3. 出る杭に届かない
「夫人、起床のお時間です。シュテファンでございます」
「あと5分……」
ラウーの来訪は、印刷事業の二週間期限に対する妨害に等しい。
桐花はあくびを噛みつぶし、だるい腕や腿をもぞもぞし、ベッドのくぼみに落ち着きなおす。
「では予定を調整いたします」
さすがラウーの筆頭副官、柔軟な対応だ。カルロ・レオン副官ならこうはいかない。陰湿に怒りだす。
「朝食の時間を5分、短縮させていただきます。ご協力に感謝いたします」
ご協力。感謝。
不穏な状況を予知する、欲しくなかった反射神経がアラーム代わりに鳴り始める。陰湿に怒られるほうがいいような気がしてきた。
「早食いは太りやすいと申します。妻かつぎレースまでの体重増加を推進するには大変効果的かと。初日からこのペースでしたら、学校設立予算を上方修正できます。諦めざるを得なかったカレッジ・ソングの制定を」
「起きました」
「失礼いたしました。では、おやすみなさいませ」
「起きたんです!」
お願いをきいてもらえることが自分の首を絞めるなんて。鷲の餌になりたいなら寝ていろ、という命の危険が迫ってるのとはまた違う不愉快な目覚めだ。
四つん這いで頭を下げ、強制的に脳へ血を送る。長い髪が視界に縦じまを作って、お葬式で使う白黒の幕みたいだ。この姿、間違いなく貞子。もういい。この世界で心置きなく眠り、さわやかに目覚めた朝があっただろうか。
「安らかに眠りたい……」
「最大限の補佐をと命じられておりますが、わたくしども文官はおおむね、流血が苦手でございます」
誤解したまま安眠の補佐してくれなくてよかった。流血の状況下じゃ安らかに眠れない。
顔を洗ったり着替えたりするあいだ、引き続き部屋の外で待っててもらった。シュテファンはのんびりと間をつなぐ。
「カレッジ・ソングは良いものです。掲げられた理念に向かい、学生の心をひとつに寄り添わせてくれます。あの高揚感は格別でございます」
「わたしの体重増加を企むなら、カリッと揚がったみそトンカツに甘いしゃきしゃき千切りキャベツ、ほっかほかの真っ白ご飯にサッパリゆずシャーベットくらいはないと無駄ですから諦めてください。じゅる。シュテファンさんは文官学校卒業ですか。カレッジ・ソングがあったんですね」
「はい」
答えながらサラサラとメモる音がしたような。
「大変に有意義な学生生活でした。武人である父は、勉学にいそしむわたくしを腰抜けとののしりましたが。スマラグダス大佐の副官を志願して採用され、ようやく親孝行と認めてもらえました。父は戦場で大佐に受けた恩があるのです」
「和解してよかったですね! ラウーの副官って、競争率が高いんですか」
「回避競争が激闘となっております」
なりたい人はまずいない、ってことだ。助手が壁から飛んじゃったり、出家しちゃった逸話に心から同情する。
「夫人の親孝行は、幸福になることと伺っております」
そんなことをレオン副官見習いに話したような気がする。個人的な話をしっかり情報共有か。円周率の前に空気を学べ!
