7. 鷲は見た!
偉人は言った。元気があれば何でもできる。
腹が減ってりゃ何でも食える。眠たかったらどこでも寝れる。
ザッザッという音に合わせて体が上下に揺れている。背中と腿裏に強く、それでいて優しい、安心と安定を保証する温かさがある。この感覚には覚えがある。
父は、本に夢中になりそのまま眠ってしまう桐花を、小さい頃によくこうして運んでくれた。目覚めた時に騒がないよう、桐花の腹に読みかけていた本を乗せて。きちんとしおりを挟んで。それがわかっているから、桐花は夢うつつに父にしっかり抱きついたものだった。幼い記憶どおりに抱きつく。
父はそんな桐花をお姫様を扱うように、柔らかなベッドへそっと降ろしたものだっドサッゴロゴロゴロン。
天上の雲から奈落に投げ落とされたかの衝撃に、桐花は全霊でパチクリした。
視界は鷲。下からのアングルで、超至近距離。漆黒の胸に純白の頭、てろりと黄色い鉤のくちばし。そこが冥界への洞穴かのようにカッと開いて、生温かい息が桐花の顔面に吹き付けられた。
くさッ。
背の下に固い地面と、乾燥させた海草のガサガサした感触がする。周囲のあちこちで、恐怖の一晩で鼓膜にしみこんだ、飢えた鷲たちのうごめく気配がする。厩舎だ。
しかしいま、桐花は鷲たちがむしろ可愛く感じられた。愛しいのではない、可愛く見えただけである。なぜなら、象サイズの鷲よりはるかに目つきが酷薄で、はるかに容赦なく人を解体するであろう生物に見下ろされていたからだ。
「起きてる」
反射的に言う。
「構わない、ゆっくり眠れ」
すらりとした体躯にキラキラ輝く金属鎧をまとい、白金の髪を海風になびかせ、ラウー・スマラグダス中佐はあっさり許可を出した。
「最近は鷲の餌の鯨が不漁で困っていた」
「起きてます!!」
目覚めが一番の悪夢だワーイ。
桐花はゆっくり永遠に眠れるオプションを全力で遠慮させていただく。どこかでひそひそ声がした。
「よかった、鷲が腹を下したら俺らの眉間に氷穴が開く」
「それより見たか、ルテナンカーネルが姫抱きで運搬してたぞ。ドリブルさえ光栄レベルだというのに」
「女嫌いじゃなかったのか、憎いっでも愛しいっキーッ」
餌担当兵士たちらしい。
運搬。桐花は背筋シャッキリで起立してみせつつ記憶を探る。
中佐殿が急用で博物館から飛び出してゆき、桐花は石棺に詰められたのだった。意外にも石棺の中はひんやりと心地よかった。ベッドの壁際に貼りついて寝るのが好きな桐花はつい、石棺の壁にも貼りつきながら睡眠不足解消にいそしんだわけだが。
こいつにはわたしが飼葉桶に盛られた餌に見えたわけだな、と桐花は睡魔に意識を揺すられながら思う。
「髪を結べ。邪魔だ」
あのう、中佐殿。わたしの髪が結ばれてなくて、あなたに迷惑をかけたことがありましたか?
