので、桐花はハイと頷いておく。よしそれなら、と大佐は満足げにニカッと笑った。

「婚約だな! この件が落ち着いたら発表す」

「私の助手です」

「るぞー。ラウー、俺の声明文を考えとけよ!」

「ビスコア・ダルジ大佐」

 母親が赤ん坊に、もうねんねの時間ね、おやすみね。と囁く時の穏やかな口調だ。だが船外ではイルカが雷に打たれたように一目散に逃亡し、振り落とされたネイティヴが慌てふためいている気配がする。

 逃亡できる自由を、桐花は心底うらやんだ。

「五回目になりますが私の助手です。科学および帝国の発展を著しく妨げたいなら、あなたの妻として実益皆無なサロンやら舞踏会やらを主催させるがいいでしょう。これは勧告でなく警告だ、ビスコア」

 いろんな意味で冷や汗が止まらない。桐花は気絶したい、目覚めたら現実に戻っていたい、と激しく願う。

 パニックになったイルカの逃亡ではからずも静けさを取り戻した海を見下ろし、中佐は呟いた。

「帰りはくちばしだな」

 桐花は断言できた、ラウー・スマラグダス中佐は有言実行の男だと。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