43. 旗を揚げて進め
寝不足とあちこちの痛みに負けず、桐花はいつも通りに資料館へと出勤した。閲覧室の屋根、半透明の黄緑色の鉱石を抜けてくる朝陽が暴力的に目にしみる。
弱った目で少なくなってきた皮紙の在庫を数えていると、警備兵が来客でさぁと告げて誰かを通した。
執事来たかと思った。
せかせかと、軍人にしては重量感のない速い足取りでやって来る痩せた青年。青年というよりは青年に近い少年が、青年の格好をしようとしているように見える。
黒髪はきれいにオールバックに整えられ、片眼鏡を左眼にはめている。シルクハットをかぶってたら紳士、コート着てたら執事でイケる。だが軍服だし、第一若すぎる。
そもそも紳士や執事は、鼻先が付きそうなこんな至近距離で初対面の顔をガン見したりするものだろうか?
細い眉、シャープなフェイスライン、白目まで青みがかった薄青の瞳。執事より委員長とでも呼びたくなる端正さと根暗さを備えた人物は、薄い唇でいきなり言った。
「π=」
「さ、3.14?」
しんとした一瞬の沈黙があった。
片眼鏡の奥の目が細くなった。
「小数点以下二桁ですか。紀元前にアルキメデスが証明してから二千年以上が経過して、スマラグダス大佐の助手ともあろう方が二桁ですか」
なんだこの人はー! ぶしつけに円周率投げつけて、桁数で人物評価されたー!
「さっ、3.141592! √5=2.2360679!」
「5の平方根まで聞いておりませんが」
富士山麓オウム鳴く、の語呂合わせで覚えた数字を繰り出してみたが逆効果だったらしい。
「女性にしては学のある方のようですね」
なんだかトゲのある言い方だぞー。
「自分はスマラグダス大佐の副官で」
男性優位の香り漂わす少年以上青年未満は、桐花の無言の反発に気付いていない様子で名乗り始めた。
「カルロ・レオンという者であります」
副官とは上級役職について事務を補佐する秘書のようなものだ。鎧を着けず、胸から肩にかけて銀色の飾り紐が渡されているのは文官の証らしいと桐花は認識した。
「大佐からの預かりものを持参しました」
レオン円周率委員長はそう言って、脇に抱えていた翡翠色の長い石筒を手渡してきた。蓋には封蝋が施されている。
桐花の心臓がとくんと高い音で鳴り出す。
もしかして、これって後朝の歌みたいな?
だって今まで、仕事のリストはラウー本人が直接メモを渡してきた。こんな風に部下がうやうやしく……うーむ部下そのものにうやうやしさはないけれど、部下が手紙を捧げ持つなんて優雅な配達は一度もなかった。
ラウーの薄い方の瞳の色を映したような、滑らかな緑色をした筒をそっと開けた。指先で触れただけで上質と知れる皮紙を引き出し、はやる心を抑えながら広げる。
几帳面に整った、見覚えのある字が並んでいた。
『下記の二名の婚姻を証明するものである。ラウー・スマラグダス』
ものすごく事務的な手紙。いや書類。
婚姻届。
あれ? と桐花は首をかしげてみる。
そうだ色々あって忘れてたけど、暗殺者グレンツ中将をおびきだすために桐花死亡工作が行われて、ご丁寧に軍の書類も桐花死亡・婚姻失効にされたんだったような。
あれ? つまり昨晩というか今朝というか、人食青年のお食事の際は夫婦じゃなかった……ってこと?
乙女の告白はスルーした挙句、ちゃっかりフライングで召し上がって、イエスの返事織り込み済みな婚姻届に部下経由でサインしろと。
愛がなさすぎるー!
ないのは最初から分かってるけど、なさすぎるー! 眼力どころか愛情も絶対零度か! 告白の時に黙って睨んでたのは、ノーは言うまでもなく返事をする必要性すら感じないって答だった……のか……ん?
「大佐はボル・ヤバル出征以来、常に過労気味でいらっしゃいました。苛立ちを募らせ、触れれば凍傷を受けそうでありましたが」
待て待て。
告白をスルーされたと思い込んでたけど、そもそも、わたしってば告白したんだろうか?