非難でなく純粋に疑問を無言で語ってみた桐花だったが。
「剃るとは殊勝な心がけだ。軍曹、鯨解体用のナタを。なるべく血糊にまみれた刃のこぼれてるものを」
今日もいい海風だ。
とアテレコしたくなる爽やかさで餌担当兵士へ指示を出され、慌てて手ぐしで髪をかき集める。しかし結ぶものを持っていない。ヘアゴムの支給はなさそうだし、そもそもこの世界にそんなもの存在していそうになかった。困った。
紐でもないかときょろきょろしていると、中佐がおもむろに人差し指を立てて桐花の注意をつかまえ、視線をドラッグ&ドロップした。足元の乾燥した海草に。パリパリした繊維質、海くさい紐状のソレに。
鷲の糞が付着してるかもしれない乾燥ワカメで髪を縛れというのか。
「お嬢ちゃん、うっかり手を滑らせてあんたが首ごと剃っちまうのはごめんだぜ!」
と怯えつつもしっかりナタを用意している餌担当兵士が進言してくる。桐花とて、自分で自分をギロチンしたくはない。
細くて長くて丈夫そうな乾燥海草を使い、ネイティヴのように後頭部でひとつに結わえることにする。が、慣れない伸縮性ゼロな素材で量の多い髪をまとめるのは至難の業だった。
モタモタする横で、中佐が待ち時間のカウントダウンを始めている気配がする。使用している不可視の砂時計の砂粒は、片手で数えられるほどしか入ってなさそうだ。同時に桐花の命の残り時間も減っているのだろう。餌担当兵士がナタだけでなく台車まで用意しだした。
「不器用は犯罪だ」
判決が出た。中佐の手がグイと桐花の頭をつかむ。
「いたっ、いたたたたハゲる、ハゲるーっ!」
髪をギリギリ締め上げられ、それを伸長力限界まで引っ張られた海草で縛り上げられ、桐花は暴れた。
顔の形変わってるんじゃないか、ストッキングかぶった時のつり目になってるんじゃないか、それよりハゲる、髪を結わえる前にトゥルンと全部抜ける、お父さんに泣かれる!
ガフッ、こいつ押さえるために踏んだ、乙女の背中を膝でガハッ。
「不手際には手を汚さず腹を切らせる主義のルテナンカーネルが!」
「女の髪を結ってやってる! 今日こそ木星が爆発するんだ!」
「煮豚の肉を縛ってるようにも見えるが、うらやましいっ」
背面に破壊力抜群のニーをくらい、咳き込む桐花に中佐の涼やかな命令が降り注ぐ。
「くちばしで運ばれたいなら、そうしていろ」
え? と顔を上げた桐花の前に、乙女を踏みにじった中佐はいなかった。
鷲が従順に白い首を下げている。その漆黒の背の鞍へキラキラ金属鎧がひらりと飛び乗るさまは、夜空を横切る彗星を思わせた。
彗星が黙って、鞍の前部の空いたスペースを指差す。鷲が準備よく、馬でも運べそうなくちばしをカパッと開ける。
人間をくちばしで運搬するのは、コウノトリだけでいい!
桐花はまさしく死にモノ狂いで鷲の背によじ登った。
遊覧飛行ができると、内心喜んでいたのだ。厩舎を出るまでは。厩舎の脇の断崖絶壁を蹴り、鷲が急降下するまでは。
ギャーという自分の叫び声さえ、風に吹き飛ばされ後方から届く。風圧で目から押し流された涙がこめかみを伝う。胃が浮く。っていうか身体が浮く。落ちる落ちる、いやすでに鷲ごと落ちてるけど、その鷲から落ちるっていうか飛ぶ!
