17. 張りめぐらす罠の糸、心の糸
白魔の弓の照準は曖昧だ。少将の愛人と女史、両者を狙える中空にある。
『トーカ、ならば私がその女を撃つ。おまえの制止は聞き入れない』
『トーカ、ならば私はおまえを撃つ。提案を聞くなら命は残してやる』
最後通牒は二通あった。賭けの記録を取らされたから知っている。大佐の声か月天の声帯模写なのか、矢の標的がどっちなのか、聞き分けられるのは女史だけだ。
二枚のマスクの裏から大佐の声が連射された。
「トーカ、動くな。動けば狙撃する。トーカ、言い訳は通用しない。基地には硝煙で狙撃手を嗅ぎ分ける軍犬がいる。トーカ、稀少な銃を隠し持っていた罪は大きい。トーカ、罪深き妻の似顔絵を作成したばかりだ。逃亡は許さない。トーカ、私はこの世の冥府からでもおまえを連れ戻す」
女史への降伏勧告が続く。
顔の下半分がマスクに隠れたせいで眼光の凶悪さが際立っている。大災害に似ている。抵抗の意志をすり潰される。いかなる凄惨も受容する以外にないと悟らされ、凪いだ境地に招かれるような眼だ。
大佐に秘策があるのは明らかだ。単なる降伏勧告のために珍妙なマスクを装着する必要はない。女史宛てに秘めたメッセージを送っていると思える。降伏勧告に偽装した何らかのメッセージを。
「トーカ、諦めろ。信頼に足る目撃証人がいる。トーカ、アダマスに害をなす毒蝶は射落とすぞ。迷いなく、それこそ虫ケラと同様にだ。トーカ、」
「うるさいのぉ!」
炎を吐くような一喝が空気を裂いた。
「さっさとこの女を捕まえなさぁい! あたし殺されそうなのぉ、何グズグズしてんのよぉ!」
威嚇的な命令の後には、戦艦が海を切り分ける波音だけが続いた。
嘘を量る天秤が傾き始めている。降り始めの雨の緩やかさで、疑惑という名の分銅が天秤皿に積もっていく。
なぜなら連射された言葉にはドレスの女に不利な弾はないはずだ。投降への説得にキレて女史を刺激するのは賢くない。
もしドレスの女に後ろめたい事情があるのだとしたら? 撃つという最初の狙撃宣告をされたのは自分ではと感じるやましい点があるのなら。暗号めいた降伏勧告に不安を煽られ、怒鳴りたくなるかもしれない。
神経質に引きつる唇が嘘の口紅で塗られているように見えてきた。甲高い罵声を浴びた副艦長は二人の女と大佐の間でぐるぐると視線を迷走させている。
待て。口車に乗るな。カルロは無言で訴えながら副艦長と乗組員へ首を振り続けた。奇妙な違和感を彼らも嗅ぎ始めたようだ。助けに動く者はいない。
「そぉ……」
副艦長たちの取り込みに失敗したと気付いたようだ。女は青い瞳を白けさせ、鼻先を鳴らした。
だが劣勢に落ちた女に敗北の気配はない。したたかに、ねっとりした値踏みの上目遣いで金属鎧を眺め回した。
「そぉいうことね。あんたもグル。でしょお? でもねぇ、あんたたちはあたしを撃てないわ」
勝算があるようだった。撃てるものなら撃ってみなさいよぉ、そう挑発するように悠然と手すりへもたれて胸を張る。
「知ってんでしょお。スワップすると周りのモノもついてくるのよねぇ。今あたしがスワップしたらぁ、この女も巻き込んでやるわぁ。スワップ指名されると破談にする力をもらえるけどぉ、モノみたいに巻き込まれた女にはそんなルール当てはまんないんじゃなぁい?」
うふふ、と失笑が混じった。
「どこにも帰れなくなるわよぉ」
「キャンセル権……使うってこと……?」
トーカ女史はやっと言葉を取り戻したようだ。呟く唇は色を失っている。死ぬより避けたい恐怖に足をつかまれたように。指の震えだけでトリガーを引いてしまいそうだ。
スワップが何を示すのか不明だ。それでも嫌味な態度と女史の怯え方で脅迫だと分かる。しかも凄まじく効果的な。本性を現したドレスの女は余裕の微笑で形勢逆転をうまそうに舐めている。
神経に障る微笑は副艦長と乗組員たちに悪意のありかを教えた。今や彼らの敵視は女史からドレスの女へ完全移行している。
