6. その軍人が護るもの
湯の入った壷と布をもらって体を拭き、正体不明な赤身肉のステーキを平らげ、桐花はようやく人間に戻った気分になった。
待っていた餌担当兵士が軍の食堂から桐花を連れ出し、さらに城に近い建物へと歩いていく。通行人の軍服率が一気に増え、建物も装飾性より機能的なデザインが目立ち、軍の関連施設が多い地域であることを窺わせた。
箱のように窓のない建物の前で止まる。石造りに薄黄緑色の鉱物製らしき扉が据えられ、その前にはやたらと筋肉質な警備兵が仁王立ちしている。それこそ仁王像のように動かない警備兵に、餌担当兵士はキビキビと何かを告げた。警備兵がフクロウのように首だけ回し、扉の内部へ短く怒鳴る。
呼応して扉が開いた。地獄の門を連想させる、不吉な緩慢さで。
警備兵はデカさに似合わぬ機敏な動きで、サッと内部への道を空ける。餌担当兵士も脇に退いた。ここから先は一人らしい、と気づいて桐花は踏み出すのをためらった。
「進むんだ、発音が最高にクレイジーなお嬢ちゃん」
餌担当兵士がニッと笑う。
「また厩舎に放り込まれたら、今度はもう少し丈夫な籠を用意してやるよ。グッドラック!」
助けてはくれないのか。
ドクター・ルテナンカーネル・瞳色違い金属鎧軍医に会うのは、幸運を祈られるほど不運な出来事らしい。うん、太陽が東から昇るくらい清々しく納得。
できれば逃げたい。逃げたいが、あの巨大鷲を捜査犬よろしく放たれたら、十分で消滅した台車の餌より早く処理されるのは間違いない。丸呑みでいける。生きたまま胃で溶かされるのは、老衰死希望の桐花としては不本意極まりない。
扉の奥は精神的地獄。逃亡は身体的地獄。選択肢の悲惨さに、悲嘆を通り越してむしろニタリとしてしまう。
餌担当兵士がヒイッ、と飛び上がってから駆け出した。
「お嬢ちゃんが真性のクレイジーに! 出たぞ、ルテナンカーネルの犠牲者がまた出たぞぉおぉ」
通行人や周囲の家々から悲鳴が沸き、あちこちでドアや窓がバタン! バタン! と病原菌を締め出す勢いで閉じられ、あたりは瞬時にゴーストタウンと化した。ブツブツとお経か祈祷か悪魔祓いの大唱和が渦巻いている。空襲警報だってこんな効力はないだろう。
桐花の唇からまたもフフリと微笑が漏れる。
あの様子では厩舎に放り込まれても、籠も用意してもらえまい。どっちに進んでも丸呑みゴックンだ。
桐花は重すぎる足を引きずって、中へと踏み入れた。
暗い。
背後で扉が閉まると、一段と暗くなった。瞬きをして、目が慣れるのを待つ。どうやら通路がまっすぐ奥へと伸び、両側には小部屋が並んでいるようだ。天井は高い。
ずらりと並ぶ小部屋の一つから、光が差していた。部屋の入り口と同じ長方形に切り抜かれた白い光が、通路にくっきり浮かんでいる。
不意にすぐ近くに人の気配を感じて、桐花はぎょっとした。扉の脇にちんまりと痩せ枯れた老人が立っている。軍服だが鎧は着けていない。曲がった小さな背、刈り込まれたゴマ塩頭、深く皺の刻まれた褐色の肌、開いているのか判別できない伏せ目。木彫りの放浪僧みたいだった。
魔界の門番かもしれない。
「あの、」
どこへ行けば。問おうとした桐花の腕をかすめるように、節くれだち、関節の曲がった指が光の長方形をさす。腕以外は顔も視線も微動だにせず、低い宙のどこかに定められている。
ありがとう、と言って桐花は光のこぼれる小部屋へと歩きだす。数歩進んだところで、桐花の背に乾いた小さなささやきが届いた。
「どこから来た?」
思わず振り向く。