「つきましては、夫人」
柔和でおっとり、控えめな声が続く。
「カリッと揚がったみそトンカツに甘いしゃきしゃき千切りキャベツ、ほっかほかの真っ白ご飯にサッパリゆずシャーベットで幸福を味わえるなら、それは大変な親孝行かと推察いたします」
昼食にそのメニューをきっちり再現してお味噌汁とお漬物まで添えてきたシュテファンは、親孝行である以上に敏腕なんだろう。
手助けを要請されたのであろう太市の姉、鞠がおひつからわんこそば状態でごはんを盛ってくる。
ラウーが副官まで有能で泣きたい。
宮殿を中心とした基地は広大だ。病院、兵舎、軍港、軍需関連工場も内包している。
製紙工場と、隣接して建設されたばかりの印刷工場も軍需関連工場地帯の一画にある。さまざまな音、におい、煙、熱、振動、モノを作り出す人々のたくましく活気あふれる声。
ドンヨリしているのは自分だけじゃないだろうか、と桐花は満腹すぎる胃をさすりながら嘆いた。亜熱帯でどうやってシャーベットを調達したんだろう。氷穴から運ばれる貴重な氷を使ったんだろうか。これで太らなかったら怒られそうだ。
職人たちと円圧印刷機の試作機を囲んでいると、
「円周率ー」
と呼ばれた。工場の入口に太市が寄りかかっている。鳥が巣材についばみそうな豪快にはねた髪、巨大鷲が餌についばみそうな力の抜けた首。一晩眠ったとは思えないほどヨレヨレが進行している。
「桐花です」
「だってあんた、スマラグダス大佐の嫁さんなんだろ? 気安く呼んだら姉ちゃんに平手を食らう」
円周率のほうがひどい。
「で、作ってみた。万年筆」
炭や金属の削りカス、小さな焦げが満載のツナギの胸ポケットから試作品を出してきた。
「インク充填のシステムは分かった。出来る。キャップの気密性が神経使うとこだよな。しかもネジ式でとか、俺の指に挑戦するつもりかっての。ちくしょう、徹夜したよ。やってやったよ。とか得意になってたらペン先、こいつが気密性キャップなんて可愛く思える精密機構だった。専用の刀から作らなきゃってんで、姉ちゃんが禊して研ぎに入った。うひひ職人魂が燃えるぜー!」
昨夜は怖いくらい死んでた太市の目が生き生き、を通り越してギラギラしてもっと怖い。幸い、怖い視線の対処には慣れているので射程距離からそっと後退。え、幸いなのこれって?
「けどさ、俺はこっちがすごーく気に入らない」
太市の指先でブラブラされたのは、参考にと桐花が渡したつけペン。
「どこが? それ、アダマスの最高級品だよ」
はあ? と太市は大口を開けた。
「アダマスの職人ってどんだけ不器用なんだよ! 書きにくいったらない。素材の性格分かってない。金属の曲げ方も、切り込みも雑」
目が視線なら、耳に聴線ってあるんだろうか。
耳を傾ける方向を線で引けば、印刷機を囲むアダマス職人たちの聴線は一斉に太市へ収束した。
「太市さん、声が大きい……」
「ほら左右対称になってないし。もう一枚重ねりゃ供給量を増やせるのに、そんな簡単なことも思いつけないのか。気合がない。想像力がない!」
「俺たちを呼んだかい、あんちゃん」
聴線上を踏みしめて、アダマス職人たちが近付いてきた。怖い顔で囲まれる。兵士顔負けに鍛え上げられたムキムキな腕も怖い。人数も人種的な体格も圧倒的に太市に不利だ。
「誰が不器用で頭が悪くて不器量だって?」
「みんな落ち着いてー、誰も顔の話はしてないよー」
「黙っててくれや、スマラグダスぎじゅちゅ顧問」
「マルタンが噛んだ! ヤツは本気だ」
なんだなんだ、と野次馬が集まり始める。ケンカと分かると、とたんに金が飛び交い始めた。アダマス人は賭けが好きだ。砂糖に寄るアリみたいに、野次馬の山がふくれあがる。
護衛がすっと前に出て、桐花と職人たちのあいだに体を入れた。
「あんだあ? ねーちゃん、男のケンカに口出すんかあ?」
「いいえ」
桐花の護衛兼助手として就任したルキア・スマラグダスはラウーの妹だ。ラウーと同じ異色の瞳は涼しく、淡い金髪はきっちりと結い上げ、海軍を思わせる白いスーツに弓を背負っている。
「第三者の仲裁は任務外となります。ですが、トーカさんに危害が及ぶなら迅速確実に排除します」
マシーンな香りまでラウーと似てなくていいと思う。
「ですので」
よっしゃ、と鼻息を荒げ直した職人たちに、ルキアは慣れたなめらかさで告げた。
「献体の意思がある方は、事前にお申し出ください。ルキア・スマラグダスが責任をもって搬送します」
トーカさんに手を出したら殺しますね。タダでは死なせませんので。
ああ、鼻毛も凍る冷気まで似てなくていいのに。ほんとに。ほんとに。
ポカンとする職人たちに、ルキアはハッと気付いて謝罪した。
「失礼しました。説明不足でした、人格を伴わない肉体を生存と定義するかも明示願います」
「ルキアさん、もうその辺で。奥の安全そうな場所に引っ込みますから、ねっ」
さすが、お仕事キッチリなラウーの妹。ある意味、護衛の任務をまっとうしていると言える。
「おら、来るなら来いよー」
太市が一歩前に出ると、昨夜せっかく戻したネジが頭から落ちた。
「こっちは徹夜でハイなんだよ、大槌振るう鍛冶屋の拳を味わいな!」
徹夜させた原因としては、奥に引っ込みづらくなった。
対するアダマス職人たちも気を取り直し、ゴキゴキと腕を鳴らして臨戦態勢だ。
「おっと待った」
不意に一人がファイティング・ポーズを解く。
「お互いパンチはなしだぜ。商売道具の指になんかありゃ、お国に申し訳が立たねえからなあ」
おーそうだよなあ、おまえ職人の鑑だなあ、と野次馬職人たちが大きくうなずいている。
「じゃあ、顔もよしてくれよ。ガラスが吹けなくなるだろうが」
「そうなりゃ、蹴りもなしだぜ。俺の愛機は足踏み式なんだ」
「とくりゃあ、工具もしまっとくぜ。女房より長い相棒だぞ」
「どうやってケンカする気なんですか……」
「首突っ込むと怪我するじぇ、ツラマグダシュぎじゅちゅこもんぬ!」
イヤーつば飛んできた、至近距離ですごむからー!
