8. ワーカホリック・ホリック
バシューン! ばたたたっ。
少将の強弓から赤い煙を吹く矢が撃ち放たれるのと、月天の胸ポケットから鳩が飛び立つのは同時だった。矢は河口へと高く弧を描き、放物線の頂点で炸裂してさらに高く煙を上げる。鳩は空を切り裂き森へと一直線に飛んでいった。
桐花は一人の日系人へ駆け寄った。増水対策であろう高床式の家並みは鬼ごっこには不向きだ。逃走ルートが丸見えになる。柱にピタリとはりつき柱の幅に体を縮ませて気配を消そうと必死な男に事情説明を求めた。
「鬼だ。龍が昇る日は長盾鬼が出て、人を盗んでくんだよ!」
それって盗みじゃなくて拉致ですよね。で、鬼の次は龍? なんてワンダーランドな。
「太市もやられた。前は金品や女だったのに、近頃は鍛冶屋ばかり取られんだ!」
『おのれ鬼ども、太市だけでは飽き足らず』
鞠姐さんの怒りに満ちた声が耳にこだます。
請救助 太市。拳銃の内部に密かに彫られた銘はコウタススケ タイチさんのフルネームじゃなくて、やっぱり救援メッセージだったんだ。
「ここに銃はありますか!」
「じゅ、じゅう? なんだそりゃ、あんたなまりヒドすぎんぞ」
「鬼はパーンと音の鳴る飛び道具を使いませんか?」
「あっ、見たことあんぞ。あいつらそれで殺生しやがんだ!」
日系人は銃を持っていない。鬼に対して鎌や鍬を手に逃げ惑うばかり。つまり職人村では銃を製造していない。鬼が日系人を拉致して銃を作らせている、と桐花は推測した。
「それに馬鹿でけえ盾を持ってて、歯が立たねえ」
高床住居の支柱群のはるか奥に、追う者と追われる者の攻防が見えた。追う方は十数匹いて、全部が盾を持っている。身長ほどもある細長い楕円の盾が長盾鬼の名前の由来らしい。
だが鬼自体は人間っぽい。日系人より体格はいいが肌の色は赤でも青でもなくむしろ白いし、角やトラ柄パンツなど鬼アイテムも見当たらない。
「人間の山賊じゃないの?」
「昇龍の日は道をふさぐし橋も落とす! なのにあいつら、足跡も残さずに出没しやがる。河から湧いてんだ!」
「船で来てるっ?」
「だから湧いてんだって! 物見やぐらで見張ってたって、船なんかどこにもねえ。そもそも船は龍に飲まれちまうだろうが! ウウウなんまんだぶなんまんだぶ」
神出鬼没、ううん鬼出鬼没。それを聞くと鬼に思える。でも、と桐花は奥歯を噛みしめた。
銃を製造する近代化した鬼なんていてたまるか! 鬼なんてもんは金棒で満足しときいや!