誰もそんなこと訊かなかった。トカという自分に似た誰か、トカがおかしくなったかスパイを企てているか、いずれにしろトカがどうにかなった、としか考えられていないようだった。
この老人は違う。
桐花は今、誰かが用意してくれたのであろう、水上ゲル民族のすとーんとした白い服を着ている。髪は彼らと同じように後頭部で結わえてはいないが、顔立ちからしても服装からしても、今の桐花はネイティヴに映るはずだ。どこから来たかなんて、空中都市の下のいかだ群だと、この街の軍人ならば訊ねずともわかるはずだ。
どこから。
現実から、だと思う、ここが夢の世界であって欲しい、というかそれしかない。だが桐花には夢と片付けるのがためらわれた。
「なぜ、来た」
答える前に質問を追加しないで欲しい。どこから、だけで頭が精一杯なのに。
桐花は少し考えてから、正直に答える。
「わたしも、それを知りたいんです」
薄暗闇で、息をひそめて立ち並ぶ小部屋。天井一杯まで作りつけられた棚には輪郭の崩れた冊子、像の断片、巻かれた何か、原型のわからぬ塊などが整然と置かれ、入場者のいない博物館のような不気味さが漂う。埃や土や革や布、年代を経たものに特有な重く湿り気を帯びた匂い。
ミイラがウガー! と叫びながら躍り出てきそうな部屋の数々を、桐花は気配を殺して通過していく。
明かりがついているのではなかった。導かれたのは、陽光の降り注ぐ部屋だった。壁は素っ気ない灰色の石だが、天井は建物の扉と同じ薄黄緑色の、もっと透明度の高い石板で造られている。中央には大きな石の机が据えられ、本が高層ビル群のように積み上げられていた。
「わたしの本!」
桐花は駆け寄ってひとつを手に取る。
日本語の本だ。両親の書店に並んでいた本。初めてこの世界を目にした時、桐花と一緒にいかだに載っていた本。インクと紙と現実世界の匂いがする本。
「昨夜、集う家のデーデが全て届けてきた」
本製ビル群の向こうから急に声がして、桐花は心臓を口から取り落としそうになる。ビルの隙間からそうっと覗くと、ベンチに足を組んでページをめくる金属鎧軍医がいた。
「集う家のデーデ?」
「集う家は動物を飼育・管理する一族だ。イルカの調教もする。ネイティヴは動物を友人とみなすから、集うと表現している。草で染めた緑色の服が特徴だ」
ページをめくる指を止めず、本から顔を上げず、軍医は機械的ながら説明してくれた。
恐らくトカの精神を心配してのことだったろうが、結果的に桐花をサド軍医送りにし、桐花の頼みではあったが、風俗規制のあるらしい社会の軍人の前でキワどい写真を大公開してくれた、例の若草青年が「集う家のデーデ」らしい。
その服を持ってきたのもデーデだ、と軍医は付け加えた。
「白い服は紡ぐ家の者だけが着る。ネイティヴの家系や歴史を刺繍で記録・保管する一家は、事実を染めずに刺繍で伝承していくのを使命としているからだ。……意味が分からない、妙な英語だ」
最後の言葉は、読んでいた本に対する感想らしかった。コンピュータ言語の本だ。確かに英語ではあるが、コンピュータのなさそうな世界じゃ話すのムリ。と桐花は、ネイティヴの職業と服の色について教授してくれた相手に対して説明を放棄した。
軍医は本をそっと閉じ、慎重に机上のビル群へと重ねた。立ち上がって本の摩天楼を眺めながら、ゆっくりと首を振る。
「ある時点から間違った記述ばかりだ。だが正しく古い文明の遺物だ。だが進化している」
『だが』の使い方がそれこそ間違っている気がする、と桐花は言いかけたが、鷲の胃袋が見えた気がしてやめた。
「創造主のビリヤードがなければ、文明はこうなっていただろうと思えるほどに」
