11. 慣れるより習いたかった
男の手が内腿を滑る。
同じ行為も相手によってこんなに違うなんて。
桐花は生理的嫌悪を叫ぼうとする口を気力で封じていた。せめて頭の中で、やだ、やだ、やだと暴れる。悔しさに心臓が焦げた。
昨夜の手は違った。こんな風にずけずけと入り込んだりしなかった。顔も見ずに一方的に触ったりしなかった。触り心地を楽しむだけの表面的な触り方じゃなかった。肌を通して別のものに触れようとしてくれてたのが、今なら分かる。
昨晩。透明なソースを舐め取られた肉は前回の痛みを覚えていて、ナイフに怯えた。ナイフは肉に分け入る本来の用途を譲りはしなかったけど、深呼吸を待ってくれた。高温の刃先で内側から熱を通され続けるうちに、ためらいも痛みもとろけた。
この手は違う。食事をただ栄養源としかみなしていない兵士みたいに、ろくに噛みもせず、味わいもせず、皿を空にすることに満足を覚えるような手。食事が作業な手。食欲を満たすだけの手。
声に出せないから唇だけで、助けて、と繰り返す。
痴漢にあうのは初めてじゃない。通学する電車の中で何度もやられた。両親に『書店の娘は肩を小刻みに震わせ潤んだ瞳で周囲に助けを求めベシッ桐花ちゃん、変態はキッチリ撃退するのよ』と教わった通り、その度に「やめてください!」と言ってやった。
だけど今はたとえやめてと叫んで暴れて逃げ出してお風呂に入っても、それで終わりにできない気がする。
昨夜の手に上書きして欲しい。汚い手に触られたところを、全部触り直して欲しい。くすぐったさが肌の下から首筋に走り抜けるような、あの不思議な感覚をくれる手で。筋肉を締める熱を全身から奪って、繋がったただ一点に収束させてしまうあの手で。
早くあの手に会いたいのに!
突然、大きく担ぎ直されて桐花は慌てた。鬼たちはサーフボードから岸に飛び移って歩き出していた。不浄な手は桐花の内腿から離れ、荷物の固定役に戻っている。桐花はひとまず安心のため息をつき、にじむ視界でこっそり周囲をうかがった。
森が開拓されて堤防が盛られ、乾いた土地が造られていた。レンガを積み上げただけの無粋な建物がゴタゴタと詰め込まれている。煙突や大きな開口部を持ったものが多く、小さな工場の寄せ集めに見えた。予想を裏付けるような硬質な騒音が聞こえている。
工場群は尖った鉛筆を隙間なく並べたような丸太の柵で囲まれている。行き交う筋肉質な男たちの中には武装してるのがいて、生産品の物騒さを語っていた。
「おー、収穫あったかァ?」
「それがなァ……」
河から上がった鬼たちが、わらわら集まってきた鬼たちに襲撃失敗を歯切れ悪く話し始めた、その時。桐花の救出隊が喚声と共に大挙してなだれ込み、鬼たちに猛攻撃をかけた。
あれは!
桐花は覚えのあるスレンダーなシルエットに目を見開いた。
鬼の顔面に叩き込まれる鮮やかな飛び蹴り。太くたくましい腿がまぶしい。身軽に着地すると鬼の腕をかいくぐり、ダダッと俊足で鬼の背後へ回るとその背を駆け登って、後頭部に強烈なドロップキックをかました。さらに口で鬼の髪を引きむしり、眼球に高速の硬質キス連打を浴びせた。
なんて闘争心。惚れてもいい、彼が闘鶏でさえなかったら!
桐花の種族違いなヒーローは鶏だけではなかった。ガァガァブヒブヒ、ブメェェェェ! と騒がしく鳴きたてる動物たちが次々と鬼へ襲いかかる。
ガチョウが鼓膜にキンキン響く大声で鬼を怯ませたところへ、豚がタックルをかまして転倒させる。ねじくれた角を持つヤギは、「悪魔め寄るなァァ!」と鬼に十字架を突きつけられる。場は一気に混乱に陥った。
月天の動物たち!
ペットか非常食だと思っていた月天の動物たちは怒り狂い、野生の攻撃性を剥き出しにして突っ走ってくる。桐花を担いでいた鬼は豚の突撃を受け、パニクって桐花を一本背負いの要領で豚に投げつけた。戦利品は丁寧に扱えコラァァァ!
桐花にはブタといえば大人しい養豚のイメージしかなかったが、イノシシみたいなものだと思い出した。牙を剥いた鼻で突進しては鬼の足元をすくってブン投げている。小さな戦車的破壊力に鬼も腰が引けている。
さらに重低音のひづめの音が響いてきたと思ったら、牛だ。荒れ狂う牛たちに追い回され、突き上げられて吹っ飛ぶ鬼たち。桐花も踏まれそうになって、慌てて走りだした。おかしい、月天は牛までは連れてなかったはずなのに!
暴れ牛が走ってきた方向を見ると、工場地帯を囲む柵が一部壊されている。奥の牛舎らしき平屋から次々に牛を連れ出す三つ編み軍服姿が見えた。月天が牛の耳元に何事か言いつけると途端に牛は興奮し、暴走機関車みたいな勢いで突進していく。
ぞくりとしたものが桐花の心臓を逆撫でする。
月天はデーデにそっくりだ。雰囲気からすると兄だろう。デーデが属するネイティヴの『集う家』は動物を飼育、調教する職業集団だ。だから月天も『集う家』の一員かと思っていた。
でも扱いが違いすぎる。ネイティヴにとって、赤い血を持つ動物は友人のはずだ。食べることさえ許さない。なのに月天は動物たちに攻撃性を与え、体当たりの無謀な戦いに送り出している。まるで使い捨ての兵器みたいに!
