42. 発熱する体温計
アイヤイの護衛つきで帰宅して、爆睡した。血清治療の疲れもあったし、親子の対話で徹夜だった。もちろんそんな言い訳があの寝坊=鷲の餌上司に通用するわけないんだけど。
物音に目を覚ました。半透明の水晶窓で弱々しい青白い月光が立ち往生していて、室内はすっかり暗さに沈んでいた。聞こえているのが水音だと分かると同時に、隣接するバスルームの扉からランタンの橙色の灯りが差した。
炎を極限まで絞ってあっても、金属鎧を着ていなくても、スパルタ上司のすらりとしてキビッとしたシルエットは見間違えようがない。
ばっと跳ね起き、ベッドの上に膝立ちで直立した。
「おかえりなさい」
おかえりなさいに過去形がないのが救いだ。
「おまえには護衛対象者の素質がある」
石鹸の香りを漂わせるラウーは、さっぱりしたーとでも吹き替えたくなる爽やかさで、嫌味だか褒め言葉だか追及したくないことを言った。
ぐーぐー寝ててすいません。デコピン大会、終わっちゃったかな。
ざくざくと裸足でも尊大なのがむしろ感心な足音で歩み寄ってくると、ラウーは床にランタンを置き、ベッドの端に腰を下ろす。
濡れた髪は金色の毛束の先を無秩序に散らしていて、そのラフさがいつもより歳が近いように感じさせる。それでも軍服だ。大佐仮面の武装解除はしない気なの?
「家にいる時くらい、軍服を脱げばいいのに」
ぬぎっ。
あまりに簡単に脱がれてしまって、唖然とする。
「ちょっ……えええ、ちょっと何やってるのー!」
「おまえが要請した。脱いでいる」
冷静にお答え下さる間にシワひとつない、お偉い大佐の記章つきシャツが打ち捨てられていった。
違う違う違う、脱げっていうのは着替えろって意味で、リラックスすればってことで、ほんとに脱げってことじゃなくて、わぁぁぁ、お父さんのトランクス姿だって見たことないのに!
上掛けに潜りこんで視界の防衛に努めても、あっけなく引き剥がされた。手首をつかまれたらもう、必死に目を閉じるのが最後の砦。
オッケー、百歩譲って脱げとは言った。でも見せろとは言ってない! 見ない見ない見な……ギャー、なんでわたしがラウー・スマラグダス大佐流武装解除を施されてるのー!
数え切れないほどの暴れる捕虜を裸に剥いてきたのであろう熟練の手業に抵抗し、身を縮める。動きを封じる時には背中を蹴倒されるのが常。ぎゅっと目をつぶったまま背中への衝撃を覚悟して身構えてたけど、違う場所に違うものが来た。
……検温?
検温にしては妙に念入りというか熱心というか、なぜ全身で退路ふさぎながら何度もあちこち計りなおす必要が……?
そろりと目を開けて軍医を見やる。
落ちてくる唇も触れてくる指も、幾度となくまとわりついてきた、あの濃密な熱で溢れている。ゆっくり移動する唇を額の濡れた毛先が従順になぞっていって、くすぐったいような不思議な感覚が肌の下を走った。
「待っ……」
打ちまくる心臓に胸が占領されてしまって、ろくに息もできない。でもそんな中途半端な呼吸じゃラウーの唇を押し返せない。
「待って、あの、こういうことは!」
これ、検温じゃない!
恋人同士にはキスの先があることは知ってる。映画や小説ではベッドに倒れこんで曖昧に暗転していくもの。
裸で組み伏せてくるラウー・スマラグダスが構図的にそうしたがってるみたいって、さすがに分かったけど。うそーなんでっ?
「えっと、こういうことは、好き合ってするものだと思う……」
曖昧さを明らかにしていくキスが一時中断する。でも逃走を封じてくる手指の力は緩んでくれない。
見下ろしてくる茶と翡翠の瞳はランタンの光に煽られて燃え揺れている。不退転、というものが形を持ったらきっとこの目になる。
「私は合意している」
私の精神が受け継がれる限り、私は滅びない。そう宣言して手を握ってきたのは、継承者がわたしだからじゃなくて、継承者をわたしに産ませるからですかー!
ついでにアダマスとネイティヴの和平の象徴を結晶化しちゃえ、ってことですかー! 軍服脱いでも思考はアダマス帝国万歳な軍人モードですかー!
そんな魂胆聞いてない、という抗議をラウーが聞いてない! イヤァァァ下着かえせー!
「だめ、ほんとやめて、だって!」
薄暗くたって見えちゃうもん。右肩から胸にかけて広がる、赤紫色の皮下出血。
蛇毒の腫れは血清のおかげで治まったけど、内出血は自然治癒を待つしかない。打ち身と同じで、消えるまで何日もかかるはず。医者だから診せたんであって、ラウーには見られたくなかったんだから! そのへん察して欲しい!
