6. 人類だから挑む山
急いで戻らねば、参謀会議に出席されるスマラグダス大佐をお見送りできない。女史の補佐も任務の内とはいえ、女史を送り出して大佐を送れなければ本末転倒だ!
軍港の階段を上がりながら、昨夜の大佐探しで筋肉痛の太腿を叱咤していると。
「おーおまえ、ラウーんとこの小姑」
階段を下りて来た一団に道を譲るタイミングが遅れた。脳天がガシッと震動に見舞われ、一団を率いていた人物に頭をつかまれる。衝撃で片眼鏡が外れたが構ってられない、最優先で敬礼する。
脳天を覆った手に力が入り、上を向かされた。首の骨がグッキリ鳴ったが構ってられない。
小姑などと妙な呼称も構ってなど……こっ……小姑とは心外でありますッ!
「おはようございます、ダルジ少将!」
眼鏡が外れたせいで視界はぼやけてしまったが、覗き込んできた黒い瞳にみなぎる豪放さ、生物としての圧倒的優位性は本能が知覚する。注視せずとも特定できる数少ない一人だ。
「吐けよ。女史と呼ぶ理由だ」
足元が抜けるような恐怖を感じた。野生の獣王が鼻をうごめかしている。昨晩のポーカーの場でも、勘の鋭い獣は秘密の切れ端を嗅ぎつけていた。落ち着け膀胱、締まれ尿道ッ!
「た……単なる慣例であります。初対面が助手としてでしたので。以後、大佐夫人と改めますッ」
「おまえのなまり、聞き慣れねーなあ」
「緊張しておりますのでっ……!」
「あの娘は緊張しねーが、似たようななまりでしゃべる」
遠くなりかけた意識でふと納得した。ダルジ少将とスマラグダス大佐では緊張と恐怖で死ねる質が違う。少将には本能を、大佐には理性を試される。
「×××な××××のコウモリ狩り。知ってんな?」
妹には決して聞かせたくない単語で侮蔑されたのは、ボル・ヤバルを独裁した前女王だ。脳に押し込めた記憶が眼前へ崩落してきて、カルロの視界を暗くする。
女王が自身の神格化に利用したのは土着の民間信仰だった。
蘇った死者が人血を欲して夜を彷徨う。そうした魔物の伝承は人々に黒やコウモリを忌避させた。コウモリは棺のように暗い洞穴を住処とし、種によっては吸血もするからだ。
夜の黒は嫌悪すべき色。太陽の金は黒を払拭する清浄の色。体に黒を持つのは魔物に近い劣った人種。神の祝福を受け豊かな金髪を授かった聖女王が、民に代わって魔を掃討する。崇めよ!
ボル・ヤバルの日系人たちはコウモリ狩りと呼ばれた迫害を逃れて僻地へ、陸の孤島へと追い立てられていった。流浪の中で固定した農地を持てず、加工技術を身に付けた。職人村ができた。
アダマス軍がボル・ヤバルを侵略する際、空軍中佐であり参謀だったラウー・スマラグダスは、女王が利用した政策をさらに利用した。
貨物輸送や民間乗用機であるカラスを徴集し、軍鷲と共にボル・ヤバルへ投入した。白魔の異名を取る中佐が率いた戦隊は月夜、黒い翼で空を覆い尽くしたという。
恐怖でパニックに陥った女王軍は崩壊。女王は宮殿の隠し通路から地底の鍾乳洞を使って逃亡を図った。広大で迷路より複雑、地下水のために探知犬さえ追尾できない洞穴で、中佐は短時間のうちに女王を発見し拘束したという。
中佐が用いた捜索方法は明らかにされていない。追随した兵士でも洞内の暗さに詳細を確認できなかったそうだが、「小鳥のさえずりがずっと聞こえていた」と言う。
カルロは複雑な想いでそれを伝え聞いた。小さなコウモリが女王を狩ったのだ……。
歴史的戦勝への貢献を認められ、スマラグダス中佐は大佐へ昇進した。
「××××のコウモリ狩りから逃れようと、」
同時に大佐から少将へと昇進したビスコア・ダルジの明朗な声がカルロの回想を吹き飛ばす。
「ボル・ヤバルから決死の脱出を試みるヤツもいたって話だぞ?」
トーカ女史を亡命者と疑っているのか。
女史とスマラグダス大佐の結婚はアダマス帝国にとって政治的な意味がある。ネイティヴの娘でなければ、和平の花嫁という大義が損なわれてしまう。
「あいつは俺の兄弟子で友人で部下だ。ポーカーなら真っ先に手札に確保すべきジャックってとこだ。左右の目で違うもんを見ている。文明と軍。二者の利害が衝突する時、あいつはアダマスを優先してきた。だがな」
