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青い鳥ルーレット  作者: シトラチネ
青い鳥ジョーカー・ワイルド
46/68

3. 白魔で死神で閻魔

 明日、職人村へ船を出してやる。男と女の約束だ!

 そうダルジ少将が約束してくれた、とトーカ女史は喜色満面で報告してきた。約束の後半が不安と胃痛をかき立てる。

 以降、女史は宮殿離れの自室にこもっている。書く仕事があるそうだ。試作品のトイレットペーパーではインクがにじむからと、虫の皮紙を運び込んだ。クソ暑いのに、肘まである手袋をはめてまで。

 婚姻届も手袋はめてサインしてくれないっすか?

 で、ついでに夕飯のB定食、食べるか捨てるかしてくれないっすか?

 しかしサインも食事の気配もないまま、基地は夜に沈んだ。司令部である宮殿は中肉中背のキノコが密集したような形をしている。金箔がゴテゴテと貼られた塔の屋根が月光を反射し、夜光する毒キノコのようだ。

 波に翻弄される小船から、遠ざかるこの毒キノコへ別れを叩きつけた夜があった。もう二度と見ることはないと思っていたのに、今や見るどころか中を歩いてさえいるとは。

 カルロは頭を振って、過去の記憶を振り落とした。一日の業務の締めくくりとして挨拶をするべく、離れの階段を上がって行く。亜熱帯のボル・ヤバルでは風通しを確保するため、ドアを閉めないことが多い。来訪を気付かせようと、わざと足音を立てて登った。

「失礼しま……」

 素早く声を飲み込んだ。

 寝ている。

 カルロには妹がいる。血は半分しか繋がっていないが、妹は妹。世話もした。寝ている子を不用意に起こすのが面倒な事態に発展するのは身に染みて知っていた。

 机に突っ伏す女史が、起こしても面倒でない年齢なのは分かっている。奔放にさらけ出された白い首筋とか肩口とか、妹にはまだあんな曲線はない、あってたまるか、だが妹ならばすぐに叩き起こしてみだりに肌を見せるなと叱るところだッ!

 ランタンは点けっぱなし。軍の資源の無駄遣いだ。消したい。

 が、上司の表向きには妻である女性の眠っている部屋に立ち入ったと知れれば、寝た子を起こすより面倒な事態に発展する。

 B定食は、あぁこれも面倒だ、全く手をつけられていない。む、胃が。胃酸がっ。水ッ!

 女史は問題ない、放置しても風邪を引くような気候じゃない。

 ずるずると兵舎に戻ると、ロビーの水差しは空だった。小さく呻いてから夜道を引き返す。

 食堂は常に開いている。片眼鏡で矯正しきれていない視力を精一杯駆使して、厨房の夜当番にアントニオがいないことを確かめた。別に避けたいわけじゃない。会ったら大佐夫人は美味しく食べてくれたかなどと聞かれてウザいだけだ、それだけだ。

 並んだ水差しから注いだ水を一気に胃へと流し込む。息をついていると、不意に声をかけられた。

「やあレオン君、相変わらず胃痛かい」

 慌てて踵を揃えて敬礼した。ダルジ少将の副官頭、シュレイダー氏だ。穏やかな笑顔をした壮年の氏は豊富な知識と経験、主を補佐する手腕から副官の鑑と称えられている。

 食堂の一角からダルジ少将の朗らかな笑い声が響いてくる。酒盛りする少将に言いつけられたのか、シュレイダー副官はたっぷり入った水差しを厳選して手に取った。

「無理もない、突然だったからね。まあ覚悟したまえ、少将は旧友の来訪に飲み明かす気でいらっしゃる」

 少将の友人来訪で、なぜ自分が覚悟する必要があるのでありましょうか。

「む……失礼ながら、来訪とはどなたが」

 シュレイダー副官は穏やかな笑顔のまま、カルロが手にするコップに水を注ぎ足した。

「参謀長の急病のため、明朝の会合に代理出席なさるそうだ。酒宴を中座して離れへ向かわれたよ、君のスマラグダス大佐は」



 ガシャーン。びしゃー。ヒャッ!

 どこかで何かが砕け散る硬質な音、中身の液体が派手にブチまけられた水音、妙に裏返った声がした気がして、桐花はふと目を覚ました。

 いけない。翻訳してて、またつい寝ちゃってた。だけど。

 うたた寝しても、ここには叱る人がいないんだもんね!

