18. 温情の贈収賄
「俺の身にもなれってんだよ、小姑」
重厚かつ壮麗かつ高価そうな執務机にドーンと軍靴の足を載せ、豪華かつ巨大かつ快適そうな椅子にズーンと沈んだダルジ少将は獰猛な唸り声を鳴らした。
たてがみのような波打つ黒髪はかき回したのか乱れており、銅色の肌は倦怠にくすみ、筋肉質の巨体もいつもの覇気に欠けていた。ふてくされた唇が文句を連ねる。
「あいつ参謀本部のエースだぞ。そんなんと渡り合ってみろ、俺はもう考えすぎてハゲそうなんだ」
「はい、いえ、申し訳ございません」
「隠そうったってそうはいくか。ところがだ、つじつま合わせようとすると空想みてーなブッ飛んだ話になっちまう。俺に大嘘ついてたあの錯乱ヒステリーが唯一、真実をしゃべってることになっちまう。んな矛盾あってたまるか。なのに銃だの辞書だの物証はある。なぁ俺の苦悩が分かるかってんだ」
「はい、いえ、申し訳ございません」
うなだれて何十回目になろうかという詫びを述べつつ、カルロは胸中で深く嘆息した。
延々と垂れ流される愚痴は話の長さにもかかわらず情報が少なく、真実は窺い知れない。分かるのは証言の食い違いに少将の頭が煮崩れてることくらいだ。
「納得いくようで信じられねー空想は別としてだ。もう一度聞いとくぞ。ラウーの暴れ妻が撃った弾は、錯乱女に当たったか?」
愚痴が尋問に転じた。カルロは背筋を伸ばし直す。
侮蔑と不信もあらわに錯乱女と呼び捨てられるのは少将の元愛人だろう。アントニオは元愛人の食事を世話していない。留置されてるのは病院か獄中か。
「位置関係からしますと当たったように思いますが正確にはその、傷を見ておりませんので分かりかねます」
「診察した医者はな、ラウーじゃねーぞ、医者は矢傷しかないと言いやがった」
あの至近距離で外していたのか。女史の射撃センスは壊滅的だ。素質がないと断じた大佐は正しかった、と満足に頷いた。
ズゴーンと軍靴が机に踵を落としてカルロはヒャッと縮み跳ぶ。机上に散乱していた手紙類がさらに散乱した。
「てめー頭を使え。考えてみろ、白魔の矢だぞ。ラウーなら弾道を寸分違わず矢でなぞって、銃撃の痕跡を隠滅するくらい出来んだろ」
「お、お二人が撃ったのはほぼ同時でした」
同意という餌を求める猛獣を前に声が裏返る。
「お言葉ですが少将のおっしゃる、針の穴を通すようなピンポイントを狙いすます時間などありませんでした」
正直に実感を述べた。が、猛獣はウガーと強情に吠えて餌をゆする。
「だからあいつは白魔だっつってんだろ、人間ワザじゃねーんだよ! てめえいっぺん前線に出て来い、俺の説に全身全霊で賛同するぞ! あいつは銃撃を隠蔽しやがったんだ!」
それこそ信じられねー空想でありますッ! 大佐がそんな無駄な面倒を踏む理由が理解できません!
ふーう、と巨体もしぼむ大きなため息をこぼして、不満げな獣は深く椅子に沈んだ。
トレードマークの金属鎧をまとっていなくても識別できた。すらりとした体躯が堂々と威厳に満ちた足取りで近付いて来る。一本の乱れもなく整えられた金髪。聡明さを漂わせる額。凛々しい口元は意志の強さの象徴だ。そして何より特徴的な、魂を圧する力を有した異色の眼。
ラウー・スマラグダス大佐は四日にわたる拘留の疲労を全く見せなかった。逆に充分な睡眠を取ったためか気に満ちている。ダルジ少将の執務室に入り、洗練されたフォームで敬礼なさる姿が輝かしい。頼もしい限りでありますッ、とカルロは内心涙にむせんだ。
対するダルジ少将は椅子に埋もれたままキレのない敬礼を返した。
「癪に障るがどうやらこのゲーム、俺に分が悪い。降りてやる」
「格別のご配慮に感謝致します」
今月の返済分です。あーご苦労さん。という債務者と取立て屋の幻覚が見えた。
「おまえが隠蔽した一発は見逃してやる。俺が何発もブチ込んだあいつの正体まで隠蔽した礼だ。ったく、おまえが頭と体張って守る女でこっちが戦犯じゃどーしよーもねー。公になったら俺がヤバかった。うへー借りがデカすぎてこえー」
「何のお話か理解しかねます」
残金はおいくらほど。生かさず殺さず搾ってやるさ。という債務者と取立て屋の幻覚が見えた。
「あいつの空想話もつじつまは合うが忘れてやる。真相を糾弾してジョーカーを失うより、取り込んで現状維持した方がアダマスの利益だと判断した」