「創造主のビリヤード?」
「ネイティヴは大精霊の流浪と呼ぶ」
大精霊の、何ですか? 桐花が首をかしげながら仰いだ先には、はっきりと値踏みする異色の瞳があった。脳の最奥まで見透かして探りまわり、見えない伝票に値段を書き込んでいるような気配がする。
「鯨はどうだった。食わせるよう、指示しておいた」
「鯨? ああ、食堂のステーキ? あれ鯨だったのかー、食べたことなかった。おいしかった!」
再び伝票に書き込まれている気配がする。
「ネイティヴは、赤い血を流すものを食べない。赤い血を持つものは、生物として人間と同類だとしている。よって鯨も決して口にしない」
「へー!」
自然派な民族だなあ、と桐花は日本語で感心した。観察してくる色違いの目の奥で、伝票が〆られた気配がした。
「創造主のビリヤード、大精霊の流浪は、数百年前に起こったと伝えられている星の大移動だ。一夜にして木星が接近し、火星は地球を守るように立ちはだかり、木星に飲み込まれた。月は大きさが二倍になるほど近づいた。地震、津波、暴風雨、噴火、あらゆる天変地異が大地と海を根底から作り直した」
この人、ノストラダムスの大予言とかハルマゲドンとか、いきなりソレ系な話を始めたよ?
「生き残った人類はわずかだった。文明の痕跡は欠片ほどしか残らなかった。それでも先祖たちは身を寄せ合い、記憶と知恵と新たに与えられたわずかな資源をかき集め、数百年をかけて文明をここまで復興させてきた」
ここ。と言いながら軍医の指先が机をトンとさす。
「生態系にも変化があった。環境の激変に絶滅した種もあれば、突然変異も多発した。様々な原因不明の変化の事象を、木星化、ユピテライズと呼ぶ。木星との関連性は定かでないが、そう呼ぶ。鷲も、創造主のビリヤード以前は人間の肩に乗るほどの小ささだったと言われている」
ここにあるのは、と言いながら軍医は頭をめぐらせ、石壁を透かして収蔵された品々を眺め渡したようだった。
「壊滅的な打撃を受けて断絶しかけた、かつては繁栄していた文明の欠片」
珍しく、いや桐花にしてはこれこそ天変地異レベルで驚くべきことに、軍医の口調に謙虚さがにじんでいる。ユピテラーイ! と叫びそうになるのを、命がけで我慢した。
「人類の叡智、それらを再び結晶化したもの……文字とは、記録とは、本とは、遺産だ。真理を求め、よりよく生きようと命を燃やす人類にとって、誰にも侵されてはならない崇高なる宝だ。私はいま世界で最も強大なこの国で、その聖域を守る番人だ」
現代なんだ、と桐花は思った。
思考でなく直感で、脳でなく魂そのもので、理解でなく悟った。
この世界は桐花の世界とは違う。それでも地球で、現代なのだと。数百年前のどこかの時点で分岐して、桐花の世界とは異なる歴史を重ねてきた地球なのだと。
創造主のビリヤード、大精霊の流浪がなぜ、どのように起こったのかはわからない。小天体の衝突かもしれない、宇宙空間が歪んだのかもしれない、ただ本当に創造主が気まぐれに、太陽系でビリヤードしちゃっただけかもしれない。
理由などいい。
この建物に収蔵されたものはおそらく、この空中都市を建設した国家、金属鎧兵士たちの属する国家が丹念に拾い集めた人類再構築の足跡。同時に実現手段の失われた、今となっては奇跡のような科学技術の粋。
軍医は、桐花の本を丁寧に扱った。敬意を払った。所有者である乙女を籠に閉じ込め、鷲の厩舎に一晩放置するような人でなしのくせに。
桐花は、頬を伝い落ちる涙がこんなに熱いと感じたことはなかった。
それまでの無体な扱いに対する涙ではないと、言い切れはしないが。自分の無知さに泣けた。