 正確には叱られるわけじゃない。叱られる方がはるかにマシだ。起きていると激しく主張しないと、投げ落とされたり鷲の餌にされたりした。この恐怖の経験則とはもうサヨナラだ!

 しかも百科事典を枕にしてたぞ! 虫皮紙に突っ伏してなかったぞ! えらーい! すごーい! 学習してる!

 感動に浸りつつ、ニヤける頬を押さえていると。

「あれ?」

 銃火器について調べようと翻訳した皮紙たちに、異変が起きていると気が付いた。

 添削されている。

 容赦の一片もなく文章を切り裂き、ダメ出しを示す線。原文を留めないほど訂正を入れてくる、几帳面に整った字。

「あれぇー?」

 額が、背筋がひんやりと汗を帯び始めるのが分かる。レオン副官が翻訳に関わったことはない。字を見たことはある、もっとクセが強かった。

 じゃあ誰が添削したのかなー?

 誰か来たことさえ気付かなかったよ。

 誰かがネチネチ添削している間、わたしってばぐーぐー寝てたのかなあ。

 誰か……えーいラウー以外にいるか、来てたのか、不意打ちなんて卑怯すぎるー!

 そ、それに起こさないで添削だけして行くなんて怖い、怖すぎる、もしかして椅子から立った瞬間に天井が落ちてくる罠とか仕掛けて行ったんじゃないだろうか。

 わーん学習してなくてごめんなさい、恐怖の経験則お久しぶりです会いたくなかった、助けてー!

 タタタ、タ、ヨタッ。

 呼応したように、窓の下を遠くから重量のない駆け足が近付いてきた。階段を上がってくるが、時折ヒュウゥヒュウゥと気管の音だとしたらかなりヤバそうな息継ぎが入る。乙女を助けに来たヒーローにあるまじき弱々しさだ。

 でもあぁ良かった、あれがラウーの足音であるはずがない。ラウーならもっと尊大で、高らかで、格闘技の入場BGMか警告音が鳴り響く幻聴がする。

 部屋の戸口に現れたのは、外れた片眼鏡をブラブラさせ、髪を乱し、青いんだか赤いんだか妙にドス黒くくすんだ顔色のカルロ・レオン副官だった。

「ヒュウゥ……た……大佐はッ?」

「あ、やっぱ来てるんだ……」

 どこに? と疑問を貼り付けた顔で見合った後、桐花と副官は階段に突進した。

「イヤアアア通して、起こさずに帰るラウーなんてありえない! 怖いよー! 明日で世界が終わるんだー!」

「馬鹿な……ことをッ、ヒュウゥ、今日でありますッ」

 体力は自慢でなさそうな副官の脚は、ここへ来るまでに限界を迎えたらしい。階段を下りられずにガクガクしている。生まれたての小鹿なら可愛いのだが、ギラつく目で肘をつかんでくる青年はただの足手まといだ。

「待っ、自分が先にッ、行かねばヒューコホー、副官たるものッ」

 主の帰還を誰より早く出迎える、それこそ妻よりも。執事ばりの副官魂を見せるレオン副官の腕を、桐花はごめんねーと軽く振り切って階段を駆け下りる。

「か、髪!」

 断末魔のような叫びが降ってきて、桐花はすでに見えない階上の副官を仰いだ。

「髪を解いて、いく、べき、ですッ……」

 静かになった。

 ボル・ヤバルは暑い。髪はネイティヴ風に後頭部で一つに結んでいた。でもそれをほどいたところで世界の終焉を免れるとは思えないので、無視しておく。

 幸い夜空は晴れ渡り、桐花の世界より大きな月は煌々と硬質な光を降らせている。金箔屋根をつやめかせる宮殿へ、桐花は走り出した。



『宮殿へ歩いて行かれ……』

『食堂へ向かわれ……』

『ダルジ少将と……』

 誰が、と固有名詞を挙げる者はいない。桐花が焦ってきょろきょろしているだけで、近辺の兵士が素早く教えてくれた。素早い割に最後まで言い切らずに赤面し口ごもるのが謎だ。