債務者はむくれたまま言う。
「道化なんて可愛いモンじゃねーな。おまえのジョーカーはトリックスターだ。トラブルを持ち込むが宝も拾ってくる。あの銃を海に捨てなくて命まで拾った」
「反アダマスゲリラへの武器供給を断ったうえ、銃火器生産設備を入手した。ダルジ少将はアダマスの誇りです」
大変なお仕事ですね。来月分もキッチリ納めろよ。という債務者と取立て屋の幻覚が見えた。
ダルジ少将はやっと執務机から足を下げ、軍靴に敷かれていた手紙類をつかむ。文面を眺め下ろす黒い瞳はくすぶっていた。
「総統からやる気満々の挑戦状が来た。競鷲に復帰して俺の連勝記録を止めるんだと」
賭博好きのアダマス国民が熱狂する大イベントの開催は間近。鷲乗りたちの華やかな戦場だ。
カルロが亡命してきた二年前、総統は腰痛のためすでに一線を退いていたが、息子のダルジ少将と並ぶ連勝記録を誇っていると聞いた。
「で、総統は同時におまえのジョーカー宛てに手紙を寄越してる。いいか」
不機嫌な棒読みが始まる。
『細やかな気遣いに大変驚かされた。感謝の証に詩を贈ろう。我を優しく撫でるその柔肌、深手を癒し慰める。兵は再び鷲へと奮い立ち、縦横無尽に空駆ける。もう君なしではいられない、地の果てまでも連れて行く。ああ恋しい伴侶、トイレットペーパー……』
グシャー。少将は親の仇を絞め殺す勢いで親の手紙を握り潰した。
「このド下手な詩が便箋三枚も続いてんだぞ! 何が腰痛だ! 検閲したシュレイダーが笑いをこらえるあまり腹筋を痛めたんだ!」
無心……無心だ……。カルロは腹筋のために自分に言い聞かせた。
「クソ拭き紙製作者を処罰したら俺が総統の不興を買う! ラウーおまえだろ、総統に取り入ったのは!」
「職人村視察船出発とほぼ同時刻に発送しました」
取立て屋は債務者の親から保証をせしめていた。
「製紙は国家事業です。途中経過報告を兼ねて試作品を柔らかく叩きほぐし、総統好みの香り付けを施して、桐花の名前で献上するくらい当然です」
うめきながら軽く両手を挙げた仕草は、ダルジ少将の降参のようだった。
「マジで俺は一刻も早くこの忌々しい一件を忘れ去りたい。おまえとジョーカーを無罪放免してやる」
「ところで、俺はあるデカい賭けの清算をしなきゃならねーんだ」
降参したばかりの手が呼び鈴をガンガンと腹いせの勢いで卓上に打ちつけた。
呼び鈴は普通、軽く揺らして鳴らすものである。悲鳴に似た金属音にカルロは目を回しかけた。入室してきたシュレイダー副官は慣れているのか、いつもの穏健な微笑で上司の暴挙をスルーした。
名前と賭け金が列記された皮紙の厚い台帳と、厳重に封蝋された石筒が机に積まれる。
「ああ恋しい伴侶、トイレットペーパー……」
と少将が呟くとシュレイダー副官は腹をかばい、風の速さで退室していった。
「これだ。おまえの結婚だよ。どうでもいいって顔してたからな、覚えてねーだろ。おまえは独身、俺は政略に賭けた。まずおまえの負けは確定だな。ざまーみろ」
ようやく訪れた小さな勝利にダルジ少将のご機嫌が上向いたようだ。が、賭けられた当事者は指摘通りどうでもよさげな白けた面持ちで黙っている。
「あとは政略か恋愛かだ。俺はジョーカーから答を聞いてるぞ。知りたいか? ん?」
少将がいつもの調子を取り返すのは早かった。椅子にふんぞり返って得意顔をすれば、宝箱を前にした海賊の親玉だ。
一方の大佐は、真っ黒と言ったら真っ黒が顔面蒼白になりそうな黒すぎる気迫で少将を睨み下ろしている。雷雲を呼んで海賊船を沈める算段に違いない。窓の外を通りかかった不運な鳩が墜落していった。
「おまえはどーなんだよ。大金が動く問題だからな、正直に答えろよ」
聞くまでもなく政略、いやそれ以前に婚姻関係がない。
カルロは発砲事件当時、トーカ女史から婚姻関係がないと証言するよう請われたが、ダルジ少将にはその件を伝えていない。この様子からすると発覚しなかったようだ。
大金が絡むとはいえ、結婚していないことは暴露できない。構わない、婚約は取り付けてあるのだ。婚姻関係があるとみなしてしまえばいい。
こんなヒヤヒヤも女史が虫皮紙を毛嫌いしなければ味わわなくて済むのに、腹立たしい。ああっもしや羊皮紙を調達すれば解決する問題だったのかっ? 取り寄せねば!