書店の娘として生まれながら、本に囲まれて育ちながら、本の価値など本当は全く理解していなかったのだ。紙に刻まれた文字ひとつひとつが、人類にだけ許されたかけがえのない至宝であることも。
「ラウー・スマラグダス。アダマス帝国軍のドクターで、ルテナンカーネルだ」
……名乗ったよね、いま。はっとして、桐花は慌てて頬の涙を拭った。
「君は誰だ」
「え」
「紡ぐ家のトカ、と識別されているのは知っている。だがこの本はありえない。材質も製法も、内容も。地球にはまだ我が帝国軍の見知らぬ土地があり、そこでは古の文明が途切れず発展していて、君はそこから来たのかもしれない。だがそれなら、創造主のビリヤードの記載が全くないのはおかしい」
軍医が手を置いた本の山は百科事典や図鑑、自然科学に関するものばかりだった。記述は日本語だが、図や英語も含まれている。軍医はジャンルの混濁した数百冊の中からそれらを選別し、散在する英単語を拾い、推理を重ねて行き着いた結論を持っているようだった。
「一晩で調べたんですか。こんなにたくさんの、知らない日本語の本を全部」
桐花を鷲に遊ばせているあいだに。気高い使命感をもって一睡もせず、未知の難解な本と向き合ったに違いなかった。
桐花の心の中で隔壁がひとつ、温かな余韻を残して溶けていく。
「わたしは、江藤桐花っていいます。江藤が名字で、桐花がファーストネーム」
「トーカ」
「桐花」
「トーカ……桐花」
発音は大事だ、と桐花は実感する。発音ひとつで「あっそう」はケツの穴になり、見知らぬ人の名は自分の名として魂を呼び起こす。
懐かしい響きに、桐花は頬が緩んだ。軍医の目尻も温暖化したようだった。
「あっそうだ辞典! 辞典があれば!」
不意に思い出して日本語で叫び、本の山々を探索する。英和と和英を掘り出して、桐花は胸をなでおろす。よかったこれがあれば、コミュニケーションがもっと円滑に! 頭はおかしくないと知ってもらえる!
辞典を抱えてニッコリ、そして固まる。軍医の顔はもはや、北極熊も生存不能な永久凍土に変貌していた。
「……あの卑俗な絵といい、おまえの世界は発達していながら低俗だな」
卑俗な絵? 成人向け雑誌の袋とじのこと? むむ、そういえばいま、発音は大事と実感した次の瞬間にケツの穴と叫んでしまった気が。youはyouでも君からおまえに格下げされた、白目面積の増加量へ如実に反映されてた。
桐花は慌てて首を、髪で自分の頬が鞭打たれるくらい強く振ってみせる。
「違うんです。違うんですドクター・ルテナンカーネル、わたしは馬鹿なわけでは……」
ドクターは正しい。ルテナンカーネルも正しい。だがドクター・ルテナンカーネルは正しくない。
厩舎の鷲の餌担当兵士の声が脳裏をよぎる。
手にした英和辞典をこわごわ引いてみる。
ルテナンカーネル。
空軍中佐。
説得力を失った沈黙の痛さに、桐花が永久凍土に穴があったら埋まりたいと真剣に切望していると。
「中佐、」
博物館の扉番である木彫りの放浪僧風老兵が、カサカサとした足音を立てて入ってきた。
「幽霊船が、湾に。凶事とネイティヴが大騒ぎに。提督ジュニアが鎮圧に。中佐に応援要請が」
返事もせず軍のとってもお偉いさん、中佐は部屋を飛び出していった。桐花を後ろ手に指差し、それを石棺に詰めておけ! と言い捨てて。
帝国軍の忠実なる老兵さんは、乙女がどんなに叫んで懇願しても、即時に軍令を遂行した。
彼の護る「人類の叡智」には、人の心を効率的に凍結粉砕する方法も優先的に含まれている、と桐花は石棺を涙で濡らしながら思った。