1. スペックはほどほどに
真珠を織ったような生地は、柔らかく冴えた光の滝になり、軍人の使い込まれた手の中でなめらかに流れている。一生に一度だけ許される色は純白なのに淡い虹色を放って、静けさのうちに神聖と永遠を約束する。
桐花は翡翠と土の異色の瞳がおごそかに告げるのを聞く。
「競技の装備だ」
ラウー・スマラグダス空軍大佐。ウェディング・ドレスを装備と呼ぶ男。
妻かつぎレースは、アダマス帝国空軍伝統の競技だ。
発祥は北方の寒国で、求婚の際に男が女を村からかついできた慣習が起源と伝えられる。
参加者は妻をかついで鷲に搭乗。かついだ姿勢を維持し、弓、銃、刀剣、槍など各自の武器を的に当てていく。参加者同士においては、武器で攻撃する以外のあらゆる妨害が容認されている。妻が落下すると失格となる。
「最後のそれ、参加者は失格で済んでも、妻は死亡だよね。責任問題が起きない?」
「誓約書が参加必須条件になっている。死亡・生存に関わらず責任を軍には問わないという内容だ。軍が責任を追及された事例はない」
「誓約書があるから? それとも、生存者がいないから?」
「人格を伴わない肉体も生存と定義するならば、生存者は存在する」
なんでこんなことになったんだろ。
ラウー・スマラグダスと遭遇して以来、何度となくくり返してきた嘆きをため息で吐き出す。
桐花は人格より魂の伴わない顔になっている自信を深めつつ、生存の定義を問われる状況となった経緯を振り返った。
桐花は並行世界の自分、トカとのトレードで違う地球に運ばれた。
ここでは数百年前に太陽系が乱れ、月と木星が地球に接近。大規模な地殻変動で人類は滅亡の危機に瀕し、大幅な文明の後退を強いられた。その時点から桐花のいた世界とは異なる歴史を歩み、現在、もっとも繁栄しているのが軍事国家アダマスである。
ラウー・スマラグダスはアダマスの空軍大佐だ。正確無比な矢で敵機である巨大鳥を撃墜し、戦場へ白い腹をさらして散らしていくさまは豪雪の被害をもたらす厳冬の化身、白魔と評されている。
一方でかつての文明の名残を収集し、失われた知識を復活させることに情熱を傾けている。血で征服する時代から、知で統治する時代へ。その理念に共感した桐花はラウーの助手になり、トレードの際にオマケでついてきた百科事典を翻訳することで、知識を伝える約束をする。
報酬としてラウーの提供できる最高の待遇・結婚を強制されたのは痛い誤算だった。けれど、
『あんな人、世界がいくつあったって、他にいるわけないよ』
と感じてしまったのがもっと誤算。
文明のために伴侶の椅子さえ平然と明け渡す、学者バカのラウー。ラウーの人間らしい気持ちを大事にしたい、ラウーに好かれて結婚に応じたいと願うようになった。
出した結論は、自分みがきをすること。父への尊敬をこめ、書店の娘になることを決意して、結婚はその後、それまでは対外的には妻でということでラウーと同意した。
ここからさらなる受難が始まる。
文明が後退し再構築途上のこの世界において、紙は巨大虫の皮紙であり、虫大っ嫌いの桐花は製紙から始める必要があった。ラウーによる二週間という突貫スケジュールのもと、製紙事業を何とか立ち上げた。
『お休みが欲しいんだけど』
『目的は何だ』
完成した紙を提出し、ほっと一息ついて休暇を求めた助手に末期仕事中毒者は冷たかった。
『休むため以外にあるの?』
『予定がある。妻かつぎレースだ。妻をかついで鷲に乗り、ゴールを目指すサバイバルレースだ』
『何それ……』
狂騒じみたイベントに呆れると、ラウーも鼻先で白けたような息を漏らした。
『補足させていただきますと、ダルジ総督のご意向でございます』
ささやかに、横から副官が補足してきた。
『腕力、行動力、持久力、男らしさ、愛。総督によれば妻かつぎレースは、それらを兼ね備えた男は望む妻を獲得できるのだ、と軍人を発奮させるのだそうです。この説に対するわたくしども文官の見解は控えさせて頂きます』
要するにアダマス軍最高権力者、ダルジ総督の趣味的要素が強いらしい。
『わたしが大喜びで参加するとでも思う?』
まさか思わないよね。参加しないからね。
と嫌味をこめて拒否したつもりだった。が、相手は恐喝力まで兼ね備えた男だった。