少将の手はカルロの脳天をつかんだまま逃がさない。黒い瞳から放射される灼熱に、防衛本能を焼き尽くされるように思えた。
「俺はあいつの弟弟子で友人で上官である以前に、アダマス帝国総統の息子だ。どんだけ有用なジャックだろーと、役の邪魔なら切り捨てるぞ」
ヒャッ、どさっ。あーあ。
妙に裏返った声と、昏倒するような衝撃音と、呆れたようなダルジ少将っぽい声が階段上から降った気がした。が、二つの大いなる問題に直面していた桐花の耳は、それを左から右へと塵も残さず通過させた。
最初の問題は動物連れ総三つ編みデーデ似青年、おそらくネイティヴな月天の再会の挨拶にあった。
『十年ぶりだろうか』
全く覚えのない人に久しぶりと挨拶されたら、どうするか。
一、何食わぬ顔で久しぶりーと返し、会話の中からヒントを探る。無難。
二、ごめーん誰だったっけ、と申し訳なさそうな顔で忘れたことを白状する。正直。
三、記憶喪失だから許せと開き直る。そっと絶縁される。痛恨。
桐花は、ぜひ避けたい三の選択肢しか残されていない状況を恨んだ。容姿が酷似した桐花とネイティヴの『紡ぐ家のトカ』が並行世界のトレードをしたことはラウーしか知らないし、信じないだろう。
だからアダマスでネイティヴとすれ違うたび、「ユピテラーイ……」と腫れ物にさわるようなぎこちない笑顔で逃げられても我慢しているのだ。
記憶喪失はイタイが心神喪失を疑われるのはもっとイタイ。
「本日、護衛を命ずるにあたって」
不意に問題の月天が口を開いて、桐花はそれ以上に口を開けることになる。
「ひとつ留意点がある」
ちょっと待てー! しゃべってるのは月天なのに、声がラウーなんだけど!
「きゃははは、そっくりー!」
肩乗りロザリアが両手を叩いて大喜びしている。そっか、声真似なんだ。つられて拍手する。激ウマ声真似名人はさらに続けた。
「私の妻は記憶に多少の混乱と喪失がある。だが他に顕著な異常はない」
顕著じゃない異常ならあるってのかー。
「以上だ。質問がなければ終了する。ザッザッザッザッ」
うぉぉ去ってく足音まで激似だ! 速くて尊大で高らかなラウー独特の軍靴の音。これ声真似のレベルじゃないよ! 声帯模写だよ!
惜しみない拍手を送っていたらダルジ少将一行が乗船してきて、艦上は慌しくなった。帆が揚がり霧笛が鳴らされると、港の兵士たちが敬礼で送ってくれた。
果てのない青空に浮かぶ木星は、メノウ色のマーブル模様が鮮やかだ。海も負けじと紺碧を広げてみせる。その海面を突き抜けてそびえたつ、呆れるほどの岩壁。
絶壁を彫り込んだ階段には真っ白な軍服に身を包んだ海軍兵が立ち並び、吹き付ける海風に胸板を張っている。完璧に風を捉えた帆にはアダマス軍の紋章が染め抜かれている。石板装甲された船首が水飛沫をあげて波を切り裂いた。
圧倒的すぎるサイズの大自然にたくましく挑む人間の姿がそこにあった。人類が他の動物と決定的に違うのはここなんだ、と桐花は思った。挑むか挑まないか。
自分が人類の絶え間ない挑戦の遺産である快適や利便を享受しているなら、礼として、自分もそこへひとつ積み足さなくちゃ。
それがたとえトイレットペーパーだとしても、誇りを持って。
二つ目の問題はあっけなく終了した。
「ロザリアさんは、」
「さん、だってーきゃはははっ! 姫って呼んでいいよ!」
格上げを許可された。
「姫は日本語しゃべれるの? まさかラウーに教えてたりする?」
「しゃべれたけどー、教えてないよ」
「ありがとう、一生教えないでね!」
「ねね、クッキーちょうだい。カバンに入ってるでしょ」
バタークッキー四枚で幼い少女を買収し、問題は解決した。ダルジ少将におごってもらったクッキーだから、実質タダだ。
それにしても、なんて鼻のいい子なんだろ。
またどこか近くでチチチチ、と小鳥がさえずった。デーデ似の声帯模写青年、月天が連れ回す動物に小鳥は見当たらない。この世界の鶏、ヤギ、豚、ガチョウのどれかはさえずるんだろうか?