 しかし迫り来る不可視の吊り天井に追い立てられて、桐花は礼を叫び返しながら軍食堂へと駆け込んだ。

 前政権の夜会場だったという広大なホールは、贅沢の名残を豪奢な天井画、壁や柱の凝った装飾などに留めている。かつてきらびやかな靴たちがステップを踏んだのであろう床には、質実剛健な長い木製テーブルがずらりと並べられている。

 勤務を終えて談笑する者、夜勤前に食事を取る者、タバコや酒を手にする者。夕食時が過ぎていても食堂はざわめき、軍服が行き交っていた。続きの間を改装して作られた厨房からは、肉と油の重厚な匂いと湯気が湧き出している。

 奥の一角は優美なアイアンレースのパーティションが立ち、佐官以上の高級士官専用ラウンジがしつらえられている。そこから食堂に響き渡る朗らかな声に呼ばれた。

「よーう、ラウーの体形的幼妻!」

 ケンカ売ってるんですね?

 桐花は熟練の営業スマイルを炸裂させる。

 職人村行きの約束は取り付けた、もうご機嫌取りをしなくてもいいんだ!

「こんばんは、アダマス帝国総統の輝かしき一人息子さま!」

「おう何だ、いまさら。あーそうそう、レンカちゃんは元気か?」

 効いてない。しかも少将お気に入りの妹の名前はしっかり覚えてるのを主張しやがった。負けた。

 力が抜けてパーティションの端につかまった時、また呼ばれた。

「桐花」

 体型的に幼い胸の奥底が揺らされて、思わず一瞬目をつぶる。

 桐花の名をアクセントまで完璧に記憶し再現する者は、トレードしてきたこの世界には一人しかいない。

 長身を金属鎧に包む白人青年兵士。淡い金色をした髪は軍人の見本みたいにきれいに撫で付けられているが、前髪の一房だけは色素が抜けて白い。鷹を思わせるキリリと上がった眉。

 その下に配置された目は左右で茶、緑と色が異なる。が、異色であると気付けない者もいるほど、眼力が残念極まりなく冷厳である。

 死神が予告なく現れても耐性できてて怖くないに違いない、と桐花は思った。

 人の形をした死神より怖い生物が、黙って隣の席を指す。そこが冥界の入口ですか?

「えーと、製紙事業は順調です! 添加物に小さな不具合はあるんですが、」

 冥界の入口席に腰を下ろしながら始めた報告は、即座に死の生き神さまの大鎌に斬撃された。

「私も再会を喜んでいる。当然、健康状態は良好だ」

 おお……何という切れ味でしょう。

 猫には九つの命があると言うけれど。人間にも九つあるとしたら、そのうちの一つが今、刈り取られたよ?

 ダルジ少将を筆頭に軍人たちの注視が感じられる。対外的には新婚の妻が、数日ぶりに夫に会ってまず業務報告すべきじゃなかった!

「いえあのっ何度でも言っちゃいます、会えて嬉しいです元気そうで嬉しいです!」

 ビシッとスマイルを決めてラウーの首筋に抱きつく。恥ずかしいけど、これ以上命を減らすのはイヤだ!

 ラウーの腕が背中に回り、しっかりと抱きしめてくれる。緊張するのに安心する、周囲の喧騒は遠ざかるのに自分の鼓動とラウーの息遣いだけは鮮明に聞こえる、不思議な空間に囚われる。

 急襲にパニクっちゃったけど、会えて嬉しいのは本当なんです……。

「おまえは痩せた」

 ギクー。

「胸囲が減少……ぐ」

 卓越した記憶力を、抱擁時の感覚で胸囲を測るなんてことに無駄遣いするなっ! と日本語で小さく罵りながら、具体的な数値を言いかけた喉を絞めてやった。

「だって、寂しくて食事が喉を通らなかったんです……」

 おおー。と周囲は感嘆と羨望の入り混じった歓声で満たされた。我ながら見事な言い訳を思いついた!

「……そうか」

 静かな答え。

 言葉の端は満足の封殺に失敗したように浮遊していた。この演技派めー!

 桐花の胸がツキンと痛む。

 演技うますぎだバカ……!

「適切な自己管理を命じてあるはずだ」

 急に声量を落したささやきが耳へ滑り込んできた。

「仕事に熱中して忘れた食事回数および遅すぎる就寝時間は、レオン副官から日誌で届いている。舌を噛めば自害できるというのは迷信に近いが、惑わす嘘をつくおまえの舌で検証させてやってもいい」

 あっ命が刈られ……。


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