胸とか皮下出血とか色々腕で隠しながら睨んだけど、迷わすことさえ出来なかった。
「言ったはずだ」
毒牙のキスを受けたその場所へラウーの唇が重なる。上書きしようとするみたいに。
「おまえの体が壊れても痛手ではない」
そういう意味だったの?
体のどこをどれだけ怪我しても翻訳する頭脳さえ無事ならどうでもいい、って言われてるんだと思ってた。
ううん、それも含んでるんだろうけど。
容れ物がどんな姿だろうと、何も変わりはしないってことだったの?
ああもうどうかしてる、唇の温かさで皮下出血が治ってく気がしてる。ダメだイヤだと抵抗する意志まで吸い取られてく。
ラウーが敬愛する本に触れる時の、長い指先のうやうやしさ。同等の丁重さで肩へとひざまずいていた唇は、いきなり気品をかなぐり捨ててガブリと噛んできた。
「なっ、痛い、何っ!?」
草食系男子なんて言い方があったっけ。あの分類で言えばこのひと、肉食どころか人食系だよ!
「おまえの世界のキスにならっただけだ」
視線も寄越さず、けろりと答えて人食系青年は皮下出血治療を再開した。
噛むのがわたしの世界の? 吸血鬼じゃなくて?
そういえばファースト・キスの時、ムカついてて噛み付いてやったんだっけ。あれをわたしの世界のキスだと誤解してるっぽい。わたしの世界流に合わせてくれたつもりなの?
冷静な情熱で我流を貫き通す、あのラウー・スマラグダスが……?
待て、野蛮人めいた行為に胸がきゅっとするとか、ヤバくないか自分!
うわぁ、ラウーを見下ろすようなこのアングル、やっぱり罠だ! 笑ってるように見えるもん!
まじまじ見つめてたら、防御と隠蔽に徹してたはずの腕が取り崩されてるのに気付かなかった。でも抵抗したら、ラウーの貴重な表情が逃げてしまいそうで。
弓を引き、ペンで指示を出し、患者の脈を診る指と同一とは信じがたい動きが止まってしまいそうで。
一瞬ごとに立ち現れる初めてのラウーを追わずにいられない。
好き合ってするものなんて理想が、現実的幸福という誘惑にこんなに簡単に屈服しちゃうなんて知らなかった。
ネイティヴの妻を持つアダマスの夫という役割を果たそうとしてるんだとしても。
結局、何をされてもラウーならいいと許しちゃうのがバカだと誰に笑われても。
後悔なんてするわけないと信じられた。
三時間と五十七分後、アイヤイの予言より二分延長した後に「時間だ、出かける」と突然に体をほどかれ放置されるまでは。三分で身ぎれいにして軍服着て鎧着てブーツ打ち鳴らして颯爽と出て行かれるまでは。
こんなのありかーっ!
何ひとつ身ぎれいでもなく、何ひとつ着てないまま呆然とした。
ついさっきまで、世界の深遠にある真理で満たされたようだったのに。突然の嵐に根こそぎさらわれた更地かと思えるほど、がらんとした部屋の薄っぺらい空気が痛い。
なにこの落差。
今はもうすたれてしまった習慣だけど、その昔の日本には後朝の歌といって、男性が別れを惜しみ再会を心待ちにする詩を贈るという風流な気配りがあってだなー!
ううん、凝った詩なんていらないけど、せめて何か優しい一言とかないんですか! その言葉を思い返すだけでこの「一人になっちゃった感」が「また二人になれる感」になるかもしれないのにっ!
と、脳内で激烈に文句を垂れてみたが、相手があのラウー・スマラグダス仕事中毒大佐じゃ予見できた結果ともいえる。ものすごく熱心に夫としてのお仕事を遂行したといえる。アダマス万歳とか言い残されなかっただけマシかもしれない。
ラウーの人間らしい感情を踏みにじりたくなくなかったのに。助手の保護だの和平の象徴だのって嘆きたくないのに。胸を張ってラウーの隣に立ちたいのに。
ただ一方的に好きでいるだけじゃ、流されてちゃダメだ! 努力しなきゃ。よし!
「はうっ」
気合を入れて起き上がったら体のあちこちが悲鳴をあげて、現実にも悲鳴が出た。そろりそろりとバスルームへ移動して、タオルに手を伸ばしかけて、ためらった。
全てを覚えていられるラウーがうらやましいと初めて思った。
肌の記憶まで流されそうで、身ぎれいにしちゃうのをためらうなんて、ほんとに自分がヤバい気がする。