4. 知らぬが道化
上気で曇るレンズに白金の輝きがにじむ。アダマス軍広しといえど、溢れんばかりの知性を内包する金属鎧の主はただお一人でありますッ!
スマラグダス大佐の隣には生気のないトーカ女史が椅子に沈んでいる。まるで完璧な満月にかかる雨雲だ!
「スッ、ヒュコー、スマ……ダス大、佐ッ」
脚と肺が制御不能だ。いいのだ副官の本領は体力ではないのだ。前髪がバラバラと崩れてきて視界に黒い筋を作る。
「レオン君、一休みしていきたまえ。お寛ぎのところ、お目汚しだよ」
高級士官専用ラウンジへたどり着く前にやんわりと、しかし厳しい制止をくらった。くそッ不公平だ、トーカ女史はあんな姿でも大佐の隣を許されるというのに! あんな……。
「ここのステーキはうまいぞ。おい料理長、ラウーに一皿持って来い」
「結構です。適量を適時に摂取していますので」
フーン、とダルジ少将が顎を撫でながら興味深げな視線を滑らせる。
「つまみ食いはしたくせに?」
あぁ見られてた。当然っすよ目立ちますよ、食堂の軍人全員どころかシェフたちまで頷いて注視している、トーカ女史のうなじから肩にかけて散在する赤い試食跡を。
だから髪を解けと言ったんすよっ!
魂が抜けていた女史は凝集する生ぬるい視線に気づいてきょとんとしている。説明を求めて仰ぐのを無視して大佐は、
「別腹です」
と涼やかに答えている。
さすがアダマス軍の誇る参謀、和平の象徴たる順調な結婚を激烈に印象付けていらっしゃる。が、方法が少しばかり刺激的かと懸念するのでありますッ!
料理長が、運んできたステーキを大佐に出すべきかテーブル脇で迷っている。湯気の立つ皿は少将の手に奪われて、大佐の前へドンと置かれた。
「食えよ、ラウー。兵士どもが暑さにやられて肉が余ってんだとよ。上が率先して手本を示すべきだろ」
「天変地異を避けたいなら、部下想いの発言は謹んでください」
召し上がることにしたようだ。ざくざくと手早く大佐の口へ収まるステーキを女史が欲しそうに凝視している。はしたない、夕飯のB定食を食べないからっすよ!
「なあ、ラウーの新妻」
そんな女史の腕をつかみ、ダルジ少将がいともたやすく引き寄せる。陽光をたっぷり吸い込んだ明るい銅色の肌、波打つ黒髪でニヤリと企み顔をすれば、海賊が女をさらう犯行現場そのものだ。
「耳貸せ。こう言え、大きな声でな」
「はい?」
ぼそぼそと耳打ちされて怪訝そうにしていた女史は、「何でもおごってやるから」の追撃にあっけなく陥落した。黙々と機械的な食事を続ける婚約者へ華やいだ笑顔を咲かせ、凛と声を響かせた。
「男の食べ方は男の象徴ですね!」
食堂は異様な静寂に打たれている。
ダルジ少将に要請された女っぽい笑顔……かどうかは見る者の判断に委ねられるが、本人としては精一杯女っぽいつもりの笑顔を継続したまま、桐花は静寂を不審に思った。
男兄弟のいない桐花にとって、軍食堂はカルチャーショックだった。青年兵士たちはろくに噛みもせず、味わいもせず、顔ほどもある肉を飲むように消滅させてしまうのだから。豪快な食べっぷりに男の人とはこういうものかと驚嘆した。
だからとっても実感こめて、男の象徴ですねと感心してみせたのだが。
この、息詰まるのにどこか熱い沈黙はどういうわけだろう?
視線が矢ならば致死級の注目を浴びる中、ラウーがゆっくりとフォークを持ち上げた。ものすごく睨んでくる。視線が矢ならば三回死ねる。意思を持った粒子が舞うのが見えるような、濃い気配を首筋から立ち昇らせている。
ラウーの舌がフォークの先の肉を捉える。舌先で円を描きソースをじっくり舐め取ってから口腔深くへ押し入れ、グッと強く噛みしめた。
そういえばラウーの食事風景は初めてだ。初めてのはずなのに、何だかデジャヴだ。
「料理長」
奥深くで肉汁を絞り出し、様々に噛みごたえを堪能するような咀嚼のあとに、ラウー・スマラグダスは言った。
「追加で二皿持って来い」
「イエッサー!」
料理長は頬を紅潮させ、ビシイッと敬礼をする。どたどたと前屈みで厨房へ走り戻る、その大きく丸い背中にダルジ少将が声をかけた。
「俺には四皿な!」
「よ、四皿……イエッサァァァ!」
すると兵士たちは一斉にダン! と軍靴を踏み鳴らして立ち上がり、我先にと厨房へ殺到した。
「俺もだ、料理長! 夜はこれからだっ」
「オレもだ! つゆだくで頼む!」
「俺にも長くもつのをくれ!」
「夏バテが何だ、腰が砕けるまで食ってやるっ!」
熱気に沸き返り厨房へ、肉へと群がる兵士たちに、桐花は自分の大失敗を知った。
あれじゃフリットを注文できないじゃないか!
厨房に『肉 終了』の石板が掲げられるまで、ものの数分もかからなかった。料理長はトーカ女史の手を握り、
「ありがとうごぜえます! アダマス兵の健康と子宝は守られましたぜ!」
と感涙にむせんでいたが、女史は「はあ、あの、フリット残ってますか」とそれだけが気がかりのようだった。隣では大佐と少将が挑戦的に睨み合いながらステーキに己のナイフを突き立てているというのに。
アダマス帝国発展のため、こんな淫婦を妻に迎えたスマラグダス大佐の愛国心、自己犠牲精神は尊敬に値するッ!