スマラグダス大佐は茶と翡翠の異色の瞳に深慮をたたえ、しばらく黙していた。
「言葉が人間だけが成し得た偉業ならば」
学者の謙虚さで、ようやく静かに語られる。
「言葉で表現できないもどかしさは、人間だけが負う誇るべき苦痛なのだろう」
カルロはうつむく。
当てはまる言葉を探せずに胸の奥で滞積する想い。下手な表現や無言が曲解や軋轢を生むと痛感していてもなすすべなく見送るしかない、そんな場面が幾度あったことか。
大佐の語りは格調高い。総統閣下のクソ拭き紙賛歌とは雲泥の……む、不敬罪だろうかこれは。
「てめーそれで逃げられると思ってんのか」
銅色の指先が机にイライラしたリズムを刻んだ。仕方ない、文学に全く心を動かされない人間もいる。
崇高な学者顔がチッと舌打ちを刻み返す。えええ逃げるつもりだったのですかっ?
大佐は腕組みをして片方の指先をこめかみに添え、しばし苦痛と闘ってらっしゃるようだった。一言、政略とお答えになればいいものを。
そうか、少将を賭けに勝たせてしまうのを渋っているのか。お二人は時々、子供じみた意地の張り合いをなさる。
ややあって腕を解くと、大佐はゆっくり唇を開いた。
「興味を持った女はいたが、それだけだった。興味の構成要素を把握してしまえばただの搾りカスになった。だが桐花は興味を飛び越え、私の制御困難な領域に住み着いた。その永住を願うのは執着と言える」
穏やかな瞳は、軍人としては忌むべき制御困難の事態をむしろ歓迎しているようだった。
「この固執がそうでないならば、何が愛情なのか、私には想像できない」
「回りくどい言い方すんな、寝そうになっただろ。愛してるで済ませろよ。ゲーなんだこのオッズ、大穴すぎて家が建つぞ」
む、むむむむどういうことだ! 政略結婚であることは周知の事実だというのに。大佐は恋愛だと迫真の演技をしてまで少将を賭けに勝たせたくないのか? それにしては少将がすんなりと、まるで結果を知っていたように負けを受け入れている!
少将が石筒をひねると厳重な封蝋がたやすくねじ切れた。
「おまえの恋愛結婚に賭けた世紀の変わり者は一人だけだ。そいつは失踪して死亡扱いになってる。払戻金は遺産として処理される。これが遺言状だ」
むむむお待ちを。なぜ準備良く勝者の遺言状まで揃っていたのか? 賭けの結果が分かっていたとでもっ?
遺言状の丸まりを引き伸ばす少将の手は、総統の詩を扱うより数段丁寧だった。読み上げる口調も一転、おごそかな敬意をはらんでいた。
『遺産は全て文化事業に寄付する。管財人としてラウー・スマラグダスを指名する。ジョージ・タイラー』
たとえ文官でもアダマス軍人なら知らぬ者はいない。ジョージ・タイラー、多くの豪傑の中で異彩を放った初代白魔の名だ。
戦に身を投じながらも、誰より平和を祈願していたと伝えられる。ダルジ少将やスマラグダス大佐を始め、タイラー氏に弓を師事した軍人は数知れない。また、大佐と共に文化遺産を資料館に収集し保護した知識人でもあった。
「……物好きじじいめ」
少将の呟きで、部屋はしんみりと湿度を増した。
「知ってるかラウー。師匠は結婚の賭けがあるたび、必ず恋愛に賭けたんだ。面識のねえ兵士でも必ずだ。賭け金は結婚を司る神に納める賄賂代わりだとか言ってたな」
縁結びの神への賽銭。
タイラー氏が日本文化を知るわけはないが、タイラー式賭けの思想は良縁祈願に似ていた。
「そういう慈愛は受け継いでないくせに二代目白魔を名乗ってんだからなー、詐欺だろ」
「自ら二代目と吹聴した覚えはない」
「おまえの口がカネなら、減らなくても喜べるんだがな。とにかく、この賭けの払戻金はタイラー師からの義援金だ。心して使えよ」
「使途はすでに決め」
ふと、カネならいいのにと言われた口を閉じて、大佐は後方を振り返った。強い視線は扉を開け放とうと試みているようだ。
発声を控えた唇が「トーカ」の形を作ったように見えた。