「分けっこしてあげるね。おなか空っぽみたい」
眠くて朝食をパスしたんだった。自己管理しろと叱る本人が、朝食も食べられない睡眠不足に追い込むのは矛盾してると思う。
細いけれどフニャッと柔らかさを残した可愛い腕が伸びてきて、クッキーを一枚返してくれた。四枚の半分って一枚だっけ?
「はい、これ月天の」
ロザリアはクッキーを三人で分ける気だったらしい。青年に二枚渡してから命じた。
「一枚はあげる。もう一枚は0.333333333、ずぅっと続く循環小数だからね、33333……で等分しなきゃダメなんだよ」
「ハハハ面倒だよ、姫」
和やかだ。こんな和やかな人たちが傭兵だなんて信じられない。アイヤイは銃撃、ヴィルゴットは毒のスペシャリストだから、月天とロザリアも特殊技能の持ち主なんだろう。
でも、ロザリアはちっちゃな子。ドレスにパラパラこぼしながらクッキーにかじりついてるような子。桐花のいた世界の日本なら、友達と一緒に遊び回るだけでいい年頃なのに。
ラウーはこの子を戦場へ連れて行き、戦争のために利用するんだろうか。お金を払って。
「ねねね、姫ね、いいこと思いついちゃった! 先生のお手伝いしてるんでしょ? 頭いいんでしょ?」
先生=ラウーだとわかって、桐花は頷く。頷いてからロザリアのリボン形アイマスクに思い当たり、慌ててウンと口で答える。頭がいいかは流しておこう。
「じゃあさ、文殊だね! 知恵の神様なんだよ。文殊って名乗っていいよ!」
傭兵とわたしは同じなんだ。
桐花は甲板が傾いた気がした。こんな幼い子にも明白な、お金をもらって戦争に加担しているという事実の重さで。
紙は教育にも役立つと思った、けど、トイレットペーパーに変わって兵士を鼓舞した。
使い手によって毒にも薬にもなる知識の二面性には気づいていたはずなのに、わたしは助手という脇道に隠れて責任をラウーに押し付けている。
「おいガキ、そりゃやめとけ」
急に背後から声がして、桐花は物理的にも飛び上がった。振り向けば、ダルジ少将の赤い石鎧が海上の強い日光を反射してすごくまぶしい。
「軍の科学技術部に放り込めばいいものを、ラウーがわざわざ助手だの民間招聘の技術顧問だの、面倒くせー立場にしとく意図はなんだ? 簡単だ。ラウーはそいつを軍から離しときたいんだ。利害の衝突が起きたとき、優先順位を間違えなくてすむようにな」
ダルジ少将が難しい話をっ? 嵐が来るからやめてください!
「ガキじゃなくって姫だもん!」
「あーわかったわかった。とにかくさっきのはダメだ、いいな? ガキ」
「ガキじゃないもーん!」
「十年経ってデカくなったら姫って呼んでやる。よく食ってデカくなれよ! キャス並みに!」
と銅色の指先が指名したのは、甲板にデッキチェアを広げて優雅に日光浴している美女だった。青い海を背景にピンクのてらてらワンピースの裾を危ういところまでひらめかせている。すらりと白い脚の先でブラブラとピンヒールをもてあそべば、グラビア雑誌の一ページだ。
美女はダルジ少将の一行に混じって乗船してきていたが、誰と関わるでもなく海を眺めていたから、話しかける隙もなかった。
ダルジ少将の指先は正確には、その美女の巨乳を示していた。
仰向けでも流失する気配がないとか、わたしには鼻しかそんな場所ないんですけど?
「ハハハ、牛だね」
悪気なさげな月天のコメントに慰められる。チチチチ、と小鳥のさえずりも同意と信じたい。
「おまえそれでも男か! 男は山に登るもんだ! 生まれた時からだ!」
「えー、あんなのおかしーもん」
ロザリアはリボンマスクの下で唇を尖らせている。顔の上半分を覆い隠す巨大な蝶リボン形アイマスクの下で・・・・・・あれ?
見えてるの? ガッツリ目隠しされてるのに。
うわぁぁ超能力者だこの子、透視してるんだー!
「艦長せんせー、あそこ、海の中におっきい岩あるよー、ぶつからないでね!」
海面下の暗礁まで見えてるよっ。人間ソナー! この子とマグロ釣りに行きたーい!
その後も職人村への海路は暗礁、巨大渦潮、浮島、密集間欠泉など難所の連続だったが、艦長は見事に回避した。
「面舵いっぱーい!」
ブリッジから艦長の勇ましい声が響く。
「アイアイサー!」
「本艦はまもなく目的地のアマゾナス河口、日系人居住地沿海に到着、停泊する!」