「これだけ食うと実際、皿数分の運動が必要だな」
「まったくだ。おいシュレイダー、キャスを部屋に呼んどけよ」
完食した両雄はさすがに苦しげに顔をしかめつつも、意気投合していた。腹ごなしにどうぞ、とシュレイダー副官が強めの酒にカードを添える。
女史が懐かしいものを発見したように楽しげに眉を上げて、妙なことを言った。
「あ、トランプ」
「……トランプ?」
「トランプですよね? ほらっ」
クッキーをかじりながら、カードの図柄を覗き込んで確認する女史。シュレイダー副官は穏やかな微笑を深くした。あれは小さな子供を見守る親父の目だ。
なんで誰も彼も女史に甘いんだ? 首にキスマーク盛って男を挑発する子供がいてたまるかっ!
「ネイティヴの方はtrumpと呼ばれますか。アダマスではplaying cardsでございます。トランプはカードゲームにおける最強の札、つまり切り札の意味でございます」
へぇー、ひとつ賢くなった! と無邪気ににこにこする大人な子供。英語はネイティヴにとって第一言語であるはずなのに! 頭と胃が両方痛くなってきた。
「おいラウーの女房」
なんで自分を見るんすか、女史?
「おまえだよ。ポーカーは出来るな? 入れ」
「えっ? あっわたし、調べ物があるから戻らなきゃ。お先に失礼しまーす」
カルロは飲みかけていた胃酸対策水を吹いた。
世界で最も強大な軍事国家、アダマス帝国提督の一人息子ダルジ少将の誘いを断るだとーッ!
一礼して去ろうとする女史へ手を振って、戻れと必死に合図した。幸い警告が伝わったらしく、ハッとして顔を青くしている。
「あっ……えっと……おやすみなさい、ラウー」
一転、頬を赤く染め、ギクシャクと大佐の額におやすみのキスを捧げようとしている。ちがーう! 少将の誘いより新婚カモフラージュのキスが重大なのかッ! 誰か井戸ごと水をくれ!
だがスマラグダス大佐はわずかに首を反らせて、婚約者のキスをかわしてしまった。
「不要だ」
「へ?」
「私は何皿食い倒した?」
「三皿……」
「そういうことだ」
亜熱帯の夜の汗が、肌の上で急に存在を主張しだす。ねっとり重たい花の匂い。遠く響く、鳥や蛙や獣の鳴き交わす求愛の声。居合わせる者たちの瞳が軍人から男へと還っていく。
「は、おまえはすぐに解放しないぞ、ラウー。始めるぞ」
カード好きな佐官が呼ばれてダルジ少将がカードを配り始める。女史は首をかしげながら自室へ引き返していった。
「なあ、俺の参謀」
足元に高温多湿な緊張感が漂う中、手札を眺めながらダルジ少将はのんびりと口火を切った。
「あなたではなく軍の参謀です」
「同じことだろーが。で、俺の参謀。俺は思うんだよ、ポーカーは有限のカードからとっかえひっかえ、己に有利な手を集めて相手を打ち負かすもんだ。人生や戦争に似ているな」
珍しく同感です。とポーカーフェイスでチップが積まれる。
「だがどーも最近俺は、おまえがとんでもねージョーカーを隠し持ってる気がしてならねーんだよなー」
「レイズ」
「そいつは道化のフリして、長い黒髪のクイーンだ。コール」
「だとすれば、私は幸運なのでしょう」
ゆっくりとした会話と逆に、プレイヤーたちの手元は投げるようにカードを繰り、チップを滑らす。
「チャンスの女神には前髪しかないと言われますが」
「ああ? あー、通り過ぎたらつかめないからか。いくら女神でも後頭部ハゲは食えんな」
「長い黒髪なら、つかんで引きずり倒すことが可能です」
「ふん。俺からかすめ取って、妻にもできるしな? レイズだ」
ダルジ少将の石鎧が灯に照らされて赤く揺らめく。赤の映り込んだ黒い瞳は高熱を含んだ炭火のようだ。種火を差し向ければ燃え上がりそうな気が満ちている。
「俺はワイルド・ポーカーを許した覚えはねーぞ」
通常のポーカーではジョーカーを使用しない。だがワイルド・ポーカーと呼ばれるルールにおいては、ワイルド・カードという万能札を使って役を作るのが認められる。ワイルド・カードの代表格はジョーカーだ。
「どんだけネイティヴが博識つっても、おかしーだろ? ボル・ヤバルの僻地でしか使われない日本語まで知ってるってのは。知る必要性がねーし」
必要性。その単語にカルロは息を詰めた。
幼い亡命者たちが言葉の通じぬ石鎧に囲まれて心身を震わせた、暗黒の夜が脳裏に蘇る。一人の若い兵士が呼ばれてきた。彼はあらゆる言語で『抵抗を捨てるならば、命を与えてやる』と通告することができた。他とは違う彼の鎧が放つ白金の輝きが、強く目に焼きついた。
「どうやら」
さらりと冷えた声が現実へ引き戻す。カルロは嫌な汗を含んで崩れていた前髪を、慌てて指先で直した。
「少将は私の妻について、誤認があるようです」
そりゃそうだ。結婚していないのだから!
自白と動揺を誘う少将の試みを巧みにすり抜けて、大佐はチップを積み足した。