安全ベルトなしの天然ジェットコースターで意識まで飛びかけた桐花へ、背後から淡々としたアドバイスが寄せられた。
「イルカと同じだ。膝で挟め。爪で空中キャッチされたいなら、気絶しろ」
握りつぶされるがな。と言外に続いている。
「あの、中佐」
脚が折れる限界まで膝に力をこめ、鞍を挟む努力をする。
「落ちたら中佐が受け止めるという選択肢を忘れてる」
「ラウーと呼べ。空から落下した人間が兵器としてどれほどの破壊力を持つか知りたいなら、演習に参加させてやる。実弾として」
生身の人間が受け止められる物体ではなくなっている、ということですね。目撃談ですよね。怖くて後ろを振り返れない。
風圧で明瞭でない視界の遠くに青が広がる。海。ネイティヴのいかだゲルが、千代紙の紙吹雪をまいたように浮かんでいる。ようやく鷲が落下角度を緩めて滑空に入った。桐花も一息つく。
「あれ、中佐」
ネイティヴ居住地の風景が何かおかしい。
「石柱がない」
海に林立していたはずの石柱が見当たらなかった。ネイティヴのいかだは遮るもののない波間で所在なげにぷかぷかしている。
「ラウーと呼べ。満潮の時刻だ」
振り返ると石柱の上に築かれていた城塞都市が、海面から数メートルもない。何十メートルものはしごを登ってたどり着いたはずの空中都市は、海辺の街に変わっていた。
なんて満ち干の差。そうか、月が近くなったから。
驚嘆する桐花と背後の中佐を乗せて、鷲は岩山が抱く楕円の湾の沖合いへ滑り出て行く。
岬の突端に空母を思わせる大きな箱舟が横付けされている。甲板では何頭かの鷲が羽を休めている。中佐が短く指示すると鷲は翼を立てて減速し、空母の甲板へと舞い降りた。
「おーう来たか、考古学者」
甲板に陽気な声が響いた。
声の主を探す。鷲の手綱を受け取りに走ってきた数人の石鎧兵士の奥から、一人だけのんびりと歩いてくる青年兵士がいる。その方向へ、中佐はひらりと音もなく降機した。
華麗に置いてけぼりをくらった桐花は、鷲整備係らしき兵士たちに手助けされて転落気味に降りる。中佐へ一方的に親しげな挨拶をぶつけていた青年兵士が、ん? と肩越しに顔を覗かせた。
「どうしたネイティヴなんか連れて。あー、俺の嫁候補? ナニおまえまで加担してんの、あの計画」
嫁。
「別にいいけど、タイミング悪いだろ。いま殺気立ってるじゃん、あいつら。捕鯨やめろだけでもうるさいのに、幽霊船を壊せとか。死者の魂を返してやれとか。アレ壊したら俺がおまえに死者にされるっての」
「しませんよ。生きたまま死者の世界へ行かれるのを見送るだけです」
「実績がありすぎて笑えねっつーの」
生まれながらにして陽光に愛されていそうな人だった。肩まで波打つ黒い髪、彫りの深い顔は磨いた銅のような肌をしている。骨太な体格にまとった分厚い筋肉を作るため、一体何頭の鯨を費やしてきたのかと桐花は聞きたくなった。体脂肪率は果てしなく低そうで、フン! と胸を張れば、石板を繋いだ鎧が弾け飛びそうだ。
嫁。
その石板は水晶に血を滴下したような色を内包しており、美しくもどこか禍々しさを漂わせている。桐花は鷲整備兵や警備兵の石板が、無色か白の半透明で統一されていることに気づいていた。どこかの口の極悪な中佐のキラピカ金属のように、特別な鎧は特別な地位だと考えてよさそうだった。
「嫁!?」
生きたまま死者の世界へご案内も気になる、実際に自分も半分足を突っ込まされてる、けどいま議題にすべきはここだ!
桐花が声を張り上げると、黒い頭だけが振り向いた。ん? と、頭ふたつぶん上から反応が落ちてくる。体が動くとまるで、鎧の表面で炎が揺らめくようだ。
「うん。嫁。喜べ、俺はモテるぞ」
何を喜べというんだ!
「愛人たちの悔し涙をせせら笑えるぞ」
そんな趣味はない! えっ愛人? しかも複数?
「ユピテライズしたデカ猫も飼ってるぞ。あいつの腹毛に埋もれて寝るのはいいぞー至福だぞー」
ほほうそれはぜひ詳しくお話を伺いたく……。
「いえ」
桐花が食いつきかけた時、大海も凍らす北極の寒気があたりを包んだ。
「あなたの花嫁候補ではありません。私の助手です」
「助手?」
二人の声がハモる。
「大量の本が出てきましたので、翻訳させます」
聞いてない!