「今朝は大変にご機嫌でありました。疲れてらしてもそう、心底から満足しておいでで、聖餐を口にしたように清々しく安らかなご様子でありました」
真っ白に近い記憶を掘り起こしてみれば、あの告白めいたモノは、この世界で生きてたいですと伝えただけであって。好きですとか、ラウーの気持ちを教えて下さいとか、返事を必要とするような内容じゃなかったような……気が……。
「大佐にとってボル・ヤバル戦は、謀反者を逮捕し裁きの壇上へ導き、ようやく終戦を迎えたのでありましょう。あの気高さは全アダマス軍人の誇りであります!」
わぁぁ告白未遂だったのか! スルーされたとか、もしかして万が一ひょっとして超ありえないけど、ものすごいシャイ・ガイ・モードを発動して黙って睨んできてたんじゃないかとか考えてたのがアホすぎる!
ふらふらとベンチに腰を落とし、ペンをつかむ。
片眼鏡の委員長は陶酔しながら何か言ってたけど、ゴメン聞いてなかった。
机の上へ婚姻届を広げる。ラウーのサインの下の空白へとペン先をあてがい、一気に書いた。
『ボル・ヤバルへ行かせて下さい。何でも与えるって言ったよね。しばらく一人でやらせて下さい。その後にラウーが結婚したいって思ってくれるならサインします。それまで、和平の象徴として対外的には夫婦でいいです。つきましてはボル・ヤバル滞在の資金と手配を……』
「助手殿はずいぶんと、長い名前なのですね」
カリカリ無心に書き殴っていると、部屋の入り口で待機していたレオン副官が怪訝そうに聞いてきた。
サインをもらう用事だと知ってたなら最初からそう言って欲しかった。そしたら後朝のなんてバカな期待をしなくて済んだのに!
にっこりと恨みの営業スマイルを向けてから残りを書き終えた。請求書と化した婚姻届を筒に収納し、副官へ託す。
数分後、副官は雪嵐をまとって現れたラウー・スマラグダス大佐の背後で真っ青になり胃を押さえていた。
「私と別居したいそうだな、桐花」
レーザーの逆でモノを凍らす光線があるとしたら、今間違いなくラウーの瞳から大砲級の口径で最大出力で放射されている。あの金属鎧に抱きついたら貼りついて二度と剥がれなくなるんじゃないかな。
でも負けない!
「別居って普通、それまで同居してた夫婦が別々に暮らすことだよね? わたしたちは同居もしてないし夫婦でもないから、別居じゃないよね」
「なぜトーカ・スマラグダス夫人だと言ってくれなかったんですか! 婚姻届と知っていたなら自分は、別居通告なぞ受け取りはしなかったんです。決して! 副官生命に賭けて!」
悲痛にヒステリックに叫んだレオン副官は冷や汗で眼鏡が滑ったらしく、落下防止の鎖の先でブラブラと揺れるレンズをあわあわと捕まえようとしている。
「夫人じゃないもん」
「ならば訂正しよう。私との婚姻を保留したいそうだな。今朝のおまえの態度と一貫性を欠く理由は何だ」
氷の湖面よりフラットな口調が怖い。
副官は冷や汗をかきすぎて、オールバックだった髪が湿気に負けてはらはらと崩れてきている。
桐花は座っていて良かった、と思った。腰を抜かしてもバレないから。
「ボル・ヤバルで製紙したい」
雪山で辞世の句を詠んでる気持ち。
「それから活版印刷をやる。あと製本。書店か、それが早すぎるなら図書館をやりたい。本で自活できるようになりたい。ラウーに保護されなくてもいいようにしたいの」
ダイヤモンドさえ凍結粉砕しそうだった氷の魔王様の光線が、わずかに緩んだ。
「非効率だ。おまえが持ってきた本の知識を利用すれば、書店を経営するよりはるかに迅速に、はるかに巨額の利益が得られる」
「受け売りはイヤ。軍にとっても悪い話じゃないよね? 教育を行き渡らせることができる。わたしの国では誰もが円周率=3.14だって知ってる。知識は、応用したり発展させたりする教育された人たちがいて初めて根付くものだと思うの」
ゆっくりした瞬きで、光線攻撃が鎮まる。豪雪の災害をもたらす白魔から知識人らしい顔に戻ったラウーは、桐花の言葉を吟味するように沈黙していた。
「木が原料の紙は安価に大量生産できるでしょ。狭い土地しかないアダマスでは、原料の羊を大量には増やせないから」
「夫人、皮紙の」
夫人?