柱と同化を試みる男を解放して、桐花は周囲を見回した。目立つ赤い石鎧をすぐに発見する。ダルジ少将は近くの民家の屋根の上に立ち、遠い喧騒を観察していた。
「襲撃してきたのは日系人を拉致する鬼で、少将お気に入りの太市さんが過去にさらわれているそうです!」
日本語で聞き出した内容を英語で伝える。
「銃の銘は銘じゃなくて、救助を求める隠れたメッセージでした。たぶん鬼が太市さんに銃を作らせてるんです!」
「へー」
どっかりと腕を組んで波打つ黒髪を風になびかせ、ダルジ少将は動く気配を見せない。村の奥の交戦に眼を据えたままだ。
すぐにアクションを起こすと思っていた桐花は戸惑って継ぐ言葉を失う。
「で、」
隙を突くように、少将は振り向きざまにいきなり聞いてきた。
「日系人の加勢をしてアダマスに利益はあるか?」
「……はい?」
「言ったろ、俺の興味は銃の製造なんだよ。なら、太市を抱え込んでる鬼と手を組めば済む話だろーが? この村を保護する必要がどこにあんだよ。視察に入った途端に鬼が攻めて来る? 笑えるねぇタイミング良すぎて」
『軍から離しときたいんだ。利害の衝突が起きたとき、優先順位を間違えなくてすむようにな』
艦上でのダルジ少将の言葉が何度も行き来する。利害の衝突。軍の利益と人道の衝突。これはラウーが内心で常に孤軍奮闘しているはずの紛争なんだ。
ラウーは軍の非常時には迷わず軍を選択し、非道な行いに手を染める。知の時代を実現する権力と資金の確保には軍での立場が必要だから。知のために血を流す矛盾を背負ってる。
この場にラウーがいたらどうするだろう。日系人を見捨てて鬼と契約するだろうか。救世主だと感謝を述べた鞠姐さんの遺言を無視して。
しないと信じたい。
視線は破滅的に冷え切っているのに、驚くほど温かい指先と唇。守っていてと頼んだら、請われるまでもないと即答してくれた。結婚報告の時は誇らしそうにしてくれた。痛がるたびに深呼吸を待ってくれた……待つだけでやめてくれないけどっ! あれも利害の衝突かも。
そんなラウーが心に積み重なっているから、理念をまげる時には悔しがってるって信じたい。
「軍が忠誠を誓わせるのはなんでだ? 優先順位を教えるためだ。葛藤させないためだ。俺の決断で死ぬヤツがいてもいいが、俺の迷いで死ぬヤツが出たらアウトだ」
日系人を保護しないと宣言した少将をヒドいと感じることが出来なかった。少将は少将の理念で動いている。理念を守ることで軍を守り、兵を守っている。
「だから聞くぞ。おまえが忠誠を誓ってんのはなんだ?」
あっけらかんとした口調でも、聞かれているのは自分の根幹に、もしかしたら命に関わることだと直感した。
「ネイティヴか? アダマスか? 日系人コミュニティか?」
「ラウーです」
すんなりと答えは出てきた。
「ラウーを見ていたいから、ここにいるんです」
何に忠誠を誓うか、理念は何かだなんて、桐花がトレード前の世界で真面目に問われることは一生なかったかもしれない。堅苦しい時代は終わった。自分が第一。一生懸命はダサい、うまくやればいい。そんな風潮に浸っていた。
でも生きてく上で利害の衝突は必ず起こる。そのとき何を選択するかを決定するのは理念なんだ。
堅苦しくなくて、自分が大事で、一生懸命やらなくても、それでも必要なもの。
国とか軍とか命とか文明とか。少将やラウーに比べたらスケールの大きさが違うけど。生まれ育った土地、家族、友達、それらと断絶されることになってもラウーの造る世界を見たかった。自分もその一部になれるなら何だってできる気がした。
ほんとのことだから恥じ入ったりしない!
背筋を伸ばしてダルジ少将の視線を見返した。その黒い瞳で魂が覗けるなら覗けばいいと思った。
「ふはっ。ぶはははは!」
いきなりの爆笑が天を衝く。少将は鎧の腹をばんばん叩きだした。
「そうきたか! 笑える、面白すぎる。あいつが恋愛結婚とかフザけんな、オッズどんだけだと思ってんだよクッソー、大損じゃねーか」
爆笑から一転してムクれている。
「ラウーの野郎、試合に負けて勝負に勝ったっつーか、ムカつくな! いや負けてんだから引き分けだな。よし、追及は後にしてやる」
オッズは賭けの配当率。ラウーの結婚は賭けの対象だったらしい。となると桐花は思いっきり当事者だ。誰が何にいくら賭けたのか知りたい!