「言ってなかったがそういうことだ」
事後承諾か!
「中佐、わたしは」
一刻一秒でも早くあなたの魔手から逃がして欲しいんですが。という続きは氷河期再来の前兆で喉の奥へ強制送還された。周囲の鷲たちが何かを感じて怯えた鳴き声をあげている。
「わたしは喜んでお受けしたいと思います、スマラグダス中……」
キエェェェエエッ! と鷲が断末魔の叫びを絞り出し、足をけいれんさせる。
「いえ、ラ……ラウー」
鷲はかろうじて蘇生を果たしたようだった。桐花はニッコリと営業スマイルを作る。その顔のまま日本語で呟く。
「飼い鷲に食われちゃえ」
「What?」
「いえ何でも」
疑惑の視線と仮面笑顔でせめぎあっていると、タイミングよく無色石鎧兵士が駆けて来た。胸に拳を当ててビシッと敬礼する。
「カーネル・ダルジ、ルテナンカーネル・スマラグダス、幽霊船への案内を務めさせていただきます」
「カーネル……」
石棺に詰められる前に握っていたポケット版英和辞典を、挟んでおいた組紐のベルトから引き抜き開く。
カーネル。
大佐。
桐花は知らなかった。
フライドチキンを持った好々爺、カーネル・サンダースはサンダースさんちのカーネル君ではないことを。サンダース大佐だということを。軍の大佐ではなく州が授与した称号だが、いずれにしろカーネルは大佐なのだということを。
「大佐!?」
間違いなく中佐より階級は上である。大佐に失礼な言動をとれば、部下である中佐は十中十、すなわち百パーセント、不敬罪で桐花を罰するだろう。
桐花は氷の指が心臓に手をかけている悪寒がした。さっき、嫁入り話にものすごくイヤーな顔をしちゃったんじゃないか……。
火を含んだ水晶の鎧をキラめかせて、太陽の化身がニカッと笑う。
「そっ、大佐。ビスコア・ダルジ。アダマス帝国軍提督の輝かしい一人息子! 待て、俺を知らない女がいたのか。ラウー、俺はいま激しく自尊心を傷つけられたぞ。信じられるか、俺を知らない女がこの帝国軍下にいたんだぞ!?」
「あなたの後始末をするのが私でなければ、世界があなたを中心に回っているという妄想の邪魔はしません」
「違うね。俺が世界を回すんだ」
「妄想という点では違いません。桐花、鮫に内臓を与えたいなら突っ立っていろ。そうでないならおまえの百科事典を使って、幽霊船の年代と建造地および目的の同定を手伝わせてやってもいい」
どうして常に従わなかった場合の報復を先に宣告するかな。
「おお俺の嫁候補、可哀想になあ、ラウーの助手だって? 前の助手は泣きながら市壁から飛んじゃってさー。満潮だったから命だけはあったけど。命だけは」
命以外の何が助からなかったのか、ぜひ聞きたくないと桐花は思った。げんなりした桐花の頭をよしよーし、とデカい手が撫でまわす。黒い瞳は底抜けに快活でまっすぐだ。誰かさんと足して二で割って平均気温だ。
「ま、俺の嫁候補ならラウーも壊しやしないだろ」
「嫁候補で持参したのではありません。私の助手です」
「おーこわ。さむッ。さあ行くか幽霊船、おおー我らの行く手、木星をも退けてー、進めアダマス帝国軍チャッチャラー! ラウーにいじめられたら俺に言えよー。一晩でキッチリ忘れさせてやるぞ、嫁候補!」
デカ猫布団を貸してくれるんだ、きっと!
「ありがとう!」
軍隊行進曲らしきものを朗々と歌いながら、ビスコア・ダルジ大佐が歩き出す。桐花が足取り軽くその背を追うと鷲が、生気を取り戻していたはずの鷲がまた、瀕死の絶叫を大合唱した。