「マルタンが! マルタンが眠りから覚めたああ!」
「マルタン! マ、ル、タン! マ、ル、」
ターン。
小気味いい音が響いた。
マルタン脇の工場の壁に、矢が突き立っている。
静まり返った職人たち、野次馬たちの視線を一身に浴びる矢のシャフトには黒々と、『R.スマラグダス テスト・フライト用』の文字が塗られている。
軌道をさかのぼって上空を仰げば、何羽かの軍鷲が円を描いている。乗り手の顔までは見えないものの、マルタンの頭皮よりまぶしくキラめく金属鎧はそのレアさゆえに、職人にまで広く知れ渡っている。
空を見上げる男たちの喉仏が、一斉にゴキュリと鳴った。
青い空に白い頭がキリリと鮮やかなハクトウワシが首を下げて降下し始める。
超大型台風の進路が家を貫いている天気予想図が脳裏に浮かんだ。
「金属鎧だ」
「あの伝説の金属鎧だ」
職人たちが色めき立つ。
「原料は何だ。強度は」
「ブリガンダイン。いや、ラメラー?」
「大鎧にも共通点があるなあ」
「触りたい。脱がせたい」
熱い極太視線の束を金属鎧ではね返し、ラウーは着陸した。ざくざくと尊大な足音が接近してくる。巨大鷲の翼で舞い上がった土埃の中を切り裂くラウーの進路は、予想通り桐花に突き刺さっていた。
暴風域から必死に声を張り上げる。
「テスト・フライト中にお騒がせしました、職人さん魂がちょっとぶつかっただけです、太市さんがすこーし言い過ぎたかもしれません、でも暴力はいけないです、ラウーは同意する立場にないとは思うけど暴力はいけないんです、ただちに解散してもらいますので!」
「私はおまえに対して責任を負っている」
ブラック会社の特徴。部下の話を上司が聞いてくれないこと。説明してるのに。報告連絡相談のホウレンソウはビジネス・マナーの基本ですよー?
「責任を持つとは、対象の事柄に最も精通し、起こりうる事態を想定して備え、想定外の事態に直面すればあらゆる配慮と手を尽くすことだ。私にはその義務がある。それがたとえどれほど私の意に反する事態であってもだ」
「何で責任なんつー話になってんだ?」
「さあ?」
職人たちは無謀にも、素直な疑問を代弁してくれた。
「今この場に」
野次馬の山に、ラウーの声が朗々と響き渡る。
「自身の責任を負って居合わせる者がいるならば、妨害を詫びよう」
「おい、誰かいるのかそんなヤツ」
「仕事で見に来たヤツいるのかって話か? いるわけねーよなあ」
「俺が責任持つの、俺の作ったモンだけだよなあ」
「おーいいこと言うな、そうだよなあ」
ハッハッハ、と照れ笑う職人たち。
「あの」
父が熱心に語った本の知識を思い出す。M.M.ドッジ作『ハールレムの英雄』。オランダに住む少年が堤防の裂け目を見つけ、決壊を防ぐために手を突っ込んで一人けなげにがんばる話。
いま、とても少年の気分。
「責任ある仕事を放り出して騒いだらだめだよ、そんな事態の収拾なんて私の意に反してますよ、と彼は言ってます」
職人たちは顔を見合わせる。
「はあ? さっきの話のどこがそうなるんだよ、なあ」
「あんた考えすぎだ、なあ」
なぜ英語同士の会話を日本人が通訳してやらなきゃいけないんだ! 堤防裂ける! 決壊するー!