奇襲から気を立て直したのか、鬼が動物に反撃を始めている。すでにグッタリと動かなくなってしまったガチョウ、銃弾に倒れた豚。なのに月天は見向きもせず、牛を兵器に変え続けている。
視線に気づいたのか、月天はふと桐花を見て手を止めた。体育会系の爽やかで温かな微笑のまま、着ていた軍服のアダマス軍章を指し、自分を指し、肩をすくめた。
『軍が部下にやらせることと、どこか違うかい? ハハハ』
「違う!」
桐花は叫んだ。
「やるのと、やらされるのは違……ギャー牛こっち来ないでー!」
突進してきた軽自動車サイズの牛に追い立てられて、桐花は大きな建物へ逃げ込んだ。
転炉、というその大釜の名称を桐花は知っていた。鉱業関連の翻訳をやらされたから。
レンガ積みの工場内は巨大倉庫みたいにドーンと大きな一つの空間になっていた。中央にデカい壷形の釜が鎮座している。象だって煮込めちゃいそうなデカさだ。実際は象じゃなくて溶鋼をグツグツして不純物を除くモノである。
釜は中央両脇を左右からT字の太い柱に支えられている。そこを支点に鉄棒の前回転みたいにグルンと反転、グツグツな鉄を流し出す仕組みだ。
転炉は口を斜め下に向け、一部が接地した状態で固定されていた。片側が地面に刺さったΩだ。屈めば中に入れそうだった。
これは暴走牛爆弾から逃れる最高のシェルターじゃないかっ! 鬼から隠れることもできる。この鬼ごっこ、もらったァ!
グツグツが取り出されて時間が経過しているのか、熱気は感じられない。桐花が転炉へ走り寄り、身を屈めて潜り込もうとすると。
「ごめーん、定員一名なんだよね」
くぐもった若い男の声と共に、釜の中の薄暗闇から何か突き出された。凶暴な金属の塊が冷笑する。銃口だ。
建物の外ではブモォォォと猛り狂う牛たちと逃げ惑う鬼たちの狂騒が続いていた。銃口か、闘牛か、一瞬ビビったものの桐花は言葉の通じる方を選んだ。
「嘘つきっ、まだまだ入れるじゃん!」
でも銃口はつれなかった。
「別んとこ探せよっ、二人だと見つかる可能性が二倍になるだろー!」
「ケチ! 表面積でいえばわたしの方が小さいはずでしょっ!」
小さな表面積に胸が大きな貢献だちくしょー!
「あーそうかよ、表面積が小さいなら牛に当てられる確率も低いだろー!」
「ここに入れば確率ゼロに出来るでしょーっ!」
と銃口と憎まれ口で対決していてふと、ぽんぽん言い返せている理由に気づいた。
「あれ? 日本語……」
銃口がひたりと黙った。そして呟いた。
「……そういえば日本語」
「えと……もしかして太市さん?」
「あんた誰?」
薄暗い転炉の中から響く声は急に硬化した。
「あんた日系人っぽいけど、村の人じゃねーじゃん。オレ信じないよ。オレを引き抜こうとした武器商人がいたけど、バレて殺されたって聞いた。あんたそいつの手下かなんかじゃねーの? カジヤベの」
桐花の脳裏に血まみれの男の記憶が蘇る。ラウーの傭兵アイヤイを奴隷に使っていた武器商人、ソウヘイ・カジヤベ。日系人だったはずだ。この推定太市は、職人村出身でない日系人を警戒しているようだ。
「オレ殺されんのやだよ。どっか行っちまえよ!」
銃口でシッシッ、と追い払われた。桐花はぎゅっと拳を結ぶ。そんなんで諦めるもんか、無体な扱いには慣れている! 慣れたくないけど!
「待って。わたしアダマスから調査に来たの。銃の中に『請救助 太市』ってメッセージを彫ったでしょ?」
「カジヤベの関係者だって読めんだろそんなの!」
「あっ……そうだよね」
「アホかあんた!」
生ぬるいっ! そんなんで折れるもんか。天の頂上から地獄の底を這う脳なしを見下ろすような視線には慣れている! 慣れたくないけどー!
「鞠姐さんがくれたパイだって持ってます! 何かあったら太市さんを助けるように頼まれたんだから!」
銃口が揺らいだ。二、三度繰り返された震えは、言いかけては言葉を飲み込む動きに似ていた。
「……パイをよこせ」
にゅっ、と釜の薄暗闇からもう片方の手が突き出される。
桐花はずっと握り締めていたカバンに手をかけた。二冊の重い辞書と一緒にシェイクされて、パイなんてもう粉々のメショメショ、原形なんて留めてないだろう。けれど信じてもらえると確信していた。
極限状態でも気力を失わず、頭をクリアに働かせ、自分の身を守るために戦うことを教えてくれた人がいる。そんな状況慣れたくないけど、慣れさせてくれちゃった人がいる。その前で迷わず毅然と胸を張りたいと願う、それが忠誠を誓うってことなんだと思う!
異色の瞳を心に抱き、大きく息を吸い、求められたものを叩きつけた。
「パイ=3.14159265358979!」