『妻を落とした時点で失格となる。勝敗が判定に持ち込まれた場合、命綱を使用しないほうが有利だが』
『使って! 使ってください! っていうかわたしの参加はもう決定事項か! 命綱のあるなししか選択権がないのかー!』
こうして、責任問題と生存の定義なんて話になったのだった。
「優勝賞金を学校建設にあてる」
そっか、と桐花は納得する。それなら協力してあげたい。ラウーはくだらないイベントと呆れていても、優勝賞金を文化事業に使いたくて参加を決めたに違いない。
知の時代という理想は、武力で政権を拡充する軍部に歓迎されていない。彼らが興味を示すのは軍事に転用できる知識だけだ。だからラウーは過去の文明の保存を個人的に、私財で行ってきた。妻かつぎレースへの参加も資金調達の一環なのだろう。
ラウーの資産状況を悪化させたのは桐花自身の存在だったりするけれど、あまりに巨額損失と思われるので考えないようにしている。
「賞金は」
「わっ?」
ひょいと片手で抱き上げられた。文明の番人を名乗るラウーだけれど、やはり軍人。筋力もちゃんと兼ね備えていて、簡単に抱え上げられたりするとドキドキして、ごめん副官さん、男らしさも大切だよ!
一瞬ののち、ぽいと片手のまま捨てられた。
「賞金は妻の体重×五千ポンドだが、予算に対し不足がある」
つめたーい視線が追撃してきた。
ごめん副官さん、優しさはもっと大切だったよ!
ラウーは記憶力まで兼ね備えていて、もう無駄なほど兼ね備えていて、単なる暗記でなく感覚にまで及ぶらしく、抱きしめたり抱き上げたりしただけで妻のバスト・ウェスト・体重の増減を数字で言い当てるほどだ。手のひらで石を彫れるなら、完璧な桐花全裸像を作れるだろう。
生存するコンピューター・ラウーの体のどこかにデリートキーがあるなら強連打してやりたい。
「太れっていうの? やだ! 鯨のフライで増えた分、ダイエットしたばかりなのに!」
「おまえの体がどうなろうと痛手ではない。生存の定義にもよるが」
予算を下方修正するって選択肢はないのか! 妻の体重より学校設立が大事か! ……大事なんだろうな。ラウーだから。学者バカだから。
「教科書の編さんも予定されている。一刻も早く活版印刷技術を確立しろ。期限は二週間だ」
「また二週間! 無理。今度こそ無理。ふふ」
「今の無駄口で五秒の浪費だ」
正確な時間感覚まで兼ね備えた軍人に隙はなさすぎて、民間人の桐花に勝ち目はなかった。
ラウーは収集した文化遺産を資料館に保存している。その一室は桐花のオフィスを兼ねている。印刷機の図を涙で濡らしているところへ、警備兵から来訪が告げられた。
線の細い、金髪タレ眼でおっとりした雰囲気の青年。ラウーの執務室に通ううち、すっかり顔なじみになった副官だ。妻かつぎレースは総督の意向だと教えてくれた時のように、常になごやかで控えめなラウーの助手。
猛禽も視線で射落とすラウー・スマラグダス、製紙事業で補佐を務めた神経質なカルロ・レオン副官見習いとは対極の、癒しのオーラを漂わせている。
「あ、副官さん」
なごやかな笑顔に涙も乾く。
「改めまして、フォイヒテネッグと申します」
癒しのオーラを吸いたい。森と花の香りがしそうだ。
「桐花です、ミスター・フォイヒテネッグ」
「どうぞシュテファンとお呼びください」
言えてない、と言外に言われている。情けない。けれど、いま初めて存在を知らされた舌の下の筋肉がつりそうになったので助かった。
「シュテファンさん、」
「シュテで結構です」
言えてない、と言外に言われている。
「シュテさ」
「イニシャルのS.Fでもいいのですよ」
かぶり気味に言われたけれど、これでダメだと後がないのでシュテファンさんでがんばりたい。
シュテファンから、困らされ慣れた人物の気配を感じて気が重くなってきた。癒しの雰囲気は雰囲気だけだったらしい。シュテファンは裏返し毒舌のラウー、嫌味なレオン副官と共通の捻転ぶりを秘めている。
「ラウーの副官の皆さんってラウーに毒されてない?」
「スマラグダス大佐は伝染性の毒物ではございません」
困りきったハの字眉をされる。
ハイきたー。毒されてない、と答えればいいのに回りくどい表現をする、それこそがラウーの毒舌に染まっている証拠じゃないか!