片眼鏡を眼窩に収めながら発言しかけた副官をギッと睨んだ。
「む、失礼しました、でしたらトーカ女史。皮紙の原料は羊ではありませんが」
「じゃあ牛?」
答を聞くことは出来なかった。瞬時に復活した魔王光線に舌を凍結された副官は、軍服の胃のあたりをつかんだまま硬直していた。ダイイング・メッセージは『皮紙』に違いない。
桐花の胸に嫌な予感が渦巻き出した。
「ちょっとラウー! この皮紙の原料は何?」
「忘却も才能の一つだ」
「まさか人……」
「違う」
桐花の世界には、弾圧した民族の脂肪で石鹸を作ったとまで噂された独裁者が存在した。恐るべき残虐性だが、同時に、当時の人体実験が医学発展の一翼を担った皮肉も否定できない。
忘れろ、答えて、とやりあう視線がしばし交錯した。
「ほんとに人……」
「違う」
諦めたように、ラウーは鼻先だけでため息をついた。それから桐花の背後に回り、いきなりデカい手で物理的に口封じをした。
「レオン副官、耳を塞いでいろ。養殖場を見せたはずだ。皮紙の原料は、あの巨大な虫だ」
「もう絶対に、絶対に、絶対にボル・ヤバルに行く! 木が原料の紙を作る! 二度と皮紙には触らない! 黙ってたなんてラウーの意地悪、教えてくれてたら皮紙に突っ伏して寝たりしなかったのにー!」
マスクのように塞いでくるラウーの手に妨げられながらも叫びまくって、泣きわめいて、かれた声で文句を並び立てた。
「婚姻届も、皮紙だったら絶対にサインしない! 一生しないー!」
「承諾した。ボル・ヤバル行きを手配する。資金を用立てる」
背後から言い含めるような、呻きに近い声が降参を告げてきた。同時に両腕が破壊的な強さで巻きついてくる。
ぐえっ苦しい、肺から空気を押し出して黙らす気だな!
「望みどおり書店の娘になれ」
極めて合理的に黙らされてグッタリしたところへ、囁きが落ちてくる。耳たぶを噛まれそうな近さで、濃密な気配を注ぎながら。
「そして正式に私の妻になれ」
「……うん」
こんな優しい命令を受けたことがない。
何度でも何度でも繰り返し思い出せるように、心の一番熱い場所へ染み込むのを待った。
「それがおまえの自己実現ならば貫け。人々が自由に自己実現を目指すとき、知の時代が開花するだろう」
はい?
ラウーにちゃんと好かれたい、そのために自分に自信を持ちたい。そんな不純な動機が何だかカタい話になってきたよ?
「私にとって知の時代は風のようなものだ。吹き寄せてくるのは感じるが、木々や雲の様子で間接的に判断するしか出来ない。タイラー師の言葉から推測するしかなかった」
桐花はゆっくり頷く。
文明の風化。知識の運用基準。人の中の悪意、魔性。文明の番人が戦うものは常に不可視だ。
「だがおまえは知の時代の娘だ。おまえがいると私は明瞭に将来を思い描ける。桐花、アダマスに知の風を吹き込め。風の行く手を阻むものは私が排除してやる」
えっと? 単なる個人的恋愛的願望が、知の時代の旗手にされてるよ?
そろりと背後のラウーを仰ぐと、異色の視線に捕まった。豊饒の大地と瑞々しい新緑の色。見ているだけで、温かなものを生み出せる予感が満ちてくる。
ああこれいつもの罠アングルだ、微笑んでるように錯覚するもん。誇らしげに見守られてる気がしちゃうもん。
アングルの罠じゃなく、正面から向き合ってもそんな顔をしてもらえる日が来るように。
わたしはペンを剣に、本を盾にして、ラウーが挑むものへと共に進んでいけるはず。
『青い鳥ルーレット』本編終了! 更新を楽しみにしてくれた皆様ありがとう!
続編については、書ければいいなーと考えてみてはいるんですが。本編で書きたいことをほぼ書いてしまった気がしてるので、ちょっと充電してみたいと思います。