うずうずと体を揺らして少将の視線捕獲に努めた。が、少将内では話題が片付いてしまったらしく、河口を振り仰いでニヤリと口角を持ち上げている。得意げな視線を追って、桐花はマングローブの生垣の向こうへ目を向けた。そしてそこにあるはずのないものを見る。
戦艦。
乗るより見る方が壮観だ。帆にはアダマス軍の紋章がくっきりと染め抜かれ、船体は石板の装甲を施され、船舷には黒々とした砲門が並んだ威風堂々たる戦艦が河に姿を現していた。
「ええっ? 何で戦艦が河に入って来れるんですか? 滝はっ?」
船が滝を乗り越えられるわけないのに!
「驚いたか! そうでなきゃな、満潮狙って来た意味ねーっつーの」
呆れた声が桐花の脳をぐるぐる回す。満潮を控えて、河と海の境目は落差の小さい白糸の滝だった。月が近いこの地球の干満差は大きい。満潮で上昇した海面は滝を埋め、河との行き来を可能にした。
カラスに乗った月天とロザリアが艦を先導している。乗り上げないよう、川床の深い場所を教えているようだった。
日系人と長盾鬼たちの競り合いも途切れがちになり、忽然と現れた戦艦を呆然として眺めている。
「捕まえた武器商人をシメて口を割らせた。銃の製造元、鬼ってことにしとくか。鬼が、反政府ゲリラと親しい商人へ優先的に売りさばいてやがる。内戦が激化すりゃアダマスにもゲリラにも武器が売れて儲かるからな。消耗戦は国益に反する」
ヘラヘラした笑顔に騙されてた、と桐花はダルジ少将のヘラヘラした横顔を凝視する。もし音声を消して表情だけにしたら、誰も少将が戦争の話をしているなんて当てられないだろう。
「敵の敵は一時の味方。日系人に加勢する利得はねえ。ねーけどな、アダマスが鬼を支配下に置くつもりなら、形勢としちゃ日系人の味方ってことだ!」
ドオンと大気を揺るがす轟音が響いて戦艦の砲門が煙を吹き、村の手前に巨大な水柱が上がった。
次々に上がる水柱を最短距離で迂回して、カラスに乗った月天とロザリアが戻ってきた。
「戦艦は威嚇砲撃を含めて二十分で撤退させろ。遅れた場合、海面が降下して座礁する」
月天がラウーの声で言う。
「……つまりこれ、ラウーの作戦なんですね? 少将」
「鬼が逃げる、追え!」
無視するってことはイエスだな、と桐花は判断した。ラウーは職人村視察と聞いて情報を集め、有事の際の対応を少将と打ち合わせておいたのだろう。ポーカーしながら酒の肴に戦略立案か、ワーカホリックめ!
長盾鬼は日系人の拉致を放棄して、退散を決めたようだ。盾を脇に抱えて河岸へ駆けていく。
桐花は首をめぐらせて姐さんを捜した。弟の消息を聞きだそうと、鎌で鬼と交戦を挑んだに違いなかった。上流に位置する村の奥へと、日系人たちの流れに逆らって走り出す。乱れた多くの足跡が残る広場に、見覚えのあるたすきが落ちていた。
血に濡れている。
そこから点々と連なる血痕は河へと向かい、石垣を降り、マングローブの密生する林の縁で水の中へと消えている。水位が上がって沈みそうな茂みの間に、動かず横たわる女性が見えた。
「姐さん? 鞠姐さん!」
石垣を飛び降りて河へ踏み入れる。柔らかい泥と水が足首をつかむように邪魔してくる。それをばちゃばちゃと蹴り返しながら姐さんへと手を伸ばした。
「文殊、行っちゃだめぇっ! 先生に怒られるでしょ!」
ロザリアの制止は正しかった。
伸ばした手を握ったのは、姐さんじゃなかった。節くれだった手にきつくつかまれ、悲鳴を上げる。マングローブの葉陰で待ち構えていた鬼が出てきて、桐花に銃口を突きつけた。