「あのさー、親方ぁ。R.スマラグダスってさぁ、白魔の人ですよねぇ?」
そばかすだらけの少年の高い声はよく響いて、群衆をしんと静めた。
「白魔って……アレか、幽霊船のガイコツ船長と戦って双眼鏡を奪ったって噂の」
「いや、俺が聞いた噂じゃネイティヴの女長老をシメて硝石の製造法と産出地を吐かせたとか」
「この島の資源を獲るために、女王の毛をむしり取ったとか」
間違ってない。
手段は間違ってても、ラウーが技術と資源で文明を、人類を復興しようとしてるのは間違いない。自分の噂が地に落ちて泥にまみれようと意に介さずに、より大きく、より長い利益を冷徹な軍人の目で選択してる。噂って言ってもわりと事実だけど。
「野郎ども、」
そばかす少年の親方が野太い声を張り上げた。
「とっとと作業に戻れえっ!」
「すいませんでした、スマラグダス技術顧問!」
「マルタンが眠りについた!」
幸い、クモの子が散るという虫嫌いにはおぞましい現場を目撃したことはない。でもこれがそんな状態なんだろうな、と実感する素早さで野次馬は散開した。
「えっと……したくもない騒ぎの収拾をしてくれて、ありがとう」
「おまえが単独で事態を収拾できるとみなした合理的な理由は何だ」
おまえに大事がなくて何よりだった。
と言ってると、遠目には誤解するであろう至近距離の噛んで含める口調が胃に悪い。
「ないです」
ブラック会社では、上司の叱責も甘んじて受けねばなりません。
「介入は感情的な理由か。……また太市か」
「あっ……どうも、大佐さん」
太市は慌てて万年筆を隠してくれた。ラウーは隠されたものも騒ぎの原因も追及せずにさっさと矢を回収し、鷲へ戻った。力強く羽ばたいて離陸した鷲は気流をとらえ、優雅に円を描いて空を昇っていく。やがて雲を切るように滑空していくのを、姿が見えなくなるまで眺めていた。
「ね、太市さん。万年筆に名前、刻めるよね」
「やること増やして俺を殺す気? 出来るけどさ、技術的には」
「エメラルドを埋め込める?」
「あんたやっぱ鬼だ」
スマラグダスはラテン語でエメラルド。エメラルドは未来を見通す力を授けるという。
迷信だって分かってる、迷信だって一蹴されるのも分かってる。でも、ラウーにあげたい。
夜になって食堂へ行くと、最敬礼の鞠と太市に迎えられた。
「愚弟がご迷惑をおかけしました。日本人村にとっての恩人、スマラグダス大佐のご夫人を危険にさらすとは、本来ならば墓穴で土下座させるべきところではありますが」
太市の頬にはくっきりとV字の赤い線が浮き上がっている。あれはもしかして鞠姐さんの下駄の鼻緒。平手では済まなかったらしい。
「いえ、わたしも悪かったんです。すみませんでした」
「寛大なご処置に感謝し、わたくし、精魂込めて夕食をととのえさせて頂きました」
テーブルにずらりと並ぶ山盛り和食。ちなみに軍食堂のテーブルは通常、八人用である。水差しを持ったシュテファンがにこやかに待ち構えている。
「鞠さまの謝罪のお気持ちの詰まった、心づくしのお料理です。必ずや、夫人は残さず召し上がってくださいます」
「このような機会をご提案くださり感謝いたします、ミスター・ホ……フォイキ、フォイヒテネ、グ」
「どうかお気になさらず、鞠さま」
発音の悪さスルーした! ほんのり顔を赤らめて?
鞠姐さんスゴイ、二人の男の頬を赤く染めるなんて。こっちは一人の学者バカにも苦労してるのにー!
カレッジ・ソングが未来の学生たちの向学心を奮い立たせるのだと自分に言い聞かせて、食べた。