アダマスの公用語は英語だ。母国語が日本語の生粋日本人にとってラウー式回りくどさは面倒極まりないけれど、そこは書店の娘ならではの読解力でカバーしてみせる!
「では、夫人。妻かつぎレースについて説明させて頂きます」
結婚保留中の桐花だが、対外的にはスマラグダス大佐夫人。慣れない呼称にもグッと我慢だ。
シュテファンは分厚いノートを取り出してさらさらとめくっている。森林資源に乏しいアダマスでは皮紙も貴重で、日常的に大量の紙を消費できる者はごくわずかだ。驚きの視線に気付いたらしく、シュテファンの指が一時停止した。
「卓越した記憶力と膨大で多岐にわたる軍務をお持ちのスマラグダス大佐の副官を務めるには、大量のノートと速記力、ペンとインクびんの携帯が要求されるのです。製紙事業の話を聞き、わたくしども文官は、とりわけわたくしは狂喜いたしました」
よかった。婚姻届が虫皮紙じゃイヤだなんて言って始めた製紙、痔対策トイレットペーパーばかり期待された製紙に、きちんと喜んでくれる人がいて。
「さて。レース開催は次の日曜が予定されており、延期はございません。総督によれば荒天ほど燃えるとか。もはや軍事演習の域でございます。わたくしども副官といたしましては、スケジュール再調整の手間のない簡単なやっつけ仕事です」
製紙事業の二週間の期限は、軍による拘留期間さえ考慮されずにカウントされた。この事実から推測して、印刷事業の期限から妻かつぎレース出場時間を差し引いてもらえるとは思えない。実質的に期限は二週間より少なくなる。
「忙殺に有効な命綱はないのかな……」
「ご心配には及びません」
シュテファンはにっこりとなごやかな笑みを咲かせた。
「優勝賞金は学校設立費として委細決定済みですので、使途に関しましてご多忙な夫人を悩ませることはございません。夫人への栄養過多な食事も手配済みでございます」
猛毒のシアン化水素は花の香りがするという。
ラウー・スマラグダスは有言実行の男である。それがたとえ使用済み石棺への乙女幽閉でも、巨大鷲のくちばしによる乙女運搬であっても、やると言ったらやる。というかやらせた。
また、部下が命令を実行できなかったときの懲罰は残虐である。
自分の腸で首を吊れ、おまえの手でおまえの口を縫わせるぞ、首が落ちても会話が可能か報告しろ、など。やると言ったらやる、というかやらせるつもりだ。
面倒なのは、ラウー本人がごく短い睡眠時間だけで、大佐・参謀・軍医・国家事業監督などの超人的な仕事量をこなしてしまうことだ。桐花には、たびたびラウーの来訪で忙殺されるものの、人並みな睡眠時間が与えられている。文句も言いづらい。
超絶ブラック会社ラウー・スマラグダスの社命によって、桐花は百科事典から書き写した印刷機の図面とともに、印刷工場予定地へと特急巨大鷲便で飛んだのだった。
鷲の背でもせっせと印刷技術について読み込んでいた桐花の脳裏にふと、シュテファンの声がよみがえる。
『妻かつぎレースの日は、大佐の誕生日でございますね』
桐花の胸が、とくんとひとつ弾む。
『ああでも、大佐はもとより優勝なさるおつもりですから、優勝はプレゼントになりませんね』
さあどうしよう。