「捕まえたぜ!」
英語だった。
「おら来るんじゃねーよ、デケェの! そっちの二人もだ、殺すぞ!」
背後から首を抱き込まれ、河へズルズルと引きずられる。デケェのと呼ばれたダルジ少将は住居の支柱を遮蔽にして、その裏で呆れ顔だ。
「またかよー、おまえ人質になるの好きだな!」
そんなドMな趣味はない! と叫び返したいが、引きずられてるせいで首が絞まって叫べない。
でもどこへ逃げるつもりなんだろう。鬼はやっぱり人間、白人の荒くれ者たちに見える。水中に異界への帰路がある鬼ならまだしも、船もないのにどうやって逃げるのか。前には日系人、河口には戦艦というまさに背水の陣だというのに鬼たちは迷わず河へ入っていく。
「ねね月天、今日って満月かなぁ?」
桐花はもう腰まで水に浸かっている。足先が川底を空振りして転びそうになる。目の前で護衛対象が溺れまいとアワアワしているというのに、ロザリアの興味は月見にあるらしい。透視でお月見もできるのかー、と桐花が投げやりなツッコミを入れたとき。
「じゃあ、龍が来るよ。昇ってくる」
ロザリアの言葉尻にかぶせるように、ゴゴゴゴゴ、と地鳴りのような音がし始めた。川面がダプダプと不規則に揺れる。音の正体を求めて桐花は辺りを見回した。
「全力後退!」
「アイアイサー!」
戦艦のブリッジから艦長の命令が風に乗って聞こえてきた。
「海嘯に九十度を保て! 来るぞ!」
「アイアイサー!」
バーンと船尾で派手な水飛沫が散る。重そうな戦艦をぐらりと揺らし、それでも全く勢いを削がれることなく、海からの高波は真っ直ぐ桐花たちへと攻め上がった。
「ポロロッカ」
ようやくその単語を思い出し、桐花は呟く。
干満差の激しい大潮の満潮時、盛り上がった海面は川の流れを押し戻して河口に侵入する。特に三角江では逆流した潮流が奥へ進むにつれて凝集され、津波のように川を遡上する。重力を覆すように川を駆け上がる奔流は、見えない龍が昇って行くかの驚異なんだろう。
ここにいたら高波に飲まれる。桐花は焦って足をバタつかせた。
「ウゼえ。大人しくしてりゃいいんだよ!」
イラついた鬼の声と同時に、桐花のみぞおちへ乱暴な衝撃が食い込んだ。一瞬息が止まる。意識がゆらりと遠のく。視界がぼやけ、そのまま気絶……しなかった。
「下手くそだな。もーちょい上だろ」
ダルジ少将の呆れた声がする。敵に指南するなバカ少将ー!
桐花が痛む腹を抱えてゴフゴフと咳き込んでいると、舌打ちが降ってきた。今度は後頭部に打撃が走る。頭が揺れ、グラリとよろめき、そのまま気絶……しなかった。人間って意外と丈夫だ。が、これ以上殴られるのはイヤなので、とっさに気絶したフリをする。
鬼は騙されてくれたらしく、桐花をマフラーみたいに両肩に担いだ。鬼は大柄だが、桐花にだってそれなりの体重がある。こんな状態でどうやって高波から逃げる気なんだ!
薄目を開けて観察すると、鬼たちには逃げる算段があるらしく迷わない。次々と長盾を川面に手放している。木材なのか、浮かんだ盾の上へと鬼たちが飛び乗る。腹這いもれば、桐花を担いだ鬼のように正座もいる。そして背後に迫る高波を睨みながら、両手で川面を漕ぎ始めた。
「乗れ、乗れ、乗れねえヤツは置いてくぞ! イヤッハーイ!」
鼓膜を痺れさすような激しい水音と共に、高波が押し寄せる。鬼たちは興奮した喚声で吠えながら立ち上がった。
盾じゃない、と桐花はここでようやく気づく。鬼たちが担いでいたのがサーフボードであることに。