くそ、それでも推測の域を出ない加害者は少将の愛人だ。自分の軍人としての将来と意味不明だが強力な脅迫が、取り押さえるという強硬手段をためらわせる。始末が悪いのはドレスの女がそれを承知していることだ。場は得意げな悪意の侵食に揺らいだ。
「嫌よねぇ、うふふ。嫌ならあたしに従って、」
「おまえは出来ない」
氷の刃が甘ったるい声を斬り落とす。大佐だけは太平の大地よりも動じていなかった。冷厳な口調に女の微笑が凍る。
「脱出を望んだのは、巻き込むほどの身近に拳銃を備えて保身する苦境に陥っていた者だ。おまえの企みはおまえには実行出来ない」
気高い威厳が打ち広がり、カルロの魂が畏れに震える。清冽な気に満ちた声が凛と大気を祓った。
「両手を挙げて床へ腹這いになれ。抵抗を捨てるならば命は残してやる」
正真正銘の降伏勧告。矢尻が魔性へ狙いを定めた。
「ちくしょう……!」
後は一瞬の出来事だった。
怨嗟をほとばしらせた女が女史につかみかかる。強奪されかけた拳銃と白魔の矢が鳴るのは同時だった。金切り声が響き、ピンクのドレスが弾かれたように甲板を舞う。
「確保しろ!」
倒れたダルジ少将の愛人の肩を矢は深々と貫通していた。甲板に点々と血が散る。
「いたぁい、痛いのぉ! もお嫌ぁ、ここも嫌、あたしの価値分かんないクズばかり! 換えてぇ、またスワップしてぇっ! お願いよぉ……あたしにふさわしいのはどこなのぉ……」
射落とされた毒蝶はもがいて助けを泣き喚いたが、副艦長たちの迷いない手で捕獲された。
あぁよかった、終わった。ようやく空気が流れだす。緊張からの解放と血の赤に腰が抜け、カルロがしゃがみこんだとき。
「撃っちゃった」
茫然自失の呟きがして振り返る。女史はへたり込んだまま、震える拳銃を虚ろに眺めている。あぁしまった女史の人生まで終わってた!
「おまえには射撃の素質がない。命中させたのは私だ」
普遍の原理を語る口調で淡々と無能宣告する大佐。
「うそ。当たってないわけないよ。至近距離で撃ったんだよ?」
「傷を鑑定すれば私の正しさが証明される」
女史の頭は緩慢に横へ振られる。拳銃の重さに耐えかねた腕がゆっくり脱力していった。
問題は当たったかどうかではない、とカルロは巨大苦虫を奥歯に突っ込まれた心地で思った。
あれは正当防衛にあたるだろうか? 少将の愛人は銃撃もやむを得ないほどの脅威を与えただろうか? 事件の発端は全く謎だが、女史が銃を不法携行し少将の愛人に発砲したのは事実だ。空軍犯罪諮問機関にかけられ違法と判断が下れば女史は破滅、大佐も罪を免れない。
マスクを外した大佐は弓矢を副艦長に渡して自ら武装を解いた。ならったように女史も武器を甲板へ放す。細い両手首を差し出された乗組員は、捕縛は遠慮させて頂きますと応じなかった。
「紡ぐ家のトカ」
大佐は珍しい呼び方をした。
「ネイティヴの誇りを保って聴取に答えろ」
「うん。でも撃っちゃった」
女史はヘニャッと笑う。照れたような、妙にスッキリした笑顔で大佐を仰いだ。
「ラウー。おにぎりおいしかった。食べれなかったけど、人生で一番おいしいおにぎりだったよ」
二人は別々に身柄を拘束された。
ワゴンを押している、というよりワゴンに支えられてるのが明白な衰弱ぶりでそいつは戻ってきた。片眼鏡越しの遠目でも間違いない。遭遇を避けたいがゆえに目に焼き付けたあの骨太ひょろ長は厨房のアントニオだ。
カルロはワゴンに駆け寄った。
皿の配置は覚えている。かぶせられた銀のふたを持ち上げ中を確認する。よし、大佐は通常通り完食。トーカ女史は、ああクソっまた食べ残した。日誌に控えておいたメニューのうち、食べ残されたものを丸で囲む。
衝撃の発砲事件から三日が経過していた。
あの日、戦艦の軍港帰着を待たず、連絡を受けたダルジ少将は鷲で乗り込んできた。概要を聞くと箝口令を敷き、スマラグダス大佐、トーカ女史、愛人を基地のどこかに個別に留置したようだ。ロザリアがどんなに耳を済ませても聞き取れずにいるから、恐らく宮殿地下。
カルロが事件の目撃者として事情聴取されたとき、相手はダルジ少将一人だった。空軍犯罪諮問機関は召集されず、少将が単独で捜査しているようだ。民間女性同士のトラブルに大佐が介入しただけとの判断なのか、事件に機密レベルの重大性があるのか。両方か。
大佐も女史も不在では、カルロの仕事はほとんどない。二人宛ての手紙や荷物は検閲のため、少将の副官シュレイダー氏へ回されている。戻されてきたものを保管するだけだ。ことごとく開封された郵便は激しい屈辱を覚えさせる。
主の不在に傭兵である月天とロザリアも無為な時間をじっと耐えていた。
マスクの裏で大佐が女史に伝えかったメッセージは何なのか。
月天は大佐の合図があったときに女史の名前を言っていたそうだ。記憶を元に、大佐ご自身の呼びかけで始まる文章を拾うとこうなる。
『ならば私がその女を撃つ。おまえの制止は聞き入れない。言い訳は通用しない。基地には硝煙で狙撃手を嗅ぎ分ける軍犬がいる。私はこの世の冥府からでもおまえを連れ戻す』
カバンの弾痕は誰の発砲によるものか、軍犬が真実を嗅ぎ分けてくれる。愛人の言い訳は通らない。私がその女を捕らえるから、おまえは撃つな。
そう伝えて冷静にさせたかったんだと思える。
ここまでは推測できても謎はまだ多い。スワップ、キャンセル権の意味。少将の愛人が女史を襲った理由。女史がその真実を話さず、愛人に反撃して一人で罪を負う覚悟でいた理由。大佐がマスクを使って真意をかく乱した理由。
いくら考えても答えは出ない。
そして仕事はない。製紙事業も樹脂問題で頓挫している、と対ロザリア有害図書月天に愚痴ってしまったほどだ。せいぜい大佐と女史の健康状態を食事でチェックするくらいしかやることがないし、他に二人の消息を感じる方法がないのだ。
厨房を張り込み配膳係を突き止めた。アントニオなのはウザかったが、同時に安心材料でもあった。アントニオは以前から女史が気に入る食事作りに一人勝手に張り切っていたからだ。さすがに届ける部屋の場所は口を割らないが、プライドをねじ曲げて頼むと皿のチェックは見逃してくれた。
「なーなー、オレ寿命が百年縮まる恐怖体験しちゃったんだよ、聞いてくれよー」
皿チェックが済んでさっさと帰ろうとしたところを、後ろから襟首つかまれた。百年縮まったらもう絶命しててもいいはずだが。
「スマラグ……うわマズい今のナシ、彼がさ、最初に言ったんだよ。奥様の好物は鯨だから毎食入れてやってくれってさ。オレ頑張ってんだ、毎回違うの入れてんだ。でも今日初めて残されちゃって、なぁこれって嫌いな味付け?」
ウザい。無視してやりたかったが、アントニオの協力を失いたくはない。
しぶしぶ銀のふたを開けば確かに鯨フライのトマトソースがドンヨリしている。それが恐怖体験か? だとしたら女史が食い忘れた歴代の食事にアントニオの寿命は何転生ぶん吹っ飛ぶことか。
「彼さ、食べんのすんげー遅くね?」
いや一秒の無駄もなく効率的に召し上がる方のはずだ。
「すんげー遅くてさ、邪魔しちゃ悪いから、奥様のを先に片付けるんだよ。それから彼の皿を回収しに行くと、奥様の食べっぷりを聞かれるわけ。会話は基本禁止されてるけど、食い物の話くらいは衛兵も止めないし」
何ィィ皿チェックを大佐自らなさってたのか! 自分の唯一の仕事が無意味に。副官だと確認できる唯一の作業がァァ……。
「でな、さっきも聞かれて、鯨フライを残したと話した瞬間に……!」
クワッと目を見開き、アントニオは身を反らした。次に上半身をワゴンに突っ込み、食器に埋もれて動かない。寿命が百年縮まる恐怖体験を思い出したらしい。
大佐が女史のずさんな健康管理に呆れる姿なら以前に見ている。恐怖体験などと大げさな。下っ端シェフコートをソースまみれにして横たわるアントニオを放置し、カルロはその場を去った。
しかしトーカ女史の好物は鯨より白身魚だったと記憶している。
次の食事ではアントニオが泣いて頼み込んだせいか、女史は怪訝な顔をしながら鯨を食べ切ったそうだ。前回より深くワゴンに撃沈したままアントニオは呆然と呟いていた。
「今日ボル・ヤバルは沈むんだ……笑った